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第3話 「episode ZERO」

1


それから数日、私は自分の職場と朝倉家を、行ったり来たりしていた。


恒ちゃんを起こし、保育園へ送り出し、迎えに行き、ごはんを食べさせて寝かしつける。

その合間に洗濯機を回し、台所を片づける。


修一さんも、父親として動こうとしている。

朝食の用意に迷い、選んだ服は上下ちぐはぐで、夜泣きした恒ちゃんをおそるおそる抱きあげ、保育園の連絡帳を真剣に読む。


何もできない人じゃない。

でも、今の仕事と家事と育児を、一人で回すのは無理だ。


そう思う前に、私はつい手を出してしまう。

気がつけば、それが当たり前になりかけている。


自分の家には、ほとんど帰れていない。

制服と数日分の着替えを実家から抱えるように持ってきて、この家から出勤する日が続いている。


乗務交代のお願いも増え、ついに上司から「このままでは困る」と遠回しに釘を刺された。

責めている口調ではなかったし、事情も分かってくれている。

それでも、会社がいつまでも私だけを特別扱いできないことくらい、私が一番よく分かっている。



恒ちゃんが寝息を立てたあと、私は明日の保育園の支度を黙々と進めていた。

テーブルの端には畳んだ制服と、びっしり書き込みのある乗務表。

ふと視線を上げると、修一さんがそれをじっと見ている。


「明日も仕事だろ」


「大丈夫です」


思わず、いつもの言葉が口をついて出る。


「大丈夫じゃないだろ」


声は静かで、責める色はなかった。

ただ、自分たち親子のせいで、私の仕事や人生が崩れかけていることを、恐れているように見えた。

その表情が痛かった。


「もう十分だ。今まで、ありがとう。あとは俺が何とかする」


テーブル越しにそう言われて、胸がざわついた。


「何とかって、どうするんですか」


思わず返すと、修一さんは視線をさまよわせながら、ひとつずつ口にしていく。


仕事を減らす。

保育園の時間を延ばす。

誰かを雇う。

家事は自分でする。


どれも簡単じゃないことを、本人が一番分かっているはずだ。

それでも最後に、言葉をしぼり出す。


「大丈夫にする」


その不器用な約束に、胸が苦しい。


「響子さんに頼まれたんです」


そう口にした瞬間、空気が少し重くなった。


修一さんは黙りこんで、テーブルの上の乗務表をじっと見つめた。


やがて、ゆっくりと言葉を探すように顔を上げた。


「響子は、君の人生を壊してまで頼んだんじゃない」


その一言に、胸の奥を強くつかまれた気がした。


響子さんの願いを理由にして、この家に居続けようとしているみたいで、言い返す言葉が見つからない。

私を縛りつけたくないと分かる優しさが、かえって苦しくて、視界がにじむ。


言葉を探しあぐねていたとき、寝室の戸がそろりと開いて、恒ちゃんがふらふらと顔を出した。


半分眠ったまま、まっすぐ私のところへ来て、脚にぎゅっと抱きつく。

反射的に抱き上げると、小さな腕が首にまわった。


その様子を、修一さんが黙って見ていた。

助かっていることも、恒ちゃんが私に安心していることも、分かっているはずだ。

だからこそ、静かな声で言う。


「明日から、来なくていい」


「来るな」ではなく、「来なくていい」。


私をこの家から解放しようとする言い方なのだと分かって、胸が痛んだ。



翌朝、私はこの家の自分の荷物をひとつひとつ鞄にしまっていった。


制服、化粧道具、数日分の着替え。

恒ちゃんの世話に使っていたタオルやクリームの横に、自分のものが当たり前のように混ざっている。


ほんのわずかな期間だったのに、まるでここで暮らしていたみたいだ。

足元では恒ちゃんが積み木をいじりながら遊んでいる。


ときどき「かじゅ」と私を呼んで、袖をつかんでくる。

その小さな手をそっとほどきながら、「またね」と笑ってみせる。


けれど、自分でも次が本当にあるのかどうか、答えを持っていなかった。



玄関で靴を履きながら、最後の荷物を持ち直す。

修一さんは恒ちゃんを抱いたまま、戸口に立っていた。


「今まで、ありがとう」


もう一度そう言われて、うなずくことしかできない。


扉が静かに閉まる音を背中で聞きながら、制服の入った鞄を握り締めて、私は実家へ向かって歩き出した。



実家の自分の部屋に戻ると、壁に掛けた制服が目に入る。

響子さんと出会った、大切な仕事の制服。


その向こうに、さっきまでこちらへ手を伸ばしていた恒ちゃんの姿が、いつまでも重なって見えて、簡単にはまぶたの裏から消えてくれなかった。



2


久しぶりの自分の部屋。

布団も机も、置きっぱなしの本も、何ひとつ変わっていないのに、自分だけが元の場所に戻れなくなったみたいだ。


台所では、母が手際よく夕飯を並べてくれる。


「今日はもう寝なさい」


昔と同じ口調で言われる。


久しぶりに誰かに世話をされる側になって、それがありがたいのに、どうにも落ち着かない。


今ごろ恒ちゃんはもう寝ただろうか。

泣いていないか。

朝倉さんはちゃんと食べさせられただろうか。


考えまいとしても、朝倉家の二人が頭から離れてくれなかった。


壁に掛けた制服を見上げる。


響子さんと出会った仕事。

憧れて一生懸命覚えたスカーフの結び方。

失敗して落ち込んだ日に、さりげなくお菓子を置いてくれたこと。


この制服を手放すことは、あの人との時間まで失うことのように思えて、「恒ちゃんのために辞めよう」とは簡単に決められない。


むしろここへ戻れば前の生活に戻れる、仕事を続ければ自分を失わずに済むのだと、自分に言い聞かせたくなる。




翌朝、私はいつも通り制服に袖を通し、久しぶりに仕事だけに集中しようと心を決めた。


マイクを持てば言葉は自然に出て、案内も身体が覚えている。

けれど、子ども連れのお客さまを見かけるたび、小さな靴が目に入るたび、眠そうに母親に抱かれている子を見るたびに、恒ちゃんを思い出してしまう。


今ごろ何を食べているだろう。

保育園へちゃんと行けただろうか。

アナウンスをしながらも、その問いだけが頭の中で途切れなかった。



しばらくして、上司に呼ばれた。


応接スペースで向かい合うと、穏やかな口調のまま切り出される。

これまでの事情には十分に配慮してきたつもりだし、気持ちも分かる。


でも今後も急な乗務交代が続くようなら、他の業務全体にも影響が出てしまう。

業務の編成そのものにも。


「続けるなら、続ける形を決めてほしい」


責められているわけではない。


むしろ当然の話だったから、私は「もう大丈夫です」と即座に答えた。


けれど、自分で言いながら、その言葉が一番の嘘だと分かっていた。



休憩室に戻ると、親しい同僚が心配そうに顔をのぞきこむ。


「もう、あのお家に戻らなくていいの?」


「うん」


笑って見せた。


「だって、あなた家族じゃないでしょう」


悪意のない一言が、不意に胸に刺さる。


その通りだ。

私は妻でも母でも親戚でもない。


だから修一さんは、あの言い方で私を帰した。


会社から見ても、私が自分の生活を崩してまで関わる理由は、どこにもない。


それでも、私の中では、もう「家族じゃないから」で切れる関係ではなくなっている。


制服を着てバスの中で立ちながらも、あの玄関で伸ばされた小さな手の感触が、まだ指先に残っていた。



乗務を終えて事務所に戻ると、「和子さん、ご実家から電話がありましたよ。折り返し連絡がほしいそうです」事務員が伝言を預かっていた。


胸騒ぎを抱えたまま、会社の電話から実家にかける。


受話器の向こうで、母が言った。


「さっき朝倉さんから電話があったの。恒ちゃんが熱を出したみたい」


修一さんは「来てくれとは言ってない。ただ知らせておいた方がいいと思っただけ」と言っていたらしい。


「あんた、どうするの」


事情を知っている母は、静かにひと言だけ尋ねた。




電話を切ったあと、しばらく受話器を見つめたまま動けなかった。


行けば、修一さんが「来なくていい」と言った意味がなくなる。

きっとまた仕事にも影響が出る。

このままでは、どちらにもきちんと向き合えない中途半端な人間になってしまう。


それでも、頭のどこかで別の声がささやく。


恒ちゃんは今、熱を出している。

お母さんを失ったばかりで、知らない変化が続いている小さな身体で、不安としんどさを抱えている。


気がつけば私は、制服のまま駅の構内に立っていた。


実家へ戻る電車のホームと、朝倉家へ向かうホームへ続く階段。

そのあいだで、長いこと立ち尽くしていた。


仕事を辞めるとも、あの家に残るとも、まだ何ひとつ決めていない。


ただ、最後には身体が先に動いた。

足が向かったのは、朝倉家へ行くほうだった。



3


玄関のチャイムを押す指が、少し震えていた。

制服のまま立つ自分を想像して、いったん帰ろうかと思った瞬間に、扉が開く。


「……どうして来た」


修一さんの顔に、驚きと戸惑いと、言葉にできない何かが入り混じっている。


「恒ちゃんが、熱を出したって聞いたから」


そう答えると、「来なくていいって言っただろ」と、低く押さえた声が返ってきた。

その奥に、来てほしくなかったわけではない気持ちが透けて見えて、胸が痛む。


部屋に入ると、恒ちゃんは布団の上でぐったりしていた。


私の顔を見つけると、かすかに目を丸くして、小さく声を出す。

そっと抱き上げると、熱い頬を私の首元に押しつけてきた。


テーブルの上には、飲みかけの水のコップと、処方薬の袋、何度も使われた体温計が並んでいる。


修一さんが病院へ連れて行き、水分を飲ませ、熱を測ってきちんと世話をしていたことが分かる。

何もできていないわけじゃない。


ただ、それでも恒ちゃんは、私を見ると明らかに力が抜けて、身体の重さを預けてきた。


着替えも荷物も会社に置いたまま、私はその夜の看病に入り込んでいった。


洗面所でタオルを冷たい水にひたし、恒ちゃんの額にそっと当てる。

ぬるくなればまた替えて、少しずつ水を飲ませ、決められた時間に薬を飲ませる。

ぐずるたび背中をさすって、寝かしつける。


気づけば、修一さんと自然に役割を分け合っていた。

薬の量や熱の数字を確認する人と、タオルを替えたり抱き上げたりする人。


響子さんがいた頃のままではないけれど、三人で動くと、この家に一瞬だけ「生活の形」ができてしまう。

その手触りに、私自身がいちばん戸惑っていた。


恒ちゃんがようやく静かな寝息を立て始めたころ、修一さんがぽつりと「助かった」と言った。

素直なお礼の言葉に、「いえ」と首を振る。


そのすぐあとで、「でも、これでまた頼るわけにはいかない」と続けられる。


「頼ってください」


思わずそう返した私に、修一さんはゆっくり首を振った。


「君には仕事がある。君の家もある。俺たちのために、全部変える必要はない」


静かな声で告げられたその境界線が、正しいことだと分かるほど、胸が締めつけられた。



私は自分でも驚くくらい、少し強い声を出していた。


「じゃあ、私がいなくても本当に大丈夫なんですか」


修一さんは言葉を失い、視線を落とす。


続けて、胸の奥でくすぶっていた問いがこぼれた。


「恒ちゃんが熱を出したとき、誰に電話するつもりだったんですか」

「朝も夜も、ずっと一人でできますか」


しばらくの沈黙のあとで、「できなくても、やるしかない」と答えが返ってくる。


その覚悟が父親としてまっとうだと分かる一方で、その「やるしかない」のしわ寄せが、恒ちゃんに向かうのではないのか。

不安が胸の奥で膨らんでいった。


頭のどこかで、同僚の言葉が何度も反芻されていた。


あなた、家族じゃないでしょう。


その声に背中を押されるように、私は口を開く。


「私は家族じゃありません」


修一さんは、その一言を否定できずに黙り込む。


「だから、何の立場でここにいるのか、自分でも分からないんです」


そう言いながらも、恒ちゃんが熱を出したと聞けば来てしまう。

修一さんが困っていると分かれば、放っておけない。


「このまま、時々手伝う人ではいられません」


自分でも目をそらしていた中途半端さを、ようやく言葉にしてしまった。


私は、自分の仕事のことを一つずつ話し始めた。


上司に呼ばれて、これ以上乗務交代が続くようなら仕事を任せにくいと言われたこと。


「続けるなら、続ける形を決めてほしい」


穏やかに告げられて、「もう大丈夫です」と嘘をついたこと。


「仕事も続けたいです。でも、今のままでは、どちらにも迷惑をかけるだけで」


声に出した瞬間、初めて自分でも両立できていないと認めたのだと気づく。

それでも、この場で「辞めます」とは言えなかった。


黙って聞いていた修一さんが、ふいに強い調子で言う。


「仕事は辞めるな」


驚いて顔を上げた。


「あの仕事は、響子と出会った大事な場所だろ」

「響子だって、そんなことは望まない」


その言葉に、胸が大きく揺れる。


響子さんを理由に、この家に残ろうとしてきた自分がいる一方で、今度は同じ響子さんを理由に「仕事を続けろ」と言われている。


どちらが本当に響子さんの願いなのか、誰にも決められない。


ただ一つ分かるのは、もう誰かの願いだけを拠り所にして、この先の自分の居場所を決めるわけにはいかないということだった。


布団の上で、恒ちゃんが小さく咳をした。

私と修一さんは、ほとんど同時にそちらを向く。


その一瞬で、はっきりと分かった。誰かに決めてもらうのではなく、響子さんの言葉の正解を探すのでもなく、自分で決めなければならないのだと。


「響子さんが何を望んだか」だけをいくら考えても、もう答えは出ない。


この先どうするのかを選ぶのは、もう響子さんではない。

いまここで、息をしている私自身なのだ。



4


恒ちゃんの熱が少し落ち着いたのを見届けて、私はいったん実家へ戻った。

玄関を開けると、母は私が制服のまま出て行ったことも、その行き先も察しているようだった。


「恒ちゃん、どうだった?」


「熱は、少し下がった」


そう答えると、母は「そう」とだけ言って、続きはすぐには聞いてこない。


台所から、夕飯の支度や湯のみを並べる小さな音だけが聞こえてくる。


食卓につくと、私はぽつぽつとこれまでのことを話し始めた。


会社からは、続けるなら続ける形を決めるようにと言われたこと。

修一さんには、仕事は辞めるなと言われたこと。

自分は家族ではないのに、恒ちゃんを置いて離れることができないでいること。


父は茶碗を持ったまま黙って聞いていた。


しばらくして、母が箸を置き、私をまっすぐ見て問いかける。


「あんたは、どうしたいの」


「どうするべき」ではなく、「どうしたいのか」と。


真正面から投げられたその問いに、私はすぐには答えられなかった。


胸の内側で、いくつもの気持ちが絡まり合って、言葉の形にならないまま揺れていた。


母は、感情だけで仕事を辞めることには慎重だった。


「恒ちゃんがかわいそうだから、だけでは続かないよ」


恒ちゃんはこれから大きくなる。

熱を出した日の看病だけで済む話ではない。

毎日の食事、保育園、学校、反抗期。

何年続くか分からない。


「それにね、他人の家に入るって、簡単なことじゃないから」


口調は厳しいけれど、頭ごなしに反対しているわけではない。


一時の同情なのか、本当に自分で選ぶのかを、母なりに確かめようとしているのだと分かった。



父は多くを語らない人だ。

食卓で茶碗を置いたあと、「戻ってきてもいい」とだけ言った。


仕事を続けてもいいし、朝倉家へ行かなくても、誰も責めないということだと分かる。

そのうえで、少し間を置いてから続けた。


「行くなら、自分で決めて行け」

 

響子さんに頼まれたからでも、修一さんが困っているからでもなく。


自分で決めたことなら、途中で誰かのせいにせずに済むように、と背中を押された気がした。



自室に戻り、制服をハンガーにかけて広げる。


スカーフの結び方を何度も練習した日。

響子さんに叱られた日。

こっそりお菓子を置いてもらった日。

結婚の話を一番に聞かせてもらった日。


布地に触れていると、制服より先に思い出が浮かんでくる。


仕事を辞めることは、響子さんを捨てることじゃない。

あの人との時間は、制服がなくなっても消えない。

ここで初めて、そう思えた。


恒ちゃんがかわいそうだから、だけではない。

修一さんが困っているから、だけでもない。


私自身が、朝、恒ちゃんを起こしたい。

保育園から帰ってくる姿を迎えたい。

今日できなかったことが、明日できるようになるのをそばで見ていたい。

その毎日の中にいたいのだと気づく。


それはまだ「母親になりたい」という言葉とは少し違う。

ただ、恒ちゃんの生活から離れたくない。

それが、誰のせいでもない、私自身の願いなのだと思った。




翌日、いつも通り制服に袖を通して会社へ向かった。

けれど胸のあたりだけは、昨日までとは違う重さを抱えている。


乗務の前に上司に時間をもらい、「退職させてください」と頭を下げた。


上司は目を見開き、事情を知っているからこそ「本当にいいのか」と何度も確認してくれる。

私は喉がつまるのを感じながら、「はい」と答えた。

声は少し震えていたと思う。


響子さんと出会った場所を離れる寂しさは確かにあって、迷いが全部消えたわけでもない。

それでも、この返事だけは、自分で選んだものだった。


すぐに辞められるわけではなく、まだいくつか乗務が残っていた。

最後の乗務の日、私はいつも通りマイクを握り、決まり文句の案内を口にする。


バスの中に立つと、ふと同じ位置で響子さんが立っていた姿が重なった。

あの人の背中を追いかけて覚えた言葉たちを、今日は自分の声で最後まで届ける。


乗務を終えて事務所に戻り、ロッカールームで制服を脱ぐ。

胸元のスカーフをほどき、しわにならないよう丁寧に畳んでから、そっとロッカーに置いた。


派手に泣きはしない。

ただ、集まってくれた同僚たちに向かって「お世話になりました」と深く頭を下げる。

その一礼に、ここで教わった時間のすべてを込めるように。


私は鞄を持ち直し、朝倉家へ向かって歩き出した。


今度は、誰かに頼まれたからではなかった。



5


今日は制服ではなく、私服。

手には、必要最低限の荷物だけを持っている。


チャイムを押すと、少しして玄関の扉が開いた。


「……どうした」


修一さんは、一瞬言葉を失ったような顔をした。


「話があります」


それだけ告げて靴を脱ぐ。


部屋の奥から恒ちゃんが顔を出し、私を見つけると嬉しそうに小走りで近づいてきた。

伸ばされた小さな手に胸がきゅっとなるが、私はすぐには抱き上げず、まず修一さんと向き合う。


「仕事を辞めました」


そう告げた瞬間、修一さんの表情が強く揺れた。


「何でそんなことをした。辞めるなと言っただろ」


怒鳴り声ではないのに、責任を負わされたような戸惑いと怒りがにじんでいる。

私は首を振る。


「朝倉さんに言われたから辞めたんじゃありません。自分で決めました」


はっきりとそう言い切る。

誰のせいにもできない選択を、ようやく自分の言葉として口にした。


修一さんはしばらく黙り、それから低く言った。


「だからって、ここに来る理由にはならないだろ」


その声には、私の人生を預かれないという怖さと、家事や育児を無償で任せるわけにはいかないという戸惑いが混ざっていた。


「周りに何と言われるか分からない。君まで傷つくかもしれないんだぞ」


若い独身の女が、妻を亡くした男の家に入り浸っている。

そんなふうに見られてしまう現実を、私も分かっている。

噂は立ちやすい。


「……私は家族じゃありません」


前に口にした言葉を、もう一度ゆっくりと繰り返す。


だからこそ、このまま曖昧な立場で居続けることはできない。

無償で世話をする人でも、ただの友人の代わりでも、善意だけで通う近所の人でもない。

そのどれとしても、この家にはいられない。


「だから、きちんと私の立場を決めたいんです」


自分の荷物を握りしめながら、そう伝える。

ぼやけたままの善意ではなく、ここで生きていくためのはっきりした場所を、自分の口で求めているのだと自覚しながら。


「雇ってください」


 自分でも驚くくらい、はっきりと言っていた。


「……え?」


「家のことと、恒ちゃんのことをします。その代わり、給料をください」


ただで助けるから、お互いに受け取りきれない。

なら、仕事にすればいい。

住み込みでも、通いでもいい。

ここにいる理由を、善意や同情のままにしたくなかった。


「そんな簡単な話じゃない」


修一さんは、首を横に振る。


「給料払えば済むことじゃない。恒一は、君に懐いてる」

「中途半端に入って、途中でいなくなったら、今度こそあいつが一番傷つく」


胸の奥がきゅっと締めつけられる。


「途中で辞めたくなったらどうする」

「結婚したい人ができたら」

「自分の子どもが欲しくなったら」


一つ一つの言葉が、私のこれから先まで射抜いてくる。

ここへ来る前に、自分でも何度も考えた不安ばかりだったからこそ、何も言い返せずに唇を噛みしめた。


「先のことは分かりません。でも、今ここを離れるつもりはありません」


喉が強くこわばるのを感じながら、そう答えた。

一生ここにいるとか、結婚しないとか、自分の子どもはいらないとか、そんな約束まで今この場で口にはできない。

ただ、それでも今ここから背を向ける気持ちはない。


「途中で投げ出さないために、仕事にしたいんです。感情だけじゃなくて、ちゃんと責任の形にしたくて」


私がそう続けたとき、足元から小さな気配がした。

恒ちゃんが、よろよろと近づいてきて、私の膝に手をかける。


「かじゅ」


呼ばれて、胸の奥がきゅっと熱くなる。

抱き上げると、恒ちゃんは当たり前のように腕を首に回して、身体の重さを預けてきた。


修一さんは、その様子を黙って見ている。

私を拒みたい理由も、受け入れたい理由も、どちらも目の前にそろってしまっているのだと、その視線から伝わってきた。




「期間を決める」


長い沈黙のあとで、修一さんが口を開いた。


「たとえば、三か月……いや、半年。その間、家のことと恒一のことを仕事として頼む。給料も払う。そのあとで、続けるかどうか、もう一度話す」


少し迷ってから、修一さんは続けた。


「朝が早いし、夜もある。住み込みで頼むことになる」


私をここに縛りつけるためではなく、永久に背負わせないための条件なのだと分かる。


「分かりました」


前に「分かりました」と言ったときとは違う重さで、そう答えた。


和室に通され、私は小さな鞄をそっと畳の上に置く。

以前は「一時的に置かれていた」制服や着替えとは違う。

今度は、自分の意思でここに置く荷物だ。


そのとき、恒ちゃんがとてとてと近づいてきて、私のそばに腰を下ろした。


「かじゅ」


呼ばれて振り向くと、小さな手が袖をつまんでくる。


私はその隣に静かに座り込んだ。

期間付きだとしても、この家の毎日に自分の場所をつくるために。


「半年だけだ」


修一さんは、念を押すように言った。


「はい」


あの日、響子さんの手を握って答えた時とは違う。


今度の返事は、何を引き受けるのかを、自分で決めて口にしたものだった。



6


翌朝から、私の「新しい仕事」が始まった。


修一さんは、本当に雇用として扱おうとしてくれる。


給料の金額を決め、食費や生活費をどう分けるかを話し合い、私の部屋は和室にすると決める。

必要なものがあれば遠慮なく言うようにと言われ、休みの日もカレンダーに印をつけて決めていった。


「善意でやってもらうつもりはない。仕事なんだから、休みも取ってくれ」


そう念を押されて、私は「分かりました」とうなずく。


けれど、家事や育児には勤務時間の境目がない。

夜中に恒ちゃんが泣けば、部屋で横になっていても耳がそちらを向いてしまう。

布団から起き上がる前に、心臓だけが先に走り出す。


「明日は休みだろ。俺が見るから」


そう言われても、「はい」と返すより早く、身体が先に動いてしまう。


廊下に出て、暗い部屋の明かりをそっとつける。そのたびに、自分が「雇われている人」と「この家の中にいる人」のあいだを行き来していることを、ぼんやりと意識するのだった。



三人で暮らし始めても、すぐに馴染めるわけではなかった。


修一さんは相変わらず「和子さん」と少しよそよそしく呼び、私も「朝倉さん」のままだ。


食卓では、どこに座ればいいのか毎回少し迷う。


結局、響子さんが座っていた席だけを避けて、少し離れた場所に腰を下ろした。

修一さんも何も言わない。

そのぽっかり空いた席だけが、この家に確かに響子さんがいたことを、静かに示し続けていた。



恒ちゃんだけは、契約も立場も関係ない。

朝になると当たり前のように私の部屋へ来て、保育園へ行くときは小さな手をつないで歩く。

帰宅すると「かじゅ」と駆け寄ってきて、好き嫌いをして、風呂を嫌がり、寝る前には絵本をねだる。


私は少しずつ、恒ちゃんの癖を覚えていく。


眠くなると耳を触ること。

苦手なものは口の端にためること。

よく靴を左右逆に履くこと。

怖い夢を見た夜は、黙って私の布団にもぐり込んでくること。


最初は「世話」だと思っていたことが、いつのまにか恒ちゃんの成長を一緒に見ている暮らしに変わっていった。



修一さんも、私に任せきりにはしなかった。

仕事から帰ると恒ちゃんを風呂に入れ、休日にはふたりで公園や買い物に出かけ、保育園の行事にもできるだけ顔を出そうとする。


もちろん、失敗も多い。

おむつや着替えを忘れて帰ってきたり、つい甘いものを与えすぎたり、寝かしつけるつもりがいつの間にか自分のほうが先に寝ていたり。


「お父さんでしょう」


思わず呆れ気味に言うと、


「分かってる」


少し悔しそうに返ってくる。


そんなやりとりを重ねるうちに、いつのまにかお互いの言葉からほんの少しずつ遠慮がはがれていくのを感じていた。

名前で呼び合う距離ではないけれど、「朝倉さん」と「和子さん」のあいだに、共同で恒ちゃんを見ている空気がゆっくりと混ざり始めていた。


近所や保育園で、恒ちゃんと一緒にいるとき、何度か同じことを聞かれた。


「お母さんですか?」


そのたびに私は、「いえ、家の手伝いをしています」と答える。


相手は少し不思議そうな顔をして、話題を変える。


やがて、噂も耳に入ってきた。

妻を亡くして間もない家に、若い女の人が住み込んでいるらしい、と。

覚悟していたつもりでも、実際に言葉として聞けば胸がざらつく。


ある晩、そのことをぽつりと口にすると、修一さんは「嫌なら、やめてもいい」と静かに言った。


「そういう意味で始めたんじゃありません」


私も静かに返す。


ここにいると決めたのは、修一さんのためでも、世間に認めてもらうためでもない。

あの日、自分で選んだ自分の居場所だからだと、もう一度胸の中で言い聞かせた。



押し入れを片づけているとき、奥から古い箱が出てきた。

ふたを開けると、畳まれた制服とスカーフ、香水の瓶や小さなアクセサリー。

響子さんのものだと、すぐに分かった。


修一さんは箱の中を見つめたまま、しばらく何も言わない。

私も勝手には触れられず、二人で箱を前に黙り込む。


「置いておきましょう」


私がそう言うと、修一さんは「いつまで」と小さく聞いた。


「置いておけるうちは」


そう答えながら、私は箱のふたをそっと閉じた。

この家で暮らすことになっても、響子さんがいた場所は残しておきたかった。


箱を元の場所へ戻したあと、居間の写真立ての前で、恒ちゃんが足を止めた。


小さな指が、写真の中の響子さんを指す。


「だーれ?」


まだ舌の回らない声で聞かれて、私はすぐには答えられなかった。


隣にいた修一さんが、恒ちゃんと同じ高さまで腰を落とす。


「お母さんだ」


恒ちゃんは写真と修一さんの顔を、交互に見た。


「かあしゃん?」


「ああ。恒一のお母さん」


私は写真の中の響子さんを見つめながら、ゆっくりとうなずいた。


「響子さんっていうの。恒ちゃんのお母さんよ」


恒ちゃんがどこまで意味を理解したのかは分からない。


ただ、もう一度写真を指さして、


「かあしゃん」


と確かめるように言った。


「そうだ」


修一さんの返事は短かった。


けれど、その声は少しだけ震えていた。


それからも私は、写真を見つけるたび、季節の行事を迎えるたび、響子さんのことを恒ちゃんに話した。


「お母さんもこれが好きだったのよ」


「その笑い方、響子さんによく似てる」


覚えているかどうかではなく、恒ちゃんのお母さんがどんな人だったのかを、少しずつ渡していきたかった。



別の夜、恒ちゃんが夢を見て泣きだした。

布団から起き上がり、抱き寄せて背中を撫でる。

半分眠ったままの恒ちゃんが、首元に顔を埋めて、小さくつぶやいた。


「……かあしゃん」


思わず手が止まる。

聞き間違いかもしれない。

響子さんを呼んだのかもしれない。

私に向けたのかもしれない。


確かめる間もなく、もう一度、かすれた声で繰り返す。


「かあしゃん」


胸が痛むほど熱くなる。


恒ちゃんを抱きながら、そっと背中をさする。


「和子ちゃんよ」


そう耳元でささやくと、眠そうな声で言い直した。


「かじゅ……」


そのまま、ふっと力が抜けて眠りに落ちる。

ほっと胸をなで下ろした一方で、さっきの「かあしゃん」が胸の奥に残って痛んだ。


母親になろうとしてここへ来たわけじゃない。

響子さんの代わりになれるはずもない。

それでも、恒ちゃんの中で自分の存在が変わり始めているのを、はっきり感じてしまう。


恒ちゃんが眠ったあと、ふと顔を上げると、戸口に修一さんが立っていた。


「……聞いた」


短い言葉に、さっきの呼び声を指しているのだと分かる。


「間違えただけです」


私はとっさにそう返した。

修一さんは、すぐには何も言わない。

やがて、ゆっくりと言葉を探すように口を開く。


「あいつにとっては、間違いじゃないのかもしれない」


その一言を、私は受け止めきれなかった。


「響子さんは、ひとりです」


思わずそう言うと、修一さんは静かにうなずく。


「分かってる」


ふたりとも、響子さんを消したくはない。

けれど、目の前で眠る恒ちゃんの今の気持ちも、簡単には否定できなかった。


「でも、恒一が君を何だと思うかは、俺たちが決めることじゃないのかもしれない」


答えることができず、私は眠っている恒ちゃんの頬を見つめた。


半年だけのはずだった暮らしは、いつの間にか、期限では区切れないものになり始めていた。




ひより日和 スペシャル 第3話 「episode ZERO」 おわり



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