第4話 「episode ZERO」最終回
1
半年契約を始めてから、季節がひとつ変わった。
響子さんが亡くなって、まだ一年にもならない。
けれど朝倉家の空気には、いつの間にか私の匂いがまじっている。
恒ちゃんは、朝起きるとまず私を探し、保育園の話を一番に聞かせてくれる。
「かじゅ」だった呼び方は、ときどき自然に「かあしゃん」になる。
もう訂正はしない。
ただ、写真立ての中の人を指さして言う。
「恒ちゃんのお母さんよ」
響子さんを消さないまま、それでも恒ちゃんは、私を母親として受け入れていくのだった。
契約終了の日が近づいて、カレンダーの赤い印が目につくころ、修一さんがぽつりと言った。
「もうすぐ半年だ」
当然、私も覚えている。
「はい」
その二文字が落ちた途端、部屋の空気が少し固くなった。
約束を守ろうとするみたいに、修一さんが続ける。
「一度、今後のことを話したい」
胸の奥で、小さな音がした。
辞める準備をしろと言われているように聞こえてしまう。
けれど、修一さん自身も「終わりにする」とは言えないでいるのが、表情の揺れで分かった。
その夜、恒ちゃんが保育園で描いた絵を持ち帰ってきた。
画用紙いっぱいに、手をつないだ三人。
先生の字で、余白には「おとうさん、おかあさん、こういちくん」と書き添えてある。
私は息をのんで手を止める。
隣で修一さんも、黙ったままその絵を見つめていた。
恒ちゃんだけが、何の迷いもなく指さした。
「とうしゃん。かあしゃん。こうちゃん」
大人ふたりが立ち止まっているあいだに、この子の中では、とっくに三人は家族になっていた。
恒ちゃんが寝たあと、リビングに戻った。
テーブルの上のカレンダーを見ながら、修一さんが口を開く。
「約束だから、君が辞めたいなら止めない」
少し間をおいて、私は答える。
「私が辞めたいと言ったことがありますか」
修一さんは、言葉を詰まらせた。
「でも、このままずっと君を雇い続けるのか」
「いつまでとは、今は決められない」
それでも、はっきりと言う。
「今は、ここにいさせてください」
長い沈黙のあとで、修一さんがうなずく。
「……分かった」
こうして半年契約は終わるけれど、雇用そのものの期限は曖昧なままだった。
翌朝、いつものように台所に立っていると、背中のほうでカレンダーの紙がこすれる音がした。
振り向かなくても、修一さんが半年後につけていた赤い印を消しているのだと分かる。
「なにしてるの?」
椅子からのぞき込むようにして、恒ちゃんがたずねる。
「もう、いらない印だから」
修一さんは、さらりと言う。
私はおたまを握ったまま、その言葉を聞いていた。
味噌汁の湯気が、目の前でゆらゆらと揺れる。
半年だけの約束は、たしかに終わった。
けれど、食卓を囲む顔ぶれも、玄関に並んだ靴も、何ひとつ終わらない。
ここで暮らしているという事実だけが、静かに続いていくのだと思った。
2
期限をなくしてから、さらにいくつか季節を超えた。
恒ちゃんは三歳を越え、言葉がどんどん増えていった。
保育園で覚えた歌や遊びを家でも披露し、私に甘えるだけでなく、わがままも言う。
叱られれば盛大に泣き、少し経てばけろりとして、また私の膝に乗ってくる。
私の中でも、もう「預かっている子」への接し方ではなくなっていた。
朝、着替えを嫌がれば、きちんと叱る。
食べ物を投げれば、拾わせて片づけさせる。
熱を出した夜には、一晩中そばを離れない。
それを修一さんも、特別なことではないという顔で、当たり前のように受け入れていた。
ある日、保育園で恒ちゃんが友達と揉めた。
迎えに行くと、園庭の砂の匂いが残る廊下で、先生が小声で事情を話してくれる。
恒ちゃんが先に手を出したわけではないけれど、押し返した手が強すぎて、相手の子が尻もちをついて泣いてしまったという。
「お母さんからも、少しお話ししてあげてください」
先生が連絡帳を閉じる音がやけに大きく聞こえた。
その言葉に、胸のどこかがちくりとする。
それでも、訂正はしなかった。
門を出ると、恒ちゃんは、アスファルトのひびを飛び石みたいに跳びながら歩いていた。
私はその手をそっと引き寄せた。
「恒ちゃん、何がいちばん嫌だったの?」
うつむいたまま、か細い声が返ってくる。
「こうちゃんのくるま、とられそうだったの」
「嫌だったからって、押していいわけじゃないの」
言い終えた途端、恒ちゃんは立ち止まり、大粒の涙をこぼした。
「かあしゃん、きらい」
胸がきゅっと痛む。
それでも、握った小さな手だけは離さない。
「嫌いでもいい。でも、押しちゃダメ」
「転んだお友達は、痛いでしょ?」
「誰かを痛くするのは、ダメよ」
家に帰ってから、恒ちゃんはわざと私から少し離れた場所で遊んだ。
積み木を持ってきて見せる時も、手を伸ばせば届かないぎりぎりのところで立ち止まる。
その夜、修一さんが帰宅し、上着を椅子にかけながらたずねた。
「何かあった?」
夕食の皿を重ねる手を止めて、保育園での出来事と、帰り道の「かあしゃん、きらい」までを話す。
言い終えたあと、胸の奥で小さな不安が頭をもたげた。
私、言いすぎたんじゃないだろうか。
けれど修一さんは、迷わず言う。
「それでいい。俺なら、泣かれたら途中で甘やかしてた」
グラスの水を一口飲んでから、少し目をそらしてつぶやく。
「母親みたいだな」
胸がちくりとして、思わず問い返す。
「みたい、ですか」
その一文字ぶんの距離が、思っていたよりずっと遠く感じられた。
修一さんは答えを探すように視線を泳がせ、それきり黙り込んだ。
その夜、布団に入って本を閉じかけたとき、ふすまが少しだけ開いた。
恒ちゃんが顔だけ出して、しばらく入口に立ったまま動かない。
「どうしたの」
声をかけると、床を見たまま小さな声が落ちた。
「かあしゃん、きらいじゃない」
胸の奥がじんと熱くなる。
抱きしめたい衝動をこらえて、私は先に確かめる。
「押したことは?」
恒ちゃんは指先をいじりながら、少し考えてから言う。
「ごめんなさいする」
「じゃあ、あした保育園で、ちゃんと言おうね」
そう約束してから、「おいで」と膝をたたく。
恒ちゃんはほっとしたように笑って、布団の中に入ってきた。
数日後、買い物帰りに恒ちゃんと歩いていると、近所の年配の女性に声をかけられた。
「まあ、もうすっかりお母さんね」
反射的にいつものように否定しようとして、口が開きかける。
けれど相手は、私の言葉を待たずに笑った。
「この子がそう思ってるなら、もう母親でしょう」
手をつないだ恒ちゃんが、私のスカートの裾をぎゅっとつかむ。
その仕草ごと、その言葉が胸に残った。
私自身が名乗ることはまだできなくても、恒ちゃんの中では、とっくに答えが出ているのだ。
3
恒ちゃんが三歳半を過ぎたころ、修一さんの親類の法事の予定が決まった。
これまでは、修一さんと恒ちゃんだけで出席していた。
予定を書き込んだカレンダーを見ていると、隣で積み木をしていた恒ちゃんが、当たり前のように言う。
「かあしゃんも」
胸がひやりとする。
私は首を横に振ろうとした。
「んー…どうかなぁ…」
「一緒にはダメかもね」
恒ちゃんに向けて言った。
言ったところで、修一さんが少し考えるように視線を落とし、口を開いた。
「着替えとか食事のことを考えると…一緒に来てもらえると助かる」
あくまで「仕事として」という顔で頼まれているのだと、自分に言い聞かせる。
「分かりました」
いつもの声でそう返して、礼服をハンガーから下ろした。
表向きは雇い主とベビーシッターのまま。
けれど心のどこかで、三人で出かける行き先に、少しだけ緊張と期待がまじっていた。
親類の家に着くと、恒ちゃんは玄関で靴を脱ぐあいだも、私の手をぎゅっと握ったまま離さなかった。
座敷には親戚が何人も集まっていて、私の事情を知っている人もいれば、初めて会う顔もある。
「この方は?」
盆を運んできた年配の女性にたずねられ、修一さんが一瞬だけ言葉を探すように間を置く。
「家のことを頼んでいる、和子さんです」
間違ってはいない。
そう思ったとき、隣から小さな声が割り込んだ。
「こうちゃんの、かあしゃん」
座敷の空気が、一瞬だけ静かになる。
私は否定する言葉を見つけられない。
修一さんも、口を開きかけて、結局なにも訂正しなかった。
親類の中には、前から何かと気にかけてくれる年配の女性がいた。
恒ちゃんが私の膝の上で小さなおにぎりを食べ、眠くなればそのまま肩にもたれてくる様子を見て、湯呑みを持った手を止めて笑った。
「もう、結婚したらいいのに」
箸を持つ手が同時に硬直する。
私と修一さんは、ほとんど同時に口を開いた。
「「そういう関係ではありません」」
「雇っているだけです」
重なる否定に、女性はおかしそうに目を細める。
「雇ってる人に、あんな顔して甘えないでしょう」
テーブルの端で、別の親類が少しだけ眉をひそめた。
「響子さんが亡くなって、まだそんなに経ってないのに」
その一言で、胸の内側がすっと冷える。
そのとき、修一さんがはっきりとした声で言った。
「和子さんに失礼なことを言わないでください」
驚いて彼の横顔を見る。
響子さんを忘れたわけではない。
けれど、ここで責められるのが私であってはならないと、彼は思っている。
その言葉の向かう先に、恒ちゃんだけでなく、私も含まれていることが、痛いほどよく分かった。
集まりの最後に、親類一同で写真を撮ることになった。
「じゃあ、みんなこっちに並んで」
声がかかったとき、私は家族ではないからと、自然に一歩、輪の外へ下がる。
修一さんも、それを横目で見ながら何も言えずにいた。
そのとき、袖口がぐいっと引かれる。
「かあしゃん、ここ」
恒ちゃんが私の手をつかみ、自分と修一さんのあいだへずいずいと連れていく。
握った手を、決して離そうとしない。
「そうそう、そこに入りなさい」
周囲からも、悪気のない声が飛ぶ。
迷いが喉につかえたまま、私はふたりのあいだに立った。
シャッターの瞬間、恒ちゃんだけが満面の笑顔で前を見ている。
私と修一さんの表情だけが、どこかぎこちなく固かった。
帰宅して玄関の灯りを消すと、一日の疲れがどっと押し寄せた。
恒ちゃんを寝かしつけたあと、リビングで湯気の薄くなったお茶を前にして、ぽつりと言ってしまう。
「やっぱり、私が一緒に行くべきではなかったですね」
親類に向けられた言葉と視線が、まだ胸に残っていた。
修一さんは、ソファにもたれたまま首を振る。
「いや」
短い否定のあと、言葉を探すように少し黙ってから続けた。
「君がいなかったら、恒一が困る」
視線をテーブルに落とし、それから少しだけこちらを見る。
「俺も困る」
初めて、自分も私を必要としていると言われて、胸の奥が大きく揺れる。
けれど、その揺れを自分で押さえ込むように、口が先に動いた。
「仕事ですから」
反射的にそう返すと、修一さんも小さくうなずく。
「そうだな」
ふたりして同じ言葉に逃げ込みながら、そのどちらにも、本当には納得できていなかった。
後日、親類から写真が届いた。
封筒からそっと引き出すと、三人が肩を並べて写っている。
真ん中で恒ちゃんが、私と修一さんの手をしっかり握って笑っていた。
しばらく見つめたあと、捨てることも、見える場所に置くこともできず、居間の引き出しにそっとしまう。
「雇う人」と「雇われる人」と、その子ども。
そう説明するには、写真の中の三人は、あまりにも家族の顔をしていた。
4
法事のあとから、私も修一さんも、親類に言われた言葉をなかなか手放せずにいた。
「もう、結婚したらいいのに」
あの場では必死に否定したはずなのに、家に帰れば、いつものように三人で食卓を囲む。
味噌汁の湯気の向こうで、恒ちゃんは当たり前のように私を「かあしゃん」と呼び、膝によじ登ってくる。
ここでの暮らしの中では、私はもう、母親として求められている。
それでも私たちふたりだけは、その話題にだけは触れないようにしていた。
それより先の言葉に手を伸ばせば、きっと何かが変わってしまう気がして、互いに見て見ぬふりを続けていた。
ある日、実家の母が久しぶりに訪ねてきた。
玄関のチャイムが鳴り、扉を開けると、そこに立つ母を見て恒ちゃんがぱっと顔を輝かせる。
うれしそうに駆け寄る恒ちゃんに、母は笑いながらしゃがみ込んだ。
「大きくなったねぇ」
そのあと、私は台所へ立ち、修一さんが居間で恒ちゃんの相手をする。
母は湯呑みを手に、その様子を黙って見ていた。
時々、恒ちゃんが「みてー」と描いていた絵を持ってこちらへ走ってくる。
クレヨンで汚れた手やほっぺたを、私は当たり前のように拭いてやる。
帰り際、玄関で靴をはきながら、母は私にだけ聞こえる声で言った。
「あんた、もうこの家の人だね」
胸がざわついて、思わず否定が出る。
「仕事だから」
母はふうっと小さく息を吐く。
「仕事の顔で、あんなふうに子どもを叱ったり笑ったりしないわよ」
真正面から結婚を勧めることはせず、少し間をあけてから続けた。
「このまま何年も、名前のないままでいるつもり?」
喉の奥がきゅっと詰まって、私は答えられなかった。
同じころ、修一さんも、職場の同僚や親類から現実的なことを言われたらしい。
詳しい言葉までは教えてくれなかったけれど、ぽつりぽつりと漏れる断片から、だいたいの中身は想像がついた。
恒ちゃんが急に病院へ運ばれたとき、私は母親ではないから同意書にサインはできないこと。
保育園や、いずれ学校の書類でも、保護者欄に私の名前は書けないこと。
もし修一さんに何かあったら、私はこの家に残る権利すらないこと。
今は三人で暮らせていても、この形は私を何ひとつ守っていない。
ある夜、残業から戻った修一さんが、寝室で眠っている恒ちゃんをそっと見に行き、それからリビングに戻ってきた。
私はテーブルの端で、たたみ終えた洗濯物を積み上げているところだった。
ふと顔を上げると、修一さんがドアのところに立ち、何も言わずにこちらを見ていた。
洗濯物をたたむ私の手元に、視線が揺れている。
「どうかしましたか?」
修一さんは、首を振るだけで、言葉にはしてくれない。
けれど、その長い沈黙のあいだに、彼の中で何かが形を変えつつあるのが、空気で分かった。
何か思うところがあるのだろうと、彼の視線の重さが教えていた。
ダイニングに戻ると、テーブルの上には、夕食の片づけの名残りが残っていた。
湯飲みにお茶を注いだとき、修一さんが不意に口を開く。
「このまま、雇う形を続けるのは違うと思う」
その一言で、胸がきゅっと縮む。
また、ここを出る話なのだと咄嗟に身構えてしまう。
「私は辞めるつもりはありません」
自分でも驚くほど強い声が出て、指先に力が入った。
修一さんは、すぐに首を振る。
「辞めてほしいんじゃない」
少し間を置いて、言葉を探すように視線を落とした。
「逆だ」
落ち着きなく指を動かしながら、ぽつりぽつりと続ける。
「君には、恒一のことも、この家のことも背負ってもらってる」
「でも今のままじゃ、君には何もない」
私は思わず口をはさむ。
「給料はいただいています」
それは事実だから。
けれど、修一さんは小さく首を振った。
「そういうことじゃない」
それ以上、うまく説明できないようで、言葉がそこで途切れる。
私も、それ以上聞き出す勇気は出なかった。
ふたりのあいだに、お茶の湯気だけが静かに揺れていた。
二人で向かい合って、ひとつずつ確かめていった。
「この先も、恒一の成長を見ていたいか?」
テーブルを挟んで座りながら、修一さんが言った。
「はい」
迷わずそう答えると、少し間を置いて、今度は彼の方が続ける。
「俺は、君にいてほしい」
胸の奥がかすかに揺れる。
「でも、響子さんのことを忘れるつもりはありません」
そう言うと、修一さんはすぐに首を振った。
「俺も忘れない」
しばらく、時計の音だけが聞こえる。
「君への気持ちが、どういうものなのかは、正直、まだ自分でも分からない」
彼がぽつりとこぼす。
「私もです」
それでも三人で暮らしている今を、手放したくないことだけははっきりしていた。
長い沈黙のあと、修一さんが息を吸う。
「結婚するのが、一番いいと思う」
告白ではなく、出した結論のような言い方だった。
すぐには返事ができない。
「それが、恒ちゃんのためだけなら、嫌です」
やっとのことで口を開くと、修一さんは目を伏せ、考えるように指先でカップの縁をなぞった。
「恒一のためだけじゃない」
小さく息を吐いてから、もうひと言を足す。
「俺も、君にいてほしい」
「……そういうふうに言われると、余計に困ります」
冗談にも本気にも聞こえる自分の声に、自分で戸惑う。
それでも、どちらの口からも「好き」という二文字だけは出てこなかった。
私は壁際の棚に目を向けた。
ガラス越しに、響子さんの写真がこちらを見ている。
「響子さんを裏切ることになりませんか」
やっとの思いでそう口にすると、修一さんも視線を遺影に移した。
「分からない」
少しのあいだ、写真の中の笑顔を見つめたまま続ける。
「分からないけど……今、生きてる三人のことも、考えないといけないと思う」
正解は、きっと誰にも分からない。
だからこそ、そのわからなさごと、ふたりで引き受けるしかないのだと分かる。
長い沈黙のあと、私は息を整えて言った。
「私も、結婚するのが一番いいと思います」
自分の口から出た「結婚」という言葉が、部屋の空気の中で、ゆっくりと居場所を見つけていくのを感じた。
翌朝、まだ何も知らない恒ちゃんが、二人のあいだに座って朝ごはんを食べている。
私たちは、昨夜と同じ家、同じ食卓にいる。
何も変わっていないようで、私たちは初めて同じ未来を見ていた。
恋をしたからではなかった。
けれど、この人たちと生きていきたいと思った。
それだけで、結婚を選ぶ理由には十分だった。
5
お義母さんが、結婚を決めた翌朝の食卓まで話したところで、ふっと言葉を止めた。
意識が、ゆっくりと現在へ戻ってくる。
目の前には、開いたままのアルバム。
湯のみのお茶はすっかり冷めていて、壁の時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。
テレビの音もしない。
いつの間にか美咲ちゃんはお風呂を済ませて、自分の部屋へ戻ったらしい。
お義母さんが、小さく息をついた。
「そんなふうにして、お父さんと結婚することを決めたの」
私は、すぐには言葉を返せなかった。
アルバムのページには、若いお義父さんと響子さん、幼い恒一さんが並んでいる。
その写真を見つめながら、さっき聞いた話を一つずつ胸の中でたどっていく。
お義母さんが、恒一さんを選んでこの家に入った。
でも、それだけじゃない。
泣いた夜に手を伸ばして、「かあしゃん」と呼んだ幼い恒一さんも、お義母さんを選んだのだ。
「恒一さんが、お義母さんを選んだんですね」
お義母さんは、少し驚いたように私を見た。
「私を?」
「はい。自分のお母さんに」
言ってから、胸のあたりがどきどきする。
お義母さんは視線をアルバムに落とし、幼い恒一さんの写真をじっと見つめた。
しばらくして、ふっと表情がゆるむ。
「そうね。私があの子を育てたと思っていたけど……」
ページの中の小さな手に、そっと指先が触れる。
「あの子に、お母さんにしてもらったのかもしれないわね」
その言葉が、まっすぐ胸の真ん中に落ちてくる。
過去の話だったはずなのに、今の私に向けて渡された大切な出来事。
お義母さんはアルバムを閉じたあと、何かを思い出したように「ちょっと待っててね」と立ち上がった。
居間を出ていく足音が遠ざかり、しばらくして、小さな箱を抱えて戻ってくる。
テーブルの上にそっと置かれた箱のふたが開く。
中には、少し色あせたアクセサリーや、小ぶりの香水の瓶が並んでいた。
「これね、ひよりさんに持っていてもらおうと思って」
思わず息をのむ。
「あ…これ…」
「私がいただいていいんでしょうか」
箱の中へ目を落としながら、指先でそっと瓶の縁をなぞる。
少し迷ってから、気になっていたことを口にした。
「お義母さんは、何か残しておかなくていいんですか?」
お義母さんは、懐かしそうな目で箱を見つめる。
「私は、もう十分もらったから」
その言い方が不思議で、思わず顔を上げた。
お義母さんの視線は、さっき閉じたばかりのアルバムの表紙へ向いている。
「一番大事なものをね」
その「一番大事なもの」が誰のことなのか、言葉にされなくても分かった。
「これは響子さんのものだから、恒ちゃんのお嫁さんに持っていてもらうのが一番自然でしょう」
お義母さんが、箱の中身を見つめながらやわらかく言う。
「……ありがとうございます」
声に出してみても、まだ実感がうまく追いつかない。
「使ってもいいし、しまっておいてもいいの。ひよりさんの好きにして」
そう言って、箱ごと私のほうへ押し出してくる。
私は両手をそっと伸ばして、その箱を受け取った。
思ったよりも軽いのに、ずしりと重い気がした。
廊下から足音がして、お義父さんが居間に戻ってきた。
「まだ話してたのか」
ニュースを見終わって、リビングの明かりがついていたので、様子を見に来たらしい。
お義母さんが笑って答える。
「昔の話をしてたら、長くなっちゃって」
お義父さんはテーブルのアルバムに目を留めて、少しだけ眉を寄せた。
「恒一には見せるなよ」
「どうしてですか?」
思わず私が聞いてしまう。
「面倒くさいから」
ぶっきらぼうにそう言って、肩をすくめる。
重い過去の話をしていたなんて、たぶん何も知らない。
目の前にいるのは、いつものお義父さんだ。
それが少しおかしくて、少し愛おしく見えた。
お義父さんはいつもの座椅子にどさりと腰を下ろし、テレビを小さな音でつける。
さっきまでと同じ居間なのに、いつもの夜がゆっくり戻ってくるような気がした。
時計の針が日付の変わる少し前を指したころ、玄関の鍵が回った。
「ただいま」
少し低くて、いつもよりわずかに緩んだ声。
軽く酔っているんだと分かる。
居間から私は返す。
「おかえりなさい」
靴を脱ぐ音のあと、廊下から声が飛んでくる。
「ひよ」
「はい」
また数歩、足音が近づいて、
「ひよ」
「いますよ」
ふすまが開いて、顔だけ出した恒一さんが、もう一度。
「ひよ」
思わず笑ってしまう。
「さっきから何回呼ぶんですか」
すると、座椅子にいるお義父さんが、テレビから目を離さずにぼそっと言う。
「ひよ、ひよ、うるさい」
「何が」
恒一さんが不服そうに父を見る。
「帰ってから何回呼んでるんだ」
「確認してる」
「一回返事したら分かるだろ」
「分からん」
「毎日いるだろ」
少し間をおいて、照れくさそうに続ける。
「今日もいるか確認した」
お義父さんが、あきれたように大きく息を吐いた。
「うるさい」
横でお義母さんが声を立てて笑い、私も吹き出す。
恒一さんは、何も知らない。
自分が幼い頃、お義母さんを母親として選んだことも。
ふたりがどれほど悩んで、家族になると決めたのかも。
今すぐ全部を知らせなくてもいい、と私は思う。
これから先、何年も一緒に暮らす中で、私の言葉の端々から、少しずつ伝わっていけばいい。
ふと視線を落とすと、そばに置いた箱が目に入る。
響子さんの形見が入った、そのふたを一度だけ見つめてから、私は恒一さんへ顔を戻した。
「ちゃんと、ここにいますよ」
そう告げると、恒一さんはそれで納得したように、短く答える。
「うん」
すぐにお義父さんの声が飛んでくる。
「家でも毎日そうやってんのか?」
お義母さんの笑い声が重なり、私も思わず笑ってしまう。
いつもの朝倉家の夜が、ゆっくりと戻ってきた。
ひより日和 スペシャル 第4話 「episode ZERO」 最終回 おわり
『ひより日和 episode ZERO』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
同じ世界で、新しい物語が始まります。
新作『紅葉便り』は、7月27日(月)より公開予定です。
ひよりたちとはまた少し違う、大人の恋と再出発の物語です。




