第2話 「episode ZERO」
1
アルバムに写っている、お義父さんと、まだ歩くこともできないほどに小さい恒一さん。
そして、お母さん。
恒一さんは父と母、どちらにも似ている。
笑った時の目元とか、頬のあたりとか。
でも、私はその女性のことは何も知らない。
「響子さん」
恒一さんを生んだお母さんの名前を聞いたのは、初めてだった。
お義母さんが、恒一さんを産んだ母でないことは知っていた。
入籍をいつにするか話していたときに、恒一さんから聞いた。
恒一さんは、自分にとって母とは育ててくれた今のお母さんだと言っていた。
事情まで聞くことではないと思ったので、それ以上は踏み込まなかった。
けれど、生みのお母さんの顔を見るのも、名前を聞くのもこれが初めてだった。
「響子さんというんですね」
お義母さんが、静かな声で言った。
「ええ」
お義母さん――和子さんは、さっきより少し遠くを見るような目をしていた。
ページの端を撫でるようにしながら、かすかに笑う。
「会社の先輩」
その響きの中に、若かったころのお義母さんと、この写真の中の人との時間が重なっていく気がした。
「あ…じゃあ、お義母さんとは、昔からのお知り合いだったんですか」
私は、恐る恐るたずねた。
聞いていいのかどうか、まだ足場を探りながら。
アルバムから、視線を外してお義母さんを見た。
お義母さんも、こちらを見ていた。
「恒ちゃんが生まれるより、ずっと前からよ」
穏やかな声で、お義母さんは答える。
ずっと前から。
その言葉の長さを想像しようとして、うまくいかない。
恒一さんが、まだどこにも存在していなかった頃から、このふたりはお互いを知っていたのだ。
ページの中の幼い恒一さんが、無邪気に笑っている。
その隣で、響子さんが少しだけ控えめに笑っていて、お義父さんは、どこか照れくさそうにしている。
三人の時間が、その一枚の中に残っているようで、少し苦しくなった。
「これ、お義父さんですよね」
今の恒一さんと似ている。
写真の下に書かれた、丸い字の名前を指でなぞりながら尋ねると、お義母さんが「そう」とうなずいた。
私は、そっとページを押さえる手に力をこめる。
お義母さんが次の言葉を口にするのを、黙って待っていた。
2
観光バス会社に入社したばかりの私は、まだ制服のスカーフの結び方にも手こずっていた。
そんな中で、最初に目に飛び込んできたのが、マイクを握る響子さんだった。
きれいで、制服が驚くほどよく似合っていて、通る声でお客さまを惹きつける。
案内の言葉が淀みなく続きながら、その合間に乗客の様子をさりげなく見ているのがわかった。
荷物棚の上を一度だけ振り返って確認する仕草まで、無駄がなかった。
けれど、仕事中の彼女は決して優しいだけの先輩ではなかった。
「そこに立つと、降車口がふさがるでしょう」
初めて添乗についた日、私が戸惑って立ち位置を間違えると、マイクを切った瞬間、小さな声でぴしゃりと言われた。
案内の順序も、声のかけ方も、間違えばきちんと指摘される。
悔しいような、でも目が離せない人だと、あの頃の私は思っていた。
初めての長距離の乗務の日、私は始発からずっと緊張しっぱなしだった。
出発前の乗客人数の確認で、名簿と顔がなかなか一致しない。
数え直しているうちに時間が押して、運転士さんの視線が気になって、余計に手が震えた。
観光地の案内では、順番を飛ばしてしまい、次の説明に慌ててつなごうとして、肝心な部分を一つ言い間違えた。緊張で声もだんだん小さくなっていくのが自分でもわかった。
そのたびに、隣でマイクを持つ響子さんが、何事もなかったようにさらりと補ってくれた。
「それから皆さま、先ほどのご案内に少し追加ですね」
明るい声で自然につなぎ、お客さまの方を向いたまま、私を責めるような色は一切見せない。
けれど、車庫に戻ってお客さまをすべて見送ったあと、控室で一息ついたところで、響子さんがこちらを向いた。
「確認は、慌てなくていいから確実にね」
穏やかな口調なのに、言葉はまっすぐだった。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
情けなさと悔しさで、返事がうまく出てこない。
俯いた私の前に、紙コップと、小さな包みがそっと置かれた。
温かい飲み物と、個包装のお菓子。
「最初からできる人なんていないわよ」
少しだけ笑って、響子さんは続ける。
「同じ失敗を二度しなければいいの」
突き放さないで、ちゃんと見ていてくれる人なんだと、そのとき私は初めて思った。
何度か一緒に乗務するうちに、仕事が終わったあと、そのままふたりで食事に行くことが増えていった。
日帰りのときは駅前の定食屋や喫茶店、宿泊がある仕事のときは、同じ宿の食堂で、添乗員さんも交えて遅い夕飯をとる夜もあった。
最初はほとんど仕事の話ばかりだった。
お客さまの傾向とか、季節ごとのコースのこととか。
けれど、いつの間にか休日の過ごし方や、子どもの頃の話が混ざるようになった。
「和子ちゃん、兄弟は?」
「いません。一人っ子なんです」
「そう。私もそうなの」
あっさりした口調なのに、その一言が胸に残る。
あとで聞けば、響子さんはご両親も早くに亡くしていて、兄弟もいないのだという。
寂しさを語るような言い方は、彼女はしない。
ただ、休日の予定を聞かれても「特にないわね」と笑って答える。
年末年始や連休も、一人で過ごすことがあると、何でもないことのように言った。
そのとき、私はふと口をついて出てしまった。
「じゃあ……もしよかったら、うちに来ませんか」
自分でも驚くくらい、自然な誘い方だった。
「実家なんですけど、母も人が来るの好きで」
言い添えると、響子さんが少しだけ目を丸くして、それからゆっくり笑った。
初めて響子さんを実家に連れて行った日、母は特別かしこまるでもなく、いつもの調子で玄関に出てきた。
「和子がいつもお世話になってます」
エプロン姿のまま頭を下げる母に、響子さんは少し照れたように笑った。
「いえ。私の方が、よく話を聞いてもらってます」
その言い方があまりにも自然で、私はそんなふうに照れている響子さんも、素敵だと思った。
食卓を囲めば、献立の話や仕事の愚痴、テレビの話で笑い声が続いた。
父もいつも通りで、余計な詮索もしない。
ただ、時々「響子さん、これもどうぞ」と皿を勧める。
その日をきっかけに響子さんは時々うちへ来るようになった。
彼女は私の家族の輪の中へ、自然と馴染んでいった。
会社の先輩というより、本当に姉ができたみたいだと、私はしみじみ思った。
その日も乗務のあと、いつものように駅近くの小さな店でご飯を食べていた。
ひと通り仕事の話が済んで、ふっと間があいたときだった。
「和子ちゃん」
湯気の向こうから、響子さんが少しだけ真面目な顔で私を見る。
「今度、会ってほしい人がいるの」
「えっ、会ってほしい人……って、もしかして、彼氏ですか?」
思わず声が上ずると、響子さんは箸を止めて、照れたように笑った。
「まだ、そういう言い方は慣れないけど」
でもね、と続ける声が、どこか嬉しそうだった。
「一番に話すなら、和子ちゃんかなって思って」
その一言に、胸の奥が熱くなる。
会社の先輩と後輩という枠を、そっと越えたような気がした。
仕事ではいつも段取りが良くて、私にとっては頼れる先輩だった人が、その日初めて、少しだけ照れたかわいい女の人に見えた。
その笑顔を、私は今でもよく覚えている。
3
待ち合わせは、駅前の小さな喫茶店だった。
木目のテーブルに深い色のカップが並ぶ、少し暗めの落ち着いた店。
「和子ちゃん、こっち」
奥の席で手を振った響子さんの隣に、黒いジャケットの男の人が座っていた。
今よりずっと若かったけれど、口数は多くなかった。
「朝倉修一さん」
紹介されてからもしばらくは、こちらが質問すれば短く、けれどきちんと答えてくれる程度だった。
愛想が悪いわけではない。
ただ、言葉の合間ごとに、必ずと言っていいほど響子さんの方を見ている。
その視線のやわらかさに、この人は響子さんを大事にしているんだ、と自然に思った。
響子さんも、仕事中とは違って少し柔らかい。
肩の力が抜けて、笑い方までどこか恋をしている女性に見える。
修一さんが席を外した隙に、私は小声で言った。
「優しそうな人ですね」
響子さんは少し考えてから、ふっと笑う。
「優しいというより、不器用なの」
その言い方が、どこか嬉しそうだった。
一年くらいあとだっただろうか。
ある日、仕事帰りにいつもの喫茶店で向かい合ったとき、響子さんがカップを両手で包むように持ちながら言った。
「結婚することになったの」
一瞬、言葉の意味がうまく胸に落ちてこなくて、次の瞬間には顔が熱くなる。
「えっ、本当ですか? おめでとうございます!」
自分でも驚くくらい大きな声が出て、店内で少し振り向かれてしまう。
響子さんは、照れくさそうに笑った。
響子さんには、ご両親も兄弟もいない。
だから、結婚の準備が進んでいくうちに、自然と私の両親もそこに巻き込まれていった。
母は衣装選びや細かな準備に張り切ってつき合い、父は口数少ないまま、しかしいつも予定を空けて車を出してくれる。
ある日、帰り道に肩を並べて歩きながら、響子さんがぽつりと言った。
「家族が増えるって、こういうことなのね」
その横顔を見て、胸の奥がじんとした。
響子さんは朝倉家だけでなく、うちの家族とも、静かに結ばれていくのだと思った。
結婚してからも、私はときどき朝倉家に遊びに行った。
新婚といっても、ふたりが特別べたべたしているところを見たことはない。
けれど、家の空気はいつも穏やかだった。
夕方、仕事から帰った修一さんは、まず玄関から「ただいま」と声をかけ、それから当たり前のように響子さんを探す。
台所から「はいはい、おかえり」と返事をして、湯気の向こうにエプロン姿の背中が見える。
並ぶおかずはちゃんと修一さんの好みを押さえていた。
私がいる前でも、ふたりが手をつないだりすることはない。
ただ、食卓につくときはいつも響子さんの湯飲みだけ先に出されていたり、重いものがあれば修一さんが黙ってひょいと持っていったりする。
そんな小さなところで、ああ、この人たちは夫婦なんだと感じる。
その家へ行くのが、私はどんどん好きになっていった。
しばらくして、響子さんの妊娠がわかった。
報告を受けた日の彼女は、いつもより少し頬が赤くて、でもどこか落ち着かないようにも見えた。
「ちゃんと母親になれるのかしら」
誰もいない休憩室で、カップを見つめながらぽつりとこぼす。
「響子さんなら大丈夫です」
私は、ほとんど考える間もなくそう答えていた。
根拠なんて、正直なところ何もない。
ただ、いつも周りを見て、私たち後輩のこともお客さまのことも気にかけてくれる人だから、きっと大丈夫だと、勝手に思い込んでいた。
響子さんは、ふっと笑って首をかしげる。
「根拠がないわね」
「ありますよ。響子さんだから、です」
言ってから、自分でも少し気恥ずかしくなる。
まだその頃の私には、母親になることの重さなんてよく分かっていなかった。
ただ、響子さんがうれしそうにお腹に手を当てる姿を見るのが、たまらなく嬉しかった。
病院の産科病棟で、私は初めて恒ちゃんと対面した。
ガラス越しではなく、ほんとうに目の前で見る赤ちゃんは、思っていたよりずっと小さくて、細くて、壊れそうだった。
「はい、和子ちゃんも抱いてみて」
「えっ、いいです、見てるだけで」
「いいから」
半ば強引に腕に乗せられた瞬間、身体がぎゅっと固まる。
腕の中で、ふにゃりとした重みが動いた。
「首、ちゃんと支えて」
「分かってます」
「怖いなら返して」
「返しません」
自分でも、なぜそんなに意地になったのか分からない。
ただ、腕の中の小さな命から目を離せなかった。
ベッド脇の椅子に座った修一さんは、赤ちゃんを見つめたまま、さっきからほとんど動いていない。
「抱かないんですか」
思わず尋ねると、視線を外さないままぽつりと言った。
「壊しそうで怖い」
「私が抱いてみてと言ったときは、そんなこと言わなかったのに」
響子さんがくすっと笑い、病室の空気が少しだけ和らぐ。
夫婦と私の三人で、小さな恒ちゃんを囲んでいる。
その時間が、あたたかくて、胸の奥がじんとして仕方がなかった。
少し時間がたって会いに行くと、響子さんはすっかり「お母さんの顔」になっていた。
といっても、最初から完璧というわけではない。
「昨夜なんて全然寝てくれなくてね」
髪は適当に結ばれたまま、目の下にはうっすらクマ。
赤ちゃんを抱いたままソファに座り込んで、ため息まじりに愚痴をこぼす。
それでも、恒ちゃんが声を上げれば、「これはお腹」「これは眠い」と、泣き声の違いで理由を聞き分け、小さな変化にもすぐ気づく。
響子さんの腕におさまると、不思議と泣き声がすぐに落ち着いた。
おむつ替えやミルクは、修一さんにも当然のようにさせている。
私が抱いてあやしても、眠くなってくると、恒ちゃんは当たり前みたいに響子さんの方へ手を伸ばす。
その様子を見ながら、私は「そうよね」と、ごく自然なこととして受け止めていた。
恒ちゃんにとって、私は物心つく前から当たり前のようにそばにいる人だった。
生まれて半年も経つと、私が顔をのぞきこむと、じっと見上げて、やがてふにゃっと笑う。
抱いても、ほとんど泣かない子だった。
歩けるようになると、玄関のチャイムが鳴って私の声が聞こえただけで、よたよたと廊下の方へ向かっていくようになった。
私が座ると、顔を見ただけで小さな手を伸ばしてくる。
「和子ちゃんが来ると機嫌がいいのよ」
響子さんは、うれしそうに、けれどどこか不思議そうに笑った。
私にとっても、恒ちゃんはいつの間にか「友だちの子ども」ではなくなっていた。
姉の子のような、甥っ子のような存在。
泣けばあやし、歩き始めれば手をつなぐ。
それでも、この頃の私は、まだ「時々会いに来る人」にすぎなかった。
恒ちゃんの世界の中心は、いつだって響子さんと修一さんだった。
恒ちゃんが一歳を過ぎた頃、私が遊びに行くと、決まって最初は元気いっぱいだった。
おもちゃを振り回して笑い、私の膝によじ登っては得意そうな顔をする。
けれど、少しずつまぶたが重くなってくると、腕の中でぐずり始める。
抱き直しても落ち着かないまま、やがて小さな手が、私の胸からするりと抜けて、隣にいる響子さんの方へと伸びた。
「はいはい、お母さんですよ」
響子さんが笑いながら抱き取ると、恒ちゃんはすぐにぐずるのをやめて、その胸に顔を埋める。
その光景を、私はただおかしくて笑いながら見ていた。
響子さんの腕の中で、恒ちゃんはすぐに泣き止んだ。
あの頃の私は、それがずっと続くものだと思っていた。
4
恒ちゃんが一歳半になる少し前から、響子さんが前より疲れやすくなった。
最初は、長引く風邪みたいなものだと思っていた。
食欲が落ちて、顔色があまりよくない。
仕事から帰ると、ご飯の支度だけしてすぐ横になる日が増えた。
「ちょっと疲れてるだけ」
そう笑うから、私も、子育てと仕事の両立で無理をしているんだろうと、そのときは本気で思っていた。
ある日、響子さんが「ちょっとふらついて」と笑いながら話してくれた。
仕事中とか家で倒れるほどではないけれど、急に立っていられなくなって、そのまま座り込んでしまったという。
心配した修一さんが、すぐに病院へ連れていった。
そこから検査が続き、入院して詳しく調べることになった。
それでも、最初のうちは誰も深刻には考えていなかった。
少し休んで、治療をすれば元に戻れると、どこかで当然のように思っていた。
「大げさなのよ、あの人は」
ベッドの上で、響子さんはそう笑った。
「早く元気になってくださいね」
私も、普段と変わらない調子でそう言った。
そのとき、死なんて言葉は、まだ誰の頭の中にも浮かんでいなかった。
入院が決まってから、恒ちゃんの世話が本格的に必要になった。
修一さんにも仕事がある。
どうしても手が足りない日が出てくる。
「今日は私が見ます」
気づけば、その言葉が自然に口から出ていた。
もともとよく懐いてくれているから、恒ちゃんも私に抱かれても泣かない。
そのまま家に連れて帰ると、両親も特別驚いた様子も見せずに受け入れてくれた。
「今日は泊まっていけばいい」
布団を追加で敷きながら、母はそう言った。
そのときの私は、本当に「数日だけ」のつもりだった。
響子さんが検査と治療を終えて元気になれば、またすぐに、あの穏やかな家に戻るのだと、疑いもなく思っていた。
入院が長引くにつれて、私のすることは少しずつ増えていった。
朝は自分の支度より先に恒ちゃんを起こし、ごはんを食べさせて、着替えさせる。
小さな靴を履かせて保育園まで送っていき、その足で会社へ向かう。
仕事が終われば、まっすぐ保育園へお迎え、病院へ寄って響子さんの顔を見てから、朝倉家へ戻る。
夕飯を用意して、一緒に遊んで、お風呂に入れて、寝かしつける。
気づけば、一日のほとんどを恒ちゃんと過ごしていた。
もちろん、私にも本来の仕事がある。
乗務のシフトは、同僚に交代を頼んだり、宿泊のコースを外してもらったり、休みを動かしてもらったりして、どうにかやりくりしていた。
「ごめんね、急で」「今度、何か奢るから」
そう言いながら頭を下げる回数が増えるたびに、胸の奥に小さな棘が刺さっていく。
周囲に迷惑をかけていることは、痛いほどわかっていた。
それでも、ほかにやり方が見つからなかった。
入院生活が長くなると、恒ちゃんを連れてのお見舞いも日課みたいになった。
病室のベッドにいる響子さんは、前より少し痩せていたけれど、まだちゃんと会話ができた。
「恒ちゃん、こっちおいで」
腕を伸ばして抱き上げようとするが、長く抱いているのはつらそうで、すぐに私に預け直す。
それでも、腕の中に一度だけでも抱き寄せて、「大きくなったわね」と笑う顔は、まぎれもなくお母さんの顔だった。
私は、できるだけ細かく恒ちゃんの様子を話した。
今日何を食べたか、何時に寝たか、新しく覚えた言葉。
「それからね、昨日はね」
ひとつ話すごとに、響子さんは「そう」「ふうん」と相づちを打ちながら、逃さないように聞いてくれる。
「退院したら、また三人で出かけたいわね」
病室で、響子さんが何でもないことのように言った。
「その時は私も混ぜてください」
冗談めかしてそう返すと、響子さんは少し笑って、
「四人でね」
と、ごく当たり前の未来みたいに言った。
ある日、病室に向かう廊下の角を曲がったところで、私は足を止めた。
扉の横の壁にもたれて、修一さんが立っていたからだ。
顔を伏せたまま、しばらく動かない。
壁にもたれた身体から、力だけが抜け落ちているように見えた。
私が近づいても、視線を上げようとしない。
「朝倉さん?」
小さく声をかけても、すぐには返事が返ってこない。
ようやくこちらを見た目が、どこか遠くを見ているようで、胸がざわついた。
「何かあったんですか」
そう聞くと、修一さんは少し間を置いてから、低い声で言った。
「治療は続ける」
それだけだった。
「大丈夫です」とも「心配いりません」とも、何も言わない。
そのことが、かえってはっきりと不安の形をとって、私の胸の中に広がっていった。
その夜も、私は恒ちゃんを布団に寝かせて、背中をとんとんと叩いていた。
薄暗い部屋の中で、半分眠りかけた声がぽつりと漏れる。
「かあしゃん……」
かすれたその言葉に、胸が締めつけられた。
「お母さん、早く帰ってくるといいね」
思わずそう返した途端、自分の口から出た「帰ってくる」という言葉が、急に心もとないものに感じられて、ぞくりとした。
その夜、恒ちゃんはすぐに眠った。
小さな寝息を聞きながら、私は初めて、「帰ってくる」という言葉を疑った。
5
面会に行くたびに、響子さんは痩せて、起きていられる時間も短くなっていった。
前は響子さんに手を伸ばしていた恒ちゃんも、今はベッドの上から伸ばされた手を前に、病室の匂いや機械の音におびえ、途中で泣き出してしまう。
泣き出した恒ちゃんを抱き上げると、小さな身体が私の胸にしがみついて、すぐに肩へ顔を埋めた。
背中をゆっくり撫でて、いつもの声であやす。
しゃくり上げる息が少しずつ落ち着いていくのを、腕の中で感じる。
その瞬間、まずほっとした。
泣きやんでくれてよかった、と。
それから、胸のどこかが、じんわりと熱くなった。
私を求めてくれた。
そんなよろこびが、はっきりと頭の中で言葉になってしまった途端、息が詰まる。
ベッドの上には、細くなった腕でこちらを見ている響子さんがいる。
その前で、自分はいったい何を思っているのだろうと苦しくなった。
そのとき、私は響子さんの顔を見るのが怖かった。
母親なのに抱いてやれない。
その目の前で、子どもは別の人の腕の中で安心している。
傷ついているかもしれない、寂しいかもしれない。
そんな想像ばかりが先に立つ。
けれど、ベッドの上の響子さんは、ただ恒ちゃんを見ていた。
嫉妬でも怒りでもなく、泣き止んだことにほっとした人の顔で。
「よかった」
小さくそう言って、響子さんは恒ちゃんのことを聞いた。
「夜はちゃんと寝てる?」
「ご飯は食べてる?」
「保育園では泣かない?」
私は、そのたびに一つずつ答える。
最近好きになった食べ物のこと。
新しく覚えた言葉。
朝、小さな靴を自分で履こうとするようになったこと。
響子さんは、聞くたびにうれしそうに笑った。
けれど、途中で息が苦しそうになり、まぶたをそっと閉じる。
それでも、ベッドの上から伸ばした手で、恒ちゃんの指を少しだけ握りしめる。
離さないように、確かめるみたいに。
あとから来た修一さんが「ちょっと歩かせてくる」と言って、恒ちゃんを抱いて病室を出ていった。
扉が閉まって、急に静かになる。
白いシーツと機械の音だけが残って、響子さんと私だけになった。
さっき、腕の中で泣きやんだ恒ちゃんの温もりを、うれしいと思ってしまったことが、喉にひっかかって仕方がない。
言葉にできないその感情が重くなって、代わりに口をついて出たのは「ごめんなさい」という言葉だった。
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
「何が?」
響子さんが、不思議そうに首をかしげる。
その問いに、私はうつむいたまま、何も答えられなかった。
「恒一、和子ちゃんのところだと安心するのね」
顔を上げた私を見て、少しだけ笑う。
「でも、本当は響子さんが──」
思わず否定しようとした言葉は、最後まで続かなかった。
響子さんが、静かな声で遮る。
「和子ちゃんがいてくれて、よかった」
母親の場所を誰かに譲るような響きではなかった。
ただ、自分にできないことを、信頼している誰かがしてくれていることへの、深いため息みたいな安堵の声。
胸が痛い。
だからこそ、その言葉を私はまっすぐ受け取ることはできなかった。
6
響子さんは前より痩せて、起きていられる時間も短くなっていった。
私が恒ちゃんの話をしても、返ってくる言葉は「そう」「よかった」「ありがとう」と、ずっと少なくなった。
それでも、恒ちゃんのことになると、閉じかけたまぶたをもう一度ゆっくり開ける。
修一さんは病室にいる時間が目に見えて増え、仕事との行き来でやつれていった。
私も何も聞かないまま、ただ恒ちゃんの生活を回すことに手一杯だった。
誰も「もう長くない」なんて言葉は口にしない。
けれど、その頃にはもう、私たち全員が、同じものを感じ始めていた。
その日、恒ちゃんは機嫌がよくて、自分の足でとことこベッドのそばまで歩いていった。
響子さんが細い腕を上げて手を差し出すと、小さな指でその指をぎゅっと握る。
もう、抱き上げる力は残っていなかった。
それでも響子さんは、空いた方の手で恒ちゃんの頬や髪にそっと触れながら、じっと顔を見つめていた。
忘れないように刻みつけているのか、恒ちゃんに自分を覚えていてほしいのか、そのどちらなのか、私には分からない。
当の恒ちゃんは事情など知らずに、握った指をおもちゃみたいに揺らして遊んでいる。
その小さな笑い声だけが、病室の中で明るく響いていた。
やがて修一さんが恒ちゃんを抱き上げた。
小さな身体を胸に乗せて、ベッドのそばに立つ。
その前で、響子さんはじっと、夫と子どもを並べて見つめていた。
「また連れてくる」
修一さんが、いつものようにそう言う。
面会のたびに口にしてきた約束の言葉。
響子さんは、少しだけ笑った。
けれど、そのあと何も返事をしない。
その沈黙の意味に、きっと修一さんも気づいていた。
修一さんの口元は、何かをこらえるように固く結ばれていた。
返事がなかった意味を、きっと分かっていた。
帰ろうとしたとき、ベッドからかすかな声が飛んだ。
「和子ちゃん」
呼ばれて振り向くと、修一さんが気を利かせたように「先に行ってる」と言って、恒ちゃんを抱いたまま廊下へ出ていく。
扉が閉まって、病室には私と響子さんだけが残った。
少し息を整えてから、響子さんが問いかける。
「恒一、ちゃんと食べてる?」
「夜、泣かない?」
「修一さん、無理してない?」
どれも、自分のことではなく、残されるふたりのことばかりだった。
「大丈夫です。ちゃんと食べてます」
「夜も、だいぶ落ち着きました」
「朝倉さんも、無理しないように、私が見てますから」
そう言い切ったあとで、自分がどこまでここにいるつもりなのか、私自身にも分からないことに、ふいに気づいて胸がざわついた。
少しの沈黙のあとで、響子さんがぽつりと言った。
「怖いの」
天井を見たままの、かすかな声だった。
死ぬことが怖いのか、恒ちゃんが自分を忘れてしまうことが怖いのか、修一さんと恒ちゃんを残していくことが怖いのか、その全部が混ざっているように聞こえた。
「あの子、私のこと忘れるかしら」
次の言葉に、胸がぎゅっとつまる。
「忘れません」
私は、反射的に否定していた。
そう言うしかなかった。
けれど、二歳にもならない子どもが、どこまで何を覚えていられるのか。
写真の中の顔を「知っている」と言えるのかどうか。
そんなことは誰にも分からない。
きっと響子さん自身だって、分かっている。
「そうよね」
そう言って笑おうとした口元が、うまく笑顔の形にならない。
その歪みを見てしまって、私は何も続けられなかった。
しばらく沈黙が落ちたあとで、シーツの上の手が、探るようにゆっくり動いた。
私の方へ伸びてくるその指先を、慌てて両手で包み込む。
「和子ちゃん」
「はい」
握った手が、弱く一度だけ力をこめる。
「恒一を、お願いね」
その言葉に、喉の奥がきゅっと締まった。
すぐには答えられない。
「お願い」がどこまでを指しているのか、分からなかった。
明日の世話なのか、退院するまでのあいだなのか、それとも、これから先のすべてなのか。
「そんなこと言わないでください」
やっと絞り出した声は、拒むような響きになった。
響子さんは、少し息を整えてから、もう一度だけ、今度はさっきより小さな声で言う。
「お願い」
胸の奥では、まだ「一生」なんて言葉に手が届いていない。
明日のことさえおぼつかないのに、その先の全部なんて、とても約束できなかった。
それでも、何も言わないでいることだけは、もっとできなかった。
「……分かりました」
やっとの思いでそう答える。
その言葉がどこまで続く約束なのか、私にも分からなかった。
握っている手は驚くほど軽くて、それでも、どうしても放せなかった。
7
訃報の知らせは、思っていたよりもあっけなかった。
仕事中だったか、出勤前だったか、どちらだったのかさえ、あとからは曖昧になる。
ただ、電話の向こうで修一さんが短く告げた。
「響子が、亡くなった」
それきり、向こうも長くは何も言えなかったし、私もその場ですぐには泣けなかった。
言葉の意味だけが、どこか遠くで鳴っているみたいで、頭にうまく入ってこない。
それでも、今日の乗務をどうするか、職場に何と言うか、恒ちゃんを誰が迎えに行くか。
次々に押し寄せてくる現実の方が、先に私の身体を動かしていった。
病室へ行くと、響子さんは静かに横たわっていた。
痩せてはいるけれど、顔は不思議なほど穏やかで、苦しそうな気配はなかった。
そっと手に触れる。
もう、あのときみたいに握り返してはくれない。
前に「お願い」と言われたときに握った、軽い手の感触が重なる。
泣くより先に、あのとき自分が言った言葉だけが浮かんだ。
「分かりました」
何を分かったのか、今も本当のところは分からないままだった。
修一さんは、ずっとそばにいた。
泣き崩れることもなく、必要な連絡や手続きを淡々とこなしていた。
誰かに何かを聞かれれば、落ち着いた声で答える。
その合間ごとに、ふとした拍子に響子さんの顔を何度も確かめるように見ていた。
ふいに、病室の扉の外で人の気配が途切れた瞬間があった。
私が席を外したあと、戻ろうと廊下の陰にいることに、きっと気づいていなかったのだと思う。
「……響子」
ごく小さな声で、一度だけ名前を呼ぶのが聞こえた。
返事が返ってこないことを、頭ではもう分かっているはずなのに、その事実を身体のどこかがまだ受け入れられていないのだと、その呼び方で分かってしまい、私は足を踏み出せずに立ち尽くした。
大人たちが病院や手続きで走り回っているあいだも、恒ちゃんの日常は続いていた。
保育園の迎えの時間になって、私はいつものように門をくぐる。
響子さんの病状がよくないことは、事前に園にも伝えてあった。
「お母さまは?」
先生にそう聞かれて、一瞬、声が出なくなる。
「……亡くなりました」
やっとの思いでそう告げた瞬間、口にした言葉が自分の中で初めて現実の形をとった。
園庭の向こうで、恒ちゃんが私を見つけて走ってくる。
何も知らない顔で笑いながら、いつも通り小さな手を伸ばしてきた。
葬儀の日、祭壇の前にはいくつもの写真が並んでいた。
まだ若い頃のもの、制服姿のもの、そして恒ちゃんを抱いた響子さんの笑顔。
その前を、焼香に来た人たちが静かに通り過ぎていく。
私の両親の背中も、列の中に見えた。
意味など分からない年齢の恒ちゃんは、ただ大人たちの足元をきょろきょろ見ていた。
その隣で、修一さんの横顔だけが固く結ばれている。
やがて恒ちゃんがぐずり始めた。
静かな場に長くはいられない。
私はそっと抱き上げて、外の空気へ連れ出す。
葬儀の最中でも、恒ちゃんはお腹が空いた、眠い、抱っこと、いつも通りに小さな身体で訴え続けていた。
葬儀が終わって朝倉家に戻ると、恒ちゃんはいつものように玄関の音や台所の気配に反応した。
響子さんがいつも立っていた場所を、何度も確かめるように見る。
飾られた写真に目を向けても、まだ意味は分からない顔だ。
やがて眠くなって、布団の中で小さく「かあしゃん」と呼ぶ。
私は抱き上げながら、「お母さんね」と返す。
けれど、その先に続く言葉は、どうしても喉を通らなかった。
葬儀が終わっても、次の朝は勝手にやって来た。
カーテンの隙間から光が差し込めば、恒ちゃんはいつも通りむくりと起き上がる。
お腹が空いてぐずり、ごはんを食べれば服を汚し、決まった時間になれば保育園へ行く。
私は台所に立って朝食を作り、眠そうな目をこすりながら恒ちゃんを着替えさせる。
顔と手を拭いて、髪を撫でつけて、小さな靴を履かせて玄関まで送る。
仕事を終えれば迎えに行き、帰ったら一緒にごはんを食べて、お風呂に入れて、布団に連れていく。
大人たちの悲しみとは関係なく、一日は途切れずに進んでいった。
夜、恒ちゃんを寝かせてから居間に戻ると、修一さんが遺影の前に座っていた。
電気もつけず、写真だけをじっと見つめている。
私がそっと近づいても、しばらく気づかない。
時間が止まったみたいな静けさの中で、やがて小さく声が落ちた。
「どうしたらいい」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
そこにいるはずのない響子さんか、背後に立つ私か、それとも自分自身に向けてなのか。
返事はどこにもなく、ただ遺影の中の笑顔だけが変わらずそこにあった。
葬儀が終わったら、自分は元の生活に戻るべきなのかもしれない。
そう思う瞬間が、何度もあった。
でも、明日の朝、恒ちゃんを起こす人は誰なのか。
眠そうな目をこすりながらごはんを食べさせ、汚した服を着替えさせて、保育園へ連れて行く人は。
夕方に迎えに行って、夕飯を作り、一緒にお風呂に入り、夜中に泣き出したら抱き上げる人は。
修一さんは父親だ。
けれど仕事がある。
全部を一人で背負えるとは、とても思えなかった。
じゃあ、自分はどうしてここにいるのか。
響子さんに「お願い」と言われたからか。
小さな手が当たり前みたいに自分の袖をつかむからか。
修一さんが、ひとりきりに見えてしまうからか。
どれも理由のようでいて、どれだけを取り出しても言い切れない。
全部が理由であり、どれ一つだけでもなかった。
胸の中で絡まり合ったまま、まだうまく言葉にはならなかった。
翌朝、窓の外が白み始めたころ布団の衣擦れの音がした。
「……ぁ」
小さな寝息が途切れて、恒ちゃんがむくりと起き上がる。
辺りをきょろきょろ見回したあと、いつものように私を見つけて、ためらいもなく両手を伸ばしてきた。
「はいはい」
抱き上げると、あたたかい重みが腕に収まる。
首もとに顔をこすりつける仕草まで、何一つ昨日までと変わらない。
その瞬間、胸の奥で、はっきりと何かが動いた。
今日だけでは、終われない。
その先のことは、まだ何も分からなかった。
ただ、今日だけで終わることはできなかった。
ひより日和 スペシャル 第2話 「episode ZERO」 おわり




