第1話 「episode ZERO」
『ひより日和』スペシャルエピソードです。
全4話、一日一話ずつ更新します。
1
「着いたぞ」と告げられても、シートベルトに触れた手はそのままだ。
窓の向こうに見慣れた門柱と玄関があって、知っているはずなのに緊張する。
隣の恒一さんは、いつも通り迷いなく車を入れ、エンジンを切る前から家の様子を確かめている。
「少し緊張してます」
ようやくそう言うと、「今さらか」と短く返ってくる。
「泊めていただくのは初めてですから」
笑いも、「大丈夫だ」という言葉もなくて、「キツくなったら言えよ?」とだけ言われる。
「大丈夫だから、そんな心配しないで」
「じゃあ、行くか」
いつもの声に、ふっと力が抜ける。
こういうところが、やっぱり恒一さんらしいと思う。
私たちが車を降りるより少し早く、玄関の扉が開く気配がした。
エンジン音に気づいて、待っていてくれたみたいに、お義母さんが外に出てくる。
「着いたの。早かったわね」
私が慌ててドアを開けて頭を下げるより先に、いつものスリッパの音で、当たり前みたいに近づいてくる。
家の脇からは、お義父さんが顔を出した。
「渋滞はなかったか」
「少しだけ」
会話は自然に恒一さんとお義父さんのあいだで始まる。
大げさな再会ではなくて、ただ、息子が帰ってきた日のいつものやり取りみたいだ。
「疲れたでしょう」
ようやくお義母さんが私の方を向いてくれて、ひと息つける。
「大丈夫です」
そう答えて、後部座席に手を伸ばす。
用意してきた紙袋を出そうとしたところで、もう恒一さんが先に全部まとめて降ろしていた。
「こんなに持ってきたの?」
「ひよりが買った」
「恒一さんも一緒に選びました」
「俺は持ってただけ」
そんなやり取りに、お義父さんがふっと目を細める。
玄関先の空気が、ゆっくりと「家族」の匂いになっていくのを感じた。
玄関に入って、口が勝手に「お邪魔します」と形をつくりかけて、私はあわてて飲み込んだ。
その前に、お義母さんがふっと笑って言う。
「おかえりなさい。ふたりとも」
扉をくぐりながら、恒一さんは靴を脱ぐ動作のついでみたいに、当たり前の調子で答える。
「ただいま」
その自然さに一瞬見とれて、私は一拍遅れてしまう。
「……ただいま、です」
ようやく声にすると、お義母さんは目を細めて私を見て、
「はい、おかえり」
と柔らかく返してくれた。
その言葉が、私の耳にそっと入ってきた。
玄関を上がって廊下に出ると、前に来たときと同じものと、少しだけ違う景色が混ざって見えた。
靴箱の上の花は季節の色に変わっていて、廊下の写真立ては一つ増えている。
玄関には、美咲ちゃんのスニーカーが並んでいて、その向こうに、恒一さんが昔使っていたと聞いた傘が立てかけてある。
奥の台所からは、柔らかい煮物と出汁の匂いがふわりと漂ってきて、じんわり温かい。
「美咲ちゃんは?」
何気なく尋ねると、お義母さんがスリッパを出しながら答える。
「今日は仕事。夕方には帰るわ」
「土曜日も勤務なんですね」
「歯医者だからね」
「ああ、歯科衛生士さんでしたね」
お義母さんに案内されたのは、恒一さんの昔の部屋ではなく、襖続きの客間だった。
畳の上には布団が二組、きれいに並べて敷いてある。
枕元には新しいタオルがたたまれていて、小さな籠には歯ブラシが二本、透明な袋に入れられて立ててあった。脇にはティッシュと、キャップ付きのペットボトルの水が一本。
一つ一つはどの家にもあるようなものなのに、自分たちのためにここに集められたのだと思うと、その準備の時間ごと胸にしみてくる。
「何か足りなかったら言ってね」
お義母さんが何でもない調子で言う。
「ありがとうございます」
思わず改まって頭を下げると、ふっと笑われる。
「お客さんじゃないんだから、遠慮しないで」
その言葉を残して、お義母さんはすっと部屋を出ていった。
閉まりかけた襖を見つめながら、「お客さんじゃない」という言葉だけが、私の胸の中に残っていた。
恒一さんがキャリーを壁際に置き、上着を脱いでハンガーに掛ける。
その動きは、実家だからといっていい加減にするでもないけれど、自分の家にいるときとも少し違って見えた。背中から、不思議なくらい肩の力が抜けているのがわかる。
ここが、この人を育てた家なのだと、改めて思う。
廊下の方から、お義母さんの声がした。
「恒ちゃん、コーヒーでいい?」
「ああ」
その返事は、さっきまでより少し低くて、どこか懐かしそうだ。
「ひよりさんは?」
名前を呼ばれて、一瞬だけ迷ってから、私は襖を開けて顔を出す。
「私もいただきます」
そう伝えて、恒一さんのあとを追うように廊下に出て、居間へ向かって歩き出す。
そこは「お客さんとして通された家」ではなかった。
恒一さんが帰る家に、私も一緒に帰ってきたのだと、歩くたびに畳の感触が教えてくれる。
2
居間に入ると、お義父さんはいつもの場所なのだろう、窓際の座椅子に腰を下ろしていた。
お義母さんがキッチンからコーヒーを運んできて、テーブルの端にそっと置く。
私の前には、小さな菓子皿も一緒に出された。
持ってきた手土産も、挨拶代わりに渡したつもりだったのに、すぐに包みをほどかれてしまう。
「せっかくだから、今いただきましょう」
「皆さんであとで」と言いかけて、さっき「お客さんじゃない」と言われたことを思い出し、言葉を飲み込んだ。
恒一さんは、何も迷わずテレビの前の定位置に座る。
昔からそこが自分の席だったみたいに、当たり前の顔で腰を下ろし、コーヒーに砂糖もミルクも入れず、そのまま口をつけた。
「恒ちゃん、少し薄かった?」
「いや」
短いやり取りに、声の調子だけが少し柔らかくなる。
心の中で、やっぱりこの人はここでは「恒ちゃん」なんだなと思った。
お義母さんが何度も「恒ちゃん」と呼ぶので、聞いているうちにふっと笑いがこみ上げてきた。
「どうした?」
すぐ横から低い声が飛んできて、私は慌てて首を振る。
「いえ。恒一さんも、実家では恒ちゃんなんだなと思って」
「変?」
どこか照れているように見える恒一さん。
「んーん。私も実家では、ひよちゃんですから」
「あら、そうなの?」
お義母さんが、嬉しそうに目を丸くした。
「似たようなものだな」
新聞を読んでいたお義父さんが、ページから目を離さないまま穏やかに言った。
恒一さんだけが、ほんの少しだけ嫌そうな顔をしてみせるけれど、本気じゃないことはすぐにわかる。
そのやり取りを見ているうちに、夫婦になった私たちにも、それぞれ子どもだった時間があるのだと、当たり前のことを今さらのように思った。
コーヒーをひと口飲んだところで、お義父さんが新聞をたたみ、何気ない調子で恒一さんに視線を向けた。
「車の調子はどうだ」
「変わらないって言うか、毎日乗らないから」
「仕事はどうだ」
「そっちは変わらない」
「忙しいのか」
「結構ね。人員不足もある」
一往復ごとに会話はすぐ終わるのに、そこに変な間は生まれない。
言葉の少なさごと、長く続いてきたやり取りの形なんだろうと思う。
少し間をおいてから、お義父さんがふと思い出したように言った。
「あとで物置の棚、見てくれ」
「いいよ」
「あとでいい」
「ああ」
それだけで話はもう決まってしまう。
頼む方も、引き受ける方も、それ以上の言葉を必要としていなかった。
お義父さんと恒一さんが荷物や物置を見に外へ出ていき、居間にはお義母さんと私だけが残った。
急に静かになった空間に、時計の音と煮物の匂いだけが満ちていく。
お義母さんは、結婚生活はどうだとは聞かなかった。
「ちゃんと食べてる?」
聞かれたのは、それくらいだ。
「はい。恒一さんも作ってくれます」
そう答えると、お義母さんは少し驚いた顔をした。
「あら! あの子が?」
お義母さんが思わず笑う。
「あの子、包丁もほとんど持ったことなかったのよ」
「そんな感じでした」
「危なっかしくてね。私がやったほうが早いって、ずっと台所に立たせなかったの」
私は思わず恒一さんの顔を思い浮かべて、小さく笑った。
「今は少しずつ覚えてくれてます」
「シフトがうまくかみ合わないことが多いんです」
「だから、私が帰る頃には作って待っていてくれようとするんですけど、まだ練習中というか」
少し苦笑いしながら言った。
「そう」
でもお義母さんは、嬉しそうに笑った。
「今時の人は、料理くらいできないとね」
「いろいろ、教えてやって」
そして、壁の時計を見て言った。
「美咲が帰ってきたら、また賑やかになるわ」
今度は目の前の時間に戻るみたいに、明るい声でそう続ける。
菓子皿を下げるのを手伝おうとして立ち上がると、飾り棚の上に並んだ写真立てが目に入った。
前に来たときには気づかなかった一枚に、ふと視線が止まる。
小学校低学年くらいの、幼い恒一さん。
今よりずっと表情が柔らかくて、でもどこか少し不機嫌そうでもある顔。
「恒一さんですか?」
思わず声に出すと、お義母さんが近づいてきて、その写真立てをそっと手に取った。
「そう。たぶん七つくらいね」
写真には恒一さん一人だけ。
「面影ありますね」
そう言うと、お義母さんは口元をゆるめて、
「昔から、愛想のない子だったのよ」
と笑った。
玄関の扉が開く音がして、廊下から足音が戻ってくる。
「何見てる」
居間に入ってきた恒一さんが、私たちの手元を見て目を細める。
「恒ちゃんの七歳」
お義母さんが得意げに見せると、「もういいから、戻せって」と低く言う。
その後ろからお義父さんが顔をのぞかせて、
「もっとひどいのもあるぞ」と一言。
お義母さんが「そうそう」と笑い、居間に柔らかい笑い声が広がる。
写真の中の七歳の男の子と、今ここにいる「恒ちゃん」が、同じ線の上にちゃんとつながっている。
夕方近く、玄関の扉の開く音がして、すぐに明るい声が飛び込んできた。
「ただいまー」
お義母さんが台所の方から、
「おかえり。ふたりとも来てるわよ」
カーディガンを羽織った美咲ちゃんが、通勤バッグを肩にかけたまま居間をのぞき込み、私を見つけるとぱっと顔を明るくした。
「お義姉さん、来てたんですね」
「お邪魔してます……じゃなくて、ただいまです」
自分で言い直して、少し照れながら頭を下げると、美咲ちゃんがうれしそうに笑う。
「おかえりなさい、お義姉さん」
その一言が、部屋の空気をやわらかく押し広げる。
朝倉家の中へ、もう一段、自然に足を踏み入れた気がした。
美咲ちゃんが、テーブル越しに恒一さんを見る。
「お兄ちゃん、今日OB会でしょ?」
「ああ」
「何時から?」
「七時」
「駅までどうするの?」
「タクシー呼ぶ」
すると、美咲ちゃんは通勤バッグを肩から下ろしながら、少し呆れたように言った。
「いいよ。私が送る」
「仕事帰りだろ」
「駅まででしょ。着替えたら、すぐ出られるから」
恒一さんは少しだけ迷ったあと、美咲ちゃんを見る。
「じゃあ、頼む」
「はいはい」
やり取りがあまりにも自然で、私は口を挟む間を逃してしまった。
「私も一緒に行きましょうか」
ようやくそう言うと、美咲ちゃんがすぐに首を振る。
「お義姉さんは、ゆっくりしててください。すぐ戻っくるから」
「でも、仕事から帰ったばかりなのに」
「大丈夫。毎日運転してますから」
恒一さんも、私を見て言った。
「美咲だけでいいよ。駅までだから」
「そうですか」
それなら、と引き下がると、美咲ちゃんは「着替えてきます」と言って、軽い足音を残して廊下へ消えた。
恒一さんも腕時計を確かめ、立ち上がる。
「そろそろ支度する」
「はい」
客間へ向かう背中を見送りながら、さっきまで家族全員がそろっていた居間が、少しずつ夜の時間へ動き始めるのを感じた。
誰かが大きな声で合図をしたわけではない。
それでも、それぞれが次にすることを分かっているみたいに、朝倉家の夕方は静かに形を変えていった。
3
着替えを終えた恒一さんが、居間に戻ってくる。
いつものスーツじゃなくて、きちんと整えた私服。
見慣れているはずなのに、実家から出かけていく後ろ姿が、少しだけ新鮮に見えた。
「恒ちゃん、帰りは?」
台所から顔を出したお義母さんに、恒一さんはいつも通りの声で答える。
「まだ分からない。遅くなるなら連絡する」
「飲みすぎるなよ」
新聞をたたみながらお義父さん。
「そこまで飲まないよ」
「どうだか」
横から美咲ちゃんが茶々を入れて、「お前に言われたくない」と返す声に、居間がふっと和んだ。
私は玄関までついていく。
靴を履きながら、恒一さんが顔だけこっちに向ける。
「何かあったら連絡して」
「ここで、何があるんですか」
思わず笑って返すと、「分からないけど」と口元だけ少し緩んだ。
そのささやかな心配が、くすぐったくてうれしい。
「大丈夫です。行ってきてください」
そう言うと、恒一さんは短く「行ってくる」とだけ返した。
いつもの声が帰ってきて私は美咲ちゃんの後に続いて玄関を出た。
美咲ちゃんの軽自動車がエンジン音を立てて門を出ていく。
私は玄関先で、そのテールランプが角を曲がって見えなくなるまで見送った。
私はそのまま、朝倉家の夕方の中に立っていた。
「さ、夕飯にしましょうか」
朝倉家の時間はそのまま流れていく。
その中に私もいるのだと、家族なんだと思った。
「何かお手伝いします」
居間に戻ると、そう口にしていた。
「いいのよ。座ってて」
お義母さんは笑いながらそう言うけれど、かえって落ち着かない。
「座って待っているほうが落ち着かなくて」
「じゃあ、お皿をお願いしようかしら」
ほっとして、私は台所に入る。
今夜のおかずは、焼き魚に、肉じゃがみたいな煮物、青菜のおひたしとお味噌汁、それから漬物。
特別なごちそうというわけではないけれど、こういうのが朝倉家の「普通の夕食」なんだと、胸の中でそっと言葉にする。
「お茶碗、どこですか」
食器棚の前で立ち止まると、お義母さんが「そこ。上から二段目」と指さしてくれる。
扉を開けると、家族それぞれの茶碗が並んでいた。
柄の違う茶碗をひとつずつ手に取りながら、この中に、今も恒一さんの居場所が当たり前みたいにあることを思う。
湯気の立つ台所で、そのことが静かにうれしかった。
玄関のほうでドアが開く音がした。
「ただいま。ちゃんと送ってきました」
明るい声に振り向くと、美咲ちゃんが廊下を歩いてくる。
「おかえり。手、洗ってらっしゃい」
お義母さんが声をかけると、美咲ちゃんは台所をのぞき込んだ。
「お義姉さん、手伝ってるの?」
「少しだけ」
「ママ、人使い 粗いから気をつけてね」
「何言ってるの」
他愛ないやりとりに、思わず笑ってしまう。
四人で食卓を囲む。
いつもと少し違う席順に一瞬迷ったところで、「ひよりさん、そこに座って」とお義母さんに促され、私はそっと椅子を引いた。
恒一さんのいない食卓でも、自然に会話して必要以上に気を回されることもなく、変に安心してしまった。
味噌汁の湯気越しに、美咲ちゃんが箸を止めてこちらを見る。
「お兄ちゃん、家でもあんな感じ?」
「あんな感じって?」
「真面目で、ちょっと面倒くさい感じ」
どう答えようか、少しだけ考える。
「面倒くさい時は…あるかな」
正直に言うと、斜め向かいのお義父さんが小さく笑った。
「あら、やっぱり?」とお義母さん。
私があわてて「でも、優しいです」と付け足すと、美咲ちゃんがあっさり言う。
「うん。優しいのは優しい」
箸の触れ合う音と他愛ない会話の中で、面倒くさいくらい真面目な人なんだということが改めて伝わってくる。
「お義姉さんには、ちゃんと喋ってるもんね」
唐突な美咲ちゃんの一言に、思わず笑ってしまう。
「喋りますよ。聞けば、ちゃんと答えてくれます」
「そうなのよ。自分から、あれこれ話さないだけで」
お義母さんが楽しそうに言う。
そのやりとりが、なんだかくすぐったい。
ここでも、あの人がちゃんと「家の中のひとり」として思い出されている。
恒一さんのいない時間に彼の家族と、一緒にご飯を食べることが、不思議でもあったし自然でもあった。
食後の食器を下げようと立ち上がった。
「置いといていいのよ」
「洗うくらいさせてください」
言ったところで、美咲ちゃんも椅子を引いた。
「じゃあ、私が拭く」
私が食器を洗い、美咲ちゃんが拭き、お義母さんは残り物を片づける。
台所に女三人が横に並ぶと、水の音と食器の触れ合う音が、さっきまでとは少し違う調子で響いた。
「お兄ちゃん、昔から魚だけはきれいに食べるの」
「そうなの?」
「でも、しいたけは私のお皿に入れてた」
「美咲が嫌がるから、余計にやるのよ」
お義母さんの声に、思わず笑ってしまう。
私の知らない頃のふたりの記憶を、そっと見せてもらっている感じがする。
置いていかれたような寂しさはなくて、むしろ、私の知らない恒一さんを、この家の人たちが少しずつ手渡してくれているようだった。
片づけを終えて居間に戻ると、お義父さんが「向こうでニュース見るよ」と立ち上がり、美咲ちゃんも「明日も早いから、先にお風呂入ってきます」と部屋を出ていった。
気がつくと、居間にはお義母さんと私だけが残っている。
テレビはついているけれど、音量は小さくて、画面の明かりだけがちらちらと揺れている。
テーブルには食後のお茶。
窓の外は、すっかり夜の色になっていた。
湯のみを両手で包みながらテレビの画面を眺めていると、お義母さんがふいに口を開いた。
「恒ちゃん、ちゃんとやってる?」
「はい」
すぐにそう答えてから、少しだけ言葉を探す。
「私より、ちゃんとしてます」
そう付け足すと、お義母さんがふっと笑った。
息子をべた褒めするでもなく、だからといって否定もしない、その笑い方が好きだと思う。
「泊まるの、緊張するでしょう?」
図星をさされて、私は湯のみを見つめたまま「少し」と正直に答える。
「そうよね。私も、初めてこの家に来た時は緊張したもの」
「お義母さんも、ですか」
「ええ」
意外な言葉に、顔を上げる。
お義母さんも、途中からこの家にやって来た人なのだということが、今さらのように胸に落ちる。
その事実が、肩の力をそっと抜いてくれた気がした。
「さっきの写真、あれだけじゃないのよ」
湯のみを置いたお義母さんが、ふと思い出したように言う。
「まだあるんですか」
「あるわよ。恒ちゃんが見たら怒るかもしれないけど」
そう言って、居間の棚から少し重そうなアルバムを取り出してくる。
テーブルに置かれたそれを開くと、色あせた写真の中に、小学生くらいの恒一さんがいた。
運動会、入学式、ピースをしているもの、ぶすっとしているもの。
ページをめくるたび、見たことのない表情が少しずつ増えていく。
ふと、一枚の前で手が止まった。
幼い恒一さんとお義父さん。
その隣に、私の知らない女性が笑って写っている。
「この方は……」
思わずたずねると、お義母さんが身を乗り出して写真をのぞき込む。
短い沈黙のあとで、静かな声が落ちた。
「恒ちゃんのお母さんよ」
アルバムの紙の上で、知らないはずの人の笑顔だけが、妙に近く感じられた。
写真の中で、その人は笑っていた。
幼い恒一さんを抱いて、まっすぐにこちらを見ていた。
「響子さん」
お義母さんは、その名前を静かに口にした。
隠すようでもなく。
遠ざけるようでもなく。
ずっと、この家にいた人の名前を呼ぶように。
ひより日和 スペシャル 第1話 「episode ZERO」 おわり
お読みいただき、ありがとうございます。
『ひより日和 スペシャル episode ZERO』は、全4話です。
明日も同じ時間に、第2話を更新します。
本編では詳しく描かなかった、朝倉家の過去のお話です。
最後までお付き合いいただけましたら嬉しいです。




