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第2話 異世界、思ったより不親切だった

煙の上がる方へ歩き出して、どれくらい経っただろう。


十分か。

三十分か。

もしかしたら、まだ五分くらいかもしれない。


森の中というのは、思っていた以上に時間の感覚が狂う。


舗装された道路もなければ、親切な案内板もない。

当然、コンビニもない。

自販機もない。

現在地を教えてくれるスマホもない。


「異世界、不便すぎるだろ……」


思わず文句が漏れた。


ファンタジー作品で見る森は、もっとこう、神秘的でワクワクする場所だった気がする。

実際に歩いてみると、ただただ足場が悪い。


枝は服に引っかかる。

虫は飛んでくる。

よくわからない植物はやたら派手な色をしている。


食べたら死にそうだな、と思った。


「せめて鑑定スキルくらいくれよ」


近くに生えていた赤紫色の実を見ながら呟く。


もちろん、何も表示されない。


ステータス画面も開かない。

スキル一覧も出ない。

女神様の説明もない。


いくらなんでもサービスが悪い。


「転生特典なし、説明なし、森スタート……これ、難易度設定ミスってないか?」


そう独り言をこぼした、その時だった。


がさり、と前方の茂みが揺れた。


俺は足を止める。


風ではない。


明らかに何かがいる。


「……人か?」


返事はない。


代わりに、低い唸り声が聞こえた。


次の瞬間、茂みの奥から何かが飛び出してきた。


「うおっ!?」


それは犬に似ていた。


いや、犬と言うにはあまりにも大きい。

体高は俺の腰ほどもあり、毛並みは灰色。

口元からは鋭い牙が覗き、目は薄く濁った黄色に光っている。


どう見ても、友好的な生き物ではなかった。


「待て待て待て。話し合おう。俺はまだこの世界に来たばかりで、チュートリアルも済んでない」


当然、獣に言葉は通じない。


低く唸ったそいつは、地面を蹴って飛びかかってきた。


「っ!」


俺は横へ転がるように避けた。


直後、さっきまで俺の顔があった場所を牙が通り過ぎる。


危なかった。


普通に死ぬところだった。


「二回目の人生、開始十分で終了はさすがに早すぎるだろ!」


俺は立ち上がり、近くに落ちていた太い枝を拾った。


武器というには心もとない。

でも素手よりはマシだ。


獣がこちらへ向き直る。


よだれが地面に落ちた。


逃げるか。

いや、背中を見せた瞬間に飛びかかられる。


戦うしかない。


けれど、俺はただの現代人だ。

剣道経験もなければ、格闘技経験もない。

喧嘩だって学生時代に数えるほどしかしたことがない。


魔物っぽい獣相手に勝てる理由がなかった。


「……くそ」


その時、不意に頭の奥が熱くなった。


恐怖とは違う。


もっと奥から、何かがせり上がってくるような感覚。


心臓が一度、大きく脈打った。


視界の端に、奇妙な光が走る。


俺は反射的に右手を前に出していた。


「来るな!」


叫んだ瞬間、手のひらから青白い光が弾けた。


次の瞬間、獣の足元で小さな爆発が起きた。


「ぎゃんっ!」


獣が悲鳴を上げて跳ねる。


俺も驚いて固まった。


「……出た」


手のひらを見る。


煙が、うっすらと上がっていた。


「魔法、出た」


思ったより感動はなかった。


というより、驚きが勝っていた。


さっきまで何も起きなかったくせに、命の危機になったら突然出るとは。


「いや、できるなら最初から説明しろよ……!」


文句を言っている暇はなかった。


獣はまだ生きている。


足元を焼かれたせいか動きは鈍っているが、こちらを睨みつける目にはまだ敵意がある。


もう一度だ。


俺は右手を構える。


さっきの感覚を思い出す。


胸の奥。

熱。

流れ。

それを腕へ、手のひらへ。


「来るなって、言ってるだろ」


今度は、さっきよりもはっきりと光が集まった。


手のひらから放たれた青白い弾が、獣の横腹に直撃する。


獣は地面に転がり、しばらく痙攣した後、動かなくなった。


森に静寂が戻る。


俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


そして、ゆっくりと息を吐く。


「……勝った」


初戦闘。

初魔法。

初勝利。


もっと喜んでもいい場面なのかもしれない。


だが、俺の口から出たのは別の言葉だった。


「これ、肉食えるのか?」


自分でもどうかと思った。


けれど、現実問題として腹は減っている。


異世界で生きるというのは、たぶんそういうことだ。


かっこいい決め台詞より、まず飯。

勇者の覚悟より、水と安全な寝床。


俺は倒れた獣に近づこうとした。


その時だった。


「動くな!」


鋭い声が飛んできた。


振り返ると、木々の間から三人の男が現れた。


革鎧を着ている。

腰には剣。

背中には弓。


見た目だけなら、いかにも冒険者という感じだった。


そのうち一人が、俺と倒れた獣を交互に見た。


「お前、一人でグレイウルフを倒したのか?」


グレイウルフ。


どうやら、あの犬もどきの名前らしい。


「たぶん、そのグレイなんとかがこれなら」


俺が答えると、男たちは怪訝そうに目を細めた。


「見ない服だな。どこの村の者だ?」


「えーっと……」


困った。


正直に言えば、異世界から来ました、である。


だが初対面の武装した男たちにそんなことを言ったら、頭のおかしい奴だと思われる可能性が高い。


いや、ここが異世界なら案外通じるのか?


でも転生者が一般的な世界かどうかもわからない。


情報が足りない。


なら、今は余計なことを言わない方がいい。


「森で目が覚めた。記憶が少し曖昧で、近くに人がいないか探してた」


嘘は言っていない。


全部は言っていないだけだ。


男たちは顔を見合わせた。


「記憶喪失か?」


「そういうことにしてもらえると助かる」


「自分で言うな」


男の一人が呆れたように言った。


少しだけ空気が緩む。


どうやら、いきなり斬りかかられることはなさそうだ。


リーダーらしき男が剣から手を離した。


「俺はガレス。近くの町で冒険者をしている」


冒険者。


やっぱりあるのか、その職業。


内心で少し感動しながら、俺は頷いた。


「俺は――」


そこで言葉が詰まった。


名乗ろうとして、ふと考える。


この世界で、日本の名前をそのまま名乗っていいのか。

変に目立たないか。

いや、すでに服装で目立っている気もするが。


「……ソウマだ」


とっさに、下の名前だけを名乗った。


ガレスは俺をじっと見た後、倒れているグレイウルフへ視線を向けた。


「ソウマ。お前、行くあてはあるのか?」


「ない。見事にない」


「即答か」


「むしろあったら教えてほしい」


ガレスは少し笑った。


「なら、町まで来るか? この森で一人は危険だ」


ありがたい申し出だった。


怪しい可能性はある。

だが、このまま森で野宿するよりは何倍もマシだ。


それに、今の俺に必要なのは情報だ。


この世界のこと。

人間のこと。

魔法のこと。

そして、俺自身に何ができるのか。


「助かる。案内してくれ」


俺がそう言うと、ガレスは頷いた。


「その前に、グレイウルフの素材を回収する。魔石もあるかもしれん」


「魔石?」


俺が聞き返すと、ガレスが不思議そうな顔をした。


「魔物の体内にある魔力の結晶だ。知らないのか?」


「……記憶が曖昧だからな」


便利だな、記憶喪失設定。


ガレスたちは手慣れた様子でグレイウルフを処理し始めた。


俺はそれを見ながら、手のひらを握ったり開いたりする。


魔法。

魔物。

冒険者。

魔石。


本当に異世界らしい単語が、次々と現実になっていく。


少し前まで俺は、満員電車と税金とニュースにうんざりしていたはずだった。


それが今では、森の中で魔物を倒し、冒険者と町へ向かおうとしている。


人生、いや、転生というのは本当にわからない。


「ソウマ、歩けるか?」


ガレスに呼ばれ、俺は顔を上げた。


「ああ、大丈夫だ」


俺は煙の上がっていた方角を見る。


どうやら、あれは町ではなく、彼らの野営の煙だったらしい。


それでも、人に会えたのは幸運だった。


俺はガレスたちの後を歩き出す。


異世界初日。


説明役の女神様はいなかった。

チート能力の説明もなかった。

親切なステータス画面も開かなかった。


けれど、魔法は使えた。

魔物も倒した。

そして、冒険者に拾われた。


「……まあ、悪くないスタートか」


小さく呟く。


その瞬間、遠くの森の奥から、獣とも人ともつかない咆哮が響いた。


ガレスたちの表情が一瞬で変わる。


「急ぐぞ。夜になる前に森を抜ける」


どうやらこの世界は、思っていたよりもずっと物騒らしい。


俺は苦笑した。


「お気楽異世界生活、開始早々に終了のお知らせか」


そう言いながらも、不思議と足は前に進んでいた。

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