第1話 腐った国で、俺は死んだ
この国は、いつからこんなに息苦しくなったのだろう。
朝の満員電車に押し込まれながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
目の前には疲れ切ったサラリーマン。
隣にはスマホを睨みつけるように見つめる学生。
車内モニターには、どこかの政治家が頭を下げているニュースが流れている。
汚職。
不正献金。
説明責任。
第三者委員会。
再発防止。
聞き飽きた言葉ばかりだった。
どうせ少し経てば忘れられる。
誰かが責任を取ったような顔をして、結局は何も変わらない。
痛い目を見るのはいつだって、真面目に働いて、真面目に税金を払って、真面目に生きている側だ。
俺は政治家でもなければ、金持ちでもない。
大企業の役員でもなければ、有名人でもない。
ただの一般人だ。
毎月の給料から税金や社会保険料が引かれ、残った金で家賃を払い、光熱費を払い、食費を払い、気づけば自由に使える金なんてほとんど残っていない。
物価は上がる。
税金も上がる。
でも給料だけは、まるで異世界の伝説の剣みたいに、存在するかどうかも怪しい上がり方しかしない。
「……魔法でも使えたらな」
誰にも聞こえないくらいの声で、俺は呟いた。
もちろん、そんなものはない。
魔法も、チート能力も、都合よく現れる女神様もいない。
あるのは、今日も変わらず出勤しなければならない現実だけだ。
駅を出ると、街はいつも通り騒がしかった。
外国語の看板が増えた商店街。
観光客で溢れる歩道。
ルールを守って暮らしている人間もいれば、当然のように迷惑をかける人間もいる。
別に、外から来た人間が全員悪いと言いたいわけじゃない。
そんな単純な話じゃないことくらい、俺にもわかっている。
けれど、受け入れる側も、来る側も、守るべきルールを曖昧にしたまま数だけ増やせば、どこかで歪みが出る。
そしてその歪みを押しつけられるのは、結局、現場で暮らしている普通の人間だ。
何かがおかしい。
そう思っている人間は、きっと俺だけじゃない。
それでも皆、黙っている。
言えば面倒なことになるから。
どうせ変わらないから。
生活があるから。
俺もその一人だった。
「……結局、俺も何もできない側か」
自嘲気味に笑って、俺は信号待ちの列に並んだ。
スマホを開くと、また別のニュースが目に入る。
税金の無駄遣い。
大企業と政治家の癒着。
弱者支援を掲げた団体の不透明な資金運用。
凶悪事件の加害者に対する甘すぎる処分。
被害者よりも加害者の事情ばかりが語られる報道。
見なければいい。
そう思うのに、つい見てしまう。
腹が立つ。
でも、何もできない。
俺が怒ったところで、世界は一ミリも変わらない。
信号が青に変わった。
人の流れに乗って、俺も横断歩道を渡り始める。
その時だった。
甲高いブレーキ音が、耳をつんざいた。
「危ない!」
誰かの叫び声が聞こえた。
振り向く。
赤信号を無視して突っ込んでくるトラック。
運転席の男は、明らかにこちらを見ていなかった。
スマホか。
居眠りか。
薬か。
理由なんて、もうどうでもよかった。
体が動かない。
いや、違う。
一瞬だけ、視界の端に小さな子どもが見えた。
母親の手を離れ、横断歩道の真ん中で立ち尽くしている。
俺は考えるより先に走っていた。
「っ、くそ!」
子どもの体を突き飛ばす。
小さな悲鳴。
誰かの叫び。
次の瞬間、世界が真横に吹き飛んだ。
痛みは、不思議なほど遅れてやってきた。
体が地面に叩きつけられる。
肺から空気が抜ける。
視界がぐちゃぐちゃに揺れる。
遠くで誰かが俺の名前を呼んでいる気がした。
いや、俺の名前を知っている人間なんて、ここにはいないはずだ。
じゃあ、何を呼んでいるんだろう。
救急車。
警察。
大丈夫ですか。
動かないでください。
そんな声が、遠くの水の中みたいにぼやけて聞こえる。
俺は動かなかった。
動けなかった。
空を見上げる。
ビルの隙間から見える空は、やけに青かった。
こんな国でも、空だけは綺麗なのか。
そんな、どうでもいいことを思った。
悔しかった。
別に、死ぬのが怖くないわけじゃない。
やりたいことだって、たぶんあった。
うまい飯も食いたかったし、だらだらゲームもしたかったし、何も考えずに寝る休日だって欲しかった。
でもそれ以上に、悔しかった。
俺は結局、何も変えられなかった。
腐っていると思いながら。
おかしいと思いながら。
何かをしたいと思いながら。
何もできないまま、終わる。
「……ふざけんな」
血の味がした。
声になっていたのかはわからない。
ふざけるな。
こんな終わり方でいいのか。
こんな世界を、見ているだけで終わるのか。
もし。
もしもう一度だけ、やり直せるなら。
もし俺に、何かを変えられる力があったなら。
今度こそ――。
そこで、俺の意識は途切れた。
次に目を覚ました時、俺は森の中にいた。
「……は?」
思わず、間抜けな声が出た。
まず目に入ったのは、見たこともないほど巨大な樹だった。
幹は大人が何人手を繋いでも囲めないほど太く、枝葉は空を覆うように広がっている。
木漏れ日は淡い金色で、空気はやけに澄んでいた。
鳥の声がする。
いや、鳥か?
どこかで聞いたことのない獣の鳴き声もする。
俺はゆっくりと体を起こした。
痛くない。
さっきまで全身がバラバラになったような感覚があったはずなのに、今は何ともない。
服も違う。スーツではなく、粗末な布の服を着ていた。
スマホはない。
財布もない。
鞄もない。
代わりに、腰には小さな革袋がついている。
俺はしばらく黙って周囲を見回した。
そして、深く息を吸った。
「……なるほど」
普通なら混乱する場面だろう。
叫ぶかもしれない。
夢だと思うかもしれない。
事故の後遺症で幻覚を見ていると考えるかもしれない。
でも、俺の頭には真っ先に一つの単語が浮かんでいた。
異世界転生。
「いや、あるのかよ」
思わず自分でツッコんだ。
あれだけ現実には魔法もチートも女神様もいないと思っていたのに、死んだらこれである。
人生、最後の最後までわからない。
いや、死んだ後だから人生ではないのかもしれないが。
俺は立ち上がり、服についた草を払った。
「で、女神様は? チート能力の説明は? ステータスオープンとか言えばいいのか?」
試しに言ってみる。
「ステータスオープン」
何も起こらない。
「……そこは不親切なのかよ」
思わずため息が出た。
普通、こういうのは最初に説明役がいるものじゃないのか。
白い空間に呼ばれて、綺麗な女神様が出てきて、「あなたは死にました」とか言うのではないのか。
少なくとも、俺はそういうものだと思っていた。
だが現実は、森。
説明なし。
初期装備は布の服と謎の革袋。
なろう系にしては、少々スタートが渋すぎる。
「……まあいい」
俺は森の奥を見た。
木々の向こうに、細い煙が上がっているのが見える。
人がいるのかもしれない。
何もわからない。
ここがどこなのかも、俺がどうなったのかも、これから何をすればいいのかも。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、胸の奥に妙な熱があった。
さっきまでの俺は、何もできない人間だった。
おかしいと思いながら、黙って流されるだけの男だった。
でも。
もし本当にここが異世界なら。
もし本当に、俺がもう一度生きることを許されたのなら。
今度は、ただ見ているだけでは終わらない。
俺は歩き出した。
森の奥へ。
煙の上がる方へ。
何もわからない。
ここがどこなのかも、これから何が起こるのかも。
けれど、不思議と足取りは軽かった。
「この時の俺は、まだ知らなかった。まさかあんなことになるなんて……」
小さく呟いてから、俺はすぐに真顔になった。
……いや、誰に向かって言ってるんだ、俺。
自分で自分にツッコミを入れながら、俺は煙の上がる方へ向かった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
ここからソウマの異世界での物語が始まっていきます。
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