鵺
弟子たちによる五色の重注連が完成し、周囲三百歩が外界より切り離された。
懐から六枚の呪符を抜き放ち宙に散らす。
両手の印を結ぶ。
紙面から白い燐光が溢れ出る。
符に封じられし式。
「狐火」「水龍」「鉄甲」「飛燕」「地蔵」「雷鼓」の六体が、確たる重みを持ち顕現した。
弟子たちもまた式を織り、師の背後に陣を敷く。
精鋭たちが織り成す幾重もの術式の網。
その数、六十。――万全の、布陣
*
夜気は、凪いでいた。
老いた目が、闇に漂う気の流れの――その一筋の綻びを、捉える。
目を凝らさねば判らぬ。
糸目ほどの、ほつれであった。
されど、ほつれは見るうちにも口を広げてゆく。
あてどなき気の流れが、いつしか向きを揃え、一点へ、一点へと吸い寄せられてゆく。
流れはやがて勢いを得、濁流となりて虚空の一処へ押し寄せた。
渦を巻きながら凝り、凝りながら固まりて、ついには一個の塊と化す。
塊は、いつしか瘤のごとく膨れ上がり――そして、弾けた。
闇が、裂ける。
裂け目より、猿の頭部が、ぬっと、覗く。
否――猿に似て、猿にあらざるもの。
赤い、双つの瞳。
瞳孔は、人のそれにあらず。
縦に、細く、一線に裂けている蛇のもの。
背を、悪寒が這うた。
血の、濁る心地。骨の髄より冷えてゆく。
そして――声。
裂け目の奥より、細く、長く、尾を引いて一声が滑り出た。
鳥のごとく、人のごとく、しかしそのいずれでもない。
凪いでいたはずの夜気が、その一声に、ことごとく濁った。
裂け目より、太き前脚が突き出る。
虎の脚であった。
爪は人の指ほどに反り返り、その先より、黒き膿が糸を引いて滴る。
膿の落ちし石畳は、じゅう、と音を立てて爛れ、爛れた石より、瘴気が細く立ちのぼる。
先の夜気の濁りが、いまや目に見ゆる毒となりて、地を這いはじめた。
巨虎の脚が、地を踏む。
もう一脚。
さらに一脚――異形は、おのれの重みを闇より引きずり出すようにして、ついに総身を露わにした。
背後にひと筋、太きものがうねっている。
尾――否、尾の長さに伸びた、一匹の蛇であった。
鎌首をもたげ、別の生き物のごとく、それ自身が闇を舐めている。
その身の丈、三丈余り。
異形が、おのが重さのすべてを地に預けたとき――羅城門の跡地が、跳ね上がった。
*
黒雲がにわかに渦を巻き幾筋もの紫電が迸る。
それは、鵺が喉を鳴らすたびに雷霆となりて地に降り注いだ。
――轟雷。
弟子の一人が、悲鳴すら上げず黒焦げとなりて崩れ落ちた。
刹那の、出来事。
それぞれの顔から、人の色が消え失せてゆく。
「――気反の法。魂を泥に落としてはならぬぞっ」
裂帛の気合いを放ち士気を繋ぎ止める。
温存など、できぬ。
両手の指を絡め合わせ、五行の相克を為す『反閇』を、地を割らんばかりに踏み鳴らす。
「――急急如律令。陣頭。鉄甲、玄武の盾、成れ」
鉄壁と武を司る式。
名を鉄甲。
巨大な亀が、鉄の鎧を纏い鵺の正面に立ち塞がる。
鵺が、のそりと動く――。
虎の前脚が、無造作に鉄甲へと振り下ろされた。
山塊が激突したかのような轟音。
鋼の甲羅が火花を散らす。
――堪えた、か。
亀裂の入る音が、聞こえた。
虎の爪がゆっくりと沈み込み、めりめりと音を立てながら甲羅がひしゃげていく。
そして、断末魔の悲鳴。
鉄甲が、朱砂を吐き出しながら紙片となり散る。
――だが、その光景に戦慄する暇すらない。
すかさず結び手を解き、印を水火の離へと結ぶ。
「狐火、水龍、離宮より出でて双牙と化せ」
鉄甲が散った間隙を突き、青白い炎が鵺の視界を奪う。その死角から迫るは、水龍。
ふと、猿の顔が、煩わしげな表情を浮かべたように、見えた。
刹那――
暴風が巻き起こり瓦礫が吹き飛んできた。
咄嗟に顔を庇う。
女の泣き声のような残響が耳朶を打つ。
――何が、起きた。
鵺の周囲には、深い溝が刻まれていた。
その尾、先端の大蛇の牙には朱に染まった紙片が張り付いている。
尾を、振るったのか。
一撫で。
目で追うことすら叶わず、2体の式が消え去った。
何も、感じてはならぬ。
臆してもならぬ。
進め。
「飛燕、天網を敷け。雷鼓――」
猿の口が、ゆっくりと裂け開いた。
その喉の奥では、赤黒い光が脈動している。
――不味い。
式への命令と鵺の咆哮は、同時。
耳を、塞ぐ。
赤子の喉を引き伸ばし、笛に仕立てたかのような妖音が耳を劈く。
聴くものを狂わせる絶叫が、場を圧するように響き渡った。
五色の重注連――赤と白の縄が、弾け飛ぶ。
式たちは踊り狂うように絡み合いながら、地に落ちた。
「がっ……」
視界が霞み、胃の中身が喉元まで迫る。
崩れ落ちるように膝をついた。
左耳の奥で何かが弾け、血が滴り落ちる。
ぽたぽたと。
地面に赤い斑点が広がってゆく。
顔を、上げる。
それだけの動作が苦しい。
辺りを、見渡す。
――地獄絵図。
右翼、左翼の弟子たちが、耳と目から血を流し地に伏していた。
老いた膝が、震える。
死を、悟っていたはずであった。
「……ひっ」
唇から、情ない音が漏れる。
五十余年の戦の中にて、一度も口にせぬ響き。
猿が、再び口を開ける。
また、あれがくるのか。
怖い。怖い。
――「師様っ」
誰、だ。
符を両手に掲げ此方に走って来る者がいた。
名は、思い出せぬ。
いや、知っていた。
不器用だが真面目な若者。たしか――
轟音。
若者が、木の葉のごとく宙を舞う。
くるくると鮮血を散らす様を、ただ呆然と、見つめていた。
己は。
まだ、生きていた。
ああ、そうか。
――地蔵。
最後に残った式が両手を広げ、己を庇い立てていた。
守りのためだけに存在する盾の式。
若き日に手探りで作り上げた最初の式神であった。
巨大な影が、地蔵を覆い隠す。
幼子の如き顔が、ゆっくりと、此方を振り向く。
その目からは朱が溢れ、まるで――すまぬ、とでも言うように。
胴には、深々と爪が突き刺さっていた。
そして、真横へと薙ぎ払われる。
朱に染まった紙片の一部が、顔に、びたりと張り付いた。
――全て、散った。
もはや、何も、なかった。
ふと、胸のあたりがざわつき、懐を弄る。
取り出したのは呪符ですらない。
文箱から出し忘れた、孫娘への手紙。
そうか、出し忘れておった。
――否。
出せなかったのだ。
「……すまぬ」
誰に詫びているのか、己でも分からず。
巨大な死が、地を揺らしながらゆっくりと、眼前に立つ。
巨木の如き前脚を、高く、高く、振り上げてゆく。
暴風が、頬を撫でた。
目を、静かに閉じる。
孫娘の笑った顔が瞼の裏に浮かぶ。
『じいじの描く式神はへたくそだねぇ』
――ああ。
本当に、へたくそであった。




