みんぞくがくしゃ
……。
…………。
………………。
死が、訪れない。
恐る恐る、固く閉じた目蓋を開ける。
眼前には、振り下ろされた筈の虎の前足。
それが、わずか数寸のところで静止していた。
――何が、起きた。
ゆっくりと、目を凝らす。
暗闇の一部が、不自然にせり上がっていた。
人の形をしたものが、ぼうっと浮かびあがる。
墨染の衣を纏った女、のように見える。
その女が、二振りの小太刀を交差させ、虎の前足を、ただ静かに受け止めていた。
そして――
刃を滑らせ、軌道を鮮やかに逸らしてゆく。
ちりちりと火花が散り、剛毛の焦げる異臭が漂った。
一瞬、袖口が夜風に翻る。
腕には、酷くひきつれた火傷の痕。
「……な、っ」
思考が、追いつかぬ。
いかなる陰陽の術式にも、いかなる剣術の型にも属さぬ未知の所作。
更に、女からは霊力の気配が一欠片も無く――
前脚が、再び大地を抉るように振り下ろされた。
だが、既に女はその場に非ず。
斬撃の軌道そのものの上を滑るように動き――信じられぬことに、その脚の上を、羽毛のような軽さで駆け上がってゆく。
そして猿の眼前へと躍り出ると、二振りの小太刀を深々と突き刺した。
黒い血飛沫が鮮やかに散り、猿の咆哮が夜空を揺るがす。
致命傷では、ない。
あれほどの巨体に人の持つ刃では――
だが、女もそれを承知しているかのようであった。
深追いせず、刃を抜いた反動をもって後方へと優雅に舞い、瓦礫の上へと音もなく降り立った。
息一つ、乱れておらぬ。
鵺のひるむ隙を確かめるように、女は小太刀の血糊をひと息に振り払う。
そして、己にではなく、誰かに向けて深く頭を垂れた。
「舞台が整いました。御前様」
誰に、向かって言っておるのか。
朦朧とする意識の中、女が頭を垂れた漆黒の闇へと、ゆっくりと視線を這わせた。
あそこに、誰かいるというのか。
――べ、ん。
張り詰めていた気を、そぐわぬ音が、撫でた。
微かな、しかしやけに耳の奥底に纏わりつく、糸を弾く音。
左の耳は、もはや聞こえぬ。
だが、右耳から入り込むその音色は、戦場の気を冷や水のように澄み渡らせてゆく。
音の出所を探そうと、重い首を横へと巡らせる。
瓦礫の山の斜面――。
いつから、そこに居たのか。
両目を黒布で覆った女――座頭の姿をした黒装束が、琵琶を抱え静かに座り込んでいた。
座頭の女がゆっくりと撥を振り下ろすたび、辺りの気が波紋のように歪む。
「――畏れの帳、下ろしました」
情の欠け落ちた声で呟く。
べん、と再び撥が弦を弾いた。
「外の目も、内なる声も、もはやこの場には届きませぬ。これよりここは、我らが御前様の、『理』の座敷」
己の肌を撫でていた死の圧が、消えゆく。
何を、したのだ。
ただ、琵琶を弾いただけ。
それなのに、雷鳴が止み、大妖の圧が目に見えて消え失せた。
あり、得ぬ。
六十の式神を投じて、なすすべもなく蹂躙されたのだ。それを、琵琶の一音で縛るというのか。
――恐怖が、塗り替わった。
*
泥濘を踏む足音が僅かに響く。
血溜まりを避けることもせず、倒れ伏す弟子たちの合間を縫うように闇の奥から人影が近づく。
急がず、だが、ゆっくりとでもなく。
野山の散策の折に、ふと道端の花を見つけた者のような足取り。
闇から、その輪郭がせり上がる。
若い。男であった。
二十を幾つか過ぎた程度か。
その顔には、恐怖も、昂揚も、緊張も浮かばず。
ただ、冬の湖面のように凪いだ瞳が、身動きの取れぬ鵺を、じっと見据えていた。
夜風が吹き、男の外套が翻る。
――濃紫。
心の臓が、跳ねた。
濃紫の禁色。
陰陽府の頂点「十天」の中に於いて、殊更、特例の権限を持つ者にのみ許されし色。
伝承の中にしか存在せぬと、そう思っていた。
だが、何よりも理解を拒みしは、その手。
呪符が、ない。形代も、印を結ぶ構えすらない。
ただ、一冊の覚帳と一本の筆。
――それだけであった。
そして、女たちと同じく、霊力の気配を一切感じぬ。
底知れぬ「空洞」。人の形をした、虚。
ここに至り、ようやく悟る。
この場に最も似つかわしくなく、最も無防備たるこの男が――女たちの主。
猿の顔が、男を一瞥する。
その瞳は、赤く脈打ち、隠しきれぬ怒気を滲ませていた。
巨体がのそりと動く。
逃げろ、と叫ぼうとした。
だが、その必要などないと、老いた勘が告げる。
男が静かに、口を開いた。
*
鵺に向かって、何事かを話していた。
その声は、片耳が聞こえぬからか、
何を言っておるのかまでは、分からぬ。
抑揚がなく、情もなし。
古き書物を朗読しているかのような淡々とした口ぶりであった。
だが。
男が何事かを話した後、鵺の巨体が突如として石畳へと深く沈み込んだ。
触れもせず、式も編まず、あの大妖の肉体が、不自然に大地へと縫い留められた。
男は、平然と歩みを進める。
今度は、端々が聞き取れた。
「……四肢は……すなわち……方角……」
方角。
方角が、どうしたというのだ。
その言葉が夜気に溶けた後、分厚い虎の足が砂のように崩れ始めた。
猿の目に、困惑と恐怖が浮かぶ。
己の身に何が起きているのか、理解できておらぬ目。
「……理に……手に……器を与えて……」
狸の胴体が嫌な音を立て、ひび割れ始めた。
節々の繋ぎ目からは黒き液が溢れ出し、悲鳴を上げ、石畳の上でのた打ち回る。
――尻尾の大蛇が、男の首筋へと迫る。
だが、その迫り来る大蛇の牙を、男は避けるでもなく、筆の尻で、軽く、小突いた。
そして、何事かを呟くと、大蛇はただの砂と化し、音もなく崩れていった。
……。
もはや理解することを止め、ただ魅入られていた。
男が覚帳を開き、何かを記す。
横線を一本、引いたように見えた。
「――ただの勘違い――古い暦の残骸だ」
冷たく、低き声。
情を感じさせぬ。ただ、事実を事実として述べているだけの声。
かつて鵺であったものの顔に、一筋の涙を見た。
透明な雫がこぼれ落ち、その巨体が音もなく灰となって崩れてゆく。
反撃の余地すら無く。
数百年の権能も矜持も、全てが泥濘となり消え去った。
*
動けずに、いた。
あの鵺を、この男は言葉のみで灰に還した。
「……ふはっ、馬鹿げておる……」
ひくついた声が口を衝く。
男は覚帳を閉じ、濃紫の外套の裾に付いた泥を軽く払う。
その仕草があまりにも平坦で、それが何よりも恐ろしかった。
「……そ、なたは……陰陽師、なのか……」
男は、答えぬ。
代わりに小太刀の女が歩み出た。
「御言葉を慎みなさい」
声に、怒気はない。
ただ、凛としながらも透き通りし声。
「陰陽府『十天』が第四位。いずれ、この世の欺瞞を全て解き明かす御方です」
第四位、だと。
上宿老の己ですら、十天の面々とは直接の面識など叶わぬ。ましてや「第四位」など――。
しかし、あのような戦い方など陰陽の術に非ず。
では、何だというのか。
――男がようやく、口を開いた。
振り返らず、背中越しに一言。
「ただの、民俗学者だ。……さて、朝餉の刻限までには戻れそうか」
みん、ぞく、がく、しゃ。
その言葉の意味が、解せなかった。
男は、闇の中へと歩み去ってゆく。
小太刀の女と琵琶の座頭が影のように、ゆらりと付き従う。
やがて、静寂だけが残った。
泥の中に座り込んだまま――長い間、そうしておった。
やがて、弟子たちの呻き声が聞こえ始める。
生きている、助けねば。
ふと、懐から一通の手紙を取り出す。
泥と、弟子たちの血と、己の血で汚れた孫娘への手紙。
もう、読めぬほどに滲んでいた。
「……すまぬ」
二度目の詫び。
汚れた手紙を胸にしまい、震える足で立ち上がる。
弟子たちの元へ一歩、踏み出した。




