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【土御門晴親の苦悩】〜怪体新書録〜  作者: kawa


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3/3

みんぞくがくしゃ

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 死が、訪れない。

 

 恐る恐る、固く閉じた目蓋を開ける。

 

 眼前には、振り下ろされた筈の虎の前足。


 それが、わずか数寸のところで静止していた。

 

 ――何が、起きた。

 

 ゆっくりと、目を凝らす。

 

 暗闇の一部が、不自然にせり上がっていた。


 人の形をしたものが、ぼうっと浮かびあがる。

 

 墨染の衣を纏った女、のように見える。


 その女が、二振りの小太刀を交差させ、虎の前足を、ただ静かに受け止めていた。

 

 そして――

 

 刃を滑らせ、軌道を鮮やかに逸らしてゆく。


 ちりちりと火花が散り、剛毛の焦げる異臭が漂った。


 一瞬、袖口が夜風に(ひるがえ)る。

 

 腕には、酷くひきつれた火傷の痕。

 

 「……な、っ」


 思考が、追いつかぬ。

 

 いかなる陰陽の術式にも、いかなる剣術の型にも属さぬ未知の所作。


 更に、女からは霊力の気配が一欠片も無く――

 

 前脚が、再び大地を抉るように振り下ろされた。


 だが、既に女はその場に非ず。

 

 斬撃の軌道そのものの上を滑るように動き――信じられぬことに、その脚の上を、羽毛のような軽さで駆け上がってゆく。


 そして猿の眼前へと躍り出ると、二振りの小太刀を深々と突き刺した。


 黒い血飛沫が鮮やかに散り、猿の咆哮が夜空を揺るがす。

 

 致命傷では、ない。


 あれほどの巨体に人の持つ刃では――

 

 だが、女もそれを承知しているかのようであった。


 深追いせず、刃を抜いた反動をもって後方へと優雅に舞い、瓦礫の上へと音もなく降り立った。

 

 息一つ、乱れておらぬ。

 

 鵺のひるむ隙を確かめるように、女は小太刀の血糊をひと息に振り払う。


 そして、己にではなく、誰かに向けて深くこうべを垂れた。

 

 「舞台が整いました。御前様」

 

 誰に、向かって言っておるのか。


 朦朧とする意識の中、女が頭を垂れた漆黒の闇へと、ゆっくりと視線を這わせた。

 

 あそこに、誰かいるというのか。

 

 

 ――べ、ん。


 張り詰めていた気を、そぐわぬ音が、撫でた。 


 微かな、しかしやけに耳の奥底に纏わりつく、糸を弾く音。

 

 左の耳は、もはや聞こえぬ。


 だが、右耳から入り込むその音色は、戦場いくさばの気を冷や水のように澄み渡らせてゆく。


 音の出所を探そうと、重い首を横へと巡らせる。

 

 瓦礫の山の斜面――。


 いつから、そこに居たのか。

 

 両目を黒布で覆った女――座頭の姿をした黒装束が、琵琶を抱え静かに座り込んでいた。

 

 座頭の女がゆっくりとばちを振り下ろすたび、辺りの気が波紋のように歪む。

 

 「――(おそ)れの(とばり)、下ろしました」


 情の欠け落ちた声で呟く。

 

 べん、と再び撥が弦を弾いた。

 

 「外の目も、内なる声も、もはやこの場には届きませぬ。これよりここは、我らが御前様の、『ことわり』の座敷」


 己の肌を撫でていた死の圧が、消えゆく。

 

 何を、したのだ。

 

 ただ、琵琶を弾いただけ。


 それなのに、雷鳴が止み、大妖の圧が目に見えて消え失せた。

 

 あり、得ぬ。


 六十の式神を投じて、なすすべもなく蹂躙されたのだ。それを、琵琶の一音で縛るというのか。

 

 ――恐怖が、塗り替わった。

 

 *

 

 泥濘(ぬかるみ)を踏む足音が僅かに響く。

 

 血溜まりを避けることもせず、倒れ伏す弟子たちの合間を縫うように闇の奥から人影が近づく。

 

 急がず、だが、ゆっくりとでもなく。


 野山の散策の折に、ふと道端の花を見つけた者のような足取り。

 

 闇から、その輪郭がせり上がる。

 

 若い。男であった。

 

 二十(はたち)を幾つか過ぎた程度か。


 その顔には、恐怖も、昂揚も、緊張も浮かばず。


 ただ、冬の湖面のように凪いだ瞳が、身動きの取れぬ鵺を、じっと見据えていた。

 

 夜風が吹き、男の外套が翻る。


 ――濃紫(こむらさき)

 

 心の臓が、跳ねた。

 

 濃紫の禁色。


 陰陽府の頂点「十天」の中に於いて、殊更、特例の権限を持つ者にのみ許されし色。


 伝承の中にしか存在せぬと、そう思っていた。

 

 だが、何よりも理解を拒みしは、その手。

 

 呪符が、ない。形代(かたしろ)も、印を結ぶ構えすらない。


 ただ、一冊の覚帳(おぼえちょう)と一本の筆。

 

 ――それだけであった。

 

 そして、女たちと同じく、霊力の気配を一切感じぬ。


 底知れぬ「空洞」。人の形をした、(うろ)

 

 ここに至り、ようやく悟る。


 この場に最も似つかわしくなく、最も無防備たるこの男が――女たちの主。

 

 猿の顔が、男を一瞥する。


 その瞳は、赤く脈打ち、隠しきれぬ怒気を滲ませていた。

 

 巨体がのそりと動く。

 

 逃げろ、と叫ぼうとした。


 だが、その必要などないと、老いた勘が告げる。

 

 男が静かに、口を開いた。

 

 *

 

 鵺に向かって、何事かを話していた。

 

 その声は、片耳が聞こえぬからか、


 何を言っておるのかまでは、分からぬ。

 

 抑揚がなく、情もなし。


 古き書物を朗読しているかのような淡々とした口ぶりであった。

 

 だが。

 

 男が何事かを話した後、鵺の巨体が突如として石畳へと深く沈み込んだ。


 触れもせず、式も編まず、あの大妖の肉体が、不自然に大地へと縫い留められた。

 

 男は、平然と歩みを進める。

 

 今度は、端々が聞き取れた。


 「……四肢は……すなわち……方角……」

 

 方角。


 方角が、どうしたというのだ。

 

 その言葉が夜気に溶けた後、分厚い虎の足が砂のように崩れ始めた。

 

 猿の目に、困惑と恐怖が浮かぶ。


 己の身に何が起きているのか、理解できておらぬ目。

 

 「……理に……手に……器を与えて……」

 

 狸の胴体が嫌な音を立て、ひび割れ始めた。


 節々の繋ぎ目からは黒き液が溢れ出し、悲鳴を上げ、石畳の上でのた打ち回る。

  

 ――尻尾の大蛇が、男の首筋へと迫る。


 だが、その迫り来る大蛇の牙を、男は避けるでもなく、筆の尻で、軽く、小突いた。

 

 そして、何事かを呟くと、大蛇はただの砂と化し、音もなく崩れていった。


 ……。

 

 もはや理解することを止め、ただ魅入られていた。

 

 男が覚帳を開き、何かを記す。


 横線を一本、引いたように見えた。

 

 「――ただの勘違い――古い暦の残骸だ」


 冷たく、低き声。


 情を感じさせぬ。ただ、事実を事実として述べているだけの声。

 

 かつて鵺であったものの顔に、一筋の涙を見た。


 透明な雫がこぼれ落ち、その巨体が音もなく灰となって崩れてゆく。

 

 反撃の余地すら無く。


 数百年の権能も矜持も、全てが泥濘となり消え去った。


 *

 

 動けずに、いた。

 

 あの鵺を、この男は言葉のみで灰に還した。

 

 「……ふはっ、馬鹿げておる……」


 ひくついた声が口を衝く。

 

 男は覚帳を閉じ、濃紫の外套の裾に付いた泥を軽く払う。


 その仕草があまりにも平坦で、それが何よりも恐ろしかった。

 

 「……そ、なたは……陰陽師、なのか……」

 

 男は、答えぬ。


 代わりに小太刀の女が歩み出た。

 

 「御言葉を慎みなさい」


 声に、怒気はない。


 ただ、凛としながらも透き通りし声。

 

 「陰陽府『十天』が第四位。いずれ、この世の欺瞞を全て解き明かす御方です」

 

 第四位、だと。

 

 上宿老の己ですら、十天の面々とは直接の面識など叶わぬ。ましてや「第四位」など――。

 

 しかし、あのような戦い方など陰陽の術に非ず。

 

 では、何だというのか。

 

 ――男がようやく、口を開いた。

 

 振り返らず、背中越しに一言。


 「ただの、民俗学者だ。……さて、朝餉あさげの刻限までには戻れそうか」

 

 みん、ぞく、がく、しゃ。


 その言葉の意味が、解せなかった。

 

 男は、闇の中へと歩み去ってゆく。


 小太刀の女と琵琶の座頭が影のように、ゆらりと付き従う。

 

 やがて、静寂だけが残った。

 

 泥の中に座り込んだまま――長い間、そうしておった。


 やがて、弟子たちの呻き声が聞こえ始める。

 

 生きている、助けねば。

 

 ふと、懐から一通の手紙を取り出す。

 

 泥と、弟子たちの血と、己の血で汚れた孫娘への手紙。

 

 もう、読めぬほどに滲んでいた。

 

 「……すまぬ」

 

 二度目の詫び。

 

 汚れた手紙を胸にしまい、震える足で立ち上がる。


 弟子たちの元へ一歩、踏み出した。

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