黒封書
【怪体新書】本編のプロローグに該当するエピソードを独立させました。
要望があれば、シリーズ化するかも、、、
土御門晴親は、黒漆塗りの文箱を前に、ただ黙然と座していた。
桜が散り終えた四月の晩。
陰陽府より届いたのは、一通の封書。
――黒封書。
それは、陰陽府が「鎮圧しがたく」と判断せし時に発せられる内名の書状であった。
齢七十二。
階位は「上宿老」。
陰陽師二千余名の上に立つ、十人の「宿老」に於いて、さらに三席にのみ許されし位。
弟子は、百十三名。
京洛における霊的防衛の一翼を、五十年にわたり担い続けてきた。
五十余年の修行と研鑽。
数え切れぬ夜を妖魅と対峙し、幾度も死線を潜り抜け、この老骨に残りし全てを注ぎ積み上げた重み。
――だが。
文箱の蓋を開け、書面に目を落とした時、指先からさっと血の気が引く。
鵺。
討伐物の名を示すは、たった一文字。
過去六十余年、この化け物の討伐に挑みし陰陽師は、延べ四百を超えた。
生還した者は、七名。
その事実が、この一文字に、込められていた。
*
『おまえの描いた式神は、じいじのどの式神よりも強かったよ』
二十行ほどの短い手紙の末尾にそう記し、静かに筆を置く。
孫娘に宛てた、他愛もない文言ばかりが並ぶ。
庭の紅梅が今年はよく咲いたこと。
書斎の引き出しに、彼女が幼い頃に描いた絵を、今も大事にしまってあること。
「じいじの絵、へたくそ」と笑ったあの声が、まだ耳の奥底にこびりついていた。
――遺書、とは書かぬ。
討伐を命じられてから出立までの三十日間、ただ淡々と己の死を形作る。
まず、百十三名の弟子の中から、自らが直接手ほどきした高弟のみ二十三名を選抜、加えて――高弟の推薦で若い弟子を一人連れてゆく事とした。
残りの者たちには、後進の育成や未完の神垣の補修など、己らが灰と化した後も派閥が混乱せぬよう引き継ぎを命じておく。
弟子たちは皆、察しておる。
師が二十四名だけを選んだ意味を。
選ばれた者たちは決して泣かず、ただ深く頭を垂れた。
そして今――
孫娘への手紙をしたため終え、胸中から一切の迷いが、消え去った。
*
丑三つの刻。
羅城門の跡地に辿り着きし頃は、星すらも見えぬ深い闇夜のことであった。
平安の世より千年、不可侵を誇りし「陰陽府」が守りの要。
その一つであるこの地が鵺との戦の場。
弟子たちが己を中心に扇形の陣を敷く。
全員が、白装束。
死に装束に非ず、穢れなき身で臨むための正装であると、弟子たちにはそう伝えてある。
無論、誰もその言葉を信じてなどおらぬ。
信じてはおらぬが、師がそう言うのだからと胸を張り決死の面構えで陣に立ち並ぶ。
「――皆のもの、聞け」
枯れた声。
「我らが大敵は鵺。過去六度の討伐において、のべ四百名の同胞が挑み、ついぞ討ち果たすことの叶わなかった大妖である」
風が止む。
誰一人として、声を発さぬ。
「だがな、我らには三つの強みがある。一つ、五色の重注連。二つ、我が六つの式。三つ……」
愛弟子たちの顔を順繰りと見渡す。
震えている者。
唇を噛みしめている者。
静かに目を閉じている者。
「……三つ目はな、お前たちのことよ。お前たちが長い年月をかけて、この老骨に教えてくれた、全てだ」
誰一人として言葉を返す者はなく。
ただ二十四の背筋が、同時に凛と伸びる。
「打ち廻し。……始めよ」




