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モラハラ勇者の「真実の愛」とやらにつき合うのをやめたら、人生が楽しくなりました  作者: 九葉(くずは)


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第5話 辺境の薬師

 辺境駐留軍の補給担当は、私の工房の前で三回深呼吸してから扉を叩いた。

 見ていたわけではない。窓の隙間から、革靴が行ったり来たりするのが見えたのだ。行って、戻って、また行って。三回目に止まって、少し間があって、それから扉を叩く音がした。


「失礼する。辺境駐留第三中隊補給担当、ゲオルク・バイヤーだ」

 扉を開けると、四十前後の男が姿勢良く立っていた。軍服の襟がきっちり閉まっている。靴は磨いてあるが、つま先に泥が跳ねている。村までの道は整備されていないから、どんなに気をつけても泥は避けられない。


「アルトハイム村の薬師、フィーネ・ヴァイスフェルトです」


「ああ。噂は聞いている。——入っていいか」

 工房に入ったゲオルクは、棚に並んだ瓶を順番に見ていった。瓶はまだ五つしかない。竹を切って作った筒が八本。中身はカミツレの傷薬、ヤロウの解熱剤、コケモモの消炎膏。種類は少ないが、どれも一度目の戦場で何百回と作った処方だ。


「この傷薬、村の老人に使ったそうだな」


「はい。膝の痛みに効きました」


「拝見していいか」

 竹筒の蓋を開けて、匂いを嗅ぎ、指先に少し取って確かめていた。慣れた手つきだ。この人は薬の良し悪しが分かる。


「……これは、宮廷薬師の品より効くぞ」


「そんなことは——」


「いや、効く」

 ゲオルクが私を見た。値踏みする目ではなかった。困惑している目だった。


「なぜこんな辺境に。あんたの腕なら王都で——いや、それは聞くべきことじゃないな。すまん」

 言いかけてやめた。軍人らしい切り替え方だった。


「正式な供給契約を結びたい。月十五銀貨。傷薬と解熱剤を定期納入してもらえるか」

 十五銀貨。平民の月収が五銀貨だから、三倍。薬の材料費を引いても十分に暮らせる。


「条件を確認させてください。納入量と頻度と品質基準は」

 ゲオルクが少し驚いた顔をした。十五歳の少女が契約条件を聞き返すとは思わなかったのだろう。ライアスの遠征では補給計画を毎回立てていたのだ。契約書の詰め方くらいは分かる。

 交渉は三十分で終わった。月に傷薬二十本、解熱剤十本。品質は軍の基準品との比較試験で判定。不合格の場合は差し替え。妥当な条件だった。

 ゲオルクが契約書に署名して、控えを渡してくれた。


「初回納入は来月の一日で構わない。——ところで、あの白い毛玉は何だ」

 ポフが棚の上から契約書を覗き込んでいた。


「精霊です。害はありません」


「精霊か。この辺りにまだいるとは聞いていたが、初めて見た」

 ゲオルクは軍帽を被り直して、少し居心地悪そうに付け足した。


「……もう少し早く来ればよかった。あんたの薬があれば、先月の巡回で怪我した兵の治りも違ったろう。済まんな」

 その謝り方が、不器用で、正直だった。



 午後。

 村の広場——と言っても、井戸のそばの空き地——でエミルと子どもたちに薬草の見分け方を教えた。

 子どもは四人。エミルと、隣の家の姉妹と、村の端に住んでいる無口な男の子。四人しかいないのに、全員が別の方向を見ている。


「カミツレはこの白い花。花びらが下を向いているのが新鮮な証拠。上を向き始めたら——エミル、聞いてる?」


「聞いてるよ。花びらが下。うん」

 聞いていない顔で頷いた。手元では蟻を棒でつついている。

 子どもとはこういうものだ。一度目の人生で子どもと接する機会がなかったから新鮮だった。ライアスのパーティにいた大人たちは、少なくとも話を聞いているふりくらいはした。子どもはそういう嘘をつかない。


「じゃあ、自分で一本探してきて。見つけたら見せに来て」

 四人が森の縁に走っていった。エミルだけ振り返って「薬師様、蟻も薬になる?」と聞いた。ならない。たぶん。


 夕方、マルタの家に呼ばれた。

 マルタの孫——エミルの従兄にあたるらしい——が王都から戻っていて、週刊新聞を持ってきていた。

 テーブルの上に広げられた新聞は、端が破れていて、折り目に沿って文字が掠れている。誰かが何度も読んだのだろう。


「フィーネちゃん、字が読めるなら見てごらん。面白いことが書いてあるよ」

 マルタが指差した記事を読んだ。


 ——勇者パーティ、初回遠征で補給不足により撤退。

 死傷者はなし。遠征日程は延期。原因は補給計画の不備とされている。


 小さな記事だった。二面の下のほう、広告の隣に押し込まれている。王都ではたいした話題にもなっていないのだろう。勇者の遠征はまだ始まったばかりで、最初のつまずきは珍しくないと思われているに違いない。


 でも私には分かる。


 補給計画の不備。

 一度目の人生では、私がそれを全部やっていた。何日分の食料が必要か。水はどこで確保するか。薬の在庫はいくつ持つか。替えの武器は。馬の飼葉は。天候が崩れた場合の迂回路は。全部、私が計算していた。ライアスは「そんなのお前の仕事だろ」としか言わなかった。


「……補給計画、私がいつも立ててましたものね」

 声に出したつもりはなかったが、出ていたらしい。マルタが「ん?」と聞き返した。


「いえ。なんでもありません」

 新聞をめくった。別の面に、もう一つ目に留まる記事があった。


 ——北方辺境の復興動向。新任のフェルゼン辺境伯クレーヴァーが領地復興に注力。厳しい人柄として知られるが、領民からの評価は高い。


 厳しい人柄。

 マルタが言っていた「冷血辺境伯」はこの人だ。冷血と書かれてもよさそうなのに、記事では「厳しい」と書かれている。記者が気を使ったのか、それとも会ってみたら「冷血」とは書けなかったのか。


「冷血なのに領民の評価が高いって、変な人ですね」


「あはは。そうだねえ。おじいさんに似たのかもしれないよ、表に出すのが下手なだけで」

 マルタがお茶を注ぎ足してくれた。相変わらず色が薄い。


「あ、そうそう」

 マルタが思い出したように言った。


「その辺境伯様がね、この村にも来るらしいよ。明日か明後日だって」


「え?」


「新しい領主様の巡回だとか。こんな小さな村まで来るなんてねえ。まあ、挨拶くらいはしておかないとね」

 明日か明後日。


 冷血辺境伯が、この村に来る。


 工房に戻ると、精霊たちが棚の上で団子のように固まっていた。ポフが顔を上げて、ぷるると震えた。

 頭の中に、またあの感覚が流れてきた。


 大きな影。近い。もうすぐ。

 四日前に感じたものと同じだ。あの時は「遠くからこちらに向かっている」だった。今は「もうすぐ」。


「……あなたたちが言ってたのは、あの辺境伯のことだったの」

 ポフは丸い目で私を見て、またぷるっと震えた。肯定なのか無関心なのか分からない。


 窓の外では日が傾いていた。

 明日か明後日、この村に冷血辺境伯が来る。冷血で、厳しくて、でも領民の評価は高くて、おじいさんは村に薪を配る人だった。

 正直、面倒だと思った。領主の挨拶とか、改まった場は苦手だ。一度目の人生ではそういう場にほとんど出なかった。ライアスが社交の場にフィーネを連れていくことはなかったから。

 まあ、挨拶くらいならいい。挨拶をして、薬の工房を見せて、それで終わりだ。


 私には明日も朝から調合がある。ゲオルクとの契約を来月までに間に合わせなければならない。カミツレの乾燥具合を確認して、コケモモの二回目の採取に行って、竹筒の蓋の防水処理をして——


 考えることが多い。


 全部、自分のための仕事だ。

 ポフが私の膝に登ってきて、丸くなった。モフとフワは棚の上で眠っている。

 軍に薬を納品する。子どもたちに薬草を教える。精霊に薬草の場所を教わる。壊れた工房を少しずつ直す。


 これが私の二度目の人生だ。

 勇者はいない。「真実の愛」もない。代わりに、竹筒の蓋が合わないのと、棚の釘が足りないのと、壁の穴があと二つ残っているのがある。


 それでいい。


 それがいい。

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