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モラハラ勇者の「真実の愛」とやらにつき合うのをやめたら、人生が楽しくなりました  作者: 九葉(くずは)


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第4話 もふもふと魔法薬

 壁の穴を布で塞ぎ終わった時、すでに三日が経っていた。

 穴は大小合わせて七つ。一番大きいのは拳二つ分で、そこから風が吹き込んで夜は眠れなかった。マルタが古い麻布をくれたので、それを重ねて釘で打ちつけた。釘は錆びていたが、使えないほどではない。工房の隅に前の薬師が残した道具箱があって、その中に入っていた。道具箱自体が朽ちかけていたが、中の金物は生きていた。


 棚は、使えるものだけ残して倒れたものは薪にした。炉に火を入れて湿気を飛ばすと、工房の空気が少しだけ変わった。まだ埃っぽいが、少なくとも人の住む場所の匂いになりつつある。


 問題は材料だった。

 薬草がない。調合に使える瓶もほとんど割れている。残った瓶は三つ。蓋が合うのは一つだけ。


 森に行くしかない。

 マルタに聞くと、村の裏手に広がる森に薬草が自生していると言う。「昔は薬師さんがよく採りに行ってたけど、道がね、もう分からないよ」とのことだった。

 道が分からなくても、行くしかない。



 森に入ったのは、七日目の朝だった。

 春の森は明るい。木漏れ日が地面にまだら模様を作っていて、下草は膝の下くらいまで。歩きにくくはない。鳥が鳴いている。名前は知らない。勇者の遠征で森に入ったのは戦場がらみばかりで、鳥の鳴き声を気にする余裕はなかった。

 薬草の見当はつく。この気候なら、沢の近くにカミツレ、日当たりのいい斜面にヤロウ、湿った岩場にコケモモ。教科書の知識と、一度目の戦場で覚えた実地の感覚。頭の中にある知識は二十五歳分だ。体が十五歳でも、目は誤魔化せない。


 ただ、どこに沢があるのかが分からない。

 方角は太陽で判別できるが、森の中は木が視界を塞ぐ。三十分ほど歩いたところで、自分がどこにいるのか怪しくなってきた。


 その時、足元で何かが動いた。

 草の中から、白い毛玉が顔を出した。


 ——毛玉?

 拳くらいの大きさ。真っ白くてふわふわしている。目がある。丸くて黒い目が二つ、草の隙間からこちらを見上げていた。耳のようなものが二つ、ぴょこんと立っている。


「……何、あなた」

 毛玉がぷるっと震えた。

 もう一匹出てきた。こちらは少し灰色がかっている。三匹目は薄い青。三匹が並んで、私を見上げている。


 精霊だ。

 教科書で読んだ。森に棲む小型の魔力生命体。高い魔力に反応して寄ってくる。戦闘力はないが、森のことをよく知っている——はずだ。実物を見るのは初めてだった。ライアスの遠征で通る森に精霊はいなかった。魔物が多い森には精霊が寄りつかないと聞いたことがある。

 しゃがんで、手を差し出してみた。

 白い毛玉が、おそるおそる近づいてきた。鼻先——があるのかどうか分からないが、前のほう——を私の指に押しつけた。


 温かい。ぬいぐるみの感触に似ているが、中に小さな体温がある。


「……ふわふわだ」

 声に出して言ってしまった。二十五歳の精神を持つ人間の感想としてどうかと思ったが、ふわふわなのだから仕方がない。

 灰色の毛玉が私の手首を登ってきた。青い毛玉が靴の上に乗った。白い毛玉は指の上で丸くなっている。


 三匹がぷるぷる震えた。

 その瞬間、頭の中に映像のようなものが流れた。

 はっきりした言葉ではない。色と、温度と、方角。沢の水の冷たさ。緑の多い斜面。白い花。湿った土の匂い。——南東の方向に、薬草がたくさん生えている場所がある。そういう印象が、ふわっと伝わってきた。


 精霊の意志疎通だ。


「案内してくれるの?」

 白い毛玉がぴょんと跳ねた。肯定、なのだと思う。



 精霊たちに導かれて歩くこと二十分。

 沢沿いの斜面に、カミツレの群生地があった。白い花が一面に咲いている。その奥にヤロウ。岩場にはコケモモ。教科書通りだ。

 一度目の戦場では、こんなに状態のいい薬草を見たことがない。戦地の薬草は踏まれていたり、魔物の瘴気で変色していたりした。ここのは、誰にも触られていない。五十年間、摘む人がいなかったのだ。


 必要な分だけ丁寧に摘んだ。根を傷めないように、茎の途中で切る。一度目の経験が手を動かしてくれる。十五歳の手は小さいが、やり方を知っている手だ。

 精霊たちは私の周りをふわふわと漂いながら、時々肩に乗った。白い毛玉は特に気に入ったらしく、私の首筋に顔を埋めてくる。くすぐったい。



 工房に戻ったのは昼過ぎだった。

 摘んできたカミツレを洗い、乾燥棚——と言っても麻紐を梁に渡しただけのもの——に吊るした。使えるのはまず傷薬だ。カミツレの花弁を潰して、少量の魔力で精製する。手順は一度目の戦場で百回以上やった。


 残った瓶のうち、蓋が合う一つに薬を詰めた。

 薄い黄色の軟膏。匂いを嗅ぐ。カミツレの甘い香りに、魔力の清涼感が混じる。……悪くない。


 出来を確かめたいが、自分に傷がない。


 夕方、エミルが工房を覗きに来た。

 昨日も一昨日も来ていた。中には入らず、入口から首だけ出して見ている。今日は少しだけ中に入った。


「何してるの」


「薬を作ってたの。傷に塗る薬」


「ふうん」

 エミルは興味なさそうに言ったが、目は瓶をじっと見ていた。

 それから、自分の膝を見た。擦り傷がある。三日前からずっとあるやつだ。乾きかけているが、まだ赤い。


「……塗ってみる?」

 エミルが少し迷って、頷いた。

 膝の前にしゃがんで、指先に軟膏を取り、傷の上にそっと塗った。魔力を薄く流す。光る、というほどではない。指先がほんのり温かくなる程度だ。


 五秒ほどで、傷が塞がった。

 赤みが引いて、薄い皮膚が傷口を覆う。痕も残らない。


 エミルが目を丸くした。


「——すごい」

 初めて、この子が年相応の声を出した。


「薬師様すごい! 痛くない! もう痛くない!」

 工房の外に駆け出していった。「おばあちゃん、すごいよ、魔法使いさんの薬すごいよ」という声が遠ざかっていく。

 マルタが来た。それから、近所のおばあちゃんが二人来た。膝の具合が悪いという。塗ってみたら、翌朝には痛みが引いた、と後で聞いた。


「こんなの、王都の薬屋でも見たことないよ」

 マルタがそう言った。

 大げさだと思った。ただの傷薬だ。ライアスの遠征中は、これより難しい薬を毎日作っていた。誰にも感謝されなかったけれど。



 夜。

 工房の床に毛布を敷いて横になった。枕の代わりに鞄を使う。天井の梁を見上げると、蜘蛛の巣が月明かりに光っていた。

 精霊ポフが三匹、私のお腹の上で丸くなっている。——「ポフ」と名づけたのは私で、この子たちにとっては迷惑かもしれないが、毛玉、毛玉と呼ぶのも味気ないので勝手に決めた。白い子がポフ。灰色がモフ。青いのがフワだ。安直な名前だと分かっている。

 ポフの体が、ぷるると小さく震えた。


 頭の中にイメージが流れてくる。

 大きな影。遠くに。ゆっくりと、こちらに向かっている。

 人、だと思う。大きくて、暗くて、でも危険な感じはしない。精霊たちは怯えていない。ただ「来る」ということだけを伝えている。


「……何かしら。誰か来るの?」

 ポフは答えない。

 もう丸くなって眠っている。温かい。小さな寝息が、規則正しく聞こえる。


 まあいい。

 誰が来るにしても、明日の私にはやることがある。壁の穴があと二つ残っている。棚をもう一段作りたい。カミツレの乾燥も確認しなければ。瓶が足りないから、代わりに竹を切って筒を作ろうか。


 考えることが多い。

 でも、それが嫌ではなかった。ライアスの隣にいた頃も考えることは多かったが、全部ライアスのための計画だった。今考えていることは、全部自分のためだ。


 ポフが寝返りを打って、私のお腹から胸の上に転がってきた。軽い。羽毛みたいだ。

 一度目の人生では、こんな穏やかな夜は一度もなかった。


 いつも明日の遠征のことを考えていた。補給は足りるか。作戦に穴はないか。ライアスの機嫌はどうか。——ライアスの機嫌。そんなことに十年間、眠れない夜を費やしていた。


 もういい。

 天井の蜘蛛の巣を見ながら、目を閉じた。ポフの体温がじんわりと胸に伝わってくる。

 窓の外で虫が鳴いている。風が草を揺らす音。遠くの沢の水の音。


 眠れそうだった。

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