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モラハラ勇者の「真実の愛」とやらにつき合うのをやめたら、人生が楽しくなりました  作者: 九葉(くずは)


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第3話 人口27人の村

 垣根の向こうから、箒の音が聞こえた。

 しゃっ、しゃっ、しゃっ。規則正しく、力強い。少なくとも一人は起きている。馬車が去った後の静けさに、その音だけが残っていた。

 道を進むと、家の前で箒を使っていた老女が顔を上げた。


 小柄だが、背筋がまっすぐ伸びている。白髪を後ろでひとつに束ねて、日に焼けた顔に深い皺。エプロンの裾が風で揺れていた。


「あんた、もしかして」


「魔法学院から赴任しました、フィーネ・ヴァイスフェルトです」

 老女の目が丸くなった。

 箒を立てかけて、こちらに歩いてきた。近づくと、薪の煙と干し草の匂いがした。


「村長のマルタだよ。——魔法使いさんが来てくれるなんて、五十年ぶりだ」

 五十年。

 それだけ長く、この村には魔法使いがいなかったのか。


「まあまあ、立ち話もなんだ。うちに来なさい。お茶くらい出すよ」

 断る理由もなかった。というより、村の中のどこに何があるか分からないので、案内してくれる人がいるのはありがたい。マルタは箒を玄関脇に立てかけ——立てかけ方が雑で、すぐ倒れそうだった——私の鞄に手を伸ばしかけて、やめた。


「あんた、自分で持てるかい」


「はい。大丈夫です」


「そうかい。若い子は頼もしいねえ」

 別に頼もしくはない。鞄は軽い。中身は着替えと、辞令と、魔法薬学の教科書が一冊。持ち物がこれだけしかないことのほうが、本当は情けない。



 マルタの家は、村の中心に近い小さな平屋だった。

 土壁に木の扉。屋根の端が少し傾いている。中に入ると、炉端にやかんが乗っていて、お湯の沸く音がしていた。マルタは来客を予想していたわけではないだろう。やかんは毎朝こうして火にかけているのだと思う。この家の日常がそのまま残っている感じがした。

 テーブルの上に、編みかけの靴下が放り出してある。片方だけ。もう片方は椅子の下に落ちていた。


「散らかっててごめんねえ。一人暮らしだとどうもね」

 マルタがお茶を淹れてくれた。葉が少し古いのか、色が薄い。でも温かい。


「あんた、いくつ?」


「十五です」


「十五!」

 マルタが椅子を引いて座った。それから首を振った。


「十五の子が一人で辺境に来るなんてねえ。王都じゃ仕事がなかったのかい」


「いいえ。自分で選びました」


「ふうん」

 マルタはそれ以上聞かなかった。

 代わりに、村のことを話してくれた。人口二十七人。若い人はほとんど王都に出ていった。残っているのは年寄りと、出稼ぎに行けない事情がある人と、子ども。畑は半分以上荒れている。井戸が枯れかけていて、水は裏山の沢から汲んでいる。


「買い物は?」


「月に一度、旅商人が来るよ。それ以外は——まあ、なんとかやってる」

 なんとかやってる、という言い方が、なんとかなっていないことを物語っていた。


 話している間、開け放した窓の向こうに、小さな影が見え隠れしていた。


 目が合った。

 男の子だ。八つくらい。茶色い髪がぼさぼさで、膝に擦り傷がある。こちらを見ているが、入ってこない。


「エミル、いるなら入っておいで」

 マルタが声をかけると、男の子は半分だけ顔を出した。


「……誰?」


「魔法使いさんだよ。この村に来てくれたの」

 エミルはしばらく私を見つめていた。それから、ぼそっと言った。


「魔法、使えるの」


「うん。使えるよ」


「火とか出る?」


「出る。でも今は出さないよ。家の中だから」

 エミルの顔が少しだけ緩んだ。完全な笑顔ではない。警戒と好奇心が半々くらいの顔。


「エミルはあたしの孫でね。両親が王都に出稼ぎに行ってて、あたしが預かってるの」

 マルタがエミルの頭をぽんと叩いた。エミルは嫌がるふりをして、でも離れなかった。

 一度目の人生では、子どもと話す機会がほとんどなかった。ライアスのパーティに子どもはいない。遠征先で子どもを見かけても、立ち止まる余裕がなかった。

 この子は、私が作った薬で膝の傷を治してあげられるだろうか。


 まだ工房もないのに、そんなことを考えた。


 お茶を飲み終わると、マルタが村を案内してくれた。

 家々の間を歩く。すれ違う人はほとんどいない。すれ違っても、遠くから頭を下げるだけで近づいてこなかった。余所者への警戒か、単に人と会う習慣が薄れているのか。


「昔はもうちょっと賑やかだったんだけどねえ」

 マルタが道端の石垣に手を置いた。苔が生えている。


「この村にも昔は立派な領主様がいてね。無口な人だったけど、冬になると自分で薪を割って配ってくれた。村の子どもの名前を全員覚えてたよ。あの人が亡くなってから——もう四十年か。村はじわじわ寂れてね」


「その方のご家族は?」


「お孫さんが今、辺境伯をやってるらしいよ。でも噂じゃ『冷血辺境伯』なんて呼ばれてるって。かわいそうにねえ。おじいさんはあんなに温かい人だったのに」

 冷血辺境伯。

 二話の教官が言っていた「復興に力を入れている」辺境伯と同じ人だろう。冷血なのに復興に力を入れていて、祖父は村人に薪を配る人だった。ちぐはぐだ。

 ただ、今の私には関係のない話だった。辺境伯がどんな人でも、私はこの村で薬を作る。それだけだ。



 村の外れに来た。

 草が腰の高さまで伸びた空き地の奥に、小さな建物があった。

 石造りの壁。木の扉。屋根は半分瓦が落ちていて、壁にはひびが走っている。窓の板が外れかけて、風が吹くたびにぎいぎいと鳴った。


「昔は薬師さんの工房だったんだけどね。もう三十年前にいなくなって、それっきりさ」

 扉を押した。きしんで、途中で引っかかった。肩で押し込むと、埃の匂いが噴き出してきた。


 中は——ひどかった。

 棚は朽ちかけていて、半分は倒れている。床に割れた瓶が散らばっている。蜘蛛の巣が梁の間に幾重にも張っていた。土間の隅に水たまりができていて、壁のひびから雨が入ったのだろう。


 でも。

 棚の配置を見れば分かる。ここは薬を作るために設計された場所だ。調合台があった位置、乾燥棚があった位置、火を使う竈の位置。構造は残っている。壁の石は厚くて、冬でも温度が安定する。天井が高いから、蒸気が抜ける。

 ライアスの遠征中に野営地に作った即席の調合場に比べたら、ずっとましだ。あれは地面に穴を掘って石を並べただけだった。雨が降ると全部流れた。


「……ひどいもんでしょ。片付けるのも大変だと思うけど」

 マルタが後ろから声をかけた。申し訳なさそうな顔をしていた。

 私は崩れた棚に手を置いた。木が湿っていて、指に苔の感触がした。


「ここを、私の場所にします」


「え?」


「この工房を使わせてもらえますか。——マルタおばあちゃん、村長として許可をいただけるなら」

 マルタが目を瞬いた。それから、皺だらけの顔をくしゃっとさせて笑った。


「おばあちゃん、か。あんたにそう呼ばれるのは悪くないね。——許可も何も、あんたが使ってくれるなら、こんなにありがたいことはないよ」

 窓の外から風が入ってきた。草の匂いと、遠くの沢の水の匂い。


 鳥が鳴いている。

 王都の喧噪も、遠征地の怒号も、ライアスの声も、ここにはない。静かで、荒れていて、何もない。何もないから、何でもできる。


 壁のひびを見上げた。直すところは山ほどある。材料もない。道具もない。知り合いはマルタとエミルだけ。お金は母が持たせてくれた銅貨が少しと、来月から入るはずの赴任手当。それだけだ。

 でも、初めて、自分の足で立っている気がした。


 崩れかけた棚に手を置いたまま、工房の中を見回した。埃が舞っている。蜘蛛が一匹、糸を伝って梁に登っていった。


 明日から、片付けを始めよう。

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