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モラハラ勇者の「真実の愛」とやらにつき合うのをやめたら、人生が楽しくなりました  作者: 九葉(くずは)


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第2話 あなたの真実の愛とやらに

「俺と共に世界を救おう」


 その言葉を聞くのは、二度目だった。

 講堂の壇上で、ライアス・オルテガが腕を広げている。金色の髪が窓からの光を受けて輝いていた。絵のような男だ。前にも思ったし、二度目でも思う。見た目だけは本物だ。

 周囲の新入生たちがざわめいている。隣の女の子が頬を赤らめて「すごい……」と呟いた。前の席の男子が拳を握っている。皆、目が輝いている。


 前の人生の私もああだった。

 壇上のライアスと目が合ったような気がして、ドキドキして、あの人のパーティに入ったらどんなに素敵だろうと想像した。英雄の隣で世界を救える。そう思った。

 今は、演説の合間にライアスが袖口を気にしたのが見えた。新品の制服が少し窮屈なのだろう。この人は着心地の悪い服を着ると機嫌が悪くなる。遠征中、雨で靴が濡れただけで一日中不機嫌だった。その不機嫌を浴びるのは、いつも私だった。


 そういうことばかり覚えている。



 入学式が終わった。

 新入生の群れが講堂から溢れ出す。廊下は人でいっぱいで、進路相談室への道が分からない子たちが壁際で地図を広げていた。私は迷わない。一度目に通った道だから。

 角を曲がったところで、声をかけられた。


「なあ、お前」

 振り向かなくても分かる。この声を十年聞いた。


 振り向いた。

 ライアス・オルテガが、壁に寄りかかるようにして立っていた。演説のときの堂々とした姿勢はなくて、少し崩した立ち方。こういう姿を見せるのは、相手を親しい仲間だと思わせるための演技だ。一度目はそれに気づかなかった。


「お前、すごい魔力を感じる。俺のパーティに来い。お前は俺の——」


「お断りします」

 ライアスの口が止まった。

 一度目のこの場面では、「真実の愛の相手だ」まで聞いた。聞いて、顔が真っ赤になって、「は、はい」とか細い声で頷いた。


 今は最後まで聞く気がない。


「あなたの『真実の愛の相手』とやらに、もう付き合う気はありません」

 ライアスが瞬いた。

 怒りではなかった。本当に意味が分からない、という顔をしていた。この人は断られた経験がないのだ。神託で勇者に選ばれ、街を歩けば歓声を浴びる十八歳の少年は、十五歳の女の子に「お断りします」と言われることを想定していない。

 少しだけ、ほんの少しだけ胸が痛んだ。


 一度目の十五歳のフィーネが抱いていた憧れの残滓が、まだどこかにあった。綺麗な横顔。低い声。あの人に必要とされる喜び。全部嘘だったと知っていても、十五歳の体が覚えている心臓の速さは嘘をつく。

 でも、十年分の記憶のほうが重い。


 背を向けた。


「待て。おい、何だよ。俺の話を——」

 振り向かなかった。

 廊下を歩いた。膝が少し笑っていた。格好よく立ち去ったわけではない。逃げるように歩いていた。それでいい。逃げることを十年間しなかった私が、ようやく逃げた。



 進路相談室は、講堂棟の奥にある小さな部屋だった。

 棚に並んだ赴任先のファイルが埃を被っている。人気のない部署のファイルほど埃が厚い。辺境のファイルはいちばん奥にあって、背表紙の文字が日焼けで薄くなっていた。

 教官は白髪交じりの男性で、眼鏡を額に乗せたまま別の眼鏡をかけていた。二つかけていることに気づいていないのかもしれない。


「辺境の……アルトハイム村周辺への赴任を希望します」


「はあ?」

 教官が私の適性試験の書類を見た。見て、もう一度私を見た。


「あなたの成績なら、宮廷魔法使いの推薦枠も狙えるよ。支援魔法系で特A評価だ。こんな成績の子が辺境を希望するなんて——いや、まあ、制度上は問題ないが」


「即日赴任できると聞きました」


「特A以上は即日辞令を出せる。辺境は慢性的に人が足りないから、枠はいつでも空いてる。……本当にいいのかい?」


「はい」

 教官は額の眼鏡をずらして——まだ気づいていない——書類をめくった。


「アルトハイム村か。北のフェルゼン辺境伯領だな。たしか最近、新任の辺境伯が復興に力を入れているって話は聞くが……行ったことはないからね、私は。何があるかは保証できないよ」

 新任の辺境伯。復興に力を入れている。

 一度目の人生では聞かなかった名前だ。当然だ。一度目の私はこの部屋に来なかった。ライアスの隣にいた。


「構いません。私は、私が必要とされる場所に行きます」

 教官は少し黙って、それから辞令の用紙を取り出した。


「……まあ、若い子が志を持つのはいいことだ。気をつけて行きなさい」

 辞令が手渡された。紙の角がわずかに折れていた。この紙を大事にしまうか迷って、結局そのまま鞄に入れた。折り目がつくかもしれない。でも、別にいい。



 翌々日の朝、辺境行きの馬車に乗った。

 御者は無口な中年の男で、出発前に馬の脚を丁寧に確認していた。その手つきがひどく誠実に見えて、少し安心した。馬車の座席は硬くて、揺れるたびに背骨に響く。宮廷行きの馬車はもっと立派だと聞くが、乗ったことはない。一度目も二度目も。


 窓の外を麦畑が流れていく。

 王都が遠ざかる。ライアスがいる場所が遠ざかる。

 一度目の人生では、この道を逆向きに走った。ライアスに誘われて王都に上り、そのまま十年帰らなかった。母に手紙を書く暇もなかった。——いや、暇がなかったのではない。ライアスが「余計な連絡はするな」と言ったのだ。

 母には昨日、手紙を出した。「辺境に赴任します。落ち着いたら連絡します」。もっと長く書きたかったが、何を書けばいいか分からなかった。「実は私は一度死んでいて」とは書けない。


 馬車が丘を越えた。


 眼下に、村が見えた。

 家が——数えるほどしかない。畑は半分以上荒れていて、遠目にも雑草が風に揺れているのが分かる。煙突から煙が上がっている家は、片手で数えられた。


 御者が振り向いた。


「嬢ちゃん、あれがアルトハイム村だよ。……まだ引き返せるが」


「いいえ。ここで降ります」

 馬車が坂道を下り始めた。

 車輪が石を跳ねる音が、静かな空気に響いた。どこかで鳥が鳴いている。風が草の匂いを運んできた。王都にはなかった匂いだ。

 怖いかと聞かれたら、怖い。何もない場所だ。知り合いもいない。魔法薬の材料がどこにあるかも分からない。収入の目処もない。


 でも、馬車の窓から見えるあの荒れた村には、ライアスがいない。


 「お前は俺の真実の愛の相手だ」と言う声がない。

 それだけで、肺の奥まで息が吸えた。

 一度目の十年間、こんなふうに息を吸ったことがあっただろうか。


 馬車が村の入口で止まった。

 鞄を持って降りる。角が折れた辞令が鞄の中でかさりと鳴った。

 土の道。枯れかけた垣根。傾いた道標。

 ここが、私の二度目の人生の出発地だ。

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