第6話 冷血辺境伯は無言で荷物を運ぶ
新しい領主は、名前と「よろしく」だけで挨拶を終わらせた。
「ヴォルフだ。よろしく」
村の広場に集まった二十七人——正確には二十八人になった、私を含めれば——を前にして、それだけ言った。
黒い髪。灰色の目。長身で、肩幅が広い。軍服ではなく革のコートを着ている。襟を立てていて、顎の下まで隠れていた。従者は一人だけで、後ろに控えて荷物を持っている。
沈黙が広場に落ちた。
誰かが咳払いをした。エミルがマルタの後ろに隠れた。隣のおばあちゃんが「怖い人だねえ」と小声で言ったのが聞こえた。
新聞の記事を思い出した。「厳しい人柄だが、領民の評価は高い」。今のところ、厳しい人柄のほうしか見えない。
ただ、マルタが言っていた「おじいさんに似たのかもしれない」も思い出した。無口だったけれど、村を守ってくれた人。
一言で挨拶を終えたヴォルフ・クレーヴァーは、広場を見回して、それから一軒目の家に向かって歩き始めた。
巡回が始まった。
ヴォルフは一軒ずつ家を訪ね、何が必要かを聞いて回っていた。私は工房で調合をしていたので直接は見ていないが、マルタが後で教えてくれた。「あの人、全部の家で同じことを聞くんだよ。『困っていることは何だ』って。それだけ。こっちが答えたら黙って頷いて、次の家に行くの」
愛想はない。だが全軒回ったらしい。
工房にも来た。
午後の半ば。調合台でコケモモの消炎膏を練っていたら、扉が開く音がした。振り向くと、ヴォルフが入口に立っていた。
思ったより大きい。工房の天井は高いほうだが、この人が立つと急に狭く感じた。
「薬師殿か」
「はい。フィーネ・ヴァイスフェルトです」
ヴォルフは名乗り返さなかった。もう広場で名乗ったから不要だと思っているのかもしれない。
工房の中を見回した。壁を塞いだ麻布。朽ちかけた棚。竹筒の列。梁に吊るした薬草。
何も言わなかった。
私の調合台の横を通り——インクの匂いがした、と思った。革と、インクと、少しだけ鉄。——壁のひびの前で足を止めた。ひびに指を当てて、何か確かめるように押した。
それだけだった。
「失礼した」
出ていった。
翌朝。
工房の前に、材木が積んであった。
角材が六本。板が四枚。釘が紙袋に入って一握り。金槌が一つ。
誰が置いたかは聞かなくても分かった。
その日の午後、薬草の大樽を調合台の横に移したかった。
沢で洗ったカミツレを大量に入れた樽で、水を含んでいるから重い。両手で持ち上げようとしたが、足元が滑って踏ん張れない。膝を使って持ち上げかけたところで、横から手が伸びてきた。
大きな手が、樽の縁を掴んだ。
ヴォルフだった。いつの間にいたのか分からない。足音がしなかった。
樽を持ち上げて、調合台の横に置いた。片手。信じられない。私が両手で持ち上がらなかったものを、この人は片手で動かした。
「あ、ありがとう、ございます」
礼を言うのに間が空いた。驚いて言葉が出なかっただけだが、間抜けに聞こえたと思う。
「領主の仕事だ」
それだけ言って、手を払った。掌に樽の木屑がついていたのを払う、自然な動作。でも私の目には、少しだけ早い手の動きに見えた。照れ隠し——と言ったら、たぶん本人は否定する。
背を向けて出ていくヴォルフの後ろ姿を、呆然と見送った。
革のコートの裾が風で揺れた。肩幅が広い。歩幅が大きい。あっという間に工房の前から消えた。
ライアスの隣にいた十年間、誰も私に手を貸してくれなかった。遠征の荷は全部自分で運んだ。ライアスは自分の剣と鎧しか持たなかった。パーティの他のメンバーも、ライアスに「フィーネの世話を焼くな」と言われていたから手を出さなかった。
今、この人は、頼んでもいないのに樽を運んだ。
「領主の仕事だ」と言った。
領主の仕事に、薬師の樽を運ぶ項目があるとは思えない。
夕方、マルタが工房に来た。
干し芋を持ってきてくれたのだが、本題は別にあったらしい。
「ねえフィーネちゃん。あの辺境伯様、変だよ」
「変?」
「巡回で全部の家を回ったでしょう。あたしは台所の窓から見てたんだけどね——あの人、あんたの工房だけ二回来てたよ」
「……二回?」
「うん。最初に来たのが昼前。それで出ていって、他の家を回って、また戻ってきたの。二回目は午後。あんたが調合してた時じゃないかね」
二回目は知っている。壁のひびを確認して出ていった時だ。では一回目は? 私は気づかなかった。調合に集中していて、外の気配に注意を払っていなかったのかもしれない。
「用があったのかな。でも二回目は何も言わずに出ていきましたよ」
「だから変だって言ってるのさ。一回目も、窓から覗いて——あんた、薬を練ってたんだろう?——それだけ見て帰ったんだよ」
マルタはにやにやしていた。
「おじいさんもそうだったねえ。気になることがあると、何度も同じところに来るの。言葉じゃなくて足で確かめる人だったよ」
「マルタおばあちゃん、それはさすがに結びつけすぎでは」
「ははは。まあそうかもね」
干し芋は甘くて、少し硬かった。歯にくっつく。
夜。
ヴォルフの従者が去った後——従者は村には泊まらず、麓の宿場まで戻ったらしい——、領主用に割り当てられた村の集会所に灯りが点いた。
ヴォルフはそこを仮の執務室にしたようだった。窓から灯りが漏れている。
私は工房の片付けをしながら、時々その灯りを見た。遅くまで点いている。何をしているのだろう。巡回の記録を書いているのか。
同じ頃、集会所の中。
ヴォルフは机の上に書類を広げていた。各家の聞き取りの記録ではない。別の書類だ。
フィーネ・ヴァイスフェルトの赴任辞令の写し。経歴欄。
——魔法学院特A適性。支援魔法系。
ヴォルフの指が、経歴欄の文字をなぞった。
三年前から集めている資料の中に、同じ名前があった。勇者パーティの支援魔法使い。遠征の全補給計画を担当。勇者の功績報告書に名前が一切出てこない、影の実務者。
同姓同名の別人かもしれない。年齢が合わない。資料の人物はもっと年上のはずだ。だが、あの薬の腕は十五歳のものではなかった。
「……使えるかもしれん」
灯りの下で、ヴォルフの目が細くなった。
工房に戻ると、ポフが窓辺にいた。
いつもは棚の上で寝ているのに、今夜は窓の方を向いている。集会所の灯りの方向だ。
ぷるっと震えて、イメージが流れてきた。
暗い場所。たくさんの四角いもの。重い空気。——何かがあの建物にある、ということだけが伝わった。
「……集会所の中? 何かあるのかしら」
ポフは答えない。丸い目で私を見上げて、また窓の方を向いた。
重い空気。
辺境伯が、この小さな村の集会所で、深夜まで何をしているのだろう。
気にはなった。
でも、今の私には関係のない話だ。明日は材木で棚を組む。板を切って壁のひびを塞ぐ。それからコケモモの在庫を確認して——
考えることが多い。全部、自分のための仕事だ。
ポフを肩に乗せて、毛布にくるまった。
ただ、眠る前にもう一度、窓の外の灯りを見た。
まだ点いていた。




