第15話 勇者の孤独
「もう限界です」
その言葉を聞くのは、これで何人目だっただろう。
ライアス・オルテガの前に、二人の男が立っていた。剣士のカルロと、弓使いのヨハン。パーティの初期メンバーだ。神託で勇者に選ばれた日から、ずっと一緒に戦ってきた仲間。
——のはずだった。
カルロが離脱届を差し出した。紙が一枚。簡素だ。印も押してある。事前に用意していたのだ。
「あなたの下では、もう戦えません」
「俺の下では、ってどういう意味だ」
「そのままの意味です」
ヨハンが口を開いた。
「ライアス。俺たちはお前のために命を張ってきた。でも——お前は俺たちの名前しか知らない。俺が弓を始めた理由も、カルロの姉が病気だったことも、知らないだろう」
知らなかった。
知る必要があったのか。剣士は剣を振り、弓使いは弓を引く。それが仕事だ。
「お前の『真実の愛の相手』とかいう話も、もう聞き飽きた。フィーネにもマルグリットにも同じことを言ってたよな。次は誰に言うんだ」
ライアスの拳が握りしめられた。
「裏切り者が」
声が大きくなった。広間に響いた。
「俺は勇者だぞ。神託で選ばれた人間だ。お前たちは俺と一緒に世界を救うと誓ったはずだ。それを——」
カルロが首を振った。
「誓ったのは世界を救うことであって、あなたの召使いになることじゃない」
二人は背を向けた。
扉が閉まった。足音が遠ざかっていった。
部屋に一人になった。
机の上に離脱届が二枚。食事が運ばれていたが、手をつけていない。スープの表面に膜が張っている。パンが乾いている。
静かだ。
ここは勇者の私室。広い。天井が高い。窓からは王都の街並みが見える。この部屋に、かつては人がいた。カルロが剣の手入れをしていた。ヨハンが矢羽を整えていた。フィーネが——
フィーネ。
名前が浮かんだ。
ライアスは椅子に座ったまま、天井を見上げた。
フィーネがいた頃は、この部屋に書類が積まれていた。遠征の計画書。補給の一覧表。天候の予測。地図。全部フィーネが作っていた。ライアスはそれに目を通して、署名するだけでよかった。
今は書類がない。誰も作らないからだ。マルグリットに頼んだが、彼女にはできなかった。「わたしは治癒が専門で……」と泣きそうな顔をされた。「お前は俺の真実の愛の相手だろう。だったらできるはずだ」と言ったら、黙ってしまった。
できなかった。
フィーネはできた。何でもできた。補給も、作戦も、薬も、報告書も。
——なぜだ。なぜあの女は、あんなに何でもできたのだ。
記憶の中のフィーネの顔は、いつも疲れている。目の下に隈。細い肩。食事を摂っているところをあまり見ない。いつも何か書いている。
疲れていた。
なぜ。
答えが、出ない。ライアスの頭の中では、フィーネは「何でもできる女」だった。できるのだから、やるのは当然だ。やらせているのではなく、できるからやっている。そう思っていた。
——そう思っていた、のか。
思考がそこで止まった。
もう少し先に答えがある気がした。もう少しだけ考えれば、何かが分かりそうだった。でも、そこに踏み込むと何かが崩れる気がして、ライアスは考えるのをやめた。
代わりに、別のことを考えた。
フィーネを取り戻せばいい。
あの女がいれば全部うまくいく。補給も、作戦も、薬も。マルグリットにはできないことが、フィーネにはできる。
公文書で断られた。辺境伯とかいう男が、法典を持ち出して拒否した。法典。俺は勇者だぞ。神に選ばれた人間だ。法典ごときで——
いや、違う。手紙では駄目なのだ。直接行けばいい。直接会って、話せば分かる。フィーネは昔から、面と向かって頼めば断れない女だった。「お前が必要だ」と言えば、いつも折れた。
そうだ。そうすればいい。
ガルシア侯爵の執務室を訪ねた。
侯爵は書類に囲まれた机の向こうで、ライアスを見た。白い髭を撫でている。
「辺境に行く。フィーネを取り戻す」
「ほう」
「あの女がいないと、遠征が成り立たない。次の遠征で結果を出さなければ、俺の——」
「分かっておりますとも」
ガルシアが頷いた。穏やかな笑みだ。
「勇者の威信を示すためにも、ぜひそうなさい。辺境の小娘ごとき、勇者様が直接お出向きになれば——」
「ああ。そうだ」
ライアスは立ち上がった。
ガルシアの言葉の奥にあるものには気づかなかった。侯爵がライアスを送り出す理由。勇者が失敗すれば、後援者の自分も失脚する。だから勇者を成功させなければならない。そのためなら何でもする。フィーネを連れ戻すことも、その手段の一つに過ぎない。
ライアスにとって、ガルシアは味方だった。自分を支えてくれる大人。いつも「勇者様」と呼んでくれる人。それ以上のことは考えなかった。
翌朝。
馬に乗って、王都を出た。従者を五人連れた。
道を南に取る。辺境まで馬で三日。
走りながら、ライアスは考えていた。フィーネに会ったら何を言おうか。「お前が必要だ」。それでいい。いつもそれで折れた。今回も折れるだろう。あの女は優しいから。優しくて、何でもできて、俺の言うことを聞く女。
馬の蹄が石を蹴った。
空は秋の青さで、雲が高かった。
——フィーネの顔が、また浮かんだ。
疲れた顔。隈のある目。
なぜ、疲れていたのか。
風が髪を攫った。考えは、また途中で止まった。




