表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
モラハラ勇者の「真実の愛」とやらにつき合うのをやめたら、人生が楽しくなりました  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/20

第14話 「お前が決めろ」

「助けて」——その手紙を、私は五日間、返せずにいた。


 引き出しを開けるたびに目に入る。折り畳まれた紙。聖女の紋章。震えた字。


 引き出しを閉める。

 調合に戻る。瓶の蓋を閉める。ラベルを貼る。乾燥棚の薬草を確認する。やることはいくらでもある。それをやっている間は考えなくて済む。


 でも、夜になると考えてしまう。


 マルグリット・セレーナ。

 ライアスの隣にいた頃、彼女が何をしたか。

 ライアスの指示で、私の調合した薬の効果を自分の治癒魔法の成果として報告した。遠征で私が立てた作戦を、マルグリットの助言ということにした。功績報告書から私の名前を消し、代わりに聖女の名を入れた。

 全部ライアスの命令だったと、今は分かる。マルグリットは従っただけだ。断れなかったのだ。ライアスに「お前が必要だ」と言われた人間は、断れなくなる。私がそうだったように。


 でも、共犯者であることに変わりはない。


 五日目の夕方、ヴォルフの執務室を訪ねた。

 雨が降っていた。十月の冷たい雨で、外套の裾が濡れた。集会所の扉を叩くと、中からヴォルフの声がした。


「入れ」

 中は蝋燭の灯りだけだった。机の上に書類が広がっている。ヴォルフは椅子に座って、私を見た。


「相談があります」

 手紙を見せた。

 マルグリットの名前は出さなかった。「聖女」とだけ言った。勇者のパーティにいる聖女が、助けを求めてきたこと。その人は、かつて私を裏切った相手であること。——「裏切った」という言い方は正確ではないかもしれないが、他に適切な言葉が見つからなかった。

 死に戻りのことは話せない。だから「以前、信頼を裏切られた相手です」とだけ伝えた。


 ヴォルフは手紙を見て、私を見て、手紙に戻した。


 長い沈黙だった。

 雨の音が屋根を叩いている。蝋燭の炎が少し揺れた。机の上のインク壺に蓋がされていない。乾きかけている。書き物の途中だったのだろう。


「お前が決めろ」

 ヴォルフが言った。


「助けるか、助けないかは、お前の判断だ」

 窓の外を見た。雨粒が流れる窓ガラスに視線を向けたまま、付け足した。


「ただし、一人では行かせない」

 命令でもなく、提案でもなかった。


 「こうしろ」とも「こうしたほうがいい」とも言わなかった。判断は私に預けて、ただ「一人にはしない」とだけ言った。

 ライアスは常に私の代わりに決めた。「こうしろ」「ああしろ」「俺の言う通りにしろ」。自分で決めることを許されなかった。


 ヴォルフは、逆だ。

 決めるのは私だと言っている。でも、結果がどうなっても隣にいると言っている。


「……ありがとうございます」

 声が少しかすれた。雨に濡れたせいだということにした。

 ヴォルフは窓から視線を戻さなかった。蝋燭の灯りが、横顔の輪郭をなぞっている。雨の音の中で、インク壺の蓋がされていないのがなぜか気になって、手を伸ばして閉めた。


「……乾きますよ、蓋をしないと」


「ああ」

 それだけだった。



 工房に戻って、返信を書いた。

 何を書くか、五日間迷い続けた末に、結局は短くなった。長い手紙を書こうとすると、一度目の怒りが混じる。短くすれば、今の気持ちだけが残る。


 ——すぐには助けられません。

 でも、あなたのことは覚えています。

 もし本当に逃げたいなら——辺境に来てください。


 名前は書かなかった。聖女の紋章で差出人が分かったように、こちらも分かるだろう。辺境の薬師と言えば。


 「辺境に来てください」は、私が一度目の人生で誰かに言ってほしかった言葉だ。「逃げていいよ」と。「ここに来ていいよ」と。誰もそれを言ってくれなかった。ライアスが全ての出口を塞いでいたから。

 マルグリットの出口を、一つだけ開けておく。使うかどうかは彼女が決めることだ。

 封をして、次に旅商人が来た時に託すことにした。リディアが信用できると言った、あの口の軽い商人に。


 手紙を引き出しにしまって、お茶を淹れた。冷えた体に湯気が温かい。

 窓の外は雨が続いている。集会所の灯りが見える。まだ点いている。


 集会所。

 フィーネが去った後、ヴォルフは椅子の背にもたれた。


 雨の音が続いている。

 部下に呼びかけた。従者が扉の外で待機していた。


「近隣の薬草ルートの安全を確認しろ。獣道を含めて全て。——今月中に」


「はい。何かありましたか」


「念のためだ」

 従者が去った。

 一人になった執務室で、ヴォルフは机の引き出しを開けた。


 「勇者制度不正告発計画書」の表紙が見えた。その中に、フィーネの名前が「第一証人候補」として記載されている。

 引き出しを閉めた。


 開けて、もう一度見た。

 フィーネの名前の横に赤い線を引こうとして、ペンを取って——置いた。


「……あの女は、かつての敵にまで手を差し伸べるのか」

 声に出していた。

 手紙の震えた字を思い出した。「助けて」。それを見せられた時のフィーネの目。怒りでもなく、悲しみでもなく、何か——迷い。決断する前の、揺れている目。

 あの目を、利用しようとしている。


 拳を握った。

 告発計画は三年かけて準備してきた。三十八人の兵士が死んだ。勇者制度を変えなければ、同じことが繰り返される。そのために証人が必要だ。フィーネの証言があれば——。


 正しいことをしている。

 正しいことのために、人を利用している。

 それを「正しい」と呼んでいいのか。


 蝋燭の炎が揺れた。

 フィーネがインク壺の蓋を閉めてくれたことを、今さら思い出した。

 乾きますよ、と言った声が、やけに近くに残っている。


 灯りを消した。


 雨は、まだ止まなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ