第14話 「お前が決めろ」
「助けて」——その手紙を、私は五日間、返せずにいた。
引き出しを開けるたびに目に入る。折り畳まれた紙。聖女の紋章。震えた字。
引き出しを閉める。
調合に戻る。瓶の蓋を閉める。ラベルを貼る。乾燥棚の薬草を確認する。やることはいくらでもある。それをやっている間は考えなくて済む。
でも、夜になると考えてしまう。
マルグリット・セレーナ。
ライアスの隣にいた頃、彼女が何をしたか。
ライアスの指示で、私の調合した薬の効果を自分の治癒魔法の成果として報告した。遠征で私が立てた作戦を、マルグリットの助言ということにした。功績報告書から私の名前を消し、代わりに聖女の名を入れた。
全部ライアスの命令だったと、今は分かる。マルグリットは従っただけだ。断れなかったのだ。ライアスに「お前が必要だ」と言われた人間は、断れなくなる。私がそうだったように。
でも、共犯者であることに変わりはない。
五日目の夕方、ヴォルフの執務室を訪ねた。
雨が降っていた。十月の冷たい雨で、外套の裾が濡れた。集会所の扉を叩くと、中からヴォルフの声がした。
「入れ」
中は蝋燭の灯りだけだった。机の上に書類が広がっている。ヴォルフは椅子に座って、私を見た。
「相談があります」
手紙を見せた。
マルグリットの名前は出さなかった。「聖女」とだけ言った。勇者のパーティにいる聖女が、助けを求めてきたこと。その人は、かつて私を裏切った相手であること。——「裏切った」という言い方は正確ではないかもしれないが、他に適切な言葉が見つからなかった。
死に戻りのことは話せない。だから「以前、信頼を裏切られた相手です」とだけ伝えた。
ヴォルフは手紙を見て、私を見て、手紙に戻した。
長い沈黙だった。
雨の音が屋根を叩いている。蝋燭の炎が少し揺れた。机の上のインク壺に蓋がされていない。乾きかけている。書き物の途中だったのだろう。
「お前が決めろ」
ヴォルフが言った。
「助けるか、助けないかは、お前の判断だ」
窓の外を見た。雨粒が流れる窓ガラスに視線を向けたまま、付け足した。
「ただし、一人では行かせない」
命令でもなく、提案でもなかった。
「こうしろ」とも「こうしたほうがいい」とも言わなかった。判断は私に預けて、ただ「一人にはしない」とだけ言った。
ライアスは常に私の代わりに決めた。「こうしろ」「ああしろ」「俺の言う通りにしろ」。自分で決めることを許されなかった。
ヴォルフは、逆だ。
決めるのは私だと言っている。でも、結果がどうなっても隣にいると言っている。
「……ありがとうございます」
声が少しかすれた。雨に濡れたせいだということにした。
ヴォルフは窓から視線を戻さなかった。蝋燭の灯りが、横顔の輪郭をなぞっている。雨の音の中で、インク壺の蓋がされていないのがなぜか気になって、手を伸ばして閉めた。
「……乾きますよ、蓋をしないと」
「ああ」
それだけだった。
工房に戻って、返信を書いた。
何を書くか、五日間迷い続けた末に、結局は短くなった。長い手紙を書こうとすると、一度目の怒りが混じる。短くすれば、今の気持ちだけが残る。
——すぐには助けられません。
でも、あなたのことは覚えています。
もし本当に逃げたいなら——辺境に来てください。
名前は書かなかった。聖女の紋章で差出人が分かったように、こちらも分かるだろう。辺境の薬師と言えば。
「辺境に来てください」は、私が一度目の人生で誰かに言ってほしかった言葉だ。「逃げていいよ」と。「ここに来ていいよ」と。誰もそれを言ってくれなかった。ライアスが全ての出口を塞いでいたから。
マルグリットの出口を、一つだけ開けておく。使うかどうかは彼女が決めることだ。
封をして、次に旅商人が来た時に託すことにした。リディアが信用できると言った、あの口の軽い商人に。
手紙を引き出しにしまって、お茶を淹れた。冷えた体に湯気が温かい。
窓の外は雨が続いている。集会所の灯りが見える。まだ点いている。
集会所。
フィーネが去った後、ヴォルフは椅子の背にもたれた。
雨の音が続いている。
部下に呼びかけた。従者が扉の外で待機していた。
「近隣の薬草ルートの安全を確認しろ。獣道を含めて全て。——今月中に」
「はい。何かありましたか」
「念のためだ」
従者が去った。
一人になった執務室で、ヴォルフは机の引き出しを開けた。
「勇者制度不正告発計画書」の表紙が見えた。その中に、フィーネの名前が「第一証人候補」として記載されている。
引き出しを閉めた。
開けて、もう一度見た。
フィーネの名前の横に赤い線を引こうとして、ペンを取って——置いた。
「……あの女は、かつての敵にまで手を差し伸べるのか」
声に出していた。
手紙の震えた字を思い出した。「助けて」。それを見せられた時のフィーネの目。怒りでもなく、悲しみでもなく、何か——迷い。決断する前の、揺れている目。
あの目を、利用しようとしている。
拳を握った。
告発計画は三年かけて準備してきた。三十八人の兵士が死んだ。勇者制度を変えなければ、同じことが繰り返される。そのために証人が必要だ。フィーネの証言があれば——。
正しいことをしている。
正しいことのために、人を利用している。
それを「正しい」と呼んでいいのか。
蝋燭の炎が揺れた。
フィーネがインク壺の蓋を閉めてくれたことを、今さら思い出した。
乾きますよ、と言った声が、やけに近くに残っている。
灯りを消した。
雨は、まだ止まなかった。




