表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
モラハラ勇者の「真実の愛」とやらにつき合うのをやめたら、人生が楽しくなりました  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/20

第13話 毛布の温もりと遠い戦場

「お前は死ぬまで俺のものだ」


 夢の中のライアスは、いつもそう言う。

 焚き火の前に立っていて、顔だけが暗い。声ははっきり聞こえるのに、表情が見えない。手が伸びてくる。肩を掴もうとしている。逃げなければ。足が動かない。地面に根が張ったように——


 冷たい汗で目が覚めかけた。

 秋の夜は底冷えする。十月に入ってから、工房の床の冷えが毛布一枚では防げなくなってきた。壁の穴は塞いだが、石造りの壁そのものが冷気を通す。

 目を開けようとした。開ききらない。半分だけ。睫毛の隙間から、暗い天井の梁が見える。


 肩に、何かが乗せられた。

 毛布だ。もう一枚。重くて、温かい。自分のものではない。

 人の気配がある。大きな影が、私の枕元にいた。


 手が——。

 顔の横に、手が来た。大きな手。指先が私の髪に触れかけて、止まった。そのまま引いていった。触れなかった。

 影が離れる。足音はほとんどしない。この人はいつも足音を消す。扉が静かに閉まる音だけが聞こえた。


 目を閉じた。

 肩の温もりが広がっていく。さっきまでの冷えが嘘のように、体が緩んでいく。


 手が。

 触れなかった手のことを、考えている。触れかけて、やめた。なぜやめたのか。


 ——考えがまとまる前に、眠りに落ちた。



 朝。

 窓に露がついていた。指で拭くと、外の景色が滲んで見えた。畑に薄い霧が出ている。秋が深まっている。


 肩にかかっている毛布を見た。

 深い緑色の、厚手の毛織物。私が持っているのは薄い灰色の毛布一枚だけだ。これは私のものではない。

 鼻を近づけた。革の匂い。それから、インク。


 知っている匂いだ。

 ヴォルフが近くを通るたびに、かすかに感じる匂い。

 昨夜のことは、夢ではなかったのだ。


 毛布を畳んだ。畳んでから、もう一度広げた。広げて、肩にかけてみた。

 大きい。私の体を二回包める。この人の体格に合わせた毛布なのだろう。


 ——何をやっているのだ。

 慌てて畳み直して、棚の上に置いた。返さなければ。朝の巡回の時に渡せばいい。「ありがとうございました」と。


 それだけでいい。


 ポフが棚の上から毛布に飛び乗って、くるっと一回転してから丸くなった。


「それ、返すんだから。あなたの寝床じゃないの」

 ポフは目を閉じて動かなかった。温かいものに対する精霊の反応は正直だ。


 勇者のパーティにいた頃の同じ時期を思い出した。

 入学から半年。ライアスの三度目の遠征から戻った直後。私は過労で倒れた。意識を失って、目が覚めたら野営地のテントの中だった。毛布はかけられていなかった。地面の上に横たわっていた。ライアスが来て「お前がいないと困る。早く起きろ」と言った。


 それだけだった。

 今の私は健康だ。工房で眠れている。精霊がそばにいる。そして——夜中に、誰かが毛布をかけに来てくれる。

 触れかけた手のことが、まだ頭の隅にある。

 棚に置こう。名前のつかないものは棚に置く。分析は後だ。



 昼過ぎ、マルタが工房に来た。

 顔が険しい。干し芋ではなく、新聞を持っている。


「大変なことが書いてあるよ」

 受け取って広げた。


 ——勇者パーティ、辺境域遠征にて大敗。聖女マルグリット・セレーナが重傷。勇者は「聖女の治癒能力が不十分だった」と釈明。王都では勇者の実力を疑問視する声も。


 記事は一面だった。前の二回は二面や三面の隅だったのに、今回は一面。大敗の規模が違うのだ。


「勇者って本当に強いのかねえ」

 マルタが腕を組んだ。

 強い。剣術と魔力は本物だ。ただし、それだけだ。戦略がない。補給がない。味方への配慮がない。一人で敵を斬ることはできるが、軍を率いることはできない。


 ——マルグリットが重傷。

 責任転嫁されている。「治癒能力が不十分」。マルグリットの治癒魔法は中級だ。それは本当だ。でも、彼女が治癒に回る前提で作戦を組んでいるなら、作戦のほうが間違っている。治癒師に何もかも押し付けて、失敗したら治癒師のせいにする。ライアスが私にやったことと同じだ。

 胸の奥が、冷たくなった。怒りではない。もっと嫌な感情だ。既視感。私が通った道を、別の誰かが通っている。


 夕方。

 工房の扉の下に、手紙が差し込まれていた。

 封蝋がない。封筒もない。折り畳んだ紙が一枚だけ。


 開いた。

 震える字だった。筆圧が弱くて、インクが途中で掠れている。怪我をした手で書いたのかもしれない。


 ——助けて。


 それだけ。

 差出人の名前はなかったが、紙の端に小さく聖女の紋章が押されていた。マルグリットだ。

 旅商人の誰かに託したのだろう。どうやってライアスの監視をくぐり抜けて手紙を出したのか。重傷なのに。


 紙を握りしめた。

 この手紙をどうすればいいのか、分からない。

 マルグリットは、ライアスのパーティにいた頃、私の功績を横取りした人だ。ライアスの指示だったとはいえ、彼女も共犯者だった。


 でも。


 「助けて」と書いた字は震えている。インクが掠れている。この字は演技ではない。

 あの十年間、私は誰にも「助けて」と言えなかった。言える相手がいなかった。ライアスが全ての人間関係を遮断したから。マルグリットも、今、同じ場所にいるのだ。


 手紙を引き出しにしまった。リディアの手紙の隣に。

 返事は——すぐには書けなかった。


 何を書けばいいのか分からない。


 夜。毛布を二枚重ねて横になった。

 ヴォルフの毛布を返しそびれた。朝の巡回でヴォルフを見かけなかったのだ。会えなかったのか、会うのを避けたのか、自分でも分からない。

 緑色の毛布は温かい。革とインクの匂いがする。


 一度目の人生では、冷たい地面の上で目が覚めた。

 二度目の人生では、誰かの毛布にくるまって眠れる。

 引き出しの中のマルグリットの手紙が、暗闇の中で沈黙している。


 助けて。

 あの震える字に、何と答えればいいのか。


 まだ、分からない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ