第13話 毛布の温もりと遠い戦場
「お前は死ぬまで俺のものだ」
夢の中のライアスは、いつもそう言う。
焚き火の前に立っていて、顔だけが暗い。声ははっきり聞こえるのに、表情が見えない。手が伸びてくる。肩を掴もうとしている。逃げなければ。足が動かない。地面に根が張ったように——
冷たい汗で目が覚めかけた。
秋の夜は底冷えする。十月に入ってから、工房の床の冷えが毛布一枚では防げなくなってきた。壁の穴は塞いだが、石造りの壁そのものが冷気を通す。
目を開けようとした。開ききらない。半分だけ。睫毛の隙間から、暗い天井の梁が見える。
肩に、何かが乗せられた。
毛布だ。もう一枚。重くて、温かい。自分のものではない。
人の気配がある。大きな影が、私の枕元にいた。
手が——。
顔の横に、手が来た。大きな手。指先が私の髪に触れかけて、止まった。そのまま引いていった。触れなかった。
影が離れる。足音はほとんどしない。この人はいつも足音を消す。扉が静かに閉まる音だけが聞こえた。
目を閉じた。
肩の温もりが広がっていく。さっきまでの冷えが嘘のように、体が緩んでいく。
手が。
触れなかった手のことを、考えている。触れかけて、やめた。なぜやめたのか。
——考えがまとまる前に、眠りに落ちた。
朝。
窓に露がついていた。指で拭くと、外の景色が滲んで見えた。畑に薄い霧が出ている。秋が深まっている。
肩にかかっている毛布を見た。
深い緑色の、厚手の毛織物。私が持っているのは薄い灰色の毛布一枚だけだ。これは私のものではない。
鼻を近づけた。革の匂い。それから、インク。
知っている匂いだ。
ヴォルフが近くを通るたびに、かすかに感じる匂い。
昨夜のことは、夢ではなかったのだ。
毛布を畳んだ。畳んでから、もう一度広げた。広げて、肩にかけてみた。
大きい。私の体を二回包める。この人の体格に合わせた毛布なのだろう。
——何をやっているのだ。
慌てて畳み直して、棚の上に置いた。返さなければ。朝の巡回の時に渡せばいい。「ありがとうございました」と。
それだけでいい。
ポフが棚の上から毛布に飛び乗って、くるっと一回転してから丸くなった。
「それ、返すんだから。あなたの寝床じゃないの」
ポフは目を閉じて動かなかった。温かいものに対する精霊の反応は正直だ。
勇者のパーティにいた頃の同じ時期を思い出した。
入学から半年。ライアスの三度目の遠征から戻った直後。私は過労で倒れた。意識を失って、目が覚めたら野営地のテントの中だった。毛布はかけられていなかった。地面の上に横たわっていた。ライアスが来て「お前がいないと困る。早く起きろ」と言った。
それだけだった。
今の私は健康だ。工房で眠れている。精霊がそばにいる。そして——夜中に、誰かが毛布をかけに来てくれる。
触れかけた手のことが、まだ頭の隅にある。
棚に置こう。名前のつかないものは棚に置く。分析は後だ。
昼過ぎ、マルタが工房に来た。
顔が険しい。干し芋ではなく、新聞を持っている。
「大変なことが書いてあるよ」
受け取って広げた。
——勇者パーティ、辺境域遠征にて大敗。聖女マルグリット・セレーナが重傷。勇者は「聖女の治癒能力が不十分だった」と釈明。王都では勇者の実力を疑問視する声も。
記事は一面だった。前の二回は二面や三面の隅だったのに、今回は一面。大敗の規模が違うのだ。
「勇者って本当に強いのかねえ」
マルタが腕を組んだ。
強い。剣術と魔力は本物だ。ただし、それだけだ。戦略がない。補給がない。味方への配慮がない。一人で敵を斬ることはできるが、軍を率いることはできない。
——マルグリットが重傷。
責任転嫁されている。「治癒能力が不十分」。マルグリットの治癒魔法は中級だ。それは本当だ。でも、彼女が治癒に回る前提で作戦を組んでいるなら、作戦のほうが間違っている。治癒師に何もかも押し付けて、失敗したら治癒師のせいにする。ライアスが私にやったことと同じだ。
胸の奥が、冷たくなった。怒りではない。もっと嫌な感情だ。既視感。私が通った道を、別の誰かが通っている。
夕方。
工房の扉の下に、手紙が差し込まれていた。
封蝋がない。封筒もない。折り畳んだ紙が一枚だけ。
開いた。
震える字だった。筆圧が弱くて、インクが途中で掠れている。怪我をした手で書いたのかもしれない。
——助けて。
それだけ。
差出人の名前はなかったが、紙の端に小さく聖女の紋章が押されていた。マルグリットだ。
旅商人の誰かに託したのだろう。どうやってライアスの監視をくぐり抜けて手紙を出したのか。重傷なのに。
紙を握りしめた。
この手紙をどうすればいいのか、分からない。
マルグリットは、ライアスのパーティにいた頃、私の功績を横取りした人だ。ライアスの指示だったとはいえ、彼女も共犯者だった。
でも。
「助けて」と書いた字は震えている。インクが掠れている。この字は演技ではない。
あの十年間、私は誰にも「助けて」と言えなかった。言える相手がいなかった。ライアスが全ての人間関係を遮断したから。マルグリットも、今、同じ場所にいるのだ。
手紙を引き出しにしまった。リディアの手紙の隣に。
返事は——すぐには書けなかった。
何を書けばいいのか分からない。
夜。毛布を二枚重ねて横になった。
ヴォルフの毛布を返しそびれた。朝の巡回でヴォルフを見かけなかったのだ。会えなかったのか、会うのを避けたのか、自分でも分からない。
緑色の毛布は温かい。革とインクの匂いがする。
一度目の人生では、冷たい地面の上で目が覚めた。
二度目の人生では、誰かの毛布にくるまって眠れる。
引き出しの中のマルグリットの手紙が、暗闇の中で沈黙している。
助けて。
あの震える字に、何と答えればいいのか。
まだ、分からない。




