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モラハラ勇者の「真実の愛」とやらにつき合うのをやめたら、人生が楽しくなりました  作者: 九葉(くずは)


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第16話 「二度目は自分のために生きろ」

 ヴォルフ様が私を執務室に呼んだのは、これが初めてだった。


 いつもはヴォルフのほうが工房に来る。巡回のついでに立ち寄って、棚の薬草を見て、何も言わずに出ていく。たまに壁のひびを確認する。それだけだ。

 今日は違った。朝の巡回で、工房の前を通り過ぎる時に「夕方、集会所に来い。話がある」とだけ言った。


 話がある。

 何の話だろう。独占供給権の追加条件か。近隣村への供給体制か。それとも——ライアスのこと。

 考えても分からないので、夕方を待った。


 集会所に入ると、蝋燭が二本だけ灯っていた。

 ヴォルフは椅子に座っていなかった。窓際に立っている。外はもう暗い。十月の日は短い。窓ガラスに、蝋燭の灯りとヴォルフの影が映っている。


「座れ」

 椅子を勧められた。ヴォルフは立ったまま。

 机の上に書類は広げられていない。今日は事務の話ではないらしい。


「三年前の話をする」

 ヴォルフが言った。

 窓の外を見たまま。声がいつもより低い。——いや、低さは同じだ。速度が違う。いつもは短く切る言葉を、今日は少し長く繋いでいる。話し慣れていない話をしようとしている声だ。


「俺は三年前まで、王都の近衛騎士団で副団長をやっていた」

 近衛騎士団。王城を守る精鋭部隊。副団長なら、若くして相当な地位だ。


「前任地はフェルゼン領ではなく、南部のグラーツ領だった。辺境の防衛を担当していた」

 知らなかった。ヴォルフがこの地域の出身ではないことは薄々分かっていたが、南部にいたとは。


「勇者ライアスの遠征が始まった年、俺の管轄下の兵士が勇者の作戦に動員された。勇者には軍への指揮要請権がある。俺は反対した。作戦が無謀だった。補給線が長すぎる。退路がない。地形の把握も不十分だった」

 ヴォルフの声が一度止まった。

 窓ガラスに映る影が、拳を握ったのが見えた。


「反対は却下された。ガルシア侯爵が宮廷から圧力をかけた。勇者の作戦に異を唱えるのは不忠だと。——兵を出した。三十八人」

 三十八人。

 具体的な数字だった。「多くの」でも「大勢の」でもない。三十八。一人ずつ数えた数字だ。


「全員死んだ」

 蝋燭の炎が揺れた。風ではない。ヴォルフが息を吐いたのだ。


「作戦は失敗した。勇者は撤退した。勇者の功績報告書には、兵士の死は『想定内の損耗』と記載された。名前は載っていない」

 想定内の損耗。


 人の死を、そう呼ぶのか。


「俺は止められなかった。副団長の権限では、勇者の指揮要請を覆せなかった。制度が——そうなっている」

 ヴォルフが窓から離れた。私のほうを向いた。蝋燭の灯りが顔の半分だけを照らしている。


「辺境伯を志願したのは、この制度を変えるためだ。勇者制度の不正を調査するために、宮廷から離れた。ここに来たのは偶然じゃない」

 言葉を飲み込んだ。

 ここに来たのは偶然じゃない。勇者制度を変えるために。三十八人のために。

 この人は——三年間、ずっとそれを抱えていたのか。


 沈黙が長かった。

 蝋燭の蝋が垂れて、机の上に小さな水溜りを作った。


「お前のことも——少し調べた」

 ヴォルフが言った。声が硬い。


「赴任辞令の経歴。支援魔法系の特A適性。勇者パーティの遠征報告書に、お前と同じ文体の記述がある。——お前が何者かは、ある程度分かっている」

 心臓が跳ねた。

 知っている。この人は、私が元勇者パーティの人間だと——


「だが、聞かない」

 ヴォルフが目を伏せた。


「お前の過去は、お前のものだ。俺が暴く権利はない」

 聞かない、と言った。

 知っているのに、聞かない。踏み込まない。

 ライアスは何でも聞いた。何でも知りたがった。私の交友関係、手紙の内容、休日の過ごし方。全てを把握して、全てを管理した。


 この人は、知っていて、黙っている。


「一つだけ言う」

 ヴォルフの目が、真っ直ぐに私を見た。


「お前は——以前の場所で、十分すぎるほど他人のために生きた。二度目は自分のために生きろ」

 二度目。

 ヴォルフはそれを「二度目の赴任先」という意味で言ったのだと思う。辺境が二度目の場所だから。

 でも、私にはもっと深く刺さった。


 二度目の人生。

 誰にも言えない秘密。私が死んで、戻ってきたこと。一度目の十年を失ったこと。


 「十分すぎるほど他人のために生きた」。

 その通りだ。一度目の私は、ライアスのために生きて、ライアスのために死んだ。誰にも「お前は奪われた」と言ってもらえなかった。「勇者のために尽くすのは名誉だ」と。「選ばれたことを感謝しろ」と。

 この人は——この人だけが——「十分すぎるほど」と言った。


 もう十分だと。


 自分のために生きろと。


 涙が出た。

 止められなかった。止めようとしたが、喉が詰まって、鼻の奥が熱くなって、視界が歪んだ。拳を膝の上に置いて、下を向いた。みっともない。泣くつもりなんかなかったのに。


 ヴォルフは何も言わなかった。

 慰めも、励ましも、説明もしなかった。ただ、そこにいた。

 拳を握りしめている音が聞こえた。——私の拳ではない。ヴォルフの拳だ。立ったまま、拳を握りしめている。何かに耐えるように。


 どれくらい泣いていたか分からない。長い時間ではなかったと思う。ただ、蝋燭の蝋が少し減っていた。

 顔を上げた。目が熱い。鼻が赤いだろう。恥ずかしいが、仕方ない。


「すみません。取り乱しました」


「……謝ることではない」

 ヴォルフの声がかすかに掠れていた。気のせいかもしれない。

 立ち上がって、礼を言った。何と言ったか覚えていない。「ありがとうございます」と言ったと思う。


 扉に向かった。


 振り返らなかった。振り返ったら、もう一度泣いてしまいそうだった。


 ——だから、本棚を見なかった。

 ヴォルフの執務室の本棚に、赴任時にはなかった本が五冊並んでいた。


 『魔法薬学概論』『辺境薬草図鑑』『戦場における調合技術』『精霊と薬効の関係性』『カミツレの医療応用』。

 全て、フィーネの仕事に関わる本だった。



 工房に戻った。

 ポフが棚の上から飛んできて、肩に乗った。温かい。泣いた後の顔に、毛玉の柔らかさが当たる。

 毛布にくるまった。緑色の毛布——返しそびれたまま、もう使っている。


 天井を見上げた。

 三十八人の兵士。想定内の損耗と呼ばれた人たち。ヴォルフが三年間抱えてきた後悔。

 そして、「二度目は自分のために生きろ」。

 一度目の人生で、誰にも言ってもらえなかった言葉を、この人が言った。


 名前のつかない感情が、棚の上でもう収まりきらなくなっている。薬師は分析を後回しにする。でも、後回しにしすぎた瓶はいつか溢れる。


 溢れかけている。

 ポフが私の首筋に顔を埋めた。くすぐったい。少しだけ笑った。泣いた後に笑うと、顔がくしゃくしゃになる。


 まあいい。

 今夜はもう寝よう。明日の朝、顔を洗えば元に戻る。

 ——ヴォルフの拳を握る音が、まだ耳に残っている。

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