第10話 勇者の要請は、国法に優先しない
ヴォルフ・クレーヴァー辺境伯の返書は、法典の条文を三つ引用して勇者の要請を粉砕した。
私がその返書を見せてもらったのは、送付された後だった。
朝、工房で調合をしていたら、ヴォルフが入ってきた。手に一枚の紙を持っている。紙の下部に辺境伯の公印が押してあるのが見えた。赤い蝋の印。重い。
「先に動いた。読め」
渡された紙を読んだ。
——辺境伯法典第四十二条第三項に基づき、フェルゼン辺境伯管轄下の専属職員に対する外部からの人事異動に関わる要請を却下する。
また、法典第十五条(国家非常事態時協力要請権)の適用について、王室会議による非常事態認定がなされていない現状において、同条の発動要件を満たしていないことを付記する。
なお、当該要請に対する回答の写しは王都記録局へ送付済みである。
短い。
短い文面でライアスの要請を切り捨てていた。ついでに、要請書の宛名が「魔法使い」になっていることも気になった。ヴォルフに聞いた。
「要請書には私の肩書が書いてありませんでした。辺境伯専属薬師、という」
「書いていないからこそ却下しやすい。辺境伯の管轄下にある人間への要請だと勇者が認識していなかった証拠だ」
辺境の薬師の肩書を知らない。知ろうともしない。ライアスらしいと思った。
「……これ、もう送ったんですか」
「今朝、早馬で」
「勝手に決めないでください」
口から出た言葉は、思ったより硬かった。
ヴォルフが顔を上げた。私を見ている。灰色の目は相変わらず表情が読みにくい。
「あの男の要請を個人で断っても、引かない。公的な記録の残る拒否でなければ意味がない」
「それは分かります。でも、私に相談もなく——」
「相談している間に、二通目が来る」
言い返せなかった。
以前、ライアスの要請を個人で断ったことがある。二年目だった。「少し休みたい」と言った。ライアスは「分かった」と笑って、翌日には「やっぱりお前がいないと困る。頼む」と来た。その次の日も。その次も。結局、断るのを諦めたのは私のほうだった。
ヴォルフは、あの手の人間の粘り強さを知っているのだ。——なぜ知っているのかは分からないが。
沈黙が落ちた。
ヴォルフがペンを手に取った。指の間でくるくると回している。何か言おうとしているのか、考えをまとめているのか。
「フィーネ」
ペンが止まった。
名前を呼ばれた。
今まで「薬師殿」だったのに、名前だった。
「お前はここの人間だ。お前の薬がなくなると、この辺境は困る。それだけだ」
それだけだ、と言った。
それだけのことを言うのに、名前を呼ぶ必要があったのだろうか。「薬師殿」でよかったのではないか。
——考えるのをやめた。考えると、心臓がうるさい。
「……ありがとうございます。ヴォルフ様」
ヴォルフは頷いて、ペンを机に置いた。指が少し乾いたインクで汚れていた。朝早くからあの返書を書いていたのだろう。インクが乾く前に何度か書き直した痕が、紙の端に残っていた。
一発で書き上げたわけではないのだ。
午後になって、客が来た。
私は工房の奥で薬草の乾燥作業をしていたので、最初は声だけが聞こえた。
集会所のほうから。ヴォルフの声と、知らない男の声。知らない男のほうが声が大きい。怒っている——というより、押し込もうとしている声だ。
「——独占供給とは横暴ではないか、クレーヴァー辺境伯」
ヴォルフの声は聞き取れなかった。低すぎて、壁一枚隔てると音が消える。
しばらくやり取りが続いた。知らない男の声が次第に小さくなっていった。怒りが消えたのではない。萎んだのだ。何かを言われて、言い返せなくなった声の萎み方。
最後にヴォルフの声が聞こえた。はっきりとではないが、断片だけ拾えた。
「——報告」
知らない男が集会所から出てきた。顔が青かった。馬に乗って、振り返りもせずに去っていった。
夕方、マルタに聞いた。
「ああ、あれはベルク領の領主だよ。フィーネちゃんの薬を自分の領でも売りたいって話に来たらしいけど……帰りの顔が真っ青だったねえ。何を言われたのかねえ」
何を言われたのかは分からない。ヴォルフに聞く気にもならなかった。聞いたところで「領主の仕事だ」と返されるだけだろう。
ただ、結果として分かったことがある。翌日、ゲオルクが来て「フィーネ殿の薬はフェルゼン辺境伯領の独占供給品として正式に登録された」と伝えてくれた。
「独占供給……?」
「他の領が薬師殿の薬を買いたい場合は、辺境伯の許可が必要になる。つまり、薬師殿の薬の価値が公的に保護されたということだ」
保護された。
ライアスの隣にいた頃、私の仕事は保護されるどころか存在を認識すらされていなかった。功績報告書に私の名前は一度も載らなかった。今、私の薬には辺境伯の名前で保護がついている。
嬉しいのか戸惑っているのか、自分でも分からなかった。
夕方。
旅商人が月に一度の巡回で村に来た。
塩と布と小麦粉を買った。ついでに、商人が噂話をこぼした。
「ああ、そうそう。王都で聞いたんですがね、勇者様が辺境に自ら出向くって話が出てるらしいですよ。なんでも、パーティに必要な人材がいるとかで」
手が止まった。
小麦粉の袋を抱えたまま、動けなかった。
「——旦那、大丈夫ですかい? 顔色悪いですよ」
「大丈夫です。ありがとう」
大丈夫ではない。
ヴォルフの公文書があっても、あの男は来るのか。法的な拒否を受けて、普通は引き下がる。でもライアスは普通ではない。「俺は勇者だぞ」で全てを押し通してきた人間は、法典の条文三つで止まらない。
工房に戻って、ポケットから朝の返書の控えを出した。
返書の控えを読み返す。辺境伯法典第四十二条第三項。法典第十五条。王室会議の非常事態認定。
法律の言葉は冷たくて固い。でも、これを書いた手のインクは乾く前に書き直されていた。
一発で書いたのではないのだ。何度か迷って、言葉を選んで、あの短い文面にまとめた。
ポフが膝に登ってきた。
「……フィーネ、か」
声に出してみた。
名前を呼ばれたのは、考えてみれば当然のことだ。毎日顔を合わせている相手を「薬師殿」と呼び続けるほうが不自然だ。効率の問題。名前のほうが短いし。呼びやすいし。
効率の問題だ。
ポフが首を傾げた。
「何よ。効率の問題でしょう」
ポフは丸い目で私を見上げて、ぷるっと震えた。何のイメージも送ってこない。ただ、温かかった。
窓の外では日が暮れかけていた。集会所の灯りがまた点いている。
ライアスが来るかもしれない。
でも今は——あの返書が、ポケットの中にある。
法典と、公印と、乾く前に書き直されたインクの痕。
誰かが私のために書いた文章。仕事の報告書ではなく、私を守るための文章。
それを、もう少しだけ持っていたいと思った。




