第2話
――――私は権力者が怖い。
シルヴィ・フォンテーヌは、王子に介抱されていた。
彼女にはある弱点が存在する。
魔力酔いである。
ひどい頭痛がする。
身体も重く、気分は最悪だった。
どうしてこんなことになったのか。
朦朧とした意識の中で、シルヴィの脳裏に幼い頃の記憶が蘇っていた。
「権力者に見つかったら、絶対に逆らっちゃ駄目よ」
幼いシルヴィは、母親の言葉を真剣に聞いていた。
シルヴィは平民の母親に育てられた。
しかも、その暮らしは平民の中でも底辺と呼ばれるようなものだった。
泥水をすする生活。
日々の食事に困ることなど珍しくない。
雨風をしのげる場所を確保できることのほうが少なく、母と二人で岩山の上で野宿をすることもあった。
普通なら、幼い子供が耐えられるような生活ではなかった。
……だが、シルヴィの母親はちょっと変人で、かなりの達人だったのだ。
「屋根が無ければ体を鍛えれば良いじゃない!!」
身体強化魔法。
母親は、その力を限界まで極めた人物だった。
「ちょっとくらい泥が入ってた方が体にいい気がするの!」
「人が誰もいない未開の地の魔物なら食べ放題なのよ!」
「体を強化すれば針の山だって極上の布団になるのよ!」
シルヴィの母は、このような考えの人だった。
だが、彼女にとって、それらはすべて紛れもない事実だったのだ。
彼女たちの身体強化は、少し変わっている。
魔力を身体の外へ放出するのではなく、体内だけで循環させる。
そのため、見た目には大した魔法を使っているようには見えない。
副作用として通常の魔法は使えなくなり、周囲で魔法が使われると魔力酔いもするようになるが、その効果は絶大だった。
身体能力だけではない。
長い修練によって強化された肉体は、過酷な環境にも耐えられる。
普通なら食べたら死ぬようなものも食べられる。
暴風雨に打たれても、よだれをたらしながら眠ることができる。
魔物と遭遇したら、それはディナータイムの合図だった。
また、彼女たちにとってはどうでもいいことだが、身体強化は使い続けると、美貌まで大幅に強化される。
肌は直射日光を浴び続けても透き通るように白い。
しかも、過酷な生活を送るほど、母親は若返っていくのだ。
そして、その才能はシルヴィにも受け継がれていたのだ。
自然界に二人を止められるものはいなかった。
****
「シルヴィ! 大丈夫かい?」
目を開ける。
目の前にいるのは、ルーカス・アルマンド。
この国の第一王子だった。
「……っ」
シルヴィの身体が強張った。
(どうしてこんなことに……)
野生児のような生活をしていた自分が、どうしてこんなところにいるのだろう。
そうシルヴィは頭に浮かべたが、考えるまでもなかった。
母が父の執念に負け、貴族である父と結婚してしまったからだ。
人はそれを愛と呼ぶらしい。
母と父の間には、それこそ物語が何冊もできるほどの紆余曲折がある。
母と結婚した父は、今も生きている。もちろん、シルヴィの実の父親だ。
だが、今それを思い出したところで、何の役にも立たない。
重要なのは、シルヴィが今ここにいて、王子に捕獲されかけているという事実だけだった。
「本当に大丈夫かい? 試験の話は聞こえていた? 大丈夫! 僕がシルヴィを守るから……!」
(守らなくていい。むしろ崖から突き落としてほしい)
そうすれば簡単に逃げられるのに。
シルヴィは本気でそう思っていた。
だが、王子の前でそんなことを口にできるはずもない。
「……ありがとうございます」
儚げな微笑みを浮かべる。
それが、シルヴィにできる精一杯だった。
権力者は、優れた魔法使いを抱え、自身も強大な魔力を持っている者が少なくない。
この王子ですら、生徒たちを本気で動かせれば、魔力酔いが弱点のシルヴィを包囲して捕らえることは容易だ。
そうシルヴィは思っていた。
実際のところは、シルヴィの微笑みに赤面しているこの王子である。
そんなカリスマがあるはずもないのだが、母に言い聞かされてきたシルヴィには、それを見抜くことは難しかった。
(これまでなんとか正体を隠しながら、うまくやってきたのに)
朦朧としていた間に終わった試験の説明については、王子とその側近たちからシルヴィにも伝えられた。
正直なところ、シルヴィには簡単な試験にしか思えなかった。
自由に動くことさえできれば、食料も、水も、寝床もどうにでもなる。
「美味しい魔物がいるといいけど……」
「ん? 何か言ったかい、シルヴィ?」
「い、いえ……!」
しまった。
不用意な呟きを聞かれそうになったシルヴィは、とっさに話題を変えた。
向こうを見ると、生徒たちが何かをしようとしているところだった。
「ああ、あれはね。魔法で水を確保しようという試みだよ。よし! みんな、やってみようか!」
「え? 水は水源を探したほうが簡単に――あ」
言い終わるより早く、王子の指示によって魔法を使える生徒たちが一斉に動き出した。
ある者は土から器を作り出し、ある者は大気中に水を生み出す。
氷を作る者もいれば、いきなり大きな水球を作り出す者もいた。
次々と魔力が周囲に放たれていく。
それは――シルヴィにとって、最悪の状況だった。
身体の内側を流れていた魔力が、ざわめく。
頭の奥が熱くなり、視界が歪んだ。
さっきまでの頭痛とは比べ物にならない。
(これだから権力者っていう奴らは……!!!)
善意なのだ。
王子も、生徒たちも、シルヴィを困らせようとしているわけではない。
むしろ、試験を安全に進めようとしているのだろう。
だからこそ、文句など言えるはずもない。
ただ――シルヴィにとっては、迷惑以外の何ものでもなかった。
頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚。
身体から力が抜けていく。
視界が暗くなっていく。
(だから、権力者は嫌いなのよ……)
そんな恨みがましいことを思いながら、シルヴィは再び意識を失った。
***
シルヴィに、母親は何度も言い聞かせた。
「権力者に見つかったら、絶対に逆らっちゃ駄目よ」
幼いシルヴィは、母親の言葉を何度でも真剣に聞いていた。
「従順なふりをして、相手を安心させる」
「はい、お母さん」
「そして、隙ができたら――」
母親は、いつものように笑った。
「全力で逃げるのよおおおお!!」
それが、シルヴィの骨身に染みるほど叩き込まれた教訓だった。




