知らない力
森で何が起きているのか。
悩める少女は、ついに一線を越えてしまう。
その先に待ち受けるのは、あまりにも残酷な出会い。
彼女はその小さな手で、ひたすらに弓を握る。
翌朝。
街が目を覚ますには、まだ少し早い時間だった。
東の空が薄く白み始め、石畳の道には夜の冷たさが残っている。軒先に吊るされた看板も、閉じた店の扉も、まだ眠りから覚めてはいない。
そんな街の入口に、リュカは1人立って街の外へ続く道をじっと見つめていた。
昨夜から、何度も考えた。
このまま森へ行けば、ギルド長の命令に背くことになる。自分の実力では森の異変を解決するどころか、生きて帰れる保証すらない。
それでも。
何も知らないまま、ただ街の中で待ち続けることがどうしてもできなかった。
リュカは背中の弓に手を添えた。
ヴァルゼンが選んだ、自分の弓。
自分には不相応なほど綺麗な弓だった。
「……よし。」
小さく呟き、足を踏み出そうとしたそのとき。
「どこへ行く気だ。」
背後から、低い声が響いた。
「……っ!?」
リュカの狼耳がぴんと立つ。
振り返ると、そこ居たのはヴァルゼンだった。
彼の片手には、革製の矢筒が握られていた。
「な……なんで……?」
リュカは目を丸くした。
ヴァルゼンは答えず、手に持っていた矢筒を軽く持ち上げた。
「…弓だけで、何をするつもりだ?」
「……あ……。」
そこでようやく、リュカは自分が矢を持っていないことに気づいた。
弓ばかりに気を取られ、肝心の矢を用意していなかったのだ。
リュカの耳が、恥ずかしそうに少しだけ伏せられる。
「……忘れてた。」
「見れば分かる。」
容赦のない返答だった。
ヴァルゼンが矢筒を差し出す。
リュカは両手でそれを受け取った。
「……ありがとう……。」
矢筒の重みが、手の中に伝わる。
その中には何本もの矢が収められていた。どれも丁寧に作られており、羽根の取り付けにも、矢尻の仕上げにも妥協がない。
リュカはそれを見つめたあと、ヴァルゼンの顔を見上げた。
彼は相変わらず、無表情だった。
心配しているのか、怒っているのか。それすら、リュカには分からない。
「あの……この事は……。」
リュカが言い終わる前に、ヴァルゼンが口を開いた。
「…小娘、お前がどこで何をしようと私の知ったことでは無い。だが……」
ヴァルゼンはそこで言葉を切った。
鋭い視線が、リュカの背負った青い弓へと向けられる。
「私の作品を、無駄にはするな。」
それだけだった。
危険だから行くなとも、無茶をするなとも言わない。
ただ、自分の作品を無駄にするな、と。
リュカは矢筒を抱えるように持った。
「……うん。」
ぺこり、と頭を下げるリュカ。
「……ありがとう、ヴァルゼンさん。」
ヴァルゼンは何も答えなかった。
踵を返し、街の中へ戻っていく。
その背中は、最後まで無愛想だった。
リュカはしばらく、その姿を見送っていた。
やがて、矢筒を腰に装着し、再度弓の位置を確かめ深く息を吸った。
冷たい朝の空気が、肺へと流れ込む。
「……行こう。」
リュカは森に向かって歩き出した。
街の入口を越え、まだ朝霧の残る道を進んでいく。
背中にある弓と腰にある矢筒の重みを確かめるように、彼女は一度だけ振り返った。
街は、何も知らないまま朝を迎えようとしていた。
リュカはまた、前を向いて歩みを進めた。
───森に到着した頃には、空は朝焼けで少し赤く染まりだしていた。
木々の隙間から差し込む朝日が、地面に細長い影を落としている。
今日は鳥の声が聞こえる。
風が葉を揺らす。
何も知らなければ、何ら変わらない朝の森だった。
しかし、リュカの足取りは重かった。
ここから先で、何が起きるのか分からない。
森の奥には、捜索隊が目にした惨劇がある。
帰らなかった者たちがいる。
そして、牙狼がいる。
リュカは腰の矢筒に手を添えた。
指先が、わずかに震えていた。
怖くないわけがない。
相手は、自分なんかより遥かに上の存在。
自分は冒険者としての経験すら浅い。戦闘訓練を終えたばかりで、戦闘の技術は無いに等しい。
それでも、足を止めることはできなかった。
何もできていない。
その言葉が、頭から離れなかった。
森で何かが起きていると知りながら、自分には何もできない。
誰かが傷つき、誰かが命を落としたとしても、自分は街の中で待つことしかできない。
そんな自分が、嫌だった。
「……別に、強くなりたいとか……。」
小さく呟く。
「……そういうのじゃ、ないんだけど。」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
ただ、確かめたかった。
自分が知り得なかった事実を。
リュカは弓を背負い直し、森へと足を踏み入れた。
森の奥へ進むにつれ、空気が変わっていった。
鳥の声が減っていく。
風が弱まり、木々のざわめきが遠ざかる。
足元には、踏み荒らされた草が残っていた。ところどころに土が大きく抉れた跡もある。
リュカはしゃがみ込み、地面に目を向けた。
大きな爪痕。
それも、一つや二つではない。
地面を削り、木の根を抉り、太い枝をへし折った痕跡が、森の奥へと続いていた。
リュカの喉が、小さく鳴る。
「……すごい……。」
思わず漏れた声は、すぐに森の静寂へと吸い込まれた。
こんなものを残す魔物と、自分は戦えるのだろうか。
考えたくもなかった。
それでも、歩く。
一歩。
また一歩。
やがて、リュカは足を止めた。
───何かがいる。
そう感じた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
音は聞こえない。
気配もはっきりとは掴めない。
それなのに、誰かに見られているような感覚だけが確かにあった。
「……そこに、いるの。」
リュカは前を見据えたまま、声をかけた。
「……あなたが、やったの?」
返事はない。
木々の隙間を、朝の風が吹き抜ける。
リュカは弓を手に取った。
まだ構えはしない。
ただ瞬時に動けるよう、重心を少し前に移した。
そのときだった。
『……何故ここに来た。』
低い声が、森の奥から響いた。
リュカの耳が立つ。
声の方向へ視線を向けた。
生茂る木々の向こう。
そこに君臨する、巨大な影。
黒い体毛。鋭い牙。大きな四肢。
そして、こちらを見つめる赤い瞳。
───黒牙狼。
リュカが、あの時森で聞いた声の主だった。
……大きい。
想像していたよりも、ずっと。
単に身体が大きいというだけではない。
そこに立っているだけで、周囲の景色が小さく見えた。
木々の間に潜む影ではなく、森そのものを支配する存在のようだった。
牙狼は動かない。
ただ、赤い瞳でリュカを見つめていた。
その目で見られているだけで、身体中から汗が吹き出してくるような感覚を覚えた。
「……あなたが。」
リュカは、乾いた唇を開いた。
「……森で、みんなを?」
言葉が、最後まで続かなかった。
牙狼は答えない。
否定もしない。
ただ、静かに告げた。
『……帰れ。』
その声には、怒りも苛立ちもなかった。
だからこそ、リュカは戸惑った。
もし、自分を襲うつもりならなぜ今すぐ襲わないのか。
なぜ、帰れなどと言うのか。
「……どうして。」
『……お前が来る場所ではない。』
牙狼が、一歩だけ前へ出た。
それだけで、リュカの足が反射的に後ろへ下がる。
身体が、逃げろと叫んでいる。
戦うのは危険だ。
戦ってはいけない。
今すぐに走って逃げろ。
本能が、何度もそう告げていた。
それでも。
「……帰れない。」
震える手で、リュカは弓を握り直した。
指先が冷たい。
手のひらには、ただひたすらに汗が滲んでいた。
「……あなたの目的を、知りたい。」
牙狼の赤い瞳が、わずかに細められる。
『……そうか。』
短い返事だった。
リュカは矢筒に手を伸ばし、一本の矢を抜き、弓に番えた。
呼吸を整える。
足を開き、身体の軸を安定させる。
イヴに教わった構え。
肩の力を抜き、矢先を目標へ向ける。
弦を引く。
指先に力を込める。
リュカの視線が、牙狼の赤い瞳を捉えた。
牙狼が、初めて口を開く。
『……仕方あるまい。』
リュカの矢が、朝の森を切り裂いた。
───だが。
牙狼は、ほんのわずかに首を傾けただけだった。
矢はその脇を通り過ぎ、背後の木へと突き刺さる。
リュカの目が見開かれた。
避けられた。
それも、ほとんど動いたようにすら見えなかった。
狙いが甘かったわけでもないのに。
牙狼は、後ろで突き刺さった矢を一瞥する。
それから、再びリュカへ視線を戻した。
『……その程度か。』
その言葉に、リュカは返事をしなかった。
リュカは、一射目に持てる技術を全て込めたつもりだった。
だが牙狼には全く届かない。
矢を避けるために、大きく動く必要すらなかった。
リュカの指先が震え始める。
それでも、矢を抜く。
次の一本を番える。
今度は、先ほどよりも慎重に狙いを定めた。
ギシッと、弓が音を鳴らす。
牙狼の身体。首元。前脚。
何故か動かない牙狼に狙いをつけるのは、容易だった。
だが、どこを狙えばいいのか分からない。
どこを狙っても届く気がしなかった。
それでも、リュカは矢を放った。
ヒュンッ…という音を立てて二本目の矢が牙狼に向かって飛ぶ。
その瞬間、牙狼は前脚を振り払うように横へ凪いだ。
矢が、地面へと叩き落とされた。
森に乾いた音が響く。
リュカは息を呑んだ。
今度は、弾いた。
爪先で、飛んできた矢を。
まるで、道端の小石を払うかのように。
「……当たらない……。」
かすれた声が漏れた。
牙狼は、ずっとリュカを見つめている。
その目には、嘲りも、怒りもなかった。
ただ、最初と変わらぬ静けさがあった。
それが、何よりも恐ろしかった。
自分は必死だ。
それなのに、相手は何も変わらない。
リュカの攻撃など、まるで意に介していないような。
リュカは三本目の矢を抜こうとした。
その瞬間。
目に土埃が入り、一瞬視界が途切れた。
───牙狼の姿が、消えた。
「……え?」
目の前にいたはずの巨体が、視界から消えている。
……どこへ……?
そう考えた瞬間、横から突風が吹きつけた。
風の方向にリュカが顔を向ける。
間に合わなかった。
黒い巨体がもうすぐ目の前にあった。
牙狼の身体が、リュカの身体へと迫る。
避けようとした。
足を動かそうとした。
弓を持ち上げようとした。
何一つ、間に合わなかった。
形容しがたい程の衝撃。
身体が、横から弾き飛ばされた。
肺の空気が、一瞬で外に押し出される感覚。
視界が一気に回転する。
木々が横倒しになり、空が視界を横切る。
身体が浮いている。
巨大な牙狼の、ただの体当たり。
そう理解した直後、また体に強烈な衝撃が走った。
凄まじい音を立てて、木片がリュカを覆うように弾け飛ぶ。
大木の太い幹に、側面から全身を叩きつけられた。
骨の奥まで響くような鈍い衝撃が身体を貫いていく。
「か゛───っ、ぁ゛……っ!」
声にならない声が漏れる。
口から出た鮮血が飛び散る。
息を吸おうとしても、空気が入ってこない。
口を開いても、喉からは何の音も出なかった。
体中が熱い。
いや、熱いのか痛いのか、それすら分からない。
それに遅れて、身体のあちこちから確かな痛みが押し寄せてくる。
肩。腰。首。頭。腕。背。
身体の全てが別々に悲鳴を上げているようだった。
めり込んでいた身体が、木の幹を滑り落ちる。
リュカはそのまま、地面に倒れ込んだ。
「っ…… は……っ!…ぁ……っ!ケホッ!!」
ようやく空気を吸い込む。
吸い込む度に、ひどく胸が痛んだ。
喉が引きつり、咳が漏れる。
何度も息を吸おうとするのに、うまく呼吸ができない。
目の前が白く霞む。
耳の奥でキーンという甲高い音が鳴っていた。
リュカは手で胸元を押さえた。
痛い。
痛い、痛い、痛い。
身体を動かせば背中に激痛が走る。
息を吸えば胸に激痛が走る。
手を握ろうとしても、指先が震えて力が入らない。
自分がどれほどの衝撃を受けたのか。
考えることすらできなかった。
目の前に、影が落ちる。
リュカは、激痛に耐えながら少しだけ顔を上げた。
牙狼の巨体が、少し離れた場所に立っている。
何事もなかったかのように。
呼吸一つ乱さず。
牙狼の赤い瞳が、リュカを見下ろしていた。
リュカの喉が、ひゅっと鳴る。
逃げなきゃ。
ここにいたら、殺される。
身体から、一気に血の気が引いたのが分かった。
今の一撃だけで、すでに身体が動かなくなりかけている。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ!
逃げなきゃ!!
頭で繰り返される言葉とは裏腹に、足は微塵も動いてはくれなかった。
指先に力が入らない。
膝を立てようとすると、身体が崩れる。
呼吸を整えようとするたび、胸の奥が痛んだ。
「……ま、だ……。」
声が震える。
牙狼は答えない。
ただ、リュカを見つめている。
リュカは、その視線に耐えられなかった。
自分が、あまりにも小さく思えた。
一本目の矢は避けられた。
二本目の矢は弾かれた。
三本目は、撃たせてもくれなかった。
そして、自分はたった一度の体当たりで動けなくなっている。
何の変哲もない、ただの体当たりで。
何もできなかった。
何一つ。
リュカの耳が、力なく伏せられる。
尻尾も地面に落ち、ぴくりとも動かなかった。
牙狼が、ゆっくりと一歩踏み出した。
リュカの身体が、びくりと跳ねた。
牙狼の前脚が、地面を踏む。
それだけの音が、やけに大きく聞こえた。
『……街へ帰れ。』
低い声が、再び響いた。
リュカは震えながら顔を上げる。
目には、絶望に打ちのめされた涙がたまっている。
対照的に、牙狼の赤い瞳は何も変わらず変わらずこちらを見ていた。
『……これ以上は、死ぬぞ。』
脅しではなかった。
怒鳴っているわけでもない。
ただ、事実を告げているような声だった。
リュカの唇が震える。
「……まだ……。」
声が、途切れた。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
まだ、何も分かっていない。
まだ、何もできていない。
まだ、帰るわけにはいかない。
そのどれもが、言葉にならなかった。
牙狼は、もう一歩近づく。
リュカは反射的に、傍に落ちていた弓を抱え込むように引き寄せた。
まるで、それだけが自分に残されたものだと言わんばかりに。
牙狼の視線が、弓へと向けられる。
次いで、リュカの顔へ戻った。
『……そうか。』
それだけ呟いた。
そして、身体を低く沈める。
リュカの瞳が見開かれた。
───来る。
分かった瞬間には、もう遅かった。
牙狼の巨体が、再び動く。
リュカは身体を起こそうと必死にもがく。
だが、その腕は震え、支えることも出来ない。
黒い影が迫る。
振り上げられた、腕。
反射的に、リュカは目を瞑った。
次の瞬間、凄まじい音と爆風でリュカは後ろに吹き飛ばされた。
振り下ろされた牙狼の腕は、先程リュカが倒れていた所のすぐ目の前に突き刺さっていた。
リュカの身体が、地面を転がる。
背中が土を擦り、肩が根にぶつかる。
折れた枝先や石で、身体がズタズタに切り裂かれた。
転がりきった先で、また突っ伏すように倒れ込む。
だが今度は弓を落とすことはなかった。
視界が明滅した。
腕を動かそうとする。
指先が土を掻くだけだった。
足を動かそうとする。
膝が震え、力が抜ける。
……わたし、死ぬのかな。
そんな考えが、頭を過る。
ただただ、怖かった。
先ほどまでの恐怖とは違う。
自分が死ぬかもしれないという恐怖。
このまま何も出来ずに、ここで終わるかもしれないという恐怖。
リュカは、震える息を吐いた。
「……いや……。」
かすかな声が漏れる。
「……まだ……。」
それでも、立ち上がろうとした。
片手を地面につき、身体を起こそうと足掻く。
腕が震える。
視界が揺れる。
激痛と吐き気に耐え、何とか身体を持ち上げた。
震える手で、なんとか弓を握りしめる。
目には光がなく、うつろに景色を眺めているだけ。
頭や口からは血が滴り、全身は傷だらけだった。
牙狼が、こちらを見ている。
その赤い瞳を見た瞬間、リュカの胸の奥で、何かが軋んだ。
恐怖。
悔しさ。
無力感。
そして、どうしようもないほどの拒絶。
もう、何もできない。
そんなことは、分かっている。
それでも。
ここで、何もせずに終わるのだけは嫌だ。
リュカの足先が、地面を強く掴む。
息も絶え絶えになりながら、震える腕にもう一度だけ力を込めた。
その瞬間だった。
───リュカの中で、何かが脈打った。
心臓とは違う。
もっと深い場所。
身体の奥底で、ずっと眠っていた何かが微かに反応したような。
リュカは息を止めた。
痛みのせいで、感覚がおかしくなっているのか。
───違う。
身体の内側を、何かが流れている。
血液とは違う。
熱とも違う。
目に見えないはずの何かが、胸の奥から全身へと流れ込んでくる。
ただ、溢れてくる。
押さえ込もうとしても、止まらない。
身体の奥底から、際限なく滲み出してくる。
「……な、に……?」
リュカは、自分の手を見つめた。
指先が、微かに震えている。
その周囲の空気が、歪んで見えた。
淡い赤黒い光が、皮膚のすぐ近くを流れている。
煙のように立ち昇るのではない。
風に吹かれて揺れるのでもない。
まるで見えない液体が皮膚の下を流れ、その一部が溢れ出しているかのようだった。
リュカが息を吸う胸の奥で、何かが再び脈打った。
瞬間。
右目の視界が、わずかに変わった。
牙狼の輪郭が、はっきりと見える。
足元の土。
毛並みの流れ。
筋肉の動き。
その一つひとつが、妙に鮮明だった。
同時に、リュカ自身の身体にも変化が起きていた。
右目だけが、琥珀色からゆっくりと紅く染まっていく。
瞳孔が細くなる。
世界の色が変わったわけではない。
今まで見えていなかったものが、見えるようになったような感覚。
リュカは、虚ろな目で牙狼を見据えた。
耳の毛が、根元から逆立つ。
尻尾が膨らみ、毛先まで鋭く広がっていく。
縋るように、弓を握りしめるリュカ。
その時、口元に奇妙な違和感が走った。
犬歯が、鋭く、長く。まるでそれは。
人の歯とは異なる、獣の牙に近い形へと変わりかけている。
「……っ」
リュカは思わず口元に手をやった。
ただ、ひたすらに恐怖した。
自分の身体なのに、自分のものではないような感覚。
それなのに、身体の奥から溢れ出すそれは止まらなかった。
皮膚の表面を流れ、全身から溢れ出したそれは煙のようにリュカの周囲を揺らめいている。
身体の変化に呼応するかの如く、目の前の牙狼を見ても恐怖だけに支配される事が無くなっていた。
怖い。
痛い。
逃げたい。
自分の中で響くその声の奥に、また別の声が聞こえる。
怯むな。
逸らすな。
戦え。
誰の声なのかも分からない。
自分の声なのかすらも分からない。
ただその声が、今のリュカを立ち向かわせるための原動力になっているのは確かだった。
牙狼が、動きを止めた。
それまで微動だにしなかった赤い瞳が、リュカを捉える。
視線が、紅く染まった片目へと向けられる。
次いで、逆立った耳へ。
膨らんだ尻尾へ。
そして、身体から溢れ出す何かへ。
牙狼は何も言わず、ほんのわずかに目を細めた。
その表情が少し歪んだことに、リュカは気づかない。
今は、自分の身体を保つだけで精いっぱいだった。
力が湧いてくる。
けれど、それ以上に、身体が壊れていくような感覚が強かった。
リュカは、ゆっくりと顔を上げた。
牙狼は傷一つ負っていない。
方や自分は既に瀕死と言える状態。
肩で息をしながら、立ち上がっているのがやっと。
───けれど、まだ終わっていない。
リュカは、震える手を腰へ伸ばした。
矢筒に触れる。
拙い動きで、一本の矢を引き抜いた。
痛みが、右腕を駆ける。
矢尻が、朝の光を受けて鈍く光る。
リュカは、ゆっくりとその矢を弓に番えた。
痛みに抗うように、そっと。
そのまま、紅く染まった片目で相手を見据えた。
今までとは、違う。
牙狼の動きが、はっきりと鮮明に見える気がした。
足の位置。
重心。
肩の動き。
次に動くなら、どちらへ。
考えるよりも先に、身体が反応しようとしていた。
リュカは、弦を引いた。
不思議な事に、さっきまで感じていた激痛は何処かに消えているように感じた。
少しずつ。
指に、腕に力を込める。
痛みがない。
力がちゃんと入る。
弓が音を立てて微かにしなる。
弦が張り詰める。
矢先が、牙狼を捉える。
牙狼が、僅かに身体を沈ませるのが見えた。
それに合わせて、身体を沈ませるリュカ。
次の瞬間。
リュカの足元の土が舞い上がるのが見えた。
土埃を残し、リュカが消える。
牙狼の目が、僅かに見開かれた。
刹那、リュカが牙狼の背後に現れる。
それは、牙狼の反応速度を超えた速度での跳躍。
何故こんなことが出来たのか、リュカにも分からない。
ただただ、牙狼の後ろを取れれば勝機があると。
本能の赴くままにがむしゃらに動いただけだった。
宙に舞うリュカの目は、牙狼の背を捉えている。
森の全てが止まって見えた。
右目で視る牙狼は、躱す準備が出来ていないのが明らかだった。
手には、目一杯に引かれた弓矢。
「……これで……っ!!!」
狙いは首。
後は弦を離すだけ───。
リュカ視界が、ぐらりと傾いた。
「……ぇ……?」
声が漏れた。
弦を引いていた腕が、震えた。
紅く染まっていた片目が、ぼやけていく。
牙狼の姿が、二重に見える。
うまく息が吸えない。
身体が、重い。
指先が、冷たい。
何もかもが、遠ざかっていく。
弓を持つ手から、力が抜けた。
張り詰めていた弦が、弾けるように戻る。
矢が放たれた。
しかし、その矢先は牙狼を捉えていなかった。
狙いを大きく外れた矢が、木々の間を抜け見当違いの方向へと飛んでいく。
遠くで、小枝が折れる音がした。
それを聞くことさえ、リュカにはできなかった。
「……っあ゛……っ!!!!」
受身を取り損ね、全身を地面に叩きつけられた。
弓を握った手が、だらんと投げ出された。
何とかもう一度、立ち上がろうと藻掻いたが。
それは叶わず、その場に崩れ落ちた。
地面に倒れる直前、紅く染まった片目が、わずかに牙狼を捉えた。
何かを言おうとしたのかもしれない。
けれど、唇は動かなかった。
瞳から光が薄れていく。
逆立っていた狼耳の毛が、少しずつ落ち着いていく。
膨らんでいた尻尾も、元の形へと戻っていった。
伸びかけていた牙が、ゆっくりと元の形へ戻る。
そして身体から溢れ出していた何かも、次第に弱まっていった。
最後の一筋が、指先から消える。
リュカは、意識を手放した。
深い青色の弓は、リュカの手を離れて転がっていた。
───森に、静寂が戻った。
牙狼はしばらく動かなかった。
遠くで、先ほど放たれた矢が地面に落ちる音がした。
その音が消えてからも、牙狼は目の前で倒れたリュカを見つめていた。
リュカの身体から、あの異様な力はもう感じられない。
そこにいるのは最初と変わらない、小柄な少女だった。
牙狼は、ゆっくりと歩み寄った。
一歩。
一歩。
倒れたリュカの傍らで、足を止める。
その巨体が少女の身体を覆うように影を落とした。
牙狼は、何も言わない。
ただ、リュカを見下ろしていた。
やがて、その鼻先が少女の銀灰色の髪へと近づく。
微かに、風が吹いた。
髪が揺れる。
牙狼の赤い瞳が、ほんのわずかに細められた。
その表情から、一瞬だけ険しさが消えた。
それは、安堵にも見えた。
あるいは、哀しみにも見えた。
けれど、そのどちらなのかを知る者はいなかった。
牙狼は、静かにその場に坐った。
そしてただ、低く、誰に聞かせるでもなく呟く。
『……まだお前に、あの力は強すぎる。』
その声は、リュカには届かない。
リュカは、何も知らないまま眠る。
自分の身に何が起きたのかも。
そして、牙狼が何を思い、何を知っていたのかも。
何一つ分からないまま。
何一つ知り得ぬまま。
森には、ただ光が差し込んでいた。
木々の間を風が抜け、葉が静かに揺れる。
遠くで、鳥が鳴いた。
まるで、何事もなかったかのように。
ふっ…と、牙狼が顔を上げた。
その眼が見つめるその先には、ただただ深い緑が延々と拡がっていた。
その時。ただ遠くを見ていただけなのか。
真実は、誰も知らない。




