知らない決意。
セレスタの街にやってきて、約3週間
最初は不安なことばかりだったリュカも、少しずつこの街での暮らしに馴染み始めていた。
優しく声をかけてくれる人。
見慣れてきた街並み。
そして、少しずつ増えていく自分にできること。
まだまだ知らないことばかりで、自信もない。
それでも、リュカは自分なりに一歩ずつ前へ進んでいる。
そんな彼女の日々に、また変化が訪れようとしていた。
少女が踏み出す次の一歩は、どんな未来へと繋がっていくのだろうか。
捜索隊がセレスタへ帰還してから、早くも二週間が経とうとしていた。
しかし、街を取り巻く状況は何ひとつ好転していなかった。
森で何が起きているのか。
目撃された黒牙狼への対抗策は。
ギルドは情報を集め、対策を検討していたものの確かな手がかりは得られないままだった。
危険な森へ再び人を送り込むこともできず、かといってこのまま放置するわけにもいかない。
捜索隊が持ち帰った報告は事態の深刻さを示すばかりで、解決につながる答えをひとつも与えてはくれなかった。
何の対抗策も立てられないまま、ただ時間だけが刻一刻と過ぎ去っていた。
それでも、街の人々は日々の暮らしを続けている。
そしてリュカもまた、変わらない朝を迎えていた。
この街、セレスタにやって来てから三週間あまり。
最初は見知らぬ人ばかりだった街並みも、今では少しずつ見慣れた景色へと変わっていた。
朝の通りには、焼きたてのパンの香りが漂っている。
露店の店主たちは商品を並べ、荷車を引く商人たちが行き交い、通りのあちこちから威勢のいい呼び声が聞こえてくる。
最初の頃は、人波を避けるようにして歩いていたリュカも、今では人の流れに合わせて自然に足を運べるようになっていた。
「おう、嬢ちゃん! 今日は早いな!」
通り沿いの露店から声が飛んでくる。
顔を上げると、店主の男が片手を上げていた。
「……うん。おはよう。」
「今日もギルドか? 頑張れよ!」
「……うん。」
リュカは小さく頷き、少しだけ足を速めた。
まだ、自分から気軽に話しかけられるほどではない。
不意に声をかけられれば今でも耳がぴくりと動いてしまうし、どう返事をすればいいのか迷うこともある。
それでも、こうして自分の顔を覚えてくれる人がいる。
それは以前のリュカにはなかったことだった。
ギルドへ向かう道も、食事をとる店も、もう迷うことはない。
ガルドは相変わらず気にかけてくれるし、イヴの訓練にも少しずつ慣れてきた。リリにはまだ会えていないけど、会えばきっと今までのように接してくれると思う。
この街での暮らしは、以前よりずっと息がしやすくなっていた。
───ここにいても、いいのかもしれない。
そんな思いが、ほんの少しだけ芽生え始めていた。
もちろん、それを誰かに話したことはない。
自分の居場所なんて、まだ分からない。
それでも朝起きて、ギルドへ向かい、訓練をして、仕事をして、食事をとる。
そんな何気ない日々が、いつの間にかリュカの中で当たり前になりつつあった。
そして今日。
リュカにとって、ひとつの節目が訪れようとしていた。
「よし。そこまで!」
イヴの声が、訓練場に響いた。
リュカは訓練用の弓を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
額には薄く汗が浮かび、こめかみを伝った雫が頬を滑り落ちる。
朝から繰り返していた動作によって腕には疲労がたまっていた。
けれど、弓を握る指に力は残っている。
「最後の動き、もう一度確認するわよ。」
「……はい。」
リュカは頷き、足の位置を整えた。
弓を構え、狙いを定める。
肩の力を抜き、身体の軸を意識する。
これまで何度も繰り返してきた動作だった。
最初の頃は弓を構えるだけでも余計な力が入り、狙いを定めようとすれば腕が震えた。
矢を放つことばかり考えてしまい、足元がおろそかになることもあった。
それをイヴに何度も指摘され、何度もやり直した。
構え方。足運び。相手との距離。攻撃を受けたときの身のこなし。
武器を扱う以前に、戦うための身体の使い方を覚える。
地味で、根気のいる訓練だった。
リュカは毎日弓を握り続けてきた。
今では、構えたときに身体が大きくぶれることもなくなっていた。
「……っ。」
リュカは狙いを定め、矢を放つ。
弦が短く鳴り、矢が的へ向かって飛んでいった。
矢は、中心から少し外れた場所に突き刺さった。
完璧な射撃とは言い難い。
それでも、以前よりずっと安定していた。
イヴは、的を確認してからリュカへと視線を戻した。
「…うん。合格。」
「……本当ですか?」
「ええ。基礎的な動きは、ひと通り身についたと思う。」
イヴは弓を持つリュカの手元を見た。
「もちろん、これで一人前という訳じゃない。実戦では訓練場とは違うことがいくらでも起こるわ。相手はじっと待ってくれないし、思いどおりに動けるとも限らない。」
「……。」
「それでも、討伐系依頼を受けるための基礎は身についた。基礎戦闘訓練は修了よ。」
その言葉を聞いて、リュカは瞬きをした。
修了。
ずっと続けてきた訓練が終わるのだと、ようやく実感が湧いてきた。
「……終わったんだ。」
「そうね。よく頑張ったわ。」
イヴが微笑む。
リュカは弓を見下ろした。
初めて弓を手にした日のことを思い出す。
何も分からず、ただ教えられたとおりに構えていた。
何度失敗しても、どうしてうまくいかないのかさえ分からなかった。
今だって分からないことはたくさんある。
弓の扱いに自信があるわけでもない。
強い魔物を相手にできるほどの実力があるとも思えなかった。
それでも何もできなかった頃と比べれば、少しは前に進めたのだろうか。
「……ありがとうございました。」
「ええ。でも、これからも練習は続けるのよ。基礎は終わりでも、学ぶことはまだまだあるんだから。」
「……はい。」
リュカは小さく頷いた。
そのとき、胸の奥に、ほんのわずかな誇らしさが生まれた。
自分にもできることが増えた。
新たに歩む、確かな一歩だった。
訓練を終えたリュカは、弓を片づけるとギルドへ戻った。
昼時を少し過ぎたギルドは、いつもより人が多かった。
依頼を終えた冒険者たちが報告書を提出し、受付の前では次の仕事を探す者たちが列を作っている。
木製の床を踏むブーツの音。椅子を引く音。隣の食堂から聞こえてくる笑い声。
いつもの光景だ。
けれど、カウンターから少し離れたテーブルでは、数人の冒険者が声を潜めて話し込んでいた。
「……それで、本当なのか?」
「…ああ。捜索隊の連中から聞いたって奴がいるんだ。森で巨大な牙狼と交戦したらしい。」
リュカの足が止まった。
巨大な、牙狼?
その言葉が、耳の奥に引っかかった。
「牙狼って、あの…狼の魔物か?」
「そうらしい。しかも絶級の黒牙狼だとよ。」
「…なんでそんな奴が森に?」
「詳しいところまでは知らん。ただ、噂に違わぬ強さらしい。捜索隊の武器も大半ぶっ壊されてる。」
冒険者のひとりが、呆れたように首を振った。
「そんなやつと戦れるかよ…。」
「全くだ。だから、森には近づくなって。依頼も殆ど止まってんだろ。」
リュカは、そこから動けずにいた。
冒険者たちの声が、周囲の喧騒から切り離されたように聞こえる。
絶級の魔物、黒牙狼。
魔物を表す危険度の、最上位から1つ下の存在。
それが捜索隊が遭遇した相手。
頭の中で、それぞれの言葉がゆっくりとつながっていく。
そして不意に。
ひとつの記憶が、リュカの脳裏によみがえる。
───初めて街に来た日に遭遇した魔物。
毛並みの黒い、小さな牙狼の子供のこと。
あの日も、森は静かだった。
木々の間から差し込む光は柔らかく、風が吹くたびに枝葉がさらさらと揺れていた。
土の匂い。草の匂い。湿った落ち葉の匂い。
街の喧騒とは遠く離れた、自然の音だけが満ちる場所。
リュカは、初めて受けた薬草採取依頼の途中だった。
緊張しながら森を歩き、周囲に気を配り、足元の草を踏まないように気をつけていた。
出会ったのはそのときだった。
鋭い牙。しなやかな四肢。そして、こちらを見つめる目。
黒い、牙狼の子供。
子供は、じっとこちらを見ていた。
小さな身体を低く構え、耳を伏せ、口元から白い牙を覗かせている。
その姿は、幼い獣のものとは思えないほど強い警戒心に満ちていた。
牙狼の子供は、リュカを見据えたまま、低く唸っていた。
初めて対峙する魔物は、ただたた怖かった。
目の前の小さな獣が、今にも飛びかかってくるのではないかと。
恐怖のままにそこから逃げ帰ってしまったから考える余裕などなかったけれど、今になって思えば不思議だった。
あの場所は、森の入り口近くだ。
悪意のある魔物であったとするならば、発見され次第他の冒険者に始末されているされているはず。
ということは、あの時まで見つかっていなかったのか。
ならば、あそこは縄張りでは無い。
あの子は、森のもっと奥深くから来ていたのか。
…何故、危険を犯してまで入口に?
そして、もうひとつ。
あの森で聞いた、声。
姿は見えなかった。
誰が発したのかも分からなかった。
ただ、確かに聞こえた。
『…来…な…。』
低く、短い声だった。
風の音に紛れそうなほど小さかったのに、その声だけは、妙にはっきりと耳に残っていた。
今思えば、こう言っていたように思う。
『…来るな。』
あれは、本当に森にいた親衛隊だったのだろうか。
それとも、先遣隊だったのだろうか。
それとも…別の、なにかだったのだろうか。
あのときは、深く考えなかった。
けれど今、目の前の冒険者たちが話している。
黒牙狼が目撃された。
捜索隊が、その牙狼と遭遇した。
リュカは、無意識に自分の胸元へ手を伸ばした。
服の上から、ペンダントに触れる。
冷たい金属の感触が、指先に伝わってきた。
───牙狼……?
頭の中で、問いが形になり始める。
じゃあ、わたしが見た子供って……。
…あの子は、どうして自分を威嚇したのだろう。
そして、あの声は。
どうして、自分に『来るな』と言ったのだろう。
頑なに、自分を森から遠ざけようとする2つの事象。
無関係だとは思えなかった。
考えても何ひとつ答えは出てこない。
けれど、あの日の記憶は今になって急に意味を持ち始めたような気がした。
もし、あの子と黒牙狼が関係しているのなら。
自分が経験した2つの事象は、何かにつながっているのかもしれない。
「……リュカ?」
不意に声をかけられ、リュカははっと顔を上げた。
いつの間にかイヴがそばに立っていた。
「どうしたの? そんなところで。」
「……あ。」
リュカは冒険者たちの方を振り返ったが、彼らはもう別の話題に移っていた。
「……なんでもないです。」
「そう? 顔色が少し悪いけど。」
「……大丈夫です。」
そう答えたものの、胸の中にはさっきまでとは違う感情が渦巻いていた。
気になる。
知りたい。
けれど、確かめる方法が分からない。
イヴは、そんなリュカを少しだけ見つめてから静かに口を開いた。
「…森のことなら、今は近づかない方がいいわ。ギルドからも、まだ許可は出ていないでしょう?」
「……そうですね。」
「あなたは基礎訓練を終えたばかり。これから討伐系の依頼は受けられるようになるけど、それと危険な魔物に対抗できることは別よ。」
「……はい。」
リュカは俯いた。
分かっている。
自分が強くないことくらい、誰よりも分かっているつもりだった。
牙狼の子供を前にしたときだって、怖くて逃げ帰ってしまった。
その黒牙狼が相手なら、なおさらだ。
それでも。
あの声が、耳の奥に残っている。
『来るな』
どうして。
どうして、わざわざそんな事を言ったのだろう。
森から、頑なにわたしを遠ざける理由は?
リュカには分からなかった。
そして、その答えがどうしても知りたい。
そう思ってしまった。
「おう、リュカ!」
ギルドの入口から、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、ガルドが大きな手を振っていた。
「……ガルドさん?」
「基礎訓練、終わったんだってな!」
どうやら、誰かから聞いたらしい。
ガルドは、リュカのそばまで歩いてくると彼女の頭をぽんと軽く撫でた。
「よく頑張ったじゃねえか。」
「……うん。」
「今日は祝いだ。ちょっと付き合え。」
「……祝い?」
「そうだ。折角の節目だしな。何かひとつくらいあってもいい。」
ガルドは、にっと笑った。
「リュカ、お前の弓を買いに行くぞ。」
「……え?」
リュカは目を丸くした。
「弓……?」
「これから討伐系の依頼も受けられるようになるんだろ? だったら自分の武器を持っておかねえとな。」
「でも……。」
リュカは思わず言葉を詰まらせた。
自分のために、何かを買ってもらう。
それはリュカにとって未だに経験のない事だった。
「……悪いから、いい。」
「遠慮すんな。俺が買ってやりたいんだ。」
ガルドは当たり前のことのように言った。
「それに、武器屋なんて行ったことねえだろ?どこ行けばいいとか分かるか?」
リュカは、首を横に振った。
「だろ?俺が思うに、武器のことならあいつに任せるのが一番なんだが…お前さん1人じゃ無理だと思ってな。」
「あいつ……?」
「ほら、前に依頼で行ったろ。ヴァルゼンだよ。」
その名前を聞いて、リュカは思い出した。
壁一面に並ぶ武器。
冷たい目つきの店主。
近寄りがたい、あの男。
「……あの人、知り合いなの?」
「まあ、ちょっとな。」
ガルドは笑いながら、リュカを促した。
「さあ、行こうぜ。…っと、悪いけどちょっと先に向かっててくれるか?すぐに追いつくからよ。」
足を向けかけたガルドが、何かを思い出したように止まる。
リュカは少し迷ったあと、小さく頷いた。
「……うん。」
「悪いな、すぐ追いかけるからよ!」
ギルドを後にするリュカを見送り、ガルドはイヴの方へ向き直った。
「…なあ、随分早えんじゃねえか?普通3ヶ月はかかるもんだろ。」
「…そうね。」
ガルドの言葉に、イヴは目を伏せたまま答える。
「…あの子、やっぱり異常よ。普通の獣人のそれじゃない。身体能力も反射神経も、戦闘に対するIQもずば抜けてる。」
「ほぉ…。それをどう見る?」
ガルドの問に、イヴは首振る。
「過去に戦闘術を仕込まれてるのか…天性の才能なのか…私には分からないわ。」
「…そうか。ありがとよ。」
腑に落ちない顔をしていたガルドだったが、これ以上聞いても無意味だと思い、イヴに軽く手を挙げリュカを追っていった。
──ガルドと途中で合流し、リュカはヴァルゼンの店へと到着した。
武器店の扉を開くと、乾いた木の匂いと磨かれた金属の匂いが鼻をくすぐった。
壁には剣や槍が整然と並び、棚には手入れ用の道具や革製の装具が置かれている。
店の奥では、背の高い痩身の男が一本の剣を布で磨いていた。
ヴァルゼン・クロイツ。
彼は扉の音に気づくと、ゆっくり顔を上げた。
「……何の用だ。」
「何の用だとはご挨拶だな。用が無ぇのに来るかよ。」
「今のお前に用はないだろう。」
「相変わらず愛想がねえな!」
「貴様に愛想を振りまいて何の得がある。」
二人は顔を合わせるなり言い合いを始めた。
まるでお互いに遠慮が無いような。
リュカは、その様子を交互に見つめた。
初めて会ったときのヴァルゼンは近寄りがたく、冷たい印象だった。
今もその印象は変わらない。
けれどガルドとのやり取りを見ていると、ただ不機嫌なだけというわけでもないらしい。
「……で、どうした。」
「ああ、こいつに弓を買ってやりたくてな。」
ガルドは隣に立つリュカを手で示した。
リュカを一瞥したヴァルゼンは、僅かに眉を潜めた。
「基礎訓練を終えたんだ。祝いに一本持たせてやろうと思ってな。」
その言葉に、ヴァルゼンの目が据わっていく。
「私の店でなくても良いだろう。」
「そう言うなよ。お前の腕が良いのは俺が良く知ってんだからよ。」
ガルドは悪びれもせずに言った。
「こいつに合うもんを見繕ってやってくれ。」
「……断る。」
あまりにも即答だった。
リュカの耳が、ぴくりと動いた。
「おいおい、何でだよ。」
「私は忙しい。お前が勝手に選べばいいだろう。」
「さっきまで剣を磨いてただけじゃねえか。」
「武器の手入れは立派な仕事だ。」
「…へいへい。」
ガルドは肩をすくめた。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「…頼む、ヴァルゼン。お前の眼を信用してるから頼んでんだ。」
その言葉にヴァルゼンはしばらく黙っていた。
やがて、面倒そうに息を吐く。
「……そこの小娘、こちらへ来い。」
「……え、あ、…はい。」
リュカはおずおずと前へ出た。
「…本当に基礎訓練を終えたのか?」
「…あ、はい…。」
「…教官は誰だ。」
「えっと…イヴ、さん…。」
「…そうか。」
ヴァルゼンはそれだけ答えると、棚にかけられていた木製の弓をリュカに差し出した。
「まず、弓を構えてみろ。」
「……ここで?」
「他にどこで構えるつもりだ。」
言われるまま、リュカは弓を手に取った。
足を開き、弓を持ち上げる。
ヴァルゼンは腕を組み、黙ってその様子を観察した。
「もう一度。」
リュカが構え直す。
「引く動作も見せろ。」
リュカはゆっくりと弦を引く。
ヴァルゼンの視線は、指先から肩、肘、足元へと移っていった。
まるで、リュカの身体の動きを一つ残らず読み取ろうとしているようだった。
「……次は、その余計な力を抜いて構えろ。」
リュカは言われた通りにした。
その動きを見たヴァルゼンは、わずかに目を細めた。
何かを考えるように、店の壁に並んだ弓へ視線を向ける。
1本を手に取り、重さを確かめる。
しかし、すぐに戻した。
「…これは重すぎる。」
次の1本を手にする。
「こっちは弦の張りが強い…今の腕では扱いにくいだろうな…。」
さらに別の弓を確かめる。
「……これも違うな。」
リュカは、ただ黙って見ていた。
最初は面倒くさそうにしていた男が、いつの間にか真剣な顔で弓を選んでいる。
1本1本、重さを確かめ、弦の具合を見て、握りの形を確かめる。
少しでも気に入らないところがあれば、すぐに棚へ戻していた。
その姿からは、先ほどまでの気乗りしない様子が嘘のように消えていた。
やがてヴァルゼンは、店の奥から一本の弓を持ってきた。
派手な装飾はない。
けれど、弓身の曲線は滑らかで、握る部分は小柄なリュカの手にも無理なく収まる形をしていた。
全体を彩る深い青に、引き込まれるような感覚を覚えた。
「…これだな。」
ヴァルゼンは弓を差し出した。
「構えてみろ。」
リュカは受け取り、弓を持ち上げた。
───軽い。
それでいて、頼りない軽さではない。
手に伝わる重さが自然で、構えたときにも余計な力が入らない。
弦を引く。
肩に無理な力が入らない。
まるでら身体の一部になったかのような、自然な感覚。
狙いを定める動作も、これまで使っていた訓練用の弓より滑らかに出来た。
リュカは、思わず目を瞬いた。
「……あ。」
「どうだ。」
「……使いやすそう。」
「そうか。」
ヴァルゼンは短く答えた。
「今のお前には、それが一番合っている。」
彼はリュカの手元を見つめた。
「…武器というのは、使う人間に合っていなければ意味がない。どれほど高価な品でも、扱えなければただの飾りだ。」
「……うん。」
「精々、使いこなせるように練習することだな。」
リュカは弓を見下ろした。
自分のために選ばれた一本。
その事実が、少しだけ胸を温かくした。
「……ありがとう。」
「礼なら代金を払うそこの男に言え。」
ガルドは満足そうに笑った。
「流石だな。最初からお前に頼んで正解だった。」
「私は仕事をしただけだ。」
「はいはい。」
「…代金はきっちり払ってもらうぞ。選定料込でな。」
「ちゃっかりしてんなぁ…分かったよ。」
ガルドが財布を取り出す。
ヴァルゼンは代金を確認すると、最後にもう一度、リュカへ視線を向けた。
「……小娘。」
「……なに?」
「…決して勘違いするなよ。良い武器を持ったからといって、腕が上がるわけではない。」
「……うん。ちゃんと練習する。」
「ならいい。」
ぶっきらぼうな返事だった。
けれど、弓をリュカへ手渡す動作だけは、妙に丁寧だった。
リュカは両手で弓を受け取り、そっと握り直した。
これから、この弓を使って戦うことになる。
怖くないわけではない。
不安がなくなったわけでもない。
それでも、ほんの少しだけ前へ進めた気がした。
「……大事にする。」
その呟きに、ヴァルゼンは何も答えなかった。
ただ、店の奥へ戻ろうとしたところでふと思い出したように口を開いた。
「…そういえば、最近ギルドは騒がしそうだな。」
ガルドの表情が、わずかに変わった。
「……捜索隊の話か?」
「ああ。黒牙狼が出たとか、捜索隊が手酷くやられたとか…。折られた剣や弓が私にも大量に届いてる。」
ヴァルゼンは、壁に掛けられた武器へ視線を向けた。
「…物騒なことだ。あの黒牙狼が相手では…並の武器では歯が立たんだろうな。」
リュカの耳が、ぴくりと動いた。
黒牙狼。
その言葉が、胸の奥にしまい込んでいた記憶を再び揺さぶった。
ヴァルゼンは、そんなリュカの様子に気づいたのか、ちらりと目を向けた。
「……小娘。」
「……っ、…なに?」
「お前がどこで何をしようと、俺の知ったことではないが…。」
冷たい声だった。
「その弓では、傷一つ付けられん。」
「───っ」
心臓が跳ねた。
思わず、弓を握る手に力がこもる。
まるで、自分の胸の内を見透かされたような気がした。
もちろん、ヴァルゼンはリュカの考えなど知らないはず。
ただ噂になっている黒牙狼の脅威を口にしただけだ。
「……分かってる。」
リュカは小さく答えた。
けれど、その声には迷いが残っていた。
ヴァルゼンはそれ以上何も言わず、ガルドに向き直った。
「用が済んだなら、さっさと帰れ。仕事の邪魔だ」
「へいへい。相変わらず愛想がねえな。行くぞ、リュカ。」
ガルドに促され、リュカは店を出た。
その胸の中にはまだ答えの出ない疑問が残っていた。
───その夜。
リュカは寝台の端に腰を下ろし、昼間買ってもらった弓を眺めていた。
窓の外では、街の明かりがひとつ、またひとつと消えていく。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、遠くから聞こえる人の声もやがて夜の闇に溶けていった。
弓は、壁に立てかけてある。
手を伸ばせばすぐに届く距離。
リュカは、その弓をしばらく見つめていた。
今日、基礎戦闘訓練を終えた。
これからは、戦闘系の依頼も受けられるようになる。
以前の自分には、できなかったことだ。
何も知らなかった。
何も分からなかった。
ただ、目の前のことに精一杯だった。
それでも、少しずつ知っていった。
自分なりに努力してきたつもりだった。
だからこそ、今日という日を迎えられたのだと思う。
リュカの中で、昼間ギルドで聞いた噂が何度も蘇ってくる。
絶級の魔物…黒牙狼。
捜索隊が遭遇した相手。
そして、森で出会った小さな牙狼の姿。
森で聞こえた、あの声。
リュカは、膝の上で指を組んだ。
あの子は自分を見て牙を剥いた。
あのときの目を今でも覚えている。
怯えていたわけではない。
ただ威嚇していた、というだけでもない気がした。
あの子は、何かを伝えようとしていたのだろうか。
それとも、ただ自分を敵だと思っただけなのだろうか。
考えても分からない。
分かるはずもない。
けれどあのときの姿を思い出す度に、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
そして、あの声。
『来るな』という短い言葉。
姿の見えない誰かが、恐らく自分に向かって告げた言葉。
あれは何だったのだろう。
危険な場所だから近づくなという意味だったのか。
自分がそこにいてはいけなかったのか。
それとも───?
リュカは、ゆっくりと顔を伏せた。
分からないことばかりだった。
牙狼のことも。
森のことも。
あの声のことも。
リリ達、捜索隊は危険な目に遭いながらも森へ入った。
イヴは自分を鍛えてくれた。
ガルドは自分の成長を喜び、弓まで買ってくれた。
自分はどうだろう。
この街のために、皆のために何か報いることは出来ていたのだろうか。
森で見たものを思い出すことしかできない。
聞いた声の意味を考えることしかできない。
何も分からないまま、ただ誰かが答えを見つけてくれるのを待っている。
…それでいいのだろうか?
胸の奥が、じわりと熱くなった。
自分が弱いことは分かっている。
訓練を終えたばかりで、強い魔物と戦えるほどの実力がないことも分かっている。
牙狼を倒せるなどとは、思っていない。
それでも。
ただ何も知らず、何もできず、誰かの後ろにいるだけなのは嫌だった。
リュカは、ぎゅっと拳を握った。
「……わたしだけ、何もできないのは嫌だ。」
声に出すと、胸の奥にあったものがほんの少しだけ形になった気がした。
ただ、自分の中にある気持ちを確かめるような呟きだった。
リュカはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
窓の外には、夜の街が広がっていた。
ガルドがいて、イヴがいて、リリがいて。
自分を受け入れてくれた街の皆がいる。
それなら。
その人達のために、わたしにできることを。
森で見たことも、聞いたことも。
自分にしか分からない何かがあるのかもしれない。
リュカは、あの日の光景をもう一度思い返した。
もし自分が見たものの中に、まだ誰も知らない手がかりがあるのなら?
自分の目で確かめれば何かが分かるかもしれない。
もちろん、確かな根拠なんてない。
自分が行ったところで、何も分からないかもしれない。
危険な目に遭うだけかもしれない。
イヴに言われたとおり、今の自分にはまだ足りないものが多い。
それでも。
何もせずに、ただ考えているだけでは。
───きっと、何も変わらない。
リュカは寝台から立ち上がり、壁に立てかけてあった弓を手に取った。
今日、ガルドが買ってくれた弓。
ヴァルゼンが、自分のために選んでくれた一本。
この弓を持ったからといって、急に強くなれるわけではないけれど。
それでも。
リュカは、弓を胸元に引き寄せた。
「……自分の目で、確かめる。」
小さく、けれどはっきりと呟いた。
怖さはある。
不安もある。
森へ向かえば、何が起きるか分からない。
それでも、あの子の事も、あの声も、もう頭から離れそうになかった。
何も知らないままでいたくない。
自分が見たものの意味を、知りたい。
もし自分にしか分からない何かがあるのなら。
それを確かめたい。
リュカは弓をそっと元の場所へ戻した。
明日の朝。
ギルドの人たちに知られないように、森へ向かおう。
リュカは寝台に横になり、目を閉じた。
その奥には、小さな決意があった。
明日、自分の目で確かめよう。
あの子のことを。
あの声のことを。
そして、森で何が起きているのかを。
テーブルに置かれたペンダントが、月夜の光を受け止めて淡く光を纏っていた。




