知らない真実
捜索隊の帰還から、三日。
未だギルドに姿を見せないリリ。
彼女が森で目にしたものとは──。
そして、捜索隊の前に立ちはだかったのは。
その瞳が語りかけるものを、彼女はまだ知らない。
───捜索隊の帰還から、さらに三日。
冒険者ギルドの受付に、今日もリリの姿はなかった。
朝から何度も入口へ視線を向けていたリュカは、とうとう我慢できず、受付の職員へ声をかけた。
「……あの…リリさんは今日も来ないの……?」
「ええ。まだ復帰できる状態ではないそうよ。」
「……そう……。」
リュカは静かに耳を伏せる。
捜索隊が帰還した日から、リリは一度もギルドへ顔を出していない。
森で、一体何があったのだろうか。
何度考えても、答えは出なかった。
「……リリさんの事、何か知りませんか?」
弓の訓練を終えたあと、リュカは教官のイヴにも尋ねてみた。
イヴは少しだけ視線を落とし、それからいつもと変わらない表情で答えた。
「……私にもわからない。」
「……そう、ですか……。」
「今は、あまり詮索しないほうがいい。リリにも事情があるんでしょう。」
「……はい。」
それ以上、リュカは何も聞けなかった。
リリが受付にいない。
それだけのことなのに、いつものギルドが少しだけ違って見える。
自分の知らない所で、一体何が蠢いているのか。
何も出来ない不安が、胸の奥で小さく膨らんでいた。
リュカは無意識に、自分の胸元へ手を添えた。
服の下にあるペンダントの感触を確かめるように、そっと握りしめる。
「……リリさん。」
小さく呟いた名前は、賑やかなギルドの喧騒に紛れて消えていく。
その頃。
自宅のベッドに横たわるリリは、窓から差し込む陽光をぼんやりと眺めていた。
身体の傷は、少しずつ癒えてきている。
起き上がることもできるし、食事だって取れる。
それなのに、ギルドへ戻る気にはなれなかった。
目を閉じるたびに、あの日の光景が蘇るからだ。
仲間たちの血に染まった森。
引き裂かれた鎧。
届かなかった救援。
そして、あの巨大な力。
「…………。」
リリは、布団の上で拳を握りしめた。
忘れようとしても、忘れられない。
自分が隊長として率いた捜索隊が、何ひとつ成し遂げられずに帰還したこと。
そして、自分たちが森で何を目撃したのか。
それを思い出すたび、胸の奥が締めつけられる。
リリはゆっくりと目を閉じた。
意識は、数日前の森へと引き戻されていった。
───森の空気は、ひどく重かった。
木々の隙間から差し込む陽光は薄く、地面には湿った落ち葉が幾重にも積もっている。
普段なら鳥のさえずりや小動物の気配があってもおかしくない時間帯だった。
だが、その日の森には、不自然なほど音がなかった。
風が枝葉を揺らす音だけが遠くでかすかに響いている。
「……全員、周囲への警戒を怠らないで。」
先頭を進むリリは、声を抑えて指示を出した。
背には愛用の弓。
腰には矢筒と短剣。
弓士として後方から隊を支えることが本来の役目だが、今回の彼女はそれだけではない。
捜索隊の隊長として、仲間たちを率いてこの森へ入っていた。
先遣隊の消息が途絶えた。
その後、調査のために派遣された親衛隊までもが戻らなかった。
事態を重く見たギルドは、実力のある冒険者を集め、捜索隊を編成した。
その隊長を任されたのが、リリだった。
任務は明確だった。
先遣隊と親衛隊の所在を確認すること。
可能であれば、生存者を救出すること。
そして、彼らが消息を絶った原因を突き止めること。
簡単な任務ではない。
それでも、リリは自分の実力と経験を信じていた。
危険な魔物が潜む森での捜索は、これまでにも何度か経験している。
仲間と連携し、慎重に進めば、必ず何かを持ち帰れるはずだった。
「隊長。前方に、争ったような跡があります。」
「…どこ?」
「この先です。」
隊員の指し示す先には、地面を深くえぐった跡があった。
踏み荒らされた土。
折れた枝。
根元から裂けた低木。
それらが一方向へ向かって続いている。
リリは片膝をつき、地面の状態を確かめた。
……新しい。
少なくとも、何年も前のものではない。
「……間違いないわね。ここで戦闘が起こってる。」
立ち上がり、隊員たちを見渡す。
「この先に何がいるかわからない。陣形を崩さないで。前衛は周囲を警戒、後衛は私の合図で援護して」
「「「了解!」」」
返事が重なった。
リリは弓の握りを確かめる。
指先に、じっとりと汗が滲んでいた。
理由はわからない。
ただ、この先へ進むことに、本能が警鐘を鳴らしている。
それでも、引き返すわけにはいかなかった。
彼らを探しに来たのだから。
「……進みましょう。」
捜索隊は、さらに森の奥へと足を踏み入れた。
そして。
「───っ!止まって!」
リリの声が、森に鋭く響いた。
先頭を歩いていた隊員たちが、一斉に足を止める。
リリの視線は、木々の向こうにある地面へ向けられていた。
そこに、何かが落ちていた。
いや。
落ちていたのではない。
倒れていた。
人が。
「…………ぁ」
誰かが、かすれた声を漏らした。
リリは弓を仕舞いながら、ゆっくりと近づいた。
一歩。
もう一歩。
視界が開けるにつれ、地面に横たわる人影の輪郭がはっきりしていく。
そして、その姿を認識した瞬間。
リリの足が止まった。
「……やっぱり……っ。」
先遣隊の隊員だった。
鎧は胸元から大きく裂け、金属板が無残にひしゃげている。
踏みしめる地面には、乾いた血が黒ずんだ染みとなって広げられた絨毯のようであった。
その腕は不自然な方向へ曲がり、握られていたはずの剣は、少し離れた場所で折れている。
顔は土にまみれ、目は見開かれたままだった。
最後の瞬間に何を見たのか。
何を思ったのか。
もう、本人に尋ねることはできない。
「……。」
リリは息を呑んだ。
視線を動かす。
倒れているのは、一人ではなかった。
木の根元。
折れた枝の下。
少し離れた岩場。
あちらにも、こちらにも、人影が横たわっている。
胴から下が無い者。
背中から引き裂かれている者。
仲間を庇うように身体を重ねている者。
逃げようとしたのか、地面を這ったような跡の先で力尽きている者もいた。
周囲には、折れた武器や砕けた盾が散乱している。
何十本もの矢が木々に突き刺さり、その一部は途中から無残に折れていた。
圧倒的な力の差は、火を見るより明らかだった。
彼らは戦ったのだ。
剣を振るい、盾を構え、矢を放ち、必死に抵抗したはずだ。
それでも、ここに残されているのは、誰一人として立ち上がることのない光景だった。
「……生存者は?」
リリは、ようやく声を絞り出した。
誰も答えなかった。
「誰か、生きている人はいないの!?」
今度は、声が震えた。
隊員たちが慌てて散開する。
「こちらを確認します!」
「こっちにも倒れている者がいます!」
仲間たちが駆け寄り、次々と生死を確かめていく。
リリも同じく、最も近くに倒れていた隊員のそばへ膝をついた。
肩に手を添える。
反応はない。
腕に触れる。
冷たかった。
リリは唇を噛み、次の者へと向かった。
今思えば、かなり錯乱していた。
頭がない人間が、生きてるはずが無いだろうに。
……頼むから。
……誰か一人でも。
……まだ間に合っていてほしい。
そう願いながら、彼女は何人もの身体を確かめた。
信じたくなかった。
けれど、返ってくるのは、変わらない冷たさばかりだった。
「……隊長。」
背後から声がした。
振り向くと、一人の隊員が立ち尽くしていた。
その顔は青ざめ、手が震えている。
「……全滅です。」
その一言で、森の空気が凍りついた。
リリは、何も言えなかった。
わかっていた。
目にした時点で、ほとんど。
それでも、言葉として突きつけられると、胸の奥が強く締めつけられた。
間に合わなかった。
救えなかった。
自分たちがここへ到着したときには、もう何もかも終わっていた。
「……っ、く……。」
奥歯を噛みしめる。
隊長として、取り乱すわけにはいかなかった。
ここで自分が崩れれば、残された仲間たちまで動けなくなる。
それはわかっている。
わかっているのに。
目の前の光景から、視線を外すことができなかった。
もし、あと3日早く到着していたら。
もし、もっと早くギルドを動かせていたら。
もし、自分にもっと力があったなら。
そんな思いが、頭の中を何度も巡る。
けれど、どれだけ考えても、目の前の現実は変わらない。
「……遺体の確認を。身元がわかるものを探して、記録を残して。」
リリは、震える声を抑えながら指示を出した。
「それと、周囲を調べて。生存者がいないか、まだ確認していない場所を探して。」
「……了解しました。」
返事をした隊員の声も、かすれていた。
誰もが、何かを言いたかったのだろう。
どうして、こんなことに。
けれど、目の前の死を覆すことはできなかった。
リリは、地面に横たわる隊員の顔を、もう一度見つめた。
……彼の名前は知っている。
出発前、彼が装備の確認をしていたときに、短く言葉を交わした。
わたしは、気をつけて行ってらっしゃい。
彼は、無事に帰ったら街で食事でもどうだ。
お調子者で任務に着く度、出発前に色んな女性を誘ってはフラれていた男だ。
その日の自分も、やんわり断ったのを覚えてる。
彼は、もう二度と口を開かない。
リリは静かに目を閉じた。
「……ごめんなさい。」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
捜索隊は、遺体の確認と周囲の調査を続けた。
しかし、そこで見つかったのは、さらなる絶望だった。
「隊長! こちらにも遺体が!」
呼ばれて駆けつけた先にあったのは、見慣れた紋章が刻まれた鎧だった。
セレスタの親衛隊。
セレスタを守るために鍛えられた、精鋭の兵士たち。
彼らもまた、先遣隊と同じように倒れていた。
いや、状況によっては、それ以上に凄惨だった。
盾は中央から大きくへこみ、金属製の胸当てには深い裂傷が走っている。
剣の刃は欠け、柄だけが残っているものもあった。
地面には血の跡が点々と続き、途中で途切れていた。
その先にあったのは、倒木に背を預けるようにして横たわる親衛隊員だった。
彼の手には、喰いちぎられた手だけが握られていた。
最後まで、仲間を救おうとしたんだろう。
そのすぐそばには、もう一人の隊員が倒れていた。
彼の身体は、前にいる仲間を庇うように斜めに傾いていた。
守ろうとしたのか。
助けようとしたのか。
その答えを知る者は、もういない。
「……親衛隊まで、全滅なのか。」
誰かが呟いた。
その言葉に、隊員たちの顔から血の気が引いていく。
冒険者の中にも、腕の立つ者はいる。
だが、親衛隊はそれとは別の意味で精鋭だった。
装備も訓練も、一般の兵士とは一線を画している。
そんな彼らが、この有様だ。
相手は、いったいどれほどの存在なのか。
「……隊長。」
隊員の一人が、リリを見た。
「こんな魔物が、本当にこの森に……?」
「……そうね。」
リリはそう答えた。
けれど、自分の声に確信がないことは、自分自身が一番よくわかっていた。
彼女は、周囲を見渡した。
親衛隊員たちの遺体。
砕けた装備。
大地に刻まれた深い傷。
そして、森の奥へと続く、巨大な爪痕。
その爪痕は、近くの樹木にも残されていた。
大人が両腕を広げても届かないほど太い幹に、何本もの傷が刻まれている。
樹皮は深くえぐれ、木肌が剥き出しになっていた。
一本だけではない。
隣の木にも。
さらに奥の木にも。
まるで、巨大な獣が怒りに任せて暴れ回ったかのようだった。
リリは、傷の深さを確かめるために近づいた。
爪痕は、彼女の手のひらよりもずっと深く、鋭く食い込んでいた。
「……こんなものを、一撃で?」
リリが息を呑む。
木々の根元には、巨大な足跡らしきものも残っている。
地面は大きく沈み、周囲の土が押し潰されていた。
その一歩一歩が、異常な力を物語っている。
そして、その跡は、先遣隊と親衛隊の遺体が散らばる場所を横切り、森のさらに奥へと続いていた。
背筋に、冷たいものが走った。
この痕跡を残した存在が、彼らを襲ったのだろうか。
だとすれば、自分たちがこれから対峙するのは、どれほど危険な相手なのか。
「……隊長。どうしますか。」
隊員の問いに、リリはしばらく答えられなかった。
捜索隊の目的は、消息を絶った者たちの確認と、事件の原因を探ることだ。
その目的は、すでに果たされつつある。
生存者はいない。
残された痕跡は、異常な力を持つ魔物の存在を示している。
ならば、ここで引き返し、ギルドへ報告するべきなのかもしれない。
しかし、元凶の魔物がわからないまま帰れば、対抗策が練れない。
同じことが繰り返される可能性がある。
この森に、危険な存在が潜んでいるのなら。
別の冒険者が、同じ犠牲になるかもしれない。
リリは、弓の握りを強く握った。
「……痕跡を追いましょう。」
「隊長……。」
「ただし深入りはしない。無理だと判断したら、すぐに撤退するわ。」
隊員たちは互いに顔を見合わせたあと、静かにうなずいた。
リリは、森の奥へ続く爪痕に視線を向けた。
そこに何がいるのか。
何が、仲間たちを殺したのか。
それを確かめるために。
彼女たちは、再び歩き始めた。
───どれほど進んだだろうか。
森の奥へ入るにつれ、地面に残された痕跡は、さらに大きく、深くなっていった。
木々の幹には、何かがぶつかったような傷がある。
太い枝が、途中からへし折られている。
地面には、巨大な力で抉られたような溝が走っていた。
まるで、森そのものが何かに蹂躙されたかのようだった。
「……この先にいるのか?」
前衛の隊員が、剣を構え直した。
リリは、弓を手に取る。
矢筒の位置を確かめ、一本の矢を指に挟んだ。
何かが現れたら、即座に射る。
それが隊長としての判断だった。
そのとき。
前方の茂みが、かすかに揺れた。
「止まって!!」
リリの声と同時に、隊員たちが足を止める。
全員が武器を構え、視線を茂みへ向けた。
葉擦れの音が、ゆっくりと近づいてくる。
一歩。
また一歩。
そして、茂みの向こうから現れたのは。
巨大な、狼。
全身を覆う毛は周囲の影をまとったかのように深い色。
鋭い牙が口元から覗き、筋肉質な四肢が地面を踏みしめていた。
その身体は、普通の狼とは比べものにならないほど大きい。
そして何より、こちらを見つめる眼が異様だった。
深く、鋭く、すべてを見透かすような眼差し。
「……黒…牙狼……!?」
リリの隣にいた隊員が、震える声で呟いた。
その名を聞いた瞬間、捜索隊の空気が変わった。
この世界生息する魔物の中でも、特異的な存在として知られる黒牙狼。
先遣隊と親衛隊を襲った元凶。
巨大な爪痕を残し、これほどの惨状を生み出した存在。
目の前の黒牙狼こそが、その正体なのだと。
───誰もが、そう考えた。
「全員、戦闘態勢!」
リリは鋭く指示を飛ばした。
「前衛は左右に展開! 後衛は距離を取って援護して! 私の合図があるまで、無闇に突っ込まないで!」
「了解!」
隊員たちが一斉に動く。
剣を抜く者。
盾を構える者。
そして、弓を構える者たち。
リリもまた、矢をつがえた。
弦を引き、狙いを定める。
狙うのは、頭部ではない。
相手の動きを止めるため、前脚の付け根を狙う。
だが、牙狼は動かなかった。
ただ、こちらを見つめている。
その姿には、戦う者特有の緊張感がなかった。
威嚇するでもなく、牙を剥き出しにするでもなく。
まるで、こちらが何をするのかを見定めているかのようだった。
リリは眉をひそめた。
明らかに、おかしい。
魔物が人間を前にしたときの反応とは、どこか違う。
けれど、その違和感を考える時間はなかった。
「……行け!!!」
隊員たちが矢を放った。
十数本の矢が、風を切って牙狼へと迫る。
同時に、前衛の剣士たちも、左右から一斉に距離を詰める。
矢と剣の波状攻撃。
連携の取れた、一斉攻撃。
普通の魔物ならば、避けきることは難しいはずだった。
しかし。
牙狼の身体が、わずかに沈んだ。
次の瞬間。
矢が、空を切った。
突撃していた剣士達が、止まる。
「なっ……!?」
リリは目を見開いた。
見失った。
ほんの一瞬、目を離しただけだった。
それなのに、牙狼はすでに攻撃の軌道から外れていた。
「上だ!」
隊員の叫びが響く。
リリが顔を上げた瞬間、巨大な影が視界を横切った。
牙狼は、倒れた木の幹を蹴り、低い枝を足場にして横へ飛び移っていた。
その動きは、巨体からは想像もできないほど軽い。
着地の音すら、ほとんど聞こえなかった。
「迅い……!」
誰かが呟く。
リリは、すぐさま弓を引き絞った。
今度は逃がさない。
動きを見極め、着地点を予測する。
牙狼の身体が地面へ降りた、その瞬間。
「そこっ!」
矢を放った。
狙いは正確だった。
矢は牙狼の肩口へ向かって一直線に飛んでいく。
当たる。
そう確信した。
だが。
牙狼は、ほんのわずかに首を傾けただけだった。
矢は毛先をかすめて、背後の木へと突き刺さった。
「……嘘。」
リリの指先が、わずかに震えた。
今の矢は、決して外すような射撃ではなかった。
動きを読み、距離を測り、寸分の狂いもなく放たれた。
それなのに。
牙狼は、まるで矢がどこを通るのか、最初からわかっていたかのように避けた。
いや。
避けたというより、当たることを許さなかった。
「……っ!怯むな! 攻撃を続けろ!」
隊長として、声を張り上げる。
自分が動揺すれば、仲間たちまで崩れてしまう。
それだけは避けなければならない。
牙狼がこちらへ向き直る。
その眼が、再びリリを捉えた。
一瞬、視線が交わる。
そこにあるのは、やはり殺意とは思えなかった。
しかし、その意味を考える余裕はない。
「おおおおおおおぉぉっ!!!!」
前衛の剣士が、雄叫びを上げて突進した。
大剣を両手で握り、全身の力を込めて振り下ろす。
巨体を叩き割るつもりの一撃だった。
牙狼は、避けなかった。
少なくとも、剣士にはそう見えたのだろう。
大剣が、牙狼の頭上へと迫る。
切先が触れる、寸前。
牙狼の前脚が、動いた。
金属音が、森に響き渡った。
大剣の軌道が、強引に逸らされる。
「なっ──」
剣士の身体が、大きく流れた。
踏み込んだ勢いを止められず、体勢が崩れる。
牙狼は、その隙を見逃さない。
巨体が横へと動く。
牙狼の巨体が、剣士の身体に叩きつけられる。
「ぅあ゛っ……!」
男の身体が宙に浮き、数メートル先の地面へ叩きつけられた。
土煙が舞い上がる。
「……っ隊長!!!!」
「救護班、後ろへ! 前衛は距離を取って、正面からの攻撃を避けて!」
リリは叫びながら、再び矢をつがえた。
倒れた剣士へ、牙狼は追撃しなかった。
それどころか、男が宙に舞う間に牙狼はすでに別の方向を向いていた。
仲間が倒された。
目の前の魔物を倒さなければ、次は自分たちがやられる。
その恐怖が、彼らを動かしていた。
「囲め! 一斉に攻めろ!」
前衛が左右に分かれ、牙狼を取り囲む。
後衛は間合いを保ち、援護体制。
輪が、一気に中央に動く。
リリもまた、隊の動きを見ながら矢を放つ。
一射。
二射。
三射。
狙いを変え、角度を変え、放つ。
しかし、どの矢も牙狼には届かなかった。
身体を沈め、高く舞う。
空中で身を捩り回転。ムチのようにしなる己の毛で矢を叩き落とす。
すべての攻撃が空を切る。
攻撃を重ねるほど、捜索隊の呼吸が乱れていく。
牙狼は少しも乱れた様子を見せなかった。
「どうなってるんだ……!」
隊員の一人が叫ぶ。
「攻撃がまったく当たらない……!」
「落ち着いて! 動きをよく見て!」
リリは指示を出し続けた。
けれど、彼女自身も気づき始めていた。
この戦いは、普通ではない。
牙狼は、こちらの攻撃を避けているだけではない。
捜索隊がどこから攻撃し、誰が次に動くのか。
まるで、すべてを見通しているかのように、先回りして動いている。
右から斬りかかれば、左へ逃げ道を作る。
左から回り込めば、後衛の射線を塞がない位置へ移る。
こちらが連携を整えれば整えるほど、その隙間を見つけ出されているようだった。
そして、ついに。
「うわ、ぁ……!」
後衛の一人が、悲鳴を上げた。
牙狼が、彼の眼前に現れたのだ。
距離を取っていたはずだった。
前衛が間に立ち、守っていたはずだった。
それなのに、牙狼は一瞬でその間を抜けていた。
後衛の男は、とっさに弓を構える。
しかし、矢をつがえる前に牙狼の前足が彼の腕を刈り取った。
宙を舞うのは弓と、男の腕。
「ひっ…ああああああああっ!!!……!」
あまりの激痛にのたうち回る男。
牙狼の鋭い牙が、すぐ目の前にある。
誰もが息を呑んだ。
次の瞬間には、男の首が噛み砕かれる。
そう思った。
リリは反射的に弓を引き絞る。
「やめてっ!!」
矢が放たれた。
牙狼は、男から視線を外すことなく、わずかに身体をずらした。
矢はその脇を通り過ぎ、木の幹へ突き刺さる。
そして。
牙狼は、身を翻してまたこちらに向き直った。
それだけだった。
男はまだ、激痛で動けずにいた。
牙狼はまた、前衛に向いている。
リリは、弓を握る手に力を込めた。
……今の動き。
あの距離なら、牙狼は男を殺せたはずだ。
抵抗する術もない。
逃げることもできない。
それなのに、牙狼は何もしなかった。
……どうして、殺さない?
その疑問が頭をよぎった瞬間、別の隊員の叫びが響いた。
「隊長!!!危ない!!!」
リリが振り向く。
目の前にいたはずの牙狼が、後ろからこちらへ向かっていた。
いや。
こちらではない。
彼女のすぐ隣にいた護衛の剣士へ、牙狼が迫っていた。
「くそっ!」
剣士が剣を振るう。
牙狼は横に跳び、躱す。
そして、すれ違いざまに前脚を振るう。
鋭い爪が、剣士の剣を打つ。
剣先が弾き飛ばされる。
続けて、牙狼の巨体が男の胸にぶつかった。
男は声もなく地面を転がり、木の根元でようやく止まった。
「げほっっ……!」
「下がって! すぐに下がって!」
リリが叫ぶ。
前衛が後退し、負傷者を回収する。
その間も、牙狼は追撃してこなかった。
ただ、こちらの動きを静かに見ている。
まるで、これ以上戦う必要はないとでも言うように。
しかし、捜索隊はすでに限界に近づいていた。
負傷者が増えている。
武器を失った者もいる。
対して、牙狼には傷ひとつない。
息も乱れていない。
毛並みには、土埃がついているだけだった。
リリは、唇を噛みしめた。
このままでは、全滅する。
仲間たちを守らなければ。
隊長として、ここで判断を下さなければならない。
「全員、陣形を組み直せ! 前衛は負傷者を守りながら後退! 後衛は牽制を続けろ!」
「しかし隊長!あいつを放っておくわけには……!」
「今は退け!このまま戦っても誰も生きて帰れない!」
リリの声が、森に響いた。
その言葉に、隊員たちは一瞬だけ動きを止めた。
勝てない。
誰もがそう思っていた。
仲間を殺された。
先遣隊も、親衛隊も、もう戻らない。
その原因だと思われる魔物が目の前にいる。
それなのに、自分たちは何もできない。
攻撃は当たらず、武器は弾かれ、仲間が倒れていく。
まるで、彼らの抵抗など、最初から問題にもしていないかのように。
隊員の一人が、震える声で呟いた。
「……俺たちじゃ、勝てない。」
その言葉を、誰も否定できなかった。
リリは、矢をつがえたまま、牙狼を見つめた。
最後に、もう一度だけ。
何か、手がかりが欲しかった。
攻撃を当てることができなくても。
討伐できなくても。
せめて、何かを。
彼女は、牙狼の眼を見た。
そして、気づいた。
……やはり、殺意がない。
これだけの力を持っていながら。
自分たちを簡単に蹴散らしながら。
牙狼は、一度として致命傷を与えるような攻撃をしていなかった。
武器を弾く。
身体をぶつける。
攻撃をかわす。
それだけ。
もちろん、爪で切り裂かれた負傷者も出ている。
戦いの中で、骨折を負った者もいるだろう。
それでも、牙狼が本気で殺しに来ていたなら、こんなものでは済まなかったはずだ。
では、なぜ。
なぜ、牙狼は自分たちを殺さないのか。
リリが答えを探していると、牙狼がふいに動きを止めた。
そして、ゆっくりと彼女のほうを向いた。
その瞳が、リリを捉える。
周囲の音が、遠ざかったような気がした。
牙狼は何も言わない。
ただ、まっすぐに彼女を見つめていた。
その眼差しには、奇妙な感情が宿っていたように思う。
悲しみ。
焦り。
あるいは、何かを伝えようとしているような。
リリには、そう見えた。
「……あなたは、一体……?」
思わず、声が漏れる。
牙狼の耳が、かすかに動いた。
まるで、その言葉を聞き取ったかのように。
しかし、答えは返ってこない。
牙狼は、しばらくリリを見つめていた。
やがて、静かに顔を背ける。
その身体が、木々の間へと向きを変えた。
「……待って!」
リリは、思わず声を上げた。
何を聞こうとしたのか、自分でもわからなかった。
ただ、このまま行かせてはいけない。
そんな気がした。
牙狼の足が、一瞬だけ止まった。
だが、振り返ることはなかった。
次の瞬間、巨大な身体が木々の向こうへと消えていく。
枝葉が揺れ、落ち葉が舞い上がる。
そして、森に静寂が戻った。
誰も、動けなかった。
牙狼が去った。
それなのに、誰も安堵することができなかった。
自分たちは、何もできなかったのだ。
仲間の仇だと思った存在に、攻撃ひとつまともに当てられなかった。
それどころか、相手が本気を出していたのかどうかさえ、わからない。
リリは、ゆっくりと弓を下ろした。
指先が震えていた。
何度も矢を放った。
狙いも、タイミングも、決して間違っていなかった。
それでも、届かなかった。
自分が積み重ねてきた技術も。
仲間たちとの連携も。
隊長としての判断も。
あの牙狼の前では、何ひとつ意味をなさなかったように思えた。
「……隊長。」
声をかけられ、リリは振り向いた。
そこには、傷ついた仲間たちがいた。
武器を失い、肩で息をしながら、呆然と立ち尽くしている。
誰も、最初は成功を疑ってはいなかった。
だが、今は違う。
全員が理解していた。
あの牙狼は、自分たちとは次元が違う。
もし、牙狼が本気で殺そうとしていたら。
もし、あの場で逃げることを許されなかったら。
自分たちは、誰一人生き残れなかったかもしれない。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
「……総員撤退。」
リリは、静かに告げた。
「負傷者を優先して。動ける者は周囲を警戒。遺体の確認は、帰還後に改めて報告する。」
誰も異を唱えなかった。
もはや、戦う気力さえ残っていなかった。
捜索隊は、重い足取りで森を引き返した。
誰も口を開かなかった。
仲間たちの死を目の当たりにした絶望。
救えなかった悔しさ。
そして、牙狼に対して何もできなかった無力感。
それらが、全員の胸に重くのしかかっていた。
リリは、最後尾から森を振り返った。
木々の向こうに、牙狼の姿はもうない。
けれど、あの眼差しだけは、いつまでも頭から離れなかった。
それが何なのか。
どうして、自分たちを殺さなかったのか。
答えは出ていない。
ただ一つ確かなことは、あの森には、自分では到底太刀打ちできないものが潜んでいるということだった。
───リリは、ゆっくりと目を開けた。
「…………。」
窓から差し込む光は、いつの間にか傾き始めていた。
あの日の記憶は、少しも薄れていない。
目を閉じれば、仲間たちの姿が蘇る。
黒い血に染まった地面。
折れた武器。
届かなかった救援。
そして、牙狼の眼差し。
リリは、布団の上で両手を握りしめた。
隊長だった自分が、もっと何かできたのではないか。
あの場で、別の判断をしていたら。
そんな考えが、何度も頭をよぎる。
けれど、どれだけ考えても、答えは見つからなかった。
あの牙狼にまったく歯が立たなかった。
それが、紛れもない現実だった。
「……はぁ。」
リリは、深く息を吐いた。
今は、身体を休めなければならない。
頭ではわかっている。
それでも、心はあの日の森から離れられなかった。
そして、もう一つ。
どうしても気になることがあった。
「……リュカ。」
少女の名前を、そっと口にする。
銀灰色の髪と、灰色の狼耳。
琥珀色の瞳を持つ、小さな少女。
初めて会ったときは、縮こまっておどおどしていて、危なっかしくて放っておけないような女の子だった。
けれど、あの子は少しずつ、この街に馴染み始めていた。
ギルドで仕事を探し、弓の訓練を受け、人々と関わりながら、自分の居場所を見つけようとしている。
そんな姿を見ることが、リリには嬉しかった。
だからこそ。
今は、心配でならなかった。
あの森で見た牙狼。
そして、あの日見た惨劇。
まだ、何も解決していない。
もし、あの牙狼が再び現れることがあるのだとしたら。
リュカがその危険に巻き込まれる可能性だってある。
「……お願いだから。」
リリは、胸元を押さえた。
声が、かすかに震えた。
自分が経験した恐怖を、あの子には味わってほしくない。
仲間を失う痛みも。
目の前の相手に何もできない絶望も。
そして、自分が何も守れなかったという後悔も。
できることなら、知らずにいてほしい。
リュカには、まだ先がある。
この街で、たくさんの人と出会い、いろいろな景色を見て、自分の人生を歩んでほしい。
その未来まで、あの森の闇に奪われてほしくなかった。
リリは、ゆっくりと目を閉じた。
今すぐギルドへ戻りたい。
けれど、身体はまだ思うように動かない。
焦る気持ちを抑えながら、彼女は小さく呟いた。
「……もう少しだけ、待っていてね。リュカちゃん。」
静かな部屋に、その声だけが残った。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと街を眺めていた。




