知らない顔
リリたちが森へ向かってから、一週間。
リュカは弓士としての修練を重ね、少しずつ成長していく。
けれど、胸の奥にある不安は消えないまま。
そんな彼女を気にかける人との何気ない時間。そして、夜に訪れる思いがけない知らせ。
少女の一日は、静かに動き始める。
捜索隊が動き出してから、一週間ほどの時間が経った。
セレスタの街には、いつもと変わらない朝が訪れていた。
露店の準備をする商人たちの声。石畳を行き交う人々の足音。街のあちこちから漂ってくる、焼きたてのパンや香ばしい料理の匂い。
冒険者ギルドもまた、朝早くから多くの人で賑わっていた。
依頼を受ける者。報酬を受け取りに来た者。仲間と今日の予定を相談する者。
そんな喧騒の中で、リュカはいつものようにギルドの受付へ目を向けた。
───今日も、まだ帰ってきていない。
この、短くも長い一週間。
リュカが気にしているのは、いつもはその中にいる人物。
リリ。
街に来たばかりの自分に仕事の事をら教えてくれたり、落ち込んだ時には励ましてくれたりした優しい人。
彼女が捜索隊を率いて森へ向かったと聞いたとき、リュカは何も言えなかった。
危険な場所だと分かっているからこそ、何も言えなかった。
リュカの胸の奥には小さな不安が残り続けていた。
「……無事だといいな。」
誰に聞かせるでもなく呟き、リュカは視線を落とした。
窓から差し込む朝日が、床に長い影を作っている。
いつまでも気にしていたところで、今の自分にできることはない。
そう分かっていても、気持ちを切り替えるのは簡単ではなかった。
ふと、森で聞いた声が脳裏をよぎる。
『……来………な……』
……あの声は、一体何だったのだろう。
聞き間違いとは思えない。けれど、何かを確かめるために森へ向かうことなど、今のリュカにはできない。
ギルドマスターから、森へ入ることを禁じられている。
それに、あの声を思い出すだけで、足がすくむような感覚が蘇る。
リュカは小さく息を吐いた。
「……今は、できることをしよう。」
そう呟くと、彼女は立ち上がった。
不安が消えたわけではない。
ただ、立ち止まっているよりは、何かをしていたかった。
今の自分にできることを、一つずつ増やしていく。
それだけが、今のリュカにできることだった。
ギルドの裏手にある訓練場には、朝の冷たい空気が残っていた。
木製の的が並び、端には練習用の弓や矢が整然と置かれている。
リュカはその一角で、一本の矢をつがえていた。
「肩に力が入りすぎてる。もう少し抜いて!」
背後から声が飛ぶ。
「は、はい……!」
リュカは肩の力を抜き、弓を構え直した。
指導しているのは、ギルド直属の教官であるイヴだった。
リュカが弓士として登録してから、その基礎を一から教えてくれている人物である。
落ち着いた口調で、必要なことだけを的確に伝える。できていないところは遠慮なく指摘するが、できたことを頭ごなしに否定することもない。
リュカにとっては、まだ少し緊張する相手だった。
「弓かを引くとき、腕だけで引こうとしない。足の位置、腰の向き、肩の動き。全部の動きはつながってるから。」
「……はい。」
「そして狙いを定めることばかり考えない。まずは、毎回同じ姿勢で構えられるようにする。命中するかどうかは、その後。」
リュカは真剣な表情で頷いた。
弓を握る手に、少し汗が滲んでいる。
この一週間、リュカは毎日のように弓を引いてきた。
最初は、弦を引くだけでも肩に力が入り、狙いを定めようとすると腕が震えた。
矢を放てば、的の端に当たるどころか、まるで見当違いの場所へ飛んでいくことも珍しくなかった。
けれど、繰り返し練習するうちに、少しずつ感覚が分かってきた。
足の置き方。
弓を支える手の角度。
弦を引き絞る力加減。
矢を放つ瞬間の呼吸。
教わったことを1つずつ意識し、失敗するたびに修正してきた。
「じゃあ、次はいつもの的。10本続けて撃ってみて。」
「…分かりました。」
リュカは的に向き直った。
弓を構え、矢をつがえる。
息を吸い、吐く。
狙いを定め、弦を引き絞る。
───放つ。
矢は風を切り、的の中心から少し右に逸れて突き刺さった。
「次。」
イヴの声に、リュカはすぐさま次の矢を手に取った。
二本目。
三本目。
四本目。
矢は毎回、まったく同じ場所に当たるわけではない。それでも、以前のように大きく外れることは減っていた。
10本を撃ち終えると、リュカは息を整え、弓を下ろした。
「…どうだった?」
「…えっと…最初よりは、狙ったところに飛ぶようになったと思い、ます。…でも、まだ中心から外れます。」
「そうね。姿勢は安定してきた。だけど、矢を放つ瞬間に右肩が上がる癖があるわ。そこを直せば、もう少しまとまるはず。」
「……はい。」
イヴは頷き、的の方へ視線を向けた。
リュカの上達は、確かに早かった。
もちろん、一週間で熟練の弓士になれるわけではない。狙いの精度も、矢を放つ際の細かな動作も、まだまだ改善の余地がある。
それでも、教えたことを理解し、次の動作で修正しようとするまでの時間が短い。
失敗した直後に、何がずれたのかを自分なりに考え、次の一射に反映させる。
その繰り返しが、普通の初心者よりも明らかに速かった。
「よし。次は動く的を使うわ。」
イヴは訓練場の端に置かれた装置を操作した。
細い木枠に取りつけられた小さな的が、左右に揺れる仕組みになっている。動く標的を狙う練習用のものだ。
「いい?止まっている的と違って、実際の敵は待ってくれない。動きを見て、どこに矢を通すか考えるの。標的そのものを追いかけすぎないこと。」
「…はい。」
「最初は当たらなくてもいい。動きをよく見て、落ち着いて撃ちなさい。」
リュカは新しい矢をつがえた。
装置が動き始める。
的はゆっくりと左右へ揺れ、やがて一定の間隔で動くようになった。
リュカはその動きを目で追う。
右へ。
左へ。
再び右へ。
揺れの幅と速さを確かめ、矢を放つタイミングを探った。
そして。
───ヒュッ。
矢が飛んだ。
矢は的の中心からは外れたものの、そのすぐ脇をかすめていった。
「……あっ…。」
リュカが目を丸くする。
「今のは悪くないわ。次は、矢を放つ瞬間に標的がどこへ動くかも考えてみて。」
「……はい!」
二本目。
今度は、的の動きに合わせてほんの少し狙いをずらした。
矢は木枠に当たった。
三本目。
的の端に、矢が突き刺さる。
「……当たった……!」
思わず声が弾んだ。
「喜ぶのはいいけど、今の一射だけで満足しないこと!大事なのは同じことを繰り返せるかよ!」
「……はいっ。」
リュカは頷き、再び弓を構えた。
四本目は外れた。
五本目も、的の少し手前を通り過ぎた。
それでも、リュカは焦らなかった。
的が動く方向を見極め、先ほどの失敗を思い返し、狙いをわずかに修正する。
六本目。
矢が的の端を捉えた。
七本目。
再び、的の近くを通過する。
八本目。
木枠に当たった。
そして───九本目。
矢は揺れる的の端に、はっきりと突き刺さった。
「……やった……。」
リュカの顔が少し明るくなる。
それを見て、イヴは何も言わなかった。
的が動く速さは、初心者向けに遅く設定してある。
それでも、初めて動く標的を狙った者が、これほど短い時間で何度も近い位置へ矢を飛ばすのは珍しかった。
しかも、リュカは標的の動きを目で追うだけではなく、わずかな変化に合わせて狙いを修正していた。
「……リュカ。」
「……はい?」
「今、何をしたの?」
「…えっと…動く的を狙って…。何本か当たりました…?」
「違う。私が聞いているのは、どうやって当てたかよ。」
リュカは首を傾げた。
「……どうやって……?」
「今、標的の動きを見て、外れた位置を確認して、次の一射で狙いを修正したでしょう。しかも、修正するまでが極端に速い。」
イヴは的を見つめたまま続けた。
「あなた、動いているものを捉えるのが上手いわね。」
「……そうですか?」
「ええ。普通の初心者なら、標的を目で追うことだけで精一杯になる。あなたはそれに加えて、動きの変化に反応して、狙いまで修正している。」
リュカは自分の手元を見下ろした。
特別なことをしているつもりはなかった。
的が右へ動けば、その動きを追う。左へ動けば、今度は左を見る。矢が外れれば、次は少し狙いを変えてみる。
ただ、それだけのことだと思っていた。
「……よく分かりませんけど、当たると嬉しいです。」
素直な答えに、イヴはフッと小さく息を吐いた。
「その感覚は大事にしなさい。ただし、今の結果だけで自分の腕を過信しないこと。」
「……はい。分かってます。」
「……あなたは動体視力、反射神経、それに身体能力。どれも普通の冒険者の水準じゃないわ。はっきり言って、異常よ。」
「い、異常……?」
リュカは不安そうに耳を伏せた。
「悪い意味じゃないわ。褒めているの。」
「…あ……そ、そうなんですね。」
「でも、勘違いしないで。あなたの弓の技術そのものは、まだまだ初心者よ。姿勢も、狙いも、力の使い方も、これから覚えることが山ほどある。」
イヴの声は厳しかったが、そこには確かな期待があった。
「並外れた感覚があるからといって、練習を省いていい理由にはならない。むしろ、その感覚をきちんと技術に変えられるかどうかが大切なの。」
「……はい。分かりました。」
リュカは弓を握り直した。
自分の身体に、そんな特徴があるとは思わなかった。
ただ、昨日よりも少し上手くなりたい。
今日できなかったことを、明日はできるようになりたい。
今のリュカにとっては、それだけで十分だった。
「よし。じゃあ、もう10本。」
「はい!」
リュカは再び弓を構えた。
的が動き始める。
今度は、さっきよりも慎重に狙いを定めた。
矢が放たれ、木枠に当たる。
次の矢は外れた。
その次も、狙いから逸れた。
けれど、リュカは一射ごとに自分の動きを見直し、教わったことを確かめながら、何度でも弓を引いた。
その姿を、イヴは静かに見守っていた。
……技術はまだ未熟だ。
それでも、この少女には、何かを掴むまで諦めずに繰り返す力がある。
そして、何より───。
リュカのその目は、動くものを捉えるとき、驚くほど鋭かった。
───昼を過ぎると、訓練場の周囲も少しずつ賑やかになってきた。
練習を終えたリュカは、訓練用の弓を所定の場所へ戻し、ギルドの建物へと入った。
腕には疲れが残っている。
弓を引き続けたせいか、肩も少し重かった。
それでも、胸の中には小さな達成感があった。
動く的に何度か矢を当てることができた。
イヴからは厳しい指摘も受けたけれど、上達していると言ってもらえた。
今日また、できることが少し増えた。
それだけで、練習を続けた意味があったと思えた。
リュカは受付で依頼書の束を貰い、目を通し始めた。
採集や荷物運び、街の外周での見回りなど、さまざまな依頼書が貼られている。
以前なら、そこに並ぶ依頼の一つ一つが、未知の世界への入口に見えた。
今もその気持ちは変わらない。
いつか、もっと腕を磨いて、いろいろな依頼を受けられるようになりたい。
自分の力で誰かの役に立てるようになりたい。
そう思う気持ちは、少しずつ強くなっていた。
けれど、依頼書に目を走らせていると、どうしても気になるものがあった。
森の近くでの採集依頼。
街道沿いの巡回。
森に関係する依頼を見るたびに、リュカの胸はわずかにざわついた。
今ごろ……あの人はどうしているのだろう。
森の中で何かを見つけたのだろうか。
無事に進めているのだろうか。
考え始めると、次々に疑問が浮かんでくる。
けれど、その答えを知る方法はない。
ギルド長から森へ入ることを禁じられている以上、自分で確かめに行くわけにもいかなかった。
そもそも、禁じられていなくても、自分にそんな勇気があるのか分からない。
あの森の奥に何があるのか。
何が、あの声を発していたのか。
思い出すだけで、心臓が嫌な音を立てる。
「……だめだ。」
リュカは小さく首を振った。
今、自分にできることは、少しでも強くなる事。
焦っても、リリたちの力になれるわけではない。
そう自分に言い聞かせ依頼書を返し、受付から離れた。
その後は、ギルドの片隅で水を飲み、少し休んでから、再び練習の記録を見直した。
どの矢が当たったのか。
どの矢が外れたのか。
そのとき、自分はどこを狙っていたのか。
イヴに教わったことを思い返しながら、次に気をつけるべき点を頭の中で整理していく。
そうしている間だけは、余計なことを考えずにいられた。
窓の外から差し込む光は、少しずつ傾いていく。
気づけば、夕方が近づいていた───。
夕暮れの光がギルドの窓から差し込む頃、リュカは建物の片隅で一人、ずっと今日の練習を振り返っていた。
手元にある記録を元に書き出してみると、できるようになったことと、まだできないことがはっきり分かった。
少しずつ前に進んでいる。
それは嬉しいことだった。
けれど、胸の奥にある不安は、どうしても消えてくれない。
入口が開くたび、ついそちらを見てしまう。
誰かが帰ってきたのではないか。
捜索隊の知らせが届いたのではないか。
そんな期待を抱いては、違うと分かり、視線を戻す。
何度も、それを繰り返していた。
そのときだった。
「……おう。」
聞き覚えのある声がした。
リュカが顔を上げる。
そこに立っていたのは、ガルドだった。
「あ……。」
「久しぶりだな。リュカ。」
ガルドはいつもの気さくな調子で手を上げた。
リュカは驚いたように目を瞬かせる。
「……どうしてギルドに?」
「まあ、ちょいと用があってな。」
そう答えながら、ガルドはリュカの姿を見た。
弓を持つ方の手には、まだ練習の疲れが残っているようだった。
髪は少し乱れ、額にはうっすらと汗の跡がある。
そして何より、目の前にいるリュカの表情が気になった。
初めて会ったときから、危なっかしいところのある子だとは思っていた。
放っておくと、何もかも一人で抱え込んでしまいそうなところがある。
それでも、この街に来てからは、少しずつ周囲に馴染んでいるように見えていた。
だから、しばらく姿を見かけなくても、そこまで気にしてはいなかった。
だが、今日は違った。
ギルドへ用事があって立ち寄った際、訓練場で弓を引くリュカの姿が目に入った。
その腕は、訓練を初めてから1週間とは思えないほど目を見張るものがあった。
けれど、楽しそうに練習しているというより、何かを振り払うように、ひたすら弓を引き続けているように見えた。
休む間も惜しむように、何度も何度も。
その様子が、どうにも引っかかったのだ。
───あいつ、何をそんなに焦ってやがる。
ガルドには、リュカが何を思い詰めているのかまでは分からない。
ただ、あの調子で一人で無理を重ねていないか。それが少し気になった。
「……お前、飯は食ったか?」
「……え?」
「飯だよ。もう夕方だろ。」
リュカは窓の外に目を向けた。
いつの間にか、空は橙色に染まっていた。
「…あ…まだです。」
「なら、付き合え。俺もちょうど腹が減ってたところだ。」
「え…?わ、わたし……?」
「なんだ、用事でもあるのか?」
「……いえ、そういうわけじゃ……。」
「なら決まりだ。」
ガルドは、いつもの調子で笑った。
リュカは少し戸惑いながらも記録書を片付け、荷物を手に取った。
ガルドの店は、ギルドから離れた場所にある。
そのため、こうして彼と顔を合わせる機会は、決して多くなかった。
わざわざこちらまで来てくれたのだろうか。
そんな考えが一瞬頭をよぎったけれど、リュカは口にしなかった。
二人はギルドを出て、夕暮れの街を歩き始めた。
ガルドが連れてきたのは、ギルドからほど近い場所にある小さな食堂だった。
木製の扉を開けると、温かな空気と、煮込み料理の香りが二人を迎えた。
店内には、仕事を終えた職人や冒険者たちがちらほらと座っている。
ガルドは空いている席を見つけると、リュカを促した。
「ほら、座れ。」
「はい。」
2人が椅子に座ると、程なくして白い調理服に身を包んだ小太りの男性が揚々とやってきた。
「よう!ガルドじゃねえか!久しぶりだなぁ!」
「よお。近くまで来たんでな。変わんねえなお前。」
「そりゃこっちのセリフだわ!相変わらずゴリラみてぇな腕しやがって!」
うるせーよ、と笑いながら握手を交わすガルド。
どうやらただの知人という訳では無いらしい。
「んん?なんだなんだ?お前の新しい女か?」
「…ひっ……?!」
急に、ガルドの友人と思わしき男性がリュカに顔を近付けてきた。咄嗟のことに軽く悲鳴のような声が出る。
「お前なぁ…。怖がらすんじゃねえよ。」
「冗談だよ冗談!なんだお前、またお節介焼いてんのか!やっぱ変わんねえな!」
「うるせーうるせー。さっさと料理持ってこいよ。ディナーセット2つだ。」
ガルドがしっしっと手で追い払うと、「後でその子紹介しろよー。」と言いながら男は奥に戻って行った。
「すまんな、悪い奴じゃないんだが……。」
「あ、や…わたしは別に……。」
ばつが悪そうにしているガルドに、手をぱたぱたと振ってアピールする。
それから2人は何気ない話をして、時間を過ごした。
それからほどなくして料理が運ばれてきた。
リュカの前に、野菜の入ったスープと焼いた肉、それにパンが置かれた。
湯気の立つ料理を前にすると、ようやく自分が空腹だったことに気づく。
「……いただきます。」
リュカは小さく手を合わせ、スープを口に運んだ。
温かな味が、冷えていた身体に染み込んでいく。
「それで、今日は何をしてたんだ?」
ガルドが尋ねた。
「…弓の練習。今日は、動く的にも当てれた。」
「へえ。そりゃすげえじゃねえか。」
「…でも、まだまだ。教官にも…直さないといけないところがたくさんあるって言われた。」
「そりゃそうだろ。始めたばっかりなんだからな。」
ガルドはあっさりと言った。
「最初から何でもできるやつなんて、そうそういねえよ。今日、一つでも何かできるようになったんなら上等じゃねえか。」
「……そう、かな。」
「そういうもんだ。」
ガルドはパンをちぎり、スープに浸して口へ運んだ。
リュカはその言葉を、ゆっくりと噛みしめた。
「……明日も、頑張る。」
「おう。無理しすぎねえ程度にな。」
何気ない言葉だった。
けれど、その最後の一言に、リュカはわずかに目を伏せた。
ガルドは、気づいていたのだろうか。
自分が、少し無理をしていることに。
リュカはスプーンを置き、しばらく迷ってから口を開いた。
「……あの。」
「ん?」
「……まだ、帰ってこない?」
ガルドの手が、一瞬だけ止まった。
「……リリの事か。」
「……もう一週間も経つのに。わたしには何も言ってくれないまま、森に行って……何かあったんじゃないかって……考えてしまって。」
リュカは膝の上で手を握った。
「……でも、私には何もできなくて。森に行くのも怖いし、行っちゃいけないって言われてるし……。」
声が少しずつ小さくなる。
「……だから、弓士の練習して、わたしも戦えるようになって。強くなろうって思った。でも……」
言葉が途切れた。
自分でも、何を言いたいのか分からなかった。
弓の練習を頑張ったからといって、リリたちの無事が分かるわけではない。
強くなったところで、今すぐ何かが変わるわけでもない。
それでも、何かをしていなければ、不安に押しつぶされそうだった。
ガルドは急かさなかった。
ただ、リュカが言葉を探すのを待っていた。
「……私、何をしてるんだろうって。時々、分からなくなる。」
ようやく出てきた言葉は、そんなものだった。
ガルドはしばらく黙っていた。
そして、食べ終えた皿を少し脇へ寄せると、静かに口を開いた。
「……心配なんだな。」
リュカは小さく頷いた。
「そりゃ、そうだろうよ。世話になった相手が、危ない場所に行ってるんだからな。」
ガルドは、無理に笑わせようとはしなかった。
大丈夫だと、根拠もなく言うこともしなかった。
「今は、信じて待つしかねえ。」
「……はい。」
「でもな」
ガルドはリュカを見た。
「お前が今日、弓の練習を頑張った事は無駄になるわけじゃねえだろ。」
その言葉に、リュカは静かに顔を上げた。
「今すぐ誰かを助けられなくても、できることを増やしておくのは悪いことじゃねえ。いつか、それが役に立つ日も来るかもしれねえからな。」
「……いつか。」
「ああ。焦っても、できねえことが急にできるようになるわけじゃねえ。だったら、今できることを1つずつやっていけばいい。」
ガルドは、いつもの調子で笑った。
「少なくとも、今日のお前は昨日より一歩進んだんだろ?」
リュカはしばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
不安が消えたわけではない。
リリたちが無事に帰ってくるという保証もない。
それでも、今の自分がやっていることを、無意味だと思わなくてもいいのかもしれない。
そう思えただけで、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
食事を終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
店を出る時、あの小太りの男がリュカの事を紹介しろと喚いていたが、また今度なとガルドは適当にあしらってくれた。
「送っていくか?」
ガルドが尋ねる。
「……大丈夫。」
「そうか。じゃあ、気をつけて帰れよ。」
「うん。……ありがとう、『ガルドさん。』」
「……礼なんかいらねえよ。俺も飯を食いに来ただけだからな。」
少し驚いた顔をしたガルドだったが、飄々と言い残し、ひらひらと手を振り去っていった。
リュカはその背中に小さく頭を下げ、その場を後にした。
背中に夜風を感じながら、宿へ向かって歩いていく。
───今日も、リリたちは帰ってこなかった。
それでも、今夜は少しだけ、呼吸がしやすい気がした。
明日も弓を引こう。
今日できなかったことを、明日できるように。
今の自分にできることを、少しずつ増やしていこう。
そう思いながら、リュカは宿の扉を開けた。
宿の部屋は、静かだった。
窓の外からは、遠くを行き交う人々の音がかすかに聞こえてくる。
リュカは寝台の端に腰掛け、ゆっくりと靴を脱いだ。
身体には、一日の疲れが残っている。
肩を回すと、弓を引き続けた筋肉がわずかに痛んだ。
それでも、今日の練習は悪くなかった。
動く的に矢が当たったときの感覚は、まだ手の中に残っている。
イヴに言われたことも、ガルドにかけられた言葉も、頭の中で繰り返されていた。
今できることを、一つずつ。
それはきっと、間違っていない。
けれど、寝台に横になって目を閉じると、どうしても考えてしまう。
あの人は今、どこにいるのだろう。
無事に食事を取れているだろうか。
ちゃんと眠れているだろうか。
森の中で、危険なことに巻き込まれていないだろうか。
考えれば考えるほど、心配は尽きなかった。
「……リリさん。」
小さく名前を呼んでみる。
当然、返事はない。
リュカは布団を胸元まで引き上げた。
ガルドの言葉を思い出す。
信じて待つしかない。
今できることを、一つずつ。
分かっている。
分かっているけれど、一度頭をよぎると心配しないでいることはできなかった。
リュカは寝返りを打ち、窓の方へ顔を向けた。
夜空には、星がいくつも瞬いている。
この空の下のどこかに、リリたちがいる。
どうか、無事でいてほしい。
そう願いながら、リュカは静かに目を閉じた。
───どれくらい時間が経っただろう。
眠りに落ちかけた、そのときだった。
ざわっ。
遠くから、複数の足音が聞こえてきた。
最初は、夜の街を通り過ぎる人々の音かと思った。
けれど、その足音は一人や二人のものではなかった。
何人もの人間が、まとまって歩いている。
しかも、どこか慌ただしい。
リュカは目を開けた。
「……?」
耳を澄ませる。
足音は、街の入口の方から近づいてきているようだった。
胸の奥が、どくんと鳴る。
まさか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、リュカは布団を跳ねのけていた。
寝間着のまま、寝台から飛び降りる。
靴を探し、慌てて足を入れた。
上着を羽織ることも忘れ、部屋を飛び出す。
階段を駆け下り、宿の扉を開けると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
リュカは街の入口へ向かって走った。
街の入口には、すでに何十人もの人が集まっていた。
灯りを掲げた人々が道の両側に立ち、遠くから戻ってくる一団を見つめている。
捜索隊が、帰ってきたのだ。
そのことに気づいた瞬間、リュカの足がわずかに速くなった。
人々の隙間から、戻ってきた者たちの姿が見える。
何人もの冒険者が、夜の闇の中からゆっくりと歩いてくる。
リュカはその顔を一人ずつ確かめようとした。
けれど、知っている顔はほとんどない。
捜索隊の人たちとは、ほとんど面識がなかった。
誰がいて、誰がいないのかも分からない。
ただ一人。
リュカが知っている顔は、リリだけだった。
───お願い。
胸の中で、何度も繰り返す。
───無事でいて。
人影が少しずつ近づいてくる。
その中に、見覚えのある姿があった。
リュカの目が、大きく見開かれる。
「……リリさん。」
声には出さなかった。
けれど、胸の奥で、その名前を強く呼んでいた。
間違いない。
あの髪。
あの歩き方。
何度も見た、リリの姿だった。
リュカは、知らず知らずのうちに握りしめていた手を緩めた。
身体から、力が抜けていく。
帰ってきた。
リリが、帰ってきた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
息を吐こうとしたのに、うまくできない。
張りつめていたものが、一気にほどけていく。
目の奥が熱くなった。
けれど、泣きそうになっていることに気づくと、リュカは慌てて目元をこすった。
こんな大勢の前で、泣くわけにはいかない。
そう思ったのに、視線だけはリリから離せなかった。
そのとき。
リリが、ふと顔を上げた。
人々の間に立つリュカを見つけたのだろう。
二人の視線が、灯りの炎越しに重なった。
リリの目が、ほんのわずかに見開かれる。
そして、その表情が一瞬だけ柔らかくなった。
ほんの少し、口元が緩む。
まるで、そこにリュカがいることを確かめて、安心したかのように。
リュカの胸が、じんわりと温かくなった。
よかった。
本当に、よかった。
そう思った瞬間だった。
リリの表情が、ゆっくりと変わった。
柔らかさが消えていく。
疲労の色が浮かび、目元が硬くなる。
そして、前を向き直ると、何事もなかったかのように歩き続けた。
リュカは、少しだけ戸惑った。
……疲れているのだろうか。
きっと、そうなのだろう。
一週間も森にいたのだ。
そう自分に言い聞かせようとした。
けれど、何かがおかしかった。
戻ってきた冒険者たちは、誰も笑っていなかった。
肩を落としている者。
俯いたまま歩く者。
隣の仲間と顔を見合わせても、何も言わずに視線を戻す者。
誰もが疲れ切っているように見えた。
それだけではない。
彼らの間には、言葉にしがたい重苦しさが漂っていた。
無事に帰ってきたのなら、もっと安堵した様子があってもいいはずだ。
街の人々も、最初は帰還を喜んでいた。
「おかえり!」
「無事だったか!」
そんな声が、あちこちから上がっていた。
けれど、戻ってきた者たちの反応があまりにも乏しいため、次第に人々の声も小さくなっていく。
誰も、何があったのかを尋ねられずにいた。
リュカは、ただ立ち尽くしていた。
無事に帰ってきた。
それは間違いない。
けれど、どうしてあんな顔をしているのだろう。
どうして、誰も笑わないのだろう。
どうして、こんなにも空気が重いのだろう。
胸の奥に、先ほどまでとは違う不安が広がっていく。
帰ってきたのだから、安心していいはずだった。
もう、心配しなくてもいいはずだった。
それなのに。
リュカは、無意識のうちに一歩だけ後ずさっていた。
誰かに押されたわけではない。
ただ、その場に漂う空気から、少しでも距離を取りたくなったのだ。
夜風が、寝間着の袖口から入り込む。
冷たい。
けれど、それ以上に、胸の奥が冷えていくようだった。
リュカは、もう一度リリを見た。
リリは、ほかの冒険者たちとともに街の中へ進んでいく。
その背中は、いつもよりずっと遠くに感じられた。
何があったのか。
森で、何を見たのか。
どうして、誰も何も話さないのか。
リュカには、何一つ分からなかった。
ただ一つ、確かなことは。
捜索隊は帰ってきた。
けれど、彼らが持ち帰ったものは、安堵だけではなかった。
夜の街に、重苦しい沈黙が広がっていく。
リュカはその場に立ち尽くしたまま、遠ざかっていくリリの背中を見つめていた。




