知らなかった
ヴァルゼンから明かされた灰狼族の『獣神化』
その事について、何も情報は得られぬままついに退院の日を迎えたリュカ。
自由を楽しみ、動けることの喜びを噛み締める。
早く森へと急く心。たが森への任務に向かう前に、ダリウスから何やら話があるようで───?
────リュカと牙狼の戦いから、二週間が過ぎた。
窓から差し込む柔らかな朝日が、白い病室を明るく照らしていた。
ベッドの端に腰掛けるリュカは、目の前に立つ担当医をじっと見上げていた。
その隣にはリリの姿もある。
この日は、リュカが無事退院できるかどうかを判断する最後の診察の日だった。
「……うん。傷も大方治ってるね。これなら、もう大丈夫かな。」
担当医はリュカの身体を確認し終えると、満足そうに頷いた。
「……ほんと?」
「うん。今日でもう退院して大丈夫だよ」
「……っ!」
リュカの狼耳が、ぴんと立った。
「やったわね、リュカちゃん!」
リリが思わず声を弾ませる。
その声に、リュカの尻尾もふわりと揺れた。
「……やった。」
小さく呟きながら、リュカは自分の腕を確かめるように動かした。
身体のあちこちに残っていた痛みも、今ではほとんど感じない。
もう、ベッドの上で過ごすだけの退屈な日々が終わる。
自由に歩ける。外へ出られる。
好きなものを食べることだってできる。
当たり前だったはずの日常が、今はとても眩しく感じられた。
「ただ、退院できるからといっていきなり依頼に走ったりしないようにね。まだ完全に元通りというわけではないんだ。無理をしないように。」
「……うん。」
「本当に分かってる?」
リリが横から顔を覗き込む。
「……分かってる。」
「ならいいけど……。」
リリは少しだけ疑わしそうな目を向けた。
リュカはそんな視線から逃れるように、窓の外へ顔を向ける。
早く森へ行きたい。
もう一度、牙狼と話がしたい。
けれど、今はまだ我慢だ。
そう自分に言い聞かせるように、リュカは小さく頷いた。
「先生。ありがとうございました。」
リリが担当医に頭を下げる。
「いえいえ。リュカ君、もう戻ってこない事を祈ってるよ。」
「……うん。」
リュカもぺこりと頭を下げた。
こうして、長かった入院生活は終わりを迎えた。
「よし、これで荷物は全部かな?」
リリが鞄の中を確認する。
衣服に、身の回りの小物。
入院中に使っていたものは、そう多くない。
忙しなく荷物をまとめ終えたリュカは、嬉しそうに尻尾を小刻みに振っていた。
「……終わった。」
「こっちも大丈夫。忘れ物も…無さそうね。」
「……じゃあ、早く出よう。」
「ふふっ。そうね」
リリは笑いながら、最後の荷物を持ち上げた。
そのとき、ふと思い出したように手を止める。
「そういえば……。」
「……?」
リュカがリリの方に顔を向ける。
「ギルド長にも、その……獣神化?について調べてもらうよう頼んだんだけど、まだ何も報告がないのよね。」
「……そう……。」
リュカの耳が、わずかに伏せられた。
ヴァルゼンからの話で、灰狼族に隠された獣神化という能力の事を知った。
そしてそれが、森でリュカの身体に起きた異変の正体だということも。
しかしそこに辿り着いたは良いものの。
どうすれば自由に使えるようになるのかも。
扱い損なった時のリスクも。
ヴァルゼンが知っていたのも能力の名前だけで、獣神化については詳しいことは何一つとして分からないままだった。
「…そう簡単に分かることでもないんでしょうね。灰狼族について調べるだけでも大変だろうし……。」
「……うん。」
「でも、ギルド長もちゃんと調べてくれているはずよ。何か分かったらすぐに教えてくれるわ。」
リリはそう言って、リュカの頭を優しく撫でた。
「……ん。」
リュカは大人しく撫でられながら、小さく頷く。
分からない物事を悩み続けても仕方がない。
それならば、今自分に出来ることをするだけ。
そう思いながら、リュカは鞄を手に取った。
「さて、それじゃあ退院の報告に行きましょう。」
「……うん。」
───病院を出ると、秋の透き通った風が二人の頬を撫でた。
久しぶりに感じる外の空気。
通りを行き交う人々の声。
店先から漂う料理の匂い。
何もかもが、いつもより鮮やかに感じられる。
リュカは足を止め、ゆっくりと街並みを見回した。
「……外。」
「やっと出られたわね。」
「……自由。」
「ふふっ。そうね、自由。」
リリは微笑ましそうにリュカを見つめた。
まるで初めて外へ出た子供のような反応だ。
いや、実際にリュカにとっては、それに近いものなのかもしれない。
大怪我を負い、割と長い時間を病室で過ごした。
その間、リリも毎日見舞いに訪れていたが、リュカがこうして自分の足で街を歩く姿を見るのは久し振りだった。
「……寒い。」
秋風に身震いをするリュカ。
二週間前までまだ少し暑いくらいだった気温も一気に下がって、冷えた風を運んできていた。
「あら…大丈夫?」
「……大丈夫。」
「手、繋ぐ?暖かいわよ。」
「…………いい。」
リリの差し出した手は空を切って無を掴んだ。
リリの目に見えた少しの下心がリュカの警戒心をくすぐってしまったらしい。
少し残念そうに「もう…。」と呟くリリを置いて、リュカはすたすたとギルドへ向けて歩き出した。
リュカの緩んだ口元は、リリには見えなかった。
他愛もない会話をしながら、ギルドへと辿り着いた二人。
リュカの小さな手で、冒険者ギルドの扉が開かれる。
目に飛び込んでくるのは見慣れた受付カウンター。
壁に貼られた依頼書。
そして耳を打つ冒険者たちの賑やかな話し声。
すっかり馴染みのある光景が広がるギルドのロビー。
そのロビーで、二人は見覚えのある人物と鉢合わせた。
「あれ……?」
短い黒髪の女性が、こちらを振り向く。
そこに立っていたのは、イヴだった。
彼女はリュカの姿を見るなり、目を見開いた。
「リュカ!もう大丈夫なの!?」
一目散に走ってきたイヴは、リュカの顔を覗き込む。
その表情には、隠しきれない心配が滲んでいた。
「……もう大丈夫。」
「そう……良かった。」
イヴはリュカの身体を見て確認すると、ようやくほっと息を吐いた。
「本当に…話を聞いた時はどうなる事かと…。」
そして、少し申し訳なさそうに視線を落とす。
「リュカ…お見舞いに行けなくてごめんね。色々立て込んでて…。」
「……別に、いい。」
「ずっと貴女の事気になってたのよ。リリからは元気そうだから心配しないでとは言われてたけど、この目で見ないと安心出来なかったわ。」
「……うん。」
リュカは少しだけ耳を伏せた。
自分が怪我をしたことで、こんなにも心配してくれる人がいる。
それが少し不思議で、そして嬉しかった。
「……ありがとう、イヴさん。」
少し恥ずかしそうにぽつりと告げる。
イヴは一瞬だけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「…いいえ。でも、もうあんまり無茶しちゃ駄目よ?」
「……うん。」
リュカが真面目な顔で頷くと、イヴは小さく笑った。
「なら、よかった。」
彼女はそれ以上、詳しい事情を尋ねることはなかった。
イヴはリリの耳元に顔を寄せ、目線だけをリュカに向けた。
「……ねぇ、あの子…。」
「ん?どうしたの?」
「……あの子、可愛すぎない?」
耳元でこそこそと発せられた言葉に、少し目を丸くしたリリ。でも直ぐに、にやっと笑ってイヴに耳打ちで返す。
「…無自覚なところが余計可愛いよね。」
「あんたが気に入るのも頷けるわ……私にももう少し懐いて貰えないかしら?」
「さあ、どうかな。でも私以上は難しいかもね?」
ヒソヒソと話を続ける二人。
あまり内容がよく聞こえないリュカは、その様子を首を傾げて見ていた。
「……何の話?」
「…あっ。いや別に…なんでもないわよ!ねぇ?」
「うんうん!リュカちゃんは気にしなくていいの!」
明らさまに挙動不審な二人であったが、リュカはあまり気にとめずまた首を傾げるだけで終わった。
「そ、それよりほら、早くギルド長に報告に行かないと!」
取り繕うようにリュカの背中を押して促すリリ。
訳の分からないリュカはぽかんとしたまま抵抗すること無く押されていく。
「あっ…そ、そうだったのね!ギルド長なら今執務室にいると思うわ!」
「了解!ありがとう、イヴ!」
「いーえ。リュカ!じゃあね!」
「……ん。」
ばたばたと訓練所の方へと駆けていくイヴに軽く手を振り、リュカはリリの手から逃れ歩き出した。
「ちょっ…リュカちゃん!執務室はこっち!」
「……え?」
正反対の方へ歩いていくリュカの手を取り、制止するリリ。
思わず繋がったその手の温もりに少し不思議な感覚を覚えながら、リュカは静かに手を握り返した。
リリは少し驚いた顔をしていたが、何も言わず優しく微笑み、リュカの手を引き執務室へと向かった───。
コンコン。
「失礼します。リリです。」
「はい。どうぞ。」
扉の向こうから、穏やかな声が返ってきた。
リリが静かに扉を開ける。
室内では、ギルド長のダリウスが机に向かって書類を確認しているところだった。
彼は二人の姿を見ると、顔を上げて微笑んだ。
「やあリリ君。と…リュカ君。退院出来たんだね。」
「はい。リュカちゃんが今日退院できたので、その報告に来ました。」
リリの言葉に、ダリウスは嬉しそうに目を細めた。
「それはよかった。リュカ君、おめでとう。」
「……ん。」
「正直、もう少し時間がかかるかと思っていたけど…思ったより早かったね。」
ダリウスは立ち上がり、リュカの様子を確かめるように目を向けた。
「で…身体の具合はどうだい?」
「……もう大丈夫。痛いところも、ない。」
「…そうか。それならいい。」
彼は穏やかに笑った。
その表情には、ギルド長としての気遣いだけでなく、一人の人間としての安堵も感じられた。
「まあ退院したからといって、直ぐに任務に着いてもらう訳じゃない。あまり無茶をしないようにね。」
「……うん。」
「ギルド長。リュカちゃんの管理、一緒にお願いしますね?」
リリがすかさず口を挟む。
「この子、目を離すと何をするか分からないんですから。」
「……そんなことない。」
「病室を抜け出そうとしてたのは誰?」
リリに細められた目を向けられ、リュカはすっと目を逸らした。
「………してない。」
「リュカちゃん。」
「……覚えてない。」
「ははは…リリ君、その辺にしておこう。」
ため息をつくリリとつんとそっぽを向いて抵抗するリュカ。
その様子にダリウスが苦笑しながら二人を制した。
「まあ、元気そうで何よりだよ。」
リュカは少しだけ気まずそうに耳を伏せる。
そんな様子を見て、ダリウスはまた机に戻り、書類の束をを脇へと寄せた。
「さて。それじゃあ、せっかく来てもらったし今後のことについても話しておこうか。」
その言葉に、リリの表情が少し引き締まった。
「今後のこと、ですか?」
「ああ。リュカ君が退院したら、一度話しておきたいと思っていてね。」
ダリウスは二人に椅子を勧め、自分も机の向こう側へ腰を下ろした。
「まず、森へ向かう件についてだね。」
リュカの耳が、ぴくりと動く。
その言葉を聞いただけで、胸の奥がわずかにざわめいた。
「入院中に伝えたとおり、リュカ君にはリリ君と一緒に森へ向かってもらう予定だ。これは今も変わっていない。」
「……うん。」
「ただ、今すぐに出発してもらうつもりはない。」
ダリウスは落ち着いた口調で続けた。
「森についても、君自身についても、まだ僕たちが把握できていないことが多い。だからこそ次に向かうときには、少しでも安全に行動できるよう準備を整えておきたいんだ」
リュカは静かにダリウス話を聞いていた。
前回のように一人で森へ入た時のように、何もできずに倒れてしまうわけにはいかなかった。
それに、今度はリリも一緒だ。
自分の軽率な行動が、誰かを危険に巻き込むかもしれない。
それだけは避けたかった。
「……何をすればいいの?」
リュカが尋ねる。
ダリウスは、待っていたとばかりに頷いた。
「うん。君がするべきことは二つある。」
彼は指を一本立てた。
「一つ目。件の獣神化を扱えるようになること。」
リュカの表情が、わずかに変わった。
「君が森で発現させたという、あの力。詳しいことはまだ分かっていないけれど…かなり強力なものなのだろう。」
「……うん。」
「でも、強ければいいというものでもない。必要なときに使えなければ意味がないし、自分で制御できなければ、かえって危険になる可能性もある。」
ダリウスは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「だから、まずはその力を会得することを目標にしよう。」
リュカは自分の手を見つめた。
あのときは、自分の意思で使えた訳ではない。
ただあの場から生き延びたくて。
ただあの牙狼に一矢報いたくて。
必死に、自身の体に足掻き続けていただけだった。
もう一度やれと言われて、同じことができるのかどうかも分からない。
それでも。
「……分かった。」
リュカは顔を上げた。
「……頑張る。」
真っ直ぐな瞳で、ダリウスの瞳を見つめ返すリュカ。
ダリウスは満足そうに頷いた。
「うん。いい返事だ」
そして、二本目の指を立てる。
「二つ目。戦闘の腕を磨くことだ。」
「……強くなる事?」
「そう。獣神化だけに頼るわけにはいかないからね。普段の戦闘能力を高めておくことも大切だよ。不足の事態に備えて、二手三手と打てるては持っておかなくてはならない。」
リュカは素直に頷いた。
確かに、あの時もし獣神化が発現していなかったら、肉薄する事も出来ずそのまま倒れていただろう。
技術も、判断力も、経験も、まだまだ足りない。
鍛錬を積んで、鍛えるしかない事だ。
「まず弓の指南は、イヴ君に代わってリリ君にお願いしたいと思っているんだが……どうかな?」
ダリウスがリリへ視線を向けた。
リュカは少し目を見開き、同じくリリへ視線を向ける。
「…!もちろんです!」
リリは、力強く頷いた。
快諾してくれたリリを見て、少し安堵の表情を浮かべるリュカ。
「まだ退院したばかりですので、身体の調子を見ながら少しずつ始めていこうと思います。」
「うん。それがいいね。」
リリはリュカの方へ柔らかな笑顔を向けた。
「やっと…約束を果たせるわね、リュカちゃん。」
「……うん。」
リュカもまた、リリに少しだけ微笑んだ。
あの日した何気ない約束を、ちゃんと覚えていてくれた事の嬉しさがリュカの顔に溢れ出ていた。
「イヴに教えてもらった基礎から、もう一度しっかりやっていきましょうね。」
「……分かった。」
リュカの尻尾が、ゆっくりと揺れた。
戦闘訓練も獣神化の会得も簡単ではないだろう。
けれど、目指すべきものがはっきりした。
それだけでも、気持ちは少し軽くなった。
「それと、もう一つ。」
ダリウスが口を開く。
「獣神化の会得と戦闘訓練については、とある人物に協力を頼んである。」
「……協力?」
「ああ。リリ君と二人でもいいんだけど、もっと戦闘に精通した人が居た方がいいと思ってね。」
ダリウスは机の上に置いてあった書類を手に取り、軽く目を通した。
「本人も快く引き受けてくれている。そろそろ来る頃だと思うんだが……。」
そのときだった。
コンコン。と扉が叩かれた。
「来たか。…いいよ。入ってくれ。」
ダリウスが声をかける。
扉が開き、現れた人物を見てリュカは目を瞬かせた。
「……ガルドさん…?」
「…おう、リュカ。退院できたんだな。」
そこに立っていたのは、いつもどおりの笑顔を浮かべたガルドだった。
大柄な身体に、少し乱れた茶色の髪。
しかしその身体は、見慣れない服に覆われていた。
ゴツゴツとした重厚なブーツに、分厚そうな黒のズボン。
金属で出来た膝あてや赤い布であしらわれた肩あて。上半身はシャツ一枚で、腰には装備品を収納するための腰巻も巻かれている。
そんなガルドの全身を眺めたリュカは、不思議そうに首を傾げた。
リリもまた、見慣れないガルドに困惑しながら目を見開いていた。
「ガルドさん、その服…。」
「ははっ。まあ、そうなるよな。」
ガルドは頭を掻きながら、部屋の中へ入ってきた。
驚きを隠せない二人を見て、ダリウスが楽しそうに笑う。
「いやいや。いい反応だね。今回リュカ君の戦闘訓練と獣神化の会得に向けた修行を手伝ってくれるのは、そこにいるガルドだ。」
「……え?」
リュカの耳が、ぴたりと止まった。
隣にいたリリも、さらに驚いたようにガルドを見つめている。
「えっ!?ガルドさんが!?」
「おう。」
「で、でも、ガルドさんって……ただの串焼き屋さんですよね?」
「ははは。まあ、今はな。」
ガルドはどこか照れくさそうに笑った。
ダリウスが、そんな彼の代わりに説明する。
「ガルドは、かつてリリ君と同じ『特級』冒険者だったんだよ。」
「……特級?」
リュカが呟いた。
リリは目を丸くしたまま、ガルドを見つめている。
「え……っ!?ガルドさん、冒険者だったんですか!?
し、しかも特級って……!」
「おいおい、そんなにビビるなよ。」
「びっくりしますよ!だって…そんな話、一度も聞いたこと……!」
「まあ、わざわざ話すことでもなかったからなあ。」
ガルドは困ったように笑った。
ダリウスは懐かしそうに目を細める。
「僕としては、今でもセレスタで一番の戦闘力を持つ冒険者だと思ってるんだけどね。」
「……そう、なんですね。」
リリはまだ少し驚いているようだった。
一方、リュカはガルドをじっと見つめていた。
いつも串焼きを焼いている、気さくな店主。
面倒見が良くて、リュカにもいつも優しい笑顔を向けてくれていた人。
そんなガルドが、自分の修行相手になる。
「……ガルドさんが…わたしに…。」
「ああ。イヴやリリみたいに甘くは出来ねぇけどな。」
ガルドはリュカの目線に合わせるように、少し腰を屈めた。
「お前が森へ行く理由も、もう一度牙狼と話したいって気持ちも、全部知ってる。」
「……うん。」
「だったら、自分で自分の身を守れるようにならねえとな。」
そう笑うガルドに、リュカは真剣な顔で頷いた。
「……よろしくお願いします。」
「おう。よろしくな。」
ガルドは大きな手を差し出した。
リュカはその手を見つめ、少しだけ迷ってから、両手でぎゅっと握った。
その様子を見て、リリも柔らかく微笑む。
ダリウスは満足そうに頷いた。
「よし。これで今後の方針は決まりだね。」
そして、少しだけ真面目な表情になる。
「リュカ君。焦る必要はない。まずは身体を万全にして、弓の技術を磨き、戦闘訓練を積むこと。それが、君自身を守ることにつながるからね。」
「……うん。」
「準備が整ったら、改めて森へ向かってもらおう。」
リュカは、まっすぐにダリウスを見つめた。
「……分かった。強くなる。」
その言葉に、ダリウスは優しく笑った。
「うん。期待しているよ。」
「えっと……ちょっと待ってください。」
不意に、リリが不安そうな目でダリウスに問いかけた。
「どうしたんだい?」
「その……時間はどれくらいあるんですか?リュカちゃんの鍛錬の間、牙狼がずっと待ってくれている保証は無いんじゃ……。」
そんなリリの問に、ダリウスはニヤッと笑って答えた。
「あはは。僕がその辺を考えてないと思うかい?」
そういうと、ダリウスは一枚の書類を取り出し、机の上に広げた。
「これは、リュカ君が森から帰還した次の日からの冒険者の記録だ。」
それは、依頼の場所毎に達成者数、死傷者数、行方不明者数の欄が置かれた書類だった。
その森の欄を指さしながら、ダリウスが続ける。
「あの事件以来、森の依頼を完全停止させているんだけど、森の近くの依頼の欄を見てほしい。」
その指さされた欄を見て、リリは目を見開いた。
「……死傷者数…行方不明者も0……?」
「ああ、これがどういう事を意味するか…分かるね?」
「牙狼は…森から全く出てないんですか…?!」
リリの言葉に、ダリウスは静かに頷いた。
「理由は分からないが、そう見ていいだろうね。だからリュカ君へ時間が割けると僕は踏んでいる。」
「そういう事だったんですね…。」
「確信では無いから、警戒は続けるけどね。」
ダリウスは優しく微笑み、森の方へと目を向けた。
こうして、リュカがこれから進むべき道が決まった。
弓の指南はリリ。
戦闘訓練と獣神化の会得に向けた修行はガルド。
全てが完了した後、森へ向かい牙狼の真意を探る。
退院したばかりのリュカにとって、これからの日々は、きっと今までとは違うものになるだろう。
「……よろしくお願いします。」
リュカはもう一度、ダリウスに頭を下げた。
ダリウスはにこやかに手を振るだけで、何も言わなかった。
でも向けられたその笑顔に、信じているよと言われてるような気がして、リュカはまたその想いに答えるように拳を握った。
───執務室を後にした三人は、またギルドのロビーで他愛のない世間話を繰り広げていた。
「よーし!それじゃあ、今日はリュカちゃんの退院祝いね!」
しばらく和やかに談笑していた時、リリが唐突に元気よく声を上げた。
驚いたリュカは、耳を垂れさせながらリリに目を向ける。
「……退院祝い…?」
「そう!せっかく退院できたんだもの。今日はみんなで美味しいものを食べましょう!」
「おう、いいな!俺も賛成だ」
ガルドも笑顔で頷いた。
「……お肉?」
「もちろん!いっぱい我慢してたもんね。」
リリが胸を張って、腰のポケットから財布を取り出した。
「今日はリュカちゃんの好きなものを食べていいわよ!私の奢り!」
「……ほんと?」
「任せて!」
「……やった。」
リュカの尻尾が、ぶんぶんと揺れ始めた。
そんな分かりやすい反応に、ガルドが豪快に笑う。
「はははっ!よし、今日は腹いっぱい食べようぜ!」
「あ、ガルドさんは自分で払って下さいね?」
「分かってるよ!……ってリュカ!おい!ちょっと待て!」
一目散に繁華街へと駆けて行くリュカ。
それを見て困惑した顔をするガルドと、くすくすと笑うリリ。
リュカを追いかけながら、三人は食を求めて繁華街の中へ駆けていった。
これから始まる鍛錬や任務に、一抹の不安はあるけれど。
こうやって自分の為に動いてくれる人達がいる。
助けてくれる人達がいる。
その事実だけで、きっと大丈夫だと。
「……ありがとう。」
リュカは走りながら、呟いた。
真上から差し込む日差しが、秋の空気に混ざって暖かな風を呼び街を吹き抜ける。
運ばれてくる美味しそうな匂いに期待を乗せ、リュカはまた速く足を踏み込む。
「あいつ……足速すぎだろ。」
「ほ、ほんとに……。リュカちゃん!待って!」
楽しそうに走り抜けていくリュカと対照的に、必死に追いかける二人。
その顔に、あまり余裕は無さそうだった。
かなり追いかけたはずなのだが、間もなくしてリュカを見失ってしまった。
「……ガルドさんは、森には行かないんですか?」
ふと、足を止めたリリは、執務室でずっと気になっていた事をガルドに問いかけた。
自分と並ぶ特級ならば、ガルド自身も森へ出向いた方がと思うのは至極当然の事だった。
リリの問いに足を止め、ガルドは少し眉をひそめながら答える。
「……俺は行けねえ。理由は……全てが終わったら話す。」
「そう…ですか。」
ガルドの言葉に、リリははそれ以上詮索しなかった。
正確には、出来なかったのかもしれない。
何を聞こうにも、ガルドの胸に秘めている過去を踏みにじる事になる。
それを避けるための上手い言葉が、リリには見つからなかった。
「…そんな顔すんなよ。大した事じゃねえ。」
そんなリリの想いを察したのか、ガルドは困ったように笑った。
「……すみません、私…。」
「なんで謝るんだ。俺は何も気にしちゃいねぇよ。」
申し訳なさそうに目を伏せるリリを、ガルドはいつもの調子で笑い飛ばした。
その様子を見て、リリは少し安堵の表情を浮かべた。
「まあ、今は急ごうぜ。リュカがどっか行っちまった。」
「あっ……!リュカちゃーん!どこ行ったのー!」
ガルドの言葉に、はっと我に返ったように駆けだすリリ。
ガルドもまた、そんな彼女を追いかけていく。
少し続いた追いかけっこは、肉料理のレストラン前で佇むリュカをガルドが捕まえた事で終了した。
間もなくして、リリの怒声が繁華街に響いた。
今、目の前にいるガルドとリリ。
一人で街に来た時には、自分の周りに人が居るなんて考えもしなかった。
こんなに、暖かい時間があるなんて知らなかった。
ガルドには呆れられ、リリに怒られながらだったけど、リュカはそんな時間でさえ愛おしそうに目を細めた。
───もう、何も失う事の無いように。
リュカは密かに、また拳を握り込んだ。




