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獣人少女はまだ知らない。  作者: ちゆき
セレスタの異変
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11/15

知らない記録

目を覚ましたリュカ。


彼女の証言から、少しずつ明らかになる真実。


牙狼についての謎。

そして、リュカ自身の謎も───。


少しずつ繋がり始める答えの先に、何が待っているのか。

───リュカが目覚めた、同時刻。


ギルドの執務室では紙をめくる音が絶えず響いていた。

机の上には、報告書や調査記録、古びた書物がいくつも積み重なっている。


その中心で、ギルド長、ダリウスは一枚の書類に目を落としていた。



挿絵(By みてみん)



「……やっぱり、ここも同じか。」


小さく呟き、書類を脇へ置く。

そこに記されていたのは、約一年前に発生した魔物災害についての報告だった。


被害を受けたのは、街から遠く離れた山間部の小さな集落。

詳細な地図は残されているものの、集落の名前や住民の正確な人数については、記録によって食い違いがある。


確認できた生存者は、0。


「魔物の軍勢による大規模な移動……周辺の痕跡から推測。原因となった個体は特定できず、か。」


ダリウスは頬杖をつき、別の書類を引き寄せた。

今回の一件が起きるまで、彼がこの災害について深く調べることはなかった。


過去の災害記録を調べるのは、ギルド長として珍しい仕事ではない。

しかし、今回の森での事件をきっかけに、彼はあることが気になり始めていた。



牙狼の存在。


そして森に残された巨大な足跡や爪痕。


街道で発見されたリュカの身体に、殺意を持った牙狼がつけたと思われる傷がなかったこと。


そして、今回の事件に関与するヴァルゼンの残した『灰狼族』という名前。


どれも単独では、事件の真相を示す物にはならない。


だが、ひとつずつ並べてみればこれまでの見立てに疑問が生じる。


牙狼がリュカを襲ったのなら、なぜ彼女は森の奥ではなく街道で発見されたのか。

牙狼が彼女を殺そうとしたのなら、なぜ決定的な致命傷がないのか。


そもそも、牙狼が街を脅かそうとしているのなら、これまでの行動はあまりにも不可解だった。


「……先入観を捨てろ、ってことかな。」


ダリウスは苦笑した。


牙狼は危険な存在だ。

それは間違いない。

強大な力を持つ魔物を、無害だと決めつけることはできない。


ダリウスは積み上がった書物の中から、一冊の古い記録を取り出した。


表紙は色あせ、角は擦り切れている。

長い年月、誰にも読まれずに保管されていたのだろう。


ページを開くと、古い文字が並んでいた。

その中の一節に、ダリウスの指が止まる。


「……これが灰狼族。」


記録に残されていたのは、今ではほとんど知られていない獣人の一族についてだった。


「まさか、こんなところでつながるとはね……。」


彼は一度、書物を閉じた。


まだ確証はない。


記録の内容が正しいという保証もない。

それでも、今回の事件を考えるうえで、無視することのできない情報だった。


ダリウスは書物を抱え、執務室を出た。


向かう先は、ギルドの医療棟。

そこには、今回の事件について、誰よりも重要な証言を持つ少女がいる。




──時は戻り、病室。


「リュカちゃん……!」


目を覚ましたリュカを見て、リリは思わず身を乗り出した。


「よかった……!目が覚めたのね…!」


「……?」


現状を把握出来ていない様子で、困ったように眉を下げるリュカ。

起き上がろうと身体を動かそうとして、身体に走る激痛で顔が歪んだ。


「だ、だめ!無理に動かしちゃ!」


リリが慌てて肩を支える。

その手に逆らうこと無く、静かに背をつけたリュカは、ぼんやりとリリの顔を見ていた。


「……リリ…さん?」


「うん。そうよ。私。」


「……もう、大丈夫?」


リュカは、少しだけ目を細めた。


「…うん、大丈夫。大丈夫だから…。」


「…そっか。」


涙を浮かべるリリの言葉に、少し口元を緩ませるリュカ。


それから、ゆっくりと視線を動かす。


窓。天井。白い壁。

そして、自分の身体に巻かれた無数の包帯。


「……わたし……どうしたの?」


その問いに、リリの表情が固まった。


「……街道で貴女が倒れてるのが見つかったの。偶然、通りがかった冒険者の人が見つけてくれたのよ。」


「……街道……?」


「…そう。森の入口近くのね。」


リュカは考えるように目を伏せ、記憶を探る。


森。木々の間を走る風。弓を握る手。


そして、赤い瞳。


「……おおかみ。」


ぽつりと呟く。

リリの耳が、その言葉に反応した。


「……牙狼と遭遇したのね?」


「……うん。」


「じゃあやっぱりその傷は……。」


リリは息を吐いた。


やはり、リュカは森の中で牙狼と交戦していた。


「……今は無理して話さなくてもいいからね。身体が落ち着いてからで───」


「……ごめんなさい。」


不意に、リュカがリリの手を握った。

リリは思わず言葉を止める。


「え……?」


「……怒ってる?」


リュカは目を伏せていた。

耳が、わずかに下がっている。


「……危ないの、知ってて、勝手に森に行ったから。」


リリは、すぐには返事ができなかった。

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で押さえていたものが、また込み上げてきた。


心配だった。

本当に、心配だった。


けれど、それ以上に。


この子は、自分がどれだけ周りを不安にさせたのか。

分かっているのだろうか。


リリは唇を結んだ。


「……そうね。」


声が、思ったより強くなった。


「怒ってる。もの凄く。」


リュカの耳が、ぴくりと動く。


「…私が、リュカちゃんが倒れてたって聞いて、どんな気持ちになったか分かる?」


リリは、膝の上で手を握った。


「何があったのかも分からない。無事なのか、それとも……もう、帰ってこられないのかも分からない。」


そこまで言って、声が震えた。


「……私、怖かったんだよ。」


リュカが顔を上げる。

リリは、その瞳をまっすぐに見つめた。


「どうして、一人で行っちゃったの?」


その言葉に、リュカからの返事はなかった。


「何か気になることがあったなら、私が戻ってきてから話してくれればよかったでしょ?森は、危ないって分かってたんでしょ?それなのに、どうして!!」



挿絵(By みてみん)



最後の言葉が、病室に響いた。


リュカの身体が、びくっと跳ね、狼の耳がぺたりと伏せられた。


リリは、その反応を見て、はっとした。

自分が声を荒らげていたことに、ようやく気がついた。


まだ身体も満足に動かせない。

そんな相手に、自分は何をしているのだろう。と。


「……ごめん。」


リリは、すぐに声を落とした。


「…ごめんね。大きな声、出しちゃって…。」


リュカは、伏せた耳を戻せないまま、小さく首を振った。


「……ううん。」


「……でも……」


リリは、もう一度リュカを見た。


「でもね、リュカちゃん。私は危ないことをするなって、何もかも禁止したいわけじゃない。あなたが自分で考えて、何かをしたいと思うことまで、止めたいわけじゃないの。」


リュカは、リリの言葉を黙って聞いていた。


「…それでも、何も言わずに居なくなられたら……私は、あなたが無事なのかどうかさえ分からない。」


リリは、そっと息を吐いた。


「……それが、すごく怖いのよ。」


リュカの瞳が、わずかに揺れた。


リリの怒りの奥にあるものが、今は少しだけ分かった気がした。


自分が帰ってこなかったら。

自分が死んでしまったら。


リリは、悲しむのだ。


「……ごめんなさい。」


リュカは、もう一度謝った。

今度は、先ほどよりもはっきりと。


リリは首を横に振る。


「……ううん。もう、大丈夫だから。謝らないで。」


そう言ってから、少しだけ困ったように笑った。


「……リリさん。」


「ん?」


「……まだ、怒ってる?」


リリは一瞬、目を丸くした。

それから、苦笑した。


「怒ってるよ。」


リュカの耳が、また少しだけ下がる。


「でもね」


リリは、そっと続けた。


「私の、リュカちゃんに無事でいてほしい。っていう願い。それが叶ったから…もう、いいかな。」


リュカは、しばらく彼女の顔を見つめていた。

それから、ゆっくりと目を伏せる。


「……うん。」


小さな返事だった。

けれど、リリにはそれで十分だった。


包帯を避け、リュカの銀灰色の髪を指先で撫でる。


「……次は」


私も連れて行ってと言いたかったけど。

リリは少しだけ、言葉を選んだ。


「……せめて、私にも教えてね。」


「……わかった。」


リュカの、たった一言の回答。

それは、何があっても必ずそうすると誓った言葉ではない。

それでもリリは、ほっとしたように笑った。


「……うん。」


それからもう一度だけ、優しく頭を撫でた。


リリがサラサラの灰色の髪の感触を楽しんでいたその時。


病室の扉が、バンッと勢いよく開けられた。


「リュカ!」


聞き慣れた声に、リュカの耳がぴくりと動く。

入口に立っていたのは、ガルドだった。

大きな身体を揺らしながら、まっすぐベッドへ向かってくる。

いつもの優しい笑顔はなく、つり上がった眉1つで相当な怒りが目に取れた。


「お前なぁ……!」


「ひっ……!」


ガルドに詰め寄られ、怯えるように布団を抱きしめるリュカ。

ガルドはそれに構わず、怯えきったリュカの目の前に自身の顔を突き合わせた。


「リュカ!お前自分がどれだけ───」


「ガルドさん。」


リリが、静かに声をかけた。

ガルドの声が止まる。


「……ん?」


「もう、私が充分叱りましたから。」


リリは、少しだけ困ったように笑った。


「リュカちゃんもちゃんと反省してますしね。」


「……いや、だがな。」


ガルドはリュカを見た。


伏せられた耳。

申し訳なさそうにこちらを見つめる琥珀色の瞳。


「……ごめんなさい……。」


リュカが小さく頭を下げる。

ガルドは、口を開きかけたまま固まった。


怒鳴りたいわけではない。


ただ、心配だったのだ。


「……ったく。」


ガルドは、深く息を吐いた。


「……心配かけやがって。」


それだけ言うと、リリの横の椅子にどかっと座った。


「怒りは収まりました?」


リリが尋ねると、ガルドは不満そうに眉を寄せた。


「収まった訳じゃねえよ。」


「ふふっ。」


「笑うな!」


ガルドはそう言いながらも、声を荒らげることはなかった。

リュカを見て、次は少しだけ表情を和らげた。


「……身体はどうだ?」


「……痛い。」


「そりゃそうだろうな。」


ガルドは苦笑した。


「無理に動くなよ。先生の言うことをちゃんと聞け。」


「……うん。」


「よし。飯もちゃんと食えよ。」


そこで、リュカは少し考えた。

不意に、腹の虫がきゅるるるるとか細く鳴いた。



挿絵(By みてみん)




「……お腹すいた。」


「はぁ?????」


赤面するリュカ。

ガルドから思わず間抜けな声が漏れる。

リリは口に手を当て微笑んでいるように見せて、笑いを堪えるのに必死そうだった。


「……串焼き食べたい。」


「馬鹿野郎!今のお前にあんなもん食わせられるか!」


「……なんで……。」


リュカは、残念そうに目を伏せた。

そんなリュカを見てガルドは思わず吹き出した。


「……お前なぁ。死にかけた自覚はあるのか?」


「……ある。」


「本当かよ…?」


「……多分。」


「多分じゃねえ!」


病室に、久しぶりの笑い声が響いた。

リリも、口元を押さえて笑っている。


リュカは二人を見比べた。


ここに居る、ガルドとリリ。


自分を心配して、怒って、笑ってくれる人がいる。

そのことが、今は少しだけ嬉しかった。


その時。


コン、コン、と。

先ほどとは打って変わって、談笑を邪魔するまいというような控えめなノックの音が響いた。


「失礼するよ。」


扉が静かに開く。

そこに立っていた人物を見て、リリとガルドは同時に目を丸くした。


「……ダリウス?」


「ギルド長?」


ダリウス・エルグレンは、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。


「やあ。二人とも。」


片手を軽く上げ、病室の中へ入ってくる。


「ギルド長…どうしてここに?」


「いやいや、僕も心配してたんだよ?」


「それは……分かりますけど。」


リリは少し戸惑いながら答えた。


ギルド長自ら、わざわざ医療棟まで足を運ぶなんて。

今まで怪我をしてきた人は数知れずいるけど、そんな事はあまり無かった。


ダリウスはベッドのそばまで歩き、リュカに目を向ける。


「やあ。身体の具合はどうかな?」


「……まだ、痛い。」


「まあ、そうだろうね。安静にするんだよ。」


「……うん。」


ダリウスは、にこりと笑った。


「ギルド長、わざわざリュカちゃんのお見舞いに来てくれたんですか?」

リリの問いに、そうだね。と微笑むダリウス。

それから、ほんの少しだけ声の調子を変えた。


「まあ……それだけでは無いけど、ね。」


リリとガルドの表情が変わる。

ダリウスは、抱えていた書物を見せた。


「今回の件について、色々と調べてみたんだ。あの牙狼についてもね。」


リュカの耳が、ぴくりと動いた。


「……あの、おおかみ?」


「ああ。それが牙狼だ。」


ダリウスは椅子を引き寄せ、ベッドのそばに腰を下ろした。


「まず初めに、君が森で体験したことを話してほしい。覚えている範囲で構わないからね。」


リュカは、少しだけ目を伏せ、森のことを思い出そうとする。


木々の間を吹き抜ける風。


弓を握る手。


目の前に立ちはだかった、巨大な獣。


そして、赤い瞳。


「……森に入って、しばらく歩いて」


 ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。


「……足跡があったから。それを追って……。」


「うん。」


「……おおかみが居た。大きな、黒い…。」


 ダリウスは黙って頷いた。


「……赤い目をしてた。私を見て……帰れって。」


「…帰れ?それは牙狼の言葉かい?」


「……うん。」


病室の空気が、わずかに張り詰めた。

リリが息を呑む。

ガルドも、眉をひそめた。


「……何故、牙狼の言葉だと?」


「……前に森で聞いたのと、同じ声が聞こえた。」


リュカは、自分の耳にそっと触れた。


「……あの時と、同じ……。頭の中に直接。そんな感じだった。」


ダリウスの笑みが、ほんの少しだけ消えた。


「……頭の中に、か。」


「……うん。」


リュカは、言葉を探すように少し黙った。


「……急に、頭の中に入ってきた。」


ダリウスは、膝の上で指を組んだ。


「そうか……牙狼の声が……。」


彼は、持ってきた書物へ視線を落とす。


「……やはり、僕の見つけた情報は間違っていなかったみたいだ。」


「……記録?」


リュカがきょとん、と首を傾げる。

ダリウスは手に持っていた古い書物を開いた。


「昔の記録だよ。今ではほとんど知られていない、ある獣人の一族について書かれている。」


彼は、ページの一節を指で示した。


「……はい……おおかみ……?」


「灰狼族《はいろうぞく》と読む。見た目はその名の通り、灰がかった毛色。狼の耳と尾を併せ持つ獣人だ。」


ダリウスはそこで言葉を切り、リュカへ目を向けた。


「君のような、ね。」


その言葉に、思わずリュカは自分の耳に触れた。


灰狼族。

リュカ自身の記憶には無い名前だった。

話を聞いていたリリも、ガルドも黙っていた。

二人とも、リュカの姿を見ている。


銀灰色の髪。


灰色の狼の耳。


大きな尻尾。


確かに、書物に記された特徴と重なる部分は多い。


しかし、それだけで同じ種族だと決めつけることはできない。

ダリウスもまた、そこまでは断言しなかった。


「もちろん、見た目が似ているだけで同じ種族だとは言い切れない。けれど、この記録にはもう一つ興味深い事が書かれているんだ。」


ページをめくる。

三人は一斉にそのページに目を向けた。


「この文献によれば……灰狼族は、今は魔物とされる牙狼と意思疎通が取れる唯一の種族だった。と記されてる。」


「……意思疎通?」


リリが小さく呟いた。


「それって……牙狼と話ができたってことですか?」


「記録上は、そういうことになるね。」


ダリウスは頷いた。


「…牙狼は、非常に強大な力を持つ存在だった。人間や獣人達だけでなく、多くの魔物にとっても脅威になり得る。だからこそ、かつての人々は牙狼を恐れていた。」


彼は、書物の別の一節を示した。


「ところが、灰狼族は牙狼と意思を通わせることができた。記録には、牙狼を抑止し、従えていたと記されているね。」


「……従えていた……?」


 ガルドが眉をひそめた。


「…あの牙狼を手下にしていたってことか?」


「……記録の言葉をそのまま受け取るなら、そういう解釈になるだろうね。」


ダリウスは、わずかに肩をすくめた。


「ただ、なにせ古い記録だからね。実際にどういう関係だったのかまでは、これだけでは分からない。」


それは、事実だった。

古い記録に残された言葉は、必ずしも当時の出来事を正確に伝えているとは限らない。

記録を残した者が、何を見て、何を理解し、何を伝えようとしたのか。


それを確かめる手段は、今となってはほとんど残されていない。


リリは、リュカへ視線を向けた。


「……でも、リュカちゃんの話が本当なら」


その声には、戸惑いが混じっていた。


「リュカちゃんは…その……。」


リリは言葉を止めた。

何を言えばいいのか分からなかった。


リュカが、灰狼族と呼ばれる種族なのだろうか。

牙狼を従えていた種族ならば、今森にいる牙狼は件の灰狼族の誰かがけしかけた魔物…?


色々な考えが浮かぶが、今ここで決めつけることはできない。

ダリウスも、同じことを考えていた。


「……リュカ君の証言の通り、牙狼と会話が成立していたのだとすれば。」


彼は静かに言った。


「自ずと、彼女の種族について、ひとつの可能性が浮かび上がってくる。だけどそれはあくまで可能性に過ぎない。」


病室が静まり返った。

リュカは、何も言わなかった。


自分の種族。

自分が何者なのか。


これまで、考えたことがなかったわけではない。


でも、どれだけ記憶を遡っても、あるのはたった一人で歩んできた今までの旅だけだった。


「……わたし、が」


 リュカが、ぽつりと口を開いた。


「……あのおおかみと一緒に生きてきたんだとしたら…なんでわたしを嫌がるのかな。」


リュカの疑問に、ダリウスは小さく首を振って答えた。


「……さてね。向こうにどんな意思があるのか…君とあの牙狼の間にどんな関係があるのか。…そこまではまだ分からない。」


「……そっか。」


リュカは、ゆっくりと目を伏せた。

あのときの声を思い出す。


来るな。 帰れ。


確かに聞こえた。あの声。


自分を拒絶する声だと思った。

自分を追い払おうとしているのだと思った。


だから、戦おうとした。

牙狼が森の異変を引き起こしたのだと考え、目的を知ろうと。

でも、全く歯が立たなくて。

血胸は何も成し遂げられず、返り討ちにあっただけだった。


けど、今になって考えてみれば、あの牙狼は自分を殺そうとしていただろうか?


圧倒的な力を持っていた。


自分など、簡単に殺せたはずだ。

それなのに。


「……あのおおかみ。」


 リュカは、小さく呟いた。


「……わたしを、殺そうとしてなかった…と思う。」


ダリウスは、静かにリュカを見つめていた。

彼女が語ったことは、重要な証言だ。


牙狼がリュカと意思疎通をした事。

牙狼が、彼女に致命傷を与えなかった事。


そしてこれは憶測に過ぎないが、森の奥で倒れたはずの彼女が街道で発見されたという事は。


牙狼が、森から街道へ彼女を移動させたという事。


それらは、可能性と呼ぶにはあまりに繋がりすぎていた。


だが、まだ結論を出すには早い。


「……牙狼との戦闘についても、詳しく聞かせて欲しい。」


 ダリウスは穏やかな声で言った。


「牙狼がどんな攻撃をしたのか、とかね。思い出せる範囲で構わない。」


 リュカは頷いた。


「……うん。」


そして、少しずつ話し始めた。


「……わたしがされたのは…ただの体当たりだと思う。走ってきて、ぶつかって…吹き飛んで…。」


「それって……あの時と同じ……。」


リリが静かに呟く。

リリは、捜索隊として森に派遣された時の事を思い出していた。


あの時も、牙狼は隊員相手には体当たりを仕掛けるだけで、決して牙や爪などは身体に当ててこなかった。


ということは…あの時も…。


リリが考え込む中、リュカは淡々と戦闘時の説明を続けた。


───そして。


「……途中から、変だった。」


「……何がだい?」


ダリウスが尋ねる。

リュカは、自分の手を見つめた。


「……身体が、勝手に動いた。」


ダリウスの眉が、微かに上がった。

ガルドも、わずかに身を乗り出す。


「勝手に……?」


「……うん。怖かったのに。身体は、怖がってなかった。」


リュカは、自分でもうまく説明できない様子だった。


「……速く動けた。いつもより、ずっと。おおかみの動きも、見えた。なのに……。」


言葉が途切れる。

頭の中に、あの瞬間の感覚が蘇った。


身体の奥から、何かが溢れ出してくるような感覚。


熱いのに、冷たい。

怖いのに、妙に落ち着いている。

自分の身体なのに、自分ではない何かが動かしているような。


「……身体から、何か、出てきた。」


「何か?」


「……身体の中から。黒くて、赤い……変なもの。」


ダリウスの目が、わずかに細くなった。


「……魔力、か。」


「「……!?」」


ダリウスの呟きに、1人考え込んでいたリリが顔を上げる。

ガルドも立ち上がり、目を見開いていた。



セレスタには今、魔力を扱える者がいない。


魔力を取り込むための技術が、この街ではまだ発展していない。

だからこの街で戦う冒険者たちは、皆武器を使い、自らの身体を鍛えることで魔物に対抗している。

だからこそ、リュカが口にした感覚を、すぐに理解することはできなかった。


しかし、彼女の言葉は曖昧な夢物語のようには聞こえない。


「……それは、君が意識して出したものなのかな?」


「……違う。」


 リュカは首を横に振った。


「そのとき、身体に痛みは?」


「……痛かった。けど、途中からは全然…。」


「他には?」


 リュカは、しばらく考えた。


「……自分が、変になる感じ。」


その言葉に、リリの表情が曇った。


「リュカちゃん……。」


「……自分なのに、違うみたいだった。」


リュカは、目を伏せる。


「……もっと、強くなれる気がした。でも……このままだと、戻れなくなる気もした。」


病室の空気が、静かに重くなった。

リュカ自身にも、あれが何だったのか分からない。


ただ、あの力は、自分がこれまで知っていた自分とは違う何かだった。


もし、あのまま力を使い続けられていたら。

もし、身体が完全に自分の言うことを聞かなくなっていたら。


一体どうなっていたのだろう。


「……その力を、もう一度使うことはできそうかな?」


 ダリウスが尋ねた。


「……分からない。…あの時も、勝手に消えたから。」


目と耳を伏せたまま、リュカが続ける。


「でも……また使えても、使いたいとは、思わない。」


「……そうか。」


ダリウスは頷いた。


「なら、無理に確かめようとする必要はないよ。今は身体を治すことが先だ。分からないことを、焦って解き明かそうとする必要はない。」


リュカは、少しだけ安心したように息を吐いた。

ダリウスは書物を閉じ、膝の上に置いた。


「ただ、ひとつだけ覚えておいてほしい。」


彼は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「君が体験したことは、君自身にとっても、僕たちにとっても、重要な手がかりになる。だから、何か思い出したことがあれば教えてくれると嬉しい。いいかな?」


「……うん。」


「ありがとう。」


ダリウスは頷いた。

そこで、ふとガルドが口を開いた。


「……ちょっと待てよ。」


彼は、先ほどから気になっていたことを思い出したように、ダリウスを見た。


「さっき、牙狼のことを『今は魔物とされている』って言ったよな?」


「ああ。」


「……以前は違ったのか?」


ダリウスは、少しだけ目を伏せた。


「……そうか。君は、その頃にはもう……。」


言いかけて、口を閉じる。

ガルドの過去を知るダリウスは、あまり触れたくない記憶を払うかのように首を振った。


ガルドを改めて見据えて、説明を始める。


「……そうだね。記録によれば、牙狼が魔物として扱われだしたのは、ちょうど一年前くらいだ。」


「一年前……?」


ガルドが小さく呟いた。


「それ以前、牙狼は魔獣として扱われていた。危険な存在であることに変わりはなかったけれど、積極的な討伐対象とはされていなかったんだ。」


「……なんでだ?」


ガルドの問いに、ダリウスはまた古い書物を開いた。


「灰狼族との関係があったからだよ。牙狼と意思疎通ができる一族が存在していた。そのため、牙狼が人間や獣人にとって脅威となることを抑えられる、と考えられていたらしい。」


「……つまり、灰狼族がいたから、牙狼も放っておかれていたってことか?」


「記録から読み取れるのは、そういうことだね。」


ガルドは、難しい顔をした。


「じゃあ、一年前に何があった?」


ダリウスは、少しだけ間を置いた。


「……灰狼族が暮らしていた集落で、大規模な魔物災害が起きた。」


リュカの耳が、ぴくりと動いた。


「その災害によって、灰狼族は壊滅したと記録されている。生き残りがいたという報告も、今のところ見つかっていない。」


 ダリウスは、書物を見つめた。


「灰狼族がいなくなったことで、牙狼を抑える存在も失われた。そう判断した王都は、牙狼を魔物として再分類し、討伐対象にしたんだ。」


「……実害が出たから、ではなく危険因子だから…という事か。」


 ガルドの声が、低くなった。


「少なくとも僕が確認した記録には、牙狼による被害が明記されたものは見つかってない。」


「なるほどな。……待て。待てよ。」


ガルドは言葉を止めた。


頭の中で、いくつもの情報がつながり始める。


一年前の魔物災害。


灰狼族の壊滅。


牙狼の再分類。


そして、今になって起きた森での事件。


これまで、誰もが牙狼を危険な魔物だと考えていた。

だから、森で異変が起きれば牙狼が原因だと疑う。


牙狼の痕跡が見つかれば、討伐すべきだと判断する。


それは、冒険者として自然な考え方だった。


しかし。


ガルドは、ゆっくりと顔を上げた。


「牙狼は、人間を殺さねえんじゃねえのか……?」


 その言葉に、ダリウスは静かに首を横に振った。


「そこまでは言えないよ。」


 ガルドが眉を寄せる。


「記録に被害が残っていないからといって、牙狼が一度も人間を襲ったことがないとは限らない。記録されなかった事件もあるかもしれないし、今まで何も起きていなかったとしても、これから先も絶対に起きないとは言い切れない。」


「……じゃあ、何が言える?」


「牙狼が危険な存在だということと、今回の事件の犯人だということは分けて考える必要がある。それだけは確かだね。」


ダリウスの声は穏やかだった。

けれど、その言葉には明確な意思があった。


「王都が牙狼を討伐対象にしたのは、灰狼族がいなくなったことで、牙狼を抑止できなくなると判断したからだ。つまり君が言ったように牙狼が実際に人間を襲ったからではなく、将来の危険性を考慮した判断だった可能性が高い。」


「……可哀想……。」


リリが呟いた。


「危険な存在を放置できないという判断そのものは、理解できるよ。実際、牙狼の力は脅威だ。何かが起きてからでは遅い、という考え方もある。」


 ダリウスは、そこで一度言葉を切った。


「でも、だからといって、牙狼が今回の事件を起こしたと決めつけていいわけじゃない。」


ガルドは黙り込んだ。

今までの考え方が、少しずつ崩れていく。


…もしも牙狼が、今回の事件の犯人ではなかったとしたら。


「……ギルドの親衛隊や先遣隊を襲ったのも……」


ガルドが呟く。


「牙狼じゃない可能性がある、ってことか?」


「…可能性はあるね。」


ダリウスは、きっぱりと答えた。


「今回の件を含めて、もう一度調査する必要がある。あの牙狼の目的、そして、他に何かが関わっているのか。」


彼は、リュカへ視線を向けた。


「その為にも、君には早く回復してもらう必要がある。」


リュカは、静かにダリウスを見つめ返した。


自分に今、求められているもの。

もう既に理解していた。


《もう一度森に入り、牙狼から情報を聞き出す事。》


リュカしか出来ない、リュカだけの仕事。


「……もう一度、森に行って貰えるかい?リュカ君。」


そう告げるダリウスの目に、優しさや心配が垣間見えた。


ここで嫌だと言っても、きっと彼は許してくれるのだろう。

でも、リュカに断る気は微塵もなかった。


「……わかった。」


「ちょっと待って下さい!」


頷くリュカの横で、リリが叫んだ。


「ギルド長、私は反対です!いくら牙狼と話せるからって…今度は死んじゃうかも知れないんですよ!?」


「俺も同感だな。」


それを聞いて、ガルドが立ち上がる。


「牙狼と話をさせるさせない以前に、そもそもこいつは戦闘能力が低すぎる。また行っても、同じ事の繰り返しだぞ。」


ハッキリとしたガルドの言葉に、少しリュカの耳が垂れた。

自分が弱いのは百も承知だけど、改めて言われると少し傷ついた。

そんな二人の様子を見て、ガルドはにっこりと笑って答える。


「二人とも、勘違いしてないかい?僕は一人で行かせるなんて言ってないよ。」


ダリウスはリリを指差し、その目を見据える。



挿絵(By みてみん)




「リリ、君も一緒に行くんだ。」


「えっ……?」


「無理だと言うなら、リュカ君も行かせない。ただ……」


ダリウスの目から、優しさが消える。


「……それこそ、また同じ事の繰り返しだよ。」


「……っ!」


リリは、ヴァルゼンに言われた言葉を思い出した。


自分の未熟さで、リュカが傷付き倒れた。

あの言葉は、何も間違ってない。

私は、未熟者で、役立たずだと思っていた。


でもギルド長は、もう一度私にチャンスをくれると言っている。

次こそは、やってみせろと。


「……分かりました。」


リリは、真っ直ぐにダリウスを見据え、リュカの手を握った。


「リリさん……?」


「……リュカちゃんは、命に替えても守ります。」


「……いい目だ。頼んだよ。」


ニコッと笑うダリウス。


その会話を聞いていたガルドは腑に落ちない顔をしていたが、何も言わなかった。


「じゃあ、しっかり治すんだよ。詳細はまた追って連絡するからね。」


そう告げると、ダリウスは静かに病室を後にした。

それを見て、ガルドもまた立ち上がった。


「俺もそろそろ帰るとするか……。情報量が多すぎて頭がめちゃくちゃになっちまった。」


頭をガシガシと掻きながら、じゃあなと言って手を挙げガルドは病室を後にした。


残された二人は、静かに顔を見合せていた。


「…なんだか、色々とんでもない話になってきたね。」


「……うん。」



リュカも、リリも、困ったように笑った。


窓の外では、夜も更けたというのに街の人々が行き交っている。

セレスタは、今日も変わらずそこにあった。


だが、その平穏のすぐそばで、今も知らない何かが動いている。


一年前に失われた一族。


森に突如現れた牙狼。


そして、リュカの身体に眠る、未知の力。


それらが何を意味するのか。

まだ、誰も知らない───。



挿絵(By みてみん)


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