知らない記録
目を覚ましたリュカ。
彼女の証言から、少しずつ明らかになる真実。
牙狼についての謎。
そして、リュカ自身の謎も───。
少しずつ繋がり始める答えの先に、何が待っているのか。
───リュカが目覚めた、同時刻。
ギルドの執務室では紙をめくる音が絶えず響いていた。
机の上には、報告書や調査記録、古びた書物がいくつも積み重なっている。
その中心で、ギルド長、ダリウスは一枚の書類に目を落としていた。
「……やっぱり、ここも同じか。」
小さく呟き、書類を脇へ置く。
そこに記されていたのは、約一年前に発生した魔物災害についての報告だった。
被害を受けたのは、街から遠く離れた山間部の小さな集落。
詳細な地図は残されているものの、集落の名前や住民の正確な人数については、記録によって食い違いがある。
確認できた生存者は、0。
「魔物の軍勢による大規模な移動……周辺の痕跡から推測。原因となった個体は特定できず、か。」
ダリウスは頬杖をつき、別の書類を引き寄せた。
今回の一件が起きるまで、彼がこの災害について深く調べることはなかった。
過去の災害記録を調べるのは、ギルド長として珍しい仕事ではない。
しかし、今回の森での事件をきっかけに、彼はあることが気になり始めていた。
牙狼の存在。
そして森に残された巨大な足跡や爪痕。
街道で発見されたリュカの身体に、殺意を持った牙狼がつけたと思われる傷がなかったこと。
そして、今回の事件に関与するヴァルゼンの残した『灰狼族』という名前。
どれも単独では、事件の真相を示す物にはならない。
だが、ひとつずつ並べてみればこれまでの見立てに疑問が生じる。
牙狼がリュカを襲ったのなら、なぜ彼女は森の奥ではなく街道で発見されたのか。
牙狼が彼女を殺そうとしたのなら、なぜ決定的な致命傷がないのか。
そもそも、牙狼が街を脅かそうとしているのなら、これまでの行動はあまりにも不可解だった。
「……先入観を捨てろ、ってことかな。」
ダリウスは苦笑した。
牙狼は危険な存在だ。
それは間違いない。
強大な力を持つ魔物を、無害だと決めつけることはできない。
ダリウスは積み上がった書物の中から、一冊の古い記録を取り出した。
表紙は色あせ、角は擦り切れている。
長い年月、誰にも読まれずに保管されていたのだろう。
ページを開くと、古い文字が並んでいた。
その中の一節に、ダリウスの指が止まる。
「……これが灰狼族。」
記録に残されていたのは、今ではほとんど知られていない獣人の一族についてだった。
「まさか、こんなところでつながるとはね……。」
彼は一度、書物を閉じた。
まだ確証はない。
記録の内容が正しいという保証もない。
それでも、今回の事件を考えるうえで、無視することのできない情報だった。
ダリウスは書物を抱え、執務室を出た。
向かう先は、ギルドの医療棟。
そこには、今回の事件について、誰よりも重要な証言を持つ少女がいる。
──時は戻り、病室。
「リュカちゃん……!」
目を覚ましたリュカを見て、リリは思わず身を乗り出した。
「よかった……!目が覚めたのね…!」
「……?」
現状を把握出来ていない様子で、困ったように眉を下げるリュカ。
起き上がろうと身体を動かそうとして、身体に走る激痛で顔が歪んだ。
「だ、だめ!無理に動かしちゃ!」
リリが慌てて肩を支える。
その手に逆らうこと無く、静かに背をつけたリュカは、ぼんやりとリリの顔を見ていた。
「……リリ…さん?」
「うん。そうよ。私。」
「……もう、大丈夫?」
リュカは、少しだけ目を細めた。
「…うん、大丈夫。大丈夫だから…。」
「…そっか。」
涙を浮かべるリリの言葉に、少し口元を緩ませるリュカ。
それから、ゆっくりと視線を動かす。
窓。天井。白い壁。
そして、自分の身体に巻かれた無数の包帯。
「……わたし……どうしたの?」
その問いに、リリの表情が固まった。
「……街道で貴女が倒れてるのが見つかったの。偶然、通りがかった冒険者の人が見つけてくれたのよ。」
「……街道……?」
「…そう。森の入口近くのね。」
リュカは考えるように目を伏せ、記憶を探る。
森。木々の間を走る風。弓を握る手。
そして、赤い瞳。
「……おおかみ。」
ぽつりと呟く。
リリの耳が、その言葉に反応した。
「……牙狼と遭遇したのね?」
「……うん。」
「じゃあやっぱりその傷は……。」
リリは息を吐いた。
やはり、リュカは森の中で牙狼と交戦していた。
「……今は無理して話さなくてもいいからね。身体が落ち着いてからで───」
「……ごめんなさい。」
不意に、リュカがリリの手を握った。
リリは思わず言葉を止める。
「え……?」
「……怒ってる?」
リュカは目を伏せていた。
耳が、わずかに下がっている。
「……危ないの、知ってて、勝手に森に行ったから。」
リリは、すぐには返事ができなかった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で押さえていたものが、また込み上げてきた。
心配だった。
本当に、心配だった。
けれど、それ以上に。
この子は、自分がどれだけ周りを不安にさせたのか。
分かっているのだろうか。
リリは唇を結んだ。
「……そうね。」
声が、思ったより強くなった。
「怒ってる。もの凄く。」
リュカの耳が、ぴくりと動く。
「…私が、リュカちゃんが倒れてたって聞いて、どんな気持ちになったか分かる?」
リリは、膝の上で手を握った。
「何があったのかも分からない。無事なのか、それとも……もう、帰ってこられないのかも分からない。」
そこまで言って、声が震えた。
「……私、怖かったんだよ。」
リュカが顔を上げる。
リリは、その瞳をまっすぐに見つめた。
「どうして、一人で行っちゃったの?」
その言葉に、リュカからの返事はなかった。
「何か気になることがあったなら、私が戻ってきてから話してくれればよかったでしょ?森は、危ないって分かってたんでしょ?それなのに、どうして!!」
最後の言葉が、病室に響いた。
リュカの身体が、びくっと跳ね、狼の耳がぺたりと伏せられた。
リリは、その反応を見て、はっとした。
自分が声を荒らげていたことに、ようやく気がついた。
まだ身体も満足に動かせない。
そんな相手に、自分は何をしているのだろう。と。
「……ごめん。」
リリは、すぐに声を落とした。
「…ごめんね。大きな声、出しちゃって…。」
リュカは、伏せた耳を戻せないまま、小さく首を振った。
「……ううん。」
「……でも……」
リリは、もう一度リュカを見た。
「でもね、リュカちゃん。私は危ないことをするなって、何もかも禁止したいわけじゃない。あなたが自分で考えて、何かをしたいと思うことまで、止めたいわけじゃないの。」
リュカは、リリの言葉を黙って聞いていた。
「…それでも、何も言わずに居なくなられたら……私は、あなたが無事なのかどうかさえ分からない。」
リリは、そっと息を吐いた。
「……それが、すごく怖いのよ。」
リュカの瞳が、わずかに揺れた。
リリの怒りの奥にあるものが、今は少しだけ分かった気がした。
自分が帰ってこなかったら。
自分が死んでしまったら。
リリは、悲しむのだ。
「……ごめんなさい。」
リュカは、もう一度謝った。
今度は、先ほどよりもはっきりと。
リリは首を横に振る。
「……ううん。もう、大丈夫だから。謝らないで。」
そう言ってから、少しだけ困ったように笑った。
「……リリさん。」
「ん?」
「……まだ、怒ってる?」
リリは一瞬、目を丸くした。
それから、苦笑した。
「怒ってるよ。」
リュカの耳が、また少しだけ下がる。
「でもね」
リリは、そっと続けた。
「私の、リュカちゃんに無事でいてほしい。っていう願い。それが叶ったから…もう、いいかな。」
リュカは、しばらく彼女の顔を見つめていた。
それから、ゆっくりと目を伏せる。
「……うん。」
小さな返事だった。
けれど、リリにはそれで十分だった。
包帯を避け、リュカの銀灰色の髪を指先で撫でる。
「……次は」
私も連れて行ってと言いたかったけど。
リリは少しだけ、言葉を選んだ。
「……せめて、私にも教えてね。」
「……わかった。」
リュカの、たった一言の回答。
それは、何があっても必ずそうすると誓った言葉ではない。
それでもリリは、ほっとしたように笑った。
「……うん。」
それからもう一度だけ、優しく頭を撫でた。
リリがサラサラの灰色の髪の感触を楽しんでいたその時。
病室の扉が、バンッと勢いよく開けられた。
「リュカ!」
聞き慣れた声に、リュカの耳がぴくりと動く。
入口に立っていたのは、ガルドだった。
大きな身体を揺らしながら、まっすぐベッドへ向かってくる。
いつもの優しい笑顔はなく、つり上がった眉1つで相当な怒りが目に取れた。
「お前なぁ……!」
「ひっ……!」
ガルドに詰め寄られ、怯えるように布団を抱きしめるリュカ。
ガルドはそれに構わず、怯えきったリュカの目の前に自身の顔を突き合わせた。
「リュカ!お前自分がどれだけ───」
「ガルドさん。」
リリが、静かに声をかけた。
ガルドの声が止まる。
「……ん?」
「もう、私が充分叱りましたから。」
リリは、少しだけ困ったように笑った。
「リュカちゃんもちゃんと反省してますしね。」
「……いや、だがな。」
ガルドはリュカを見た。
伏せられた耳。
申し訳なさそうにこちらを見つめる琥珀色の瞳。
「……ごめんなさい……。」
リュカが小さく頭を下げる。
ガルドは、口を開きかけたまま固まった。
怒鳴りたいわけではない。
ただ、心配だったのだ。
「……ったく。」
ガルドは、深く息を吐いた。
「……心配かけやがって。」
それだけ言うと、リリの横の椅子にどかっと座った。
「怒りは収まりました?」
リリが尋ねると、ガルドは不満そうに眉を寄せた。
「収まった訳じゃねえよ。」
「ふふっ。」
「笑うな!」
ガルドはそう言いながらも、声を荒らげることはなかった。
リュカを見て、次は少しだけ表情を和らげた。
「……身体はどうだ?」
「……痛い。」
「そりゃそうだろうな。」
ガルドは苦笑した。
「無理に動くなよ。先生の言うことをちゃんと聞け。」
「……うん。」
「よし。飯もちゃんと食えよ。」
そこで、リュカは少し考えた。
不意に、腹の虫がきゅるるるるとか細く鳴いた。
「……お腹すいた。」
「はぁ?????」
赤面するリュカ。
ガルドから思わず間抜けな声が漏れる。
リリは口に手を当て微笑んでいるように見せて、笑いを堪えるのに必死そうだった。
「……串焼き食べたい。」
「馬鹿野郎!今のお前にあんなもん食わせられるか!」
「……なんで……。」
リュカは、残念そうに目を伏せた。
そんなリュカを見てガルドは思わず吹き出した。
「……お前なぁ。死にかけた自覚はあるのか?」
「……ある。」
「本当かよ…?」
「……多分。」
「多分じゃねえ!」
病室に、久しぶりの笑い声が響いた。
リリも、口元を押さえて笑っている。
リュカは二人を見比べた。
ここに居る、ガルドとリリ。
自分を心配して、怒って、笑ってくれる人がいる。
そのことが、今は少しだけ嬉しかった。
その時。
コン、コン、と。
先ほどとは打って変わって、談笑を邪魔するまいというような控えめなノックの音が響いた。
「失礼するよ。」
扉が静かに開く。
そこに立っていた人物を見て、リリとガルドは同時に目を丸くした。
「……ダリウス?」
「ギルド長?」
ダリウス・エルグレンは、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「やあ。二人とも。」
片手を軽く上げ、病室の中へ入ってくる。
「ギルド長…どうしてここに?」
「いやいや、僕も心配してたんだよ?」
「それは……分かりますけど。」
リリは少し戸惑いながら答えた。
ギルド長自ら、わざわざ医療棟まで足を運ぶなんて。
今まで怪我をしてきた人は数知れずいるけど、そんな事はあまり無かった。
ダリウスはベッドのそばまで歩き、リュカに目を向ける。
「やあ。身体の具合はどうかな?」
「……まだ、痛い。」
「まあ、そうだろうね。安静にするんだよ。」
「……うん。」
ダリウスは、にこりと笑った。
「ギルド長、わざわざリュカちゃんのお見舞いに来てくれたんですか?」
リリの問いに、そうだね。と微笑むダリウス。
それから、ほんの少しだけ声の調子を変えた。
「まあ……それだけでは無いけど、ね。」
リリとガルドの表情が変わる。
ダリウスは、抱えていた書物を見せた。
「今回の件について、色々と調べてみたんだ。あの牙狼についてもね。」
リュカの耳が、ぴくりと動いた。
「……あの、おおかみ?」
「ああ。それが牙狼だ。」
ダリウスは椅子を引き寄せ、ベッドのそばに腰を下ろした。
「まず初めに、君が森で体験したことを話してほしい。覚えている範囲で構わないからね。」
リュカは、少しだけ目を伏せ、森のことを思い出そうとする。
木々の間を吹き抜ける風。
弓を握る手。
目の前に立ちはだかった、巨大な獣。
そして、赤い瞳。
「……森に入って、しばらく歩いて」
ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「……足跡があったから。それを追って……。」
「うん。」
「……おおかみが居た。大きな、黒い…。」
ダリウスは黙って頷いた。
「……赤い目をしてた。私を見て……帰れって。」
「…帰れ?それは牙狼の言葉かい?」
「……うん。」
病室の空気が、わずかに張り詰めた。
リリが息を呑む。
ガルドも、眉をひそめた。
「……何故、牙狼の言葉だと?」
「……前に森で聞いたのと、同じ声が聞こえた。」
リュカは、自分の耳にそっと触れた。
「……あの時と、同じ……。頭の中に直接。そんな感じだった。」
ダリウスの笑みが、ほんの少しだけ消えた。
「……頭の中に、か。」
「……うん。」
リュカは、言葉を探すように少し黙った。
「……急に、頭の中に入ってきた。」
ダリウスは、膝の上で指を組んだ。
「そうか……牙狼の声が……。」
彼は、持ってきた書物へ視線を落とす。
「……やはり、僕の見つけた情報は間違っていなかったみたいだ。」
「……記録?」
リュカがきょとん、と首を傾げる。
ダリウスは手に持っていた古い書物を開いた。
「昔の記録だよ。今ではほとんど知られていない、ある獣人の一族について書かれている。」
彼は、ページの一節を指で示した。
「……はい……おおかみ……?」
「灰狼族と読む。見た目はその名の通り、灰がかった毛色。狼の耳と尾を併せ持つ獣人だ。」
ダリウスはそこで言葉を切り、リュカへ目を向けた。
「君のような、ね。」
その言葉に、思わずリュカは自分の耳に触れた。
灰狼族。
リュカ自身の記憶には無い名前だった。
話を聞いていたリリも、ガルドも黙っていた。
二人とも、リュカの姿を見ている。
銀灰色の髪。
灰色の狼の耳。
大きな尻尾。
確かに、書物に記された特徴と重なる部分は多い。
しかし、それだけで同じ種族だと決めつけることはできない。
ダリウスもまた、そこまでは断言しなかった。
「もちろん、見た目が似ているだけで同じ種族だとは言い切れない。けれど、この記録にはもう一つ興味深い事が書かれているんだ。」
ページをめくる。
三人は一斉にそのページに目を向けた。
「この文献によれば……灰狼族は、今は魔物とされる牙狼と意思疎通が取れる唯一の種族だった。と記されてる。」
「……意思疎通?」
リリが小さく呟いた。
「それって……牙狼と話ができたってことですか?」
「記録上は、そういうことになるね。」
ダリウスは頷いた。
「…牙狼は、非常に強大な力を持つ存在だった。人間や獣人達だけでなく、多くの魔物にとっても脅威になり得る。だからこそ、かつての人々は牙狼を恐れていた。」
彼は、書物の別の一節を示した。
「ところが、灰狼族は牙狼と意思を通わせることができた。記録には、牙狼を抑止し、従えていたと記されているね。」
「……従えていた……?」
ガルドが眉をひそめた。
「…あの牙狼を手下にしていたってことか?」
「……記録の言葉をそのまま受け取るなら、そういう解釈になるだろうね。」
ダリウスは、わずかに肩をすくめた。
「ただ、なにせ古い記録だからね。実際にどういう関係だったのかまでは、これだけでは分からない。」
それは、事実だった。
古い記録に残された言葉は、必ずしも当時の出来事を正確に伝えているとは限らない。
記録を残した者が、何を見て、何を理解し、何を伝えようとしたのか。
それを確かめる手段は、今となってはほとんど残されていない。
リリは、リュカへ視線を向けた。
「……でも、リュカちゃんの話が本当なら」
その声には、戸惑いが混じっていた。
「リュカちゃんは…その……。」
リリは言葉を止めた。
何を言えばいいのか分からなかった。
リュカが、灰狼族と呼ばれる種族なのだろうか。
牙狼を従えていた種族ならば、今森にいる牙狼は件の灰狼族の誰かがけしかけた魔物…?
色々な考えが浮かぶが、今ここで決めつけることはできない。
ダリウスも、同じことを考えていた。
「……リュカ君の証言の通り、牙狼と会話が成立していたのだとすれば。」
彼は静かに言った。
「自ずと、彼女の種族について、ひとつの可能性が浮かび上がってくる。だけどそれはあくまで可能性に過ぎない。」
病室が静まり返った。
リュカは、何も言わなかった。
自分の種族。
自分が何者なのか。
これまで、考えたことがなかったわけではない。
でも、どれだけ記憶を遡っても、あるのはたった一人で歩んできた今までの旅だけだった。
「……わたし、が」
リュカが、ぽつりと口を開いた。
「……あのおおかみと一緒に生きてきたんだとしたら…なんでわたしを嫌がるのかな。」
リュカの疑問に、ダリウスは小さく首を振って答えた。
「……さてね。向こうにどんな意思があるのか…君とあの牙狼の間にどんな関係があるのか。…そこまではまだ分からない。」
「……そっか。」
リュカは、ゆっくりと目を伏せた。
あのときの声を思い出す。
来るな。 帰れ。
確かに聞こえた。あの声。
自分を拒絶する声だと思った。
自分を追い払おうとしているのだと思った。
だから、戦おうとした。
牙狼が森の異変を引き起こしたのだと考え、目的を知ろうと。
でも、全く歯が立たなくて。
血胸は何も成し遂げられず、返り討ちにあっただけだった。
けど、今になって考えてみれば、あの牙狼は自分を殺そうとしていただろうか?
圧倒的な力を持っていた。
自分など、簡単に殺せたはずだ。
それなのに。
「……あのおおかみ。」
リュカは、小さく呟いた。
「……わたしを、殺そうとしてなかった…と思う。」
ダリウスは、静かにリュカを見つめていた。
彼女が語ったことは、重要な証言だ。
牙狼がリュカと意思疎通をした事。
牙狼が、彼女に致命傷を与えなかった事。
そしてこれは憶測に過ぎないが、森の奥で倒れたはずの彼女が街道で発見されたという事は。
牙狼が、森から街道へ彼女を移動させたという事。
それらは、可能性と呼ぶにはあまりに繋がりすぎていた。
だが、まだ結論を出すには早い。
「……牙狼との戦闘についても、詳しく聞かせて欲しい。」
ダリウスは穏やかな声で言った。
「牙狼がどんな攻撃をしたのか、とかね。思い出せる範囲で構わない。」
リュカは頷いた。
「……うん。」
そして、少しずつ話し始めた。
「……わたしがされたのは…ただの体当たりだと思う。走ってきて、ぶつかって…吹き飛んで…。」
「それって……あの時と同じ……。」
リリが静かに呟く。
リリは、捜索隊として森に派遣された時の事を思い出していた。
あの時も、牙狼は隊員相手には体当たりを仕掛けるだけで、決して牙や爪などは身体に当ててこなかった。
ということは…あの時も…。
リリが考え込む中、リュカは淡々と戦闘時の説明を続けた。
───そして。
「……途中から、変だった。」
「……何がだい?」
ダリウスが尋ねる。
リュカは、自分の手を見つめた。
「……身体が、勝手に動いた。」
ダリウスの眉が、微かに上がった。
ガルドも、わずかに身を乗り出す。
「勝手に……?」
「……うん。怖かったのに。身体は、怖がってなかった。」
リュカは、自分でもうまく説明できない様子だった。
「……速く動けた。いつもより、ずっと。おおかみの動きも、見えた。なのに……。」
言葉が途切れる。
頭の中に、あの瞬間の感覚が蘇った。
身体の奥から、何かが溢れ出してくるような感覚。
熱いのに、冷たい。
怖いのに、妙に落ち着いている。
自分の身体なのに、自分ではない何かが動かしているような。
「……身体から、何か、出てきた。」
「何か?」
「……身体の中から。黒くて、赤い……変なもの。」
ダリウスの目が、わずかに細くなった。
「……魔力、か。」
「「……!?」」
ダリウスの呟きに、1人考え込んでいたリリが顔を上げる。
ガルドも立ち上がり、目を見開いていた。
セレスタには今、魔力を扱える者がいない。
魔力を取り込むための技術が、この街ではまだ発展していない。
だからこの街で戦う冒険者たちは、皆武器を使い、自らの身体を鍛えることで魔物に対抗している。
だからこそ、リュカが口にした感覚を、すぐに理解することはできなかった。
しかし、彼女の言葉は曖昧な夢物語のようには聞こえない。
「……それは、君が意識して出したものなのかな?」
「……違う。」
リュカは首を横に振った。
「そのとき、身体に痛みは?」
「……痛かった。けど、途中からは全然…。」
「他には?」
リュカは、しばらく考えた。
「……自分が、変になる感じ。」
その言葉に、リリの表情が曇った。
「リュカちゃん……。」
「……自分なのに、違うみたいだった。」
リュカは、目を伏せる。
「……もっと、強くなれる気がした。でも……このままだと、戻れなくなる気もした。」
病室の空気が、静かに重くなった。
リュカ自身にも、あれが何だったのか分からない。
ただ、あの力は、自分がこれまで知っていた自分とは違う何かだった。
もし、あのまま力を使い続けられていたら。
もし、身体が完全に自分の言うことを聞かなくなっていたら。
一体どうなっていたのだろう。
「……その力を、もう一度使うことはできそうかな?」
ダリウスが尋ねた。
「……分からない。…あの時も、勝手に消えたから。」
目と耳を伏せたまま、リュカが続ける。
「でも……また使えても、使いたいとは、思わない。」
「……そうか。」
ダリウスは頷いた。
「なら、無理に確かめようとする必要はないよ。今は身体を治すことが先だ。分からないことを、焦って解き明かそうとする必要はない。」
リュカは、少しだけ安心したように息を吐いた。
ダリウスは書物を閉じ、膝の上に置いた。
「ただ、ひとつだけ覚えておいてほしい。」
彼は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「君が体験したことは、君自身にとっても、僕たちにとっても、重要な手がかりになる。だから、何か思い出したことがあれば教えてくれると嬉しい。いいかな?」
「……うん。」
「ありがとう。」
ダリウスは頷いた。
そこで、ふとガルドが口を開いた。
「……ちょっと待てよ。」
彼は、先ほどから気になっていたことを思い出したように、ダリウスを見た。
「さっき、牙狼のことを『今は魔物とされている』って言ったよな?」
「ああ。」
「……以前は違ったのか?」
ダリウスは、少しだけ目を伏せた。
「……そうか。君は、その頃にはもう……。」
言いかけて、口を閉じる。
ガルドの過去を知るダリウスは、あまり触れたくない記憶を払うかのように首を振った。
ガルドを改めて見据えて、説明を始める。
「……そうだね。記録によれば、牙狼が魔物として扱われだしたのは、ちょうど一年前くらいだ。」
「一年前……?」
ガルドが小さく呟いた。
「それ以前、牙狼は魔獣として扱われていた。危険な存在であることに変わりはなかったけれど、積極的な討伐対象とはされていなかったんだ。」
「……なんでだ?」
ガルドの問いに、ダリウスはまた古い書物を開いた。
「灰狼族との関係があったからだよ。牙狼と意思疎通ができる一族が存在していた。そのため、牙狼が人間や獣人にとって脅威となることを抑えられる、と考えられていたらしい。」
「……つまり、灰狼族がいたから、牙狼も放っておかれていたってことか?」
「記録から読み取れるのは、そういうことだね。」
ガルドは、難しい顔をした。
「じゃあ、一年前に何があった?」
ダリウスは、少しだけ間を置いた。
「……灰狼族が暮らしていた集落で、大規模な魔物災害が起きた。」
リュカの耳が、ぴくりと動いた。
「その災害によって、灰狼族は壊滅したと記録されている。生き残りがいたという報告も、今のところ見つかっていない。」
ダリウスは、書物を見つめた。
「灰狼族がいなくなったことで、牙狼を抑える存在も失われた。そう判断した王都は、牙狼を魔物として再分類し、討伐対象にしたんだ。」
「……実害が出たから、ではなく危険因子だから…という事か。」
ガルドの声が、低くなった。
「少なくとも僕が確認した記録には、牙狼による被害が明記されたものは見つかってない。」
「なるほどな。……待て。待てよ。」
ガルドは言葉を止めた。
頭の中で、いくつもの情報がつながり始める。
一年前の魔物災害。
灰狼族の壊滅。
牙狼の再分類。
そして、今になって起きた森での事件。
これまで、誰もが牙狼を危険な魔物だと考えていた。
だから、森で異変が起きれば牙狼が原因だと疑う。
牙狼の痕跡が見つかれば、討伐すべきだと判断する。
それは、冒険者として自然な考え方だった。
しかし。
ガルドは、ゆっくりと顔を上げた。
「牙狼は、人間を殺さねえんじゃねえのか……?」
その言葉に、ダリウスは静かに首を横に振った。
「そこまでは言えないよ。」
ガルドが眉を寄せる。
「記録に被害が残っていないからといって、牙狼が一度も人間を襲ったことがないとは限らない。記録されなかった事件もあるかもしれないし、今まで何も起きていなかったとしても、これから先も絶対に起きないとは言い切れない。」
「……じゃあ、何が言える?」
「牙狼が危険な存在だということと、今回の事件の犯人だということは分けて考える必要がある。それだけは確かだね。」
ダリウスの声は穏やかだった。
けれど、その言葉には明確な意思があった。
「王都が牙狼を討伐対象にしたのは、灰狼族がいなくなったことで、牙狼を抑止できなくなると判断したからだ。つまり君が言ったように牙狼が実際に人間を襲ったからではなく、将来の危険性を考慮した判断だった可能性が高い。」
「……可哀想……。」
リリが呟いた。
「危険な存在を放置できないという判断そのものは、理解できるよ。実際、牙狼の力は脅威だ。何かが起きてからでは遅い、という考え方もある。」
ダリウスは、そこで一度言葉を切った。
「でも、だからといって、牙狼が今回の事件を起こしたと決めつけていいわけじゃない。」
ガルドは黙り込んだ。
今までの考え方が、少しずつ崩れていく。
…もしも牙狼が、今回の事件の犯人ではなかったとしたら。
「……ギルドの親衛隊や先遣隊を襲ったのも……」
ガルドが呟く。
「牙狼じゃない可能性がある、ってことか?」
「…可能性はあるね。」
ダリウスは、きっぱりと答えた。
「今回の件を含めて、もう一度調査する必要がある。あの牙狼の目的、そして、他に何かが関わっているのか。」
彼は、リュカへ視線を向けた。
「その為にも、君には早く回復してもらう必要がある。」
リュカは、静かにダリウスを見つめ返した。
自分に今、求められているもの。
もう既に理解していた。
《もう一度森に入り、牙狼から情報を聞き出す事。》
リュカしか出来ない、リュカだけの仕事。
「……もう一度、森に行って貰えるかい?リュカ君。」
そう告げるダリウスの目に、優しさや心配が垣間見えた。
ここで嫌だと言っても、きっと彼は許してくれるのだろう。
でも、リュカに断る気は微塵もなかった。
「……わかった。」
「ちょっと待って下さい!」
頷くリュカの横で、リリが叫んだ。
「ギルド長、私は反対です!いくら牙狼と話せるからって…今度は死んじゃうかも知れないんですよ!?」
「俺も同感だな。」
それを聞いて、ガルドが立ち上がる。
「牙狼と話をさせるさせない以前に、そもそもこいつは戦闘能力が低すぎる。また行っても、同じ事の繰り返しだぞ。」
ハッキリとしたガルドの言葉に、少しリュカの耳が垂れた。
自分が弱いのは百も承知だけど、改めて言われると少し傷ついた。
そんな二人の様子を見て、ガルドはにっこりと笑って答える。
「二人とも、勘違いしてないかい?僕は一人で行かせるなんて言ってないよ。」
ダリウスはリリを指差し、その目を見据える。
「リリ、君も一緒に行くんだ。」
「えっ……?」
「無理だと言うなら、リュカ君も行かせない。ただ……」
ダリウスの目から、優しさが消える。
「……それこそ、また同じ事の繰り返しだよ。」
「……っ!」
リリは、ヴァルゼンに言われた言葉を思い出した。
自分の未熟さで、リュカが傷付き倒れた。
あの言葉は、何も間違ってない。
私は、未熟者で、役立たずだと思っていた。
でもギルド長は、もう一度私にチャンスをくれると言っている。
次こそは、やってみせろと。
「……分かりました。」
リリは、真っ直ぐにダリウスを見据え、リュカの手を握った。
「リリさん……?」
「……リュカちゃんは、命に替えても守ります。」
「……いい目だ。頼んだよ。」
ニコッと笑うダリウス。
その会話を聞いていたガルドは腑に落ちない顔をしていたが、何も言わなかった。
「じゃあ、しっかり治すんだよ。詳細はまた追って連絡するからね。」
そう告げると、ダリウスは静かに病室を後にした。
それを見て、ガルドもまた立ち上がった。
「俺もそろそろ帰るとするか……。情報量が多すぎて頭がめちゃくちゃになっちまった。」
頭をガシガシと掻きながら、じゃあなと言って手を挙げガルドは病室を後にした。
残された二人は、静かに顔を見合せていた。
「…なんだか、色々とんでもない話になってきたね。」
「……うん。」
リュカも、リリも、困ったように笑った。
窓の外では、夜も更けたというのに街の人々が行き交っている。
セレスタは、今日も変わらずそこにあった。
だが、その平穏のすぐそばで、今も知らない何かが動いている。
一年前に失われた一族。
森に突如現れた牙狼。
そして、リュカの身体に眠る、未知の力。
それらが何を意味するのか。
まだ、誰も知らない───。




