知らない感情
新たな情報へ、少しずつ動き始めるギルド。
今回の事件に関与していたヴァルゼン・クロイツ。
その真実に、彼女を取り巻く人々は何を思うのか。
それぞれの思惑が交錯する中、物語は真実に迫っていく。
街の喧騒から少し離れた通りに、一軒の武具店がある。
店内には、手入れの行き届いた剣や槍、弓が整然と並んでいる。壁際には大小さまざまな盾が立てかけられ、棚には矢尻や弦、革製の装具といった細かな道具が収められていた。
店主のヴァルゼン・クロイツは、カウンターの奥で一本の弓を手にしていた。
本体の反りを確かめ、、弦の張りを調整する。
指先で弦を弾くと、ピンッと澄んだ音が店内に響いた。
ヴァルゼンはわずかに目を細め、満足したように弓を置いた。
そのときだった。
店の扉が開き、ドカドカと複数の足音が店内へと踏み入ってきた。
「ヴァルゼン・クロイツだな?」
唐突な来客に、ヴァルゼンは静かに顔を上げる。
入口に立っていたのは、ギルド管轄の警邏隊だった。
二人の男が店内を見渡し、そのうちの一人がヴァルゼンへ視線を向けている。
「見ればわかるだろう。」
ヴァルゼンは何も動じず答える。
「少し聞きたいことがある。ギルドまで来てもらえるか。」
「私は今忙しい。」
男の言葉を一蹴し、ヴァルゼンは再び弓へ目を向けた。
警邏隊の男が眉を寄せる。
「……話を聞いているのか?」
「聞こえている。逆に聞こえなかったか?私は忙しいと言ったんだが。」
取りつく島もない返答だった。
男は小さく息を吐いた。
「……話を続けさせてもらう。」
ヴァルゼンは返事をしなかった。
「獣人の少女のことについてなのだが。」
その瞬間。
ヴァルゼンの手が止まった。
弓の調整の為に戻されていた目線も、静かに男を見据えていた。
「……あの灰色の小娘か。」
低く呟く。
「そうだ。」
「そいつがどうかしたか。」
警邏隊の男は、表情を引き締めた。
「今朝、街道で瀕死の重傷を負って倒れているところを発見された。保護された後、医療棟で治療を受けているが……かなり危険な状態らしい。」
「…それがどうした? 私の知ったことではないな。」
ヴァルゼンは興味を失ったように答え、また手元の作業へ視線を戻した。
警邏隊の男は、そんなヴァルゼンの様子をしばらく見つめていた。
やがて、懐から一つの品を取り出す。
「彼女の所持品の中に、お前の店の紋が入った矢筒があった。」
ヴァルゼンの眉が寄った。
「……ああ、それか。」
「覚えがあるんだな?」
ヴァルゼンは突き付けるように差し出された矢筒を一瞥した。
革の表面には、確かに自分の店の紋が刻まれている。
「……なるほど。それで私のところへ来たわけか。」
「こちらとしても、無関係な者を呼びつけるつもりはない。お前が今回の事件に関与している疑いがある為、話を聞かせろと言っているんだ。」
「……ふん。」
ヴァルゼンは顎に手を当て、少しだけ考えるような仕草を見せた。
そして、唐突に立ち上がる。
「……いいだろう。そろそろお前たちギルドには嫌気が差していた頃だ。」
「……何?」
「話してやる。私の気が変わる前に行くぞ。」
そう言うなり、ヴァルゼンは店の奥へと歩き出した。
「お、おい。まだ話は───」
「店を閉める。少し待っていろ。」
「いや、我々はお前を」
「聞こえなかったのか?店を閉めると言ったんだ。」
有無を言わせぬ口調だった。
警邏隊の男は口を開きかけ、そのまま閉じた。
ほどなくして、戸締まりを終えたヴァルゼンが戻ってくる。
何も動じていないその姿に、警邏隊の男が顔を顰めた。
「……お前、自分の立場を分かっているのか?」
「ギルドへ行くのだろう?店主不在で店はどうする。」
「そういう話をしているんじゃない!」
「ならば、何の話だ?」
「…………もういい。とにかく来い。」
「行くと言っているだろう。」
ヴァルゼンは何事もなかったかのように店の外へ出た。
警邏隊の男たちは顔を見合わせる。
この男から事情を聞くために、ギルドへ連れ帰ろうと店へ来たはずだった。
それなのに、いつの間にか相手の方に転がされている。
「……何なんだ、あいつは。」
ぼやきながらも、三人は慌ててその後を追った。
冒険者ギルドの建物は、昼時を過ぎても人の出入りが絶えなかった。
依頼を受ける者、報告をする者、仲間と話し込む者。
いつもと変わらない光景が広がっている。
しかし、ギルドの奥にある一室だけは、外の喧騒から切り離されたように静まり返っていた。
ギルドの1番奥に設置された、取調室。
簡素な机と椅子が置かれた部屋の中で、一人の男が待っていた。
その男は───ギルド長、ダリウス。
彼は机の上に置かれた書類へ目を落としていたが、扉が開く音を聞くと顔を上げた。
「連れてきました。」
警邏隊の男が告げる。
その後ろから、ヴァルゼンが悠然と入ってきた。
ダリウスは彼の姿を確認し、片手を上げた。
「やあ。」
「……ダリウスか。」
ヴァルゼンは、机の向こうに座る男を見据えた。
「……久しいな、ヴァルゼン。」
頬杖をついて、ダリウスは不敵に笑う。
その笑みに些か不快感を感じたのか、ヴァルゼンは眉を寄せて歩み寄った。
「ギルド長になったお前が直々とは……余程、事態は深刻か?」
「はは、そう思うかい?」
「少なくとも、以前のお前なら部下に任せていたはずだ。自分で出てくるとは、余程の事なんだろう。」
「今や僕は長だからね。立場が変われば、やることも変わる。」
ああ言えばこう言う、飄々と躱すような言葉をつらつらと並べるダリウスの事がヴァルゼンは気に食わなかった。
「……ふん。面倒な役目を引き受けたものだな。」
「君に心配されるとは思わなかったよ。」
「心配などしていない。」
ヴァルゼンはそう言って、空いている椅子を引いた。
ダリウスに促されるまでもなく、腰を下ろす。
かつてからの知り合いらしい、遠慮のないやり取りだった。
もっとも、懐かしさを語り合うような雰囲気はないが。
ダリウスは机の上で両手を組んだ。
「さて、君には世間話をするために来て貰った訳ではない。」
「だろうな。」
「本題に入ろう。」
ヴァルゼンは背もたれに身体を預け、視線を返した。
「君が、彼女を森へ行かせたのかい?」
ダリウスの問いに、ヴァルゼンは眉を顰めた。
「……逆に聞かせてもらおう。」
そして、先ほどまでとは少し違う声で尋ねた。
「お前達ギルドは、あの小娘についてどこまで知っている?」
「……どういう意味かな?」
「そのままの意味だ。」
ヴァルゼンは組んでいた腕を解き、机に片肘をついた。
「お前たちは、あの小娘についてどこまで把握している?」
ダリウスはすぐには答えなかった。
相手の質問の意図を探るように、その顔を見つめる。
やがて、静かに口を開いた。
「……名前はリュカ・グレイ。狼系の獣人の少女で、出生は不明。今は弓士になったんだったかな。」
「ふっ……」
ヴァルゼンが鼻で笑った。
「それは、何も分かっていないのと同じだろう。」
ダリウスの眉がわずかに動いた。
「……君の話も興味深いが、今はその話は置いておこう。」
声に、わずかな硬さが混じる。
「単刀直入に聞く。矢筒は君が彼女に渡したのか?」
「そうだが。」
あまりにもあっさりとした返答だった。
ダリウスは一瞬、言葉を止めた。
矢筒に店の紋が入っていた以上、その可能性は考えていた。だが、こうも簡単に認められるとは思っていなかった。
「……なぜ?」
ダリウスが尋ねる。
ヴァルゼンは怪訝そうに眉を上げた。
「愚問だな。矢がなければ弓で何を飛ばす」
「そうじゃない。なぜ、彼女を止めなかったと聞いている。」
ダリウスの声が低くなった。
ヴァルゼンは、しばらく黙って彼を見つめた。
そして、平然と問い返す。
「なぜ私に止める必要があった?」
「……何……?」
ダリウスの僅かに表情が険しくなる。
ヴァルゼンは一切動じなかった。
「あの小娘がどこで何をしようと、私の知った事ではない。例えどこで死のうが、な。」
「……君は、今自分で言っていることが分かっているのかい?」
「お前が私をどう思っているのかは知らんが」
ヴァルゼンは、そこでわずかに身を乗り出した。
「俺の作品がただの一度も使われず、持ち主を失う。そんなことがあっていいと思うか?」
「………!?」
ダリウスは黙り込んだ。
目の前の男は、本気でそう言っているようだった。
少女が危険な目に遭う可能性よりも、自分の作品が使われずに失われることの方が受け入れられないと。
少なくとも、今の言葉だけを聞けばそうとしか受け取れなかった。
「……あの弓も、君の作ったものか。」
「そちらにも店紋は入っているはずだがな。」
ヴァルゼンは淡々と答えた。
「……考えなかったのか?こうなるかも知れないと。」
ダリウスが尋ねた。
ヴァルゼンの表情は変わらない。
「それは、あの小娘が死にかけている事か?」
「それ以外に何が……」
「それについては、予見していたがな。」
ダリウスの言葉が止まった。
しばらくの沈黙。
やがて、ダリウスは目の前の男を見据えた。
「……人が、自身の行動で命を落としかけたんだぞ。何故そう飄々として居られる。」
「……ふん。」
まるで嘲笑うかのような笑みがヴァルゼンに浮かぶ。
そして見下すような目で、ダリウスに目を向けた。
「……人か。お前達は人型をしていたら何でも仲間認定なのか?」
「…どういう意味だ?」
「最初の質問に戻るぞ。ダリウス。」
肩肘をつき、身を乗り出してきたヴァルゼンに思わず身を引いてしまう。
そのまま、ダリウスの目を覗き込むようにヴァルゼンは視線を交わらせた。
「お前たちは、あの少女について何を知っている。」
静かな問いだった。
しかし、そこには明らかな侮蔑が含まれていた。
ダリウスは、すぐには答えなかった。
少女の素性について、確かな情報はほとんどない。
彼女が何者なのかということに関しては、分からないことばかりだった。
「……少なくとも、君は何かを知っているようだね。」
「お前達よりかは、な。」
ヴァルゼンは小さく鼻を鳴らした。
「……聞いて呆れる。ギルドの調査とやらもこの程度か。」
「何……?」
「……『今』ばかりを探すから手詰まりになる。『今』に答えが無いなら、『過去』を探すべきではないのか。」
その言葉に、ダリウスは何も返せなかった。
ヴァルゼンは腕を組み、冷めた目で相手を見据えている。
「目の前にあるものだけを調べて、答えが出ると思っているのか?」
「……君は、何を知っている?」
「さあな。」
「……なぁ、ヴァルゼン。今ここで、僕たちに協力してくれる気はないか?」
「断る。」
即答だった。
ダリウスは小さく息を吐く。
「……そうだろうね。」
最初から期待していなかったのかもしれない。
それ以上、引き留めようとはしなかった。
一方のヴァルゼンは、話は終わったとばかりに椅子から立ち上がる。
「もういいか。私は帰るぞ。」
「…ああ。」
ヴァルゼンは返事を待つこともなく、扉へと向かい、歩みを止めた。
「…灰狼族。」
振り返ることなく、ただ淡々と言葉を投げる。
「答えを見つけたければ、その名を探せ。」
「…灰狼族…?」
ダリウスの問いには答えることなく、ヴァルゼンは取調室を出ていった。
扉が静かに閉ざされる。
残されたダリウスは、しばらくその場を動かなかった。
「……身勝手だな。相変わらず。」
小さく呟く。
ヴァルゼンは関与していた…が、罪に問えるような事はしていない。
それをヴァルゼンも分かっているからこそ、ああいう身勝手な振る舞いが出来るのだろうが。
今回の話で明らかになったのは、ヴァルゼンがリュカという少女について、何かしらの情報を持っているという事だった。
最後に言い残された『灰狼族』という単語。
それが彼女と繋がっているのだとするならば。
ダリウスは深く息を吐き、机の上の書類へ目を落とした。
「……灰狼族、か。」
ヴァルゼンの言う通り、今ある情報だけでは答えにたどり着けない。
今、縋れるものがるとするならば、ヴァルゼンの残した言葉だけだった。
ダリウスもまた、静かに取調室を後にした。
ギルドを出たヴァルゼンは、建物の前で足を止めた。
昼下がりの通りには、いつもと変わらない人の往来があった。
荷物を運ぶ商人。買い物帰りの住民。依頼を終えて仲間と笑い合う冒険者。
ヴァルゼンはそれらを一瞥すると、店へ戻ろうと歩き出した。
「───待ちなさい!」
鋭い声が飛んだ。
ヴァルゼンが振り向くよりも早く、一人の女性が目の前に立ちはだかった。
そして、次の瞬間。
胸倉を、強く掴まれた。
「……何だ?」
ヴァルゼンは眉をひそめた。
目の前にいるのはリリだった。
普段の穏やかな表情は、見る影もない。
怒りに燃える瞳。強く噛みしめられた唇。胸倉を掴む手は、小刻みに震えていた。
「……どこから聞いていた?」
ヴァルゼンは彼女を見下ろし、静かに尋ねた。
「最初から全部聞いてたわ。扉の外でね。」
「……そうか。」
ヴァルゼンはそれだけ答えた。
そして、わずかに間を置いて。
「……で?」
「……っ…あんたねぇ!!!」
リリの怒声が、ギルド前に響き渡った。
周囲を歩いていた人々が、何事かと振り返る。
しかし、リリはそんなことなど気にも留めなかった。
「あんた、自分が何をしたか分かってるの!?リュカちゃんがどんな状態で見つかったか、聞いたんでしょう!?」
「ああ。」
「だったら、どうしてそんな平然としていられるのよ!」
「何か問題があるのか?」
「……っ!」
あまりにも無神経な返答だった。
リリの指に、さらに力がこもる。
「あの子は瀕死だったのよ!今だって、まだ目を覚ましていないの!それなのに、あんたは……!」
言葉が詰まった。
怒りだけではなかった。
リュカがもう二度と目を覚まさないかもしれない。
そんな恐怖が、ずっと胸の奥に張りついている。
あの小さな少女が、もう一度笑ってくれるのかさえ分からない。
それなのに、目の前の男は何一つ気にしていないような顔をしていた。
「……少しくらい、心配する素振りくらい見せたらどうなのよ……!」
リリの声が震えた。
ヴァルゼンは、そんな彼女を冷めた目で見つめていた。
「お前があの小娘をどう思っているかは見れば分かる。が……」
その目から、わずかな温度さえ消えた。
「あの小娘がどうなろうと私の知ったことではない。」
「……っ!!」
リリが言い返そうとした、その瞬間だった。
ヴァルゼンは胸元を掴んでいた彼女の手を振り払った。
突然のことに体勢を崩したリリは、後ろへよろめく。
「あっ……!?」
石畳に手をつき、どうにか顔を打つことだけは免れた。
手のひらに鈍い痛みが走る。
周囲から、驚いた声が上がった。
だが、ヴァルゼンは倒れたリリを見下ろすだけだった。
「……お前は私に全て責任があると言いたげだが。」
「……っ…当たり前でしょ…あんたがリュカちゃんをけしかけなければ…!」
立ち上がりながら、殺意の込もった目で睨みつけるリリ。ヴァルゼンはただ冷めきった目でそれを見るだけだった。
「そもそも、お前が牙狼を討伐していればこうはならなかったんじゃないのか?」
「───っ!」
リリの身体が強張った。
息が止まる。
言い返さなければ。
何か、言わなければ。
そう思うのに、喉が動かなかった。
牙狼を討伐できなかった。
森で何が起きているのか、最後まで分からなかった。
リュカは一人で森へ向かい、瀕死の重傷を負って帰ってきた。
ヴァルゼンの言葉が、頭の中で繰り返された。
「…怒りの矛先を、己の無力さにも向けたらどうだ?」
吐き捨てるようにそれだけを告げ、ヴァルゼンは踵を返した。
まるで、もう話すことなどないとでもいうように。
「…………。」
リリは石畳に手をついたまま、動けなかった。
悔しかった。
あまりにも冷たく、あまりにも理不尽な言葉だった。
それなのに。
胸の奥で、何かが崩れていく。
もし、自分がもっと強ければ。
もし、もっと早く森の異変に気づけていれば。
もし、あのとき牙狼を討伐できていたなら。
リュカは、あんな目に遭わずに済んだのだろうか。
「……っ、う……。」
唇を噛みしめる。
それでも、込み上げてくるものを抑えられなかった。
ぽたり、と。
石畳に雫が落ちた。
「……そんなの…」
震える声が漏れる。
「……そんなの、初めから分かってる……っ!」
ヴァルゼンの背中は、すでに人混みの向こうへ遠ざかりつつあった。
リリはその場にうずくまり、両手で顔を覆った。
「……っ、うぁ、あ…あああ…!!!」
声を押し殺そうとしても、涙は止まらなかった。
リュカに申し訳なかった。
守れなかった自分が情けなかった。
そして何より、あの男の言葉を否定できない自分が、どうしようもなく嫌だった。
リリはしばらく、その場から動けなかった───
夕方、街の一角にある露天街では夜に向けて人通りがぽつぽつと多くなってきていた。
客が帰った食べ終わった串を捨て、焼き台を整理していたガルドはふと、目の前の道へ目を向けた。
ふらふらと道を歩くリリが視界に入ったからだ。
「……?リリ。どうした?」
いつもの調子で声をかける。
だが、返事がない。
ただ声は届いていたのか、リリはまたふらふらと、拙い足取りでガルドのところへ歩いてきた。
その顔を見た瞬間、ガルドの表情が変わった。
「……おい。何かあったのか?」
リリは俯いたまま、唇を引き結んでいた。
やがて、かすれた声で答える。
「……リュカちゃんに、会ったの。」
「お、おお!そうか!そりゃあいつ喜ん───」
そこまで言いかけて、ガルドは口を閉じた。
リリの表情が、まるで晴れていなかったからだ。
「……何があった?」
声の調子が変わる。
リリは、両手を握りしめた。
握られたスカートが、くしゃっと形を崩す。
「……リュカちゃん、街道で倒れているところを保護されたの。瀕死の重傷で……今は医療棟で治療を受けているけど……かなり危険な状態だって。」
「……何?」
「……まだ、目を覚ましていないの。」
リリの目から、涙が零れる。
しばらく、ガルドは何も言わなかった。
賑やかになりつつある露天街で、ガルドの店前だけ静かな沈黙が落ちる。
やがて、彼は手にしていた布巾を置いた。
「……そうか。」
短い返事だった。
けれど、その声からはいつもの気楽さが消えていた。
リリは俯いたまま、ぽつりと続けた。
「……森へ行く手助けをしたのは、ヴァルゼンだって。」
「何?」
ガルドが顔を上げた。
「ヴァルゼンって……あいつが?」
リリは頷いた。
「あの人……リュカちゃんが危険な目に遭うと分かっていながら、止めずにそのまま向かわせてたって……。」
「……あいつが、手助けねぇ……?」
ガルドは顎に手を当て、考え込んだ。
ガルドは、あの男がわざわざリュカの森行きを手助けしたというのはどうにも腑に落ちなかった。
「……私、あの人に聞いたの。」
リリの声が小さくなる。
「どうして止めなかったのかって……。」
ガルドは黙って続きを待った。
「そしたら……。」
リリの唇が震えた。
「『牙狼を討伐できなかったお前が悪いだろう』……って……。」
最後まで言い切った途端、またリリの目から涙が溢れた。
「……っ、うぅ……っ。」
ぽろぽろと、頬を伝って落ちていく。
「……ほら。これ使え」
何かを言う訳でもなく、ガルドはエプロンから手拭いをひとつ差し出した。
リリは手拭いを受け取ったが、涙を拭うこともできず、顔を覆ってしまった。
「……ごめんなさい……。」
「……なんで謝るんだよ。」
「だって……私……何もできなくて……っ。」
しゃくり上げながら、リリは言葉を絞り出す。
「リュカちゃんがあんなことになって…私、何も……!」
「リリ。」
ガルドの声が、少しだけ低くなった。
そこに彼女を責める響きはなかった。
「……今は、自分を責めるな。」
リリは顔を覆ったまま、首を横に振る。
「でも……ヴァルゼンの言う通りで……。私が、もっとちゃんと……。」
「あいつの言葉を、今ここで真に受ける必要はねぇよ。」
ガルドは、中にある椅子に腰を下ろした。
「何があったのか、俺たちはまだ全部知らねぇ。リュカがどうして森へ行ったのかも、あいつが何を考えて手助けしたのかもな。」
そこで一度、言葉を切る。
「だから、まずはリュカが目を覚ますのを待とう。話はそれからだ。」
リリは何度も瞬きをした。
それでも、涙は止まらなかった。
「……私、あの子に……何て言えばいいのかな……。」
「何も、今から決めなくていいだろ。」
ガルドは静かに答えた。
「目を覚ましたあいつに、会ってから考えりゃいい。」
「……うん……!」
「俺も仕事が終わったら医療棟に行く。リュカの顔を見ておきたいからな」
リリは手拭いで目元を押さえ、小さく頷いた。
「……ありがとう、ガルドさん。」
「おう。気にすんな。」
ガルドはいつものように笑おうとした。
しかし、うまく笑えなかった。
リュカが瀕死の重傷を負った。
その事実だけで、十分すぎるほど深刻だった。
しばらくして、リリは手拭いをガルドに返し、微かながら笑顔を向けた。
「……私、先に戻るね。」
「おう。あんまり思い詰めるなよ。」
「……分かった。」
そう答えたものの、リリの表情から不安が消えることはなかった。
ガルドは目でリリを見送り、彼女の背中が通りの向こうへ消えるのを見届けた。
それから、静かに作業へ戻った。
けれど、頭の中では、リュカのことが何度も繰り返されていた。
医療棟の廊下は、静かだった。
リリは受付で面会の手続きを終わらせ、足早に奥へ向かった。
扉を開ける。
ベッドの上では、リュカが静かに眠っていた。
ちゃんと、生きて待っててくれた。
その事実を確かめ、リリは安堵した。
けれど、胸の奥には重いものが残っていた。
───牙狼を討伐できていればこうはならなかったんじゃ無いのか?
ヴァルゼンの声が、頭の中で繰り返される。
「……っ」
リリは唇を噛んだ。
自分の無力さも、あの言葉を否定できない事実も。
ただたたま悔しかった。
「……リュカちゃん。」
リリはベッドのそばに椅子を寄せ、そっと腰を下ろした。
小さな手に触れる。
いつもなら、元気に動き回っている少女。
不器用で、危なっかしくて、それでも一生懸命で。
時にはこちらが呆れるほど無茶をする。
それでも、リリにとっては放っておけない少女だった。
「……お願いだから、目を覚ましてよ……。」
リリの声が震えた。
「……もう、独りで無茶はしないで……。」
返事はない。
リリは俯き、リュカの手を両手で包み込んだ。
「……私、次はちゃんと見てるから…貴女が何をしようとしてるのか、ちゃんと聞くから…だから…っ。」
その先は、言葉にならなかった。
どれほどの時間、そうしていただろう。
窓から差し込む光が少しずつ傾いて、月明かりに変わっていく。
廊下を行き交う職員の足音も、次第に聞こえなくなっていた。
リリは涙を拭い、眠るリュカの顔を見つめ続けた。
もう一度、名前を呼ぼうとした、そのとき。
「……ん……。」
かすかな声がした。
リリは、目を見開いて立ち上がった。
「……リュカちゃん?」
リュカの指先が、ほんのわずかに動いた。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと震える。
そして。
うっすらと、目が開いた。
「……こ、こは……?」
リリは息を呑んだ。
月明かりに照らされたベッドの上で、リュカは静かに目を覚ました。




