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第8話 店に入れない少年

挿絵(By みてみん)



人間は、用もない場所の前を毎日通ったりはしない。


猫ならば話は別である。縄張りの見回り、日なたの具合、昨日見つけた獲物の確認。歩く理由はいくらでもある。


だが人間は、目的地までなるべく短い道を選びたがる生き物である。


その人間が、同じ時刻に、同じ店の前で歩みを緩める。


しかも中へ入らず、窓越しに店内を見て、ため息をついて帰っていく。


となれば、吾輩が不審に思うのも当然である。


 ◇


6月も下旬に入り、魚崎の空は気まぐれになっていた。


朝は晴れていたのに、昼を過ぎると雲が垂れ込める。ひと雨来るかと思えば、そのまま持ちこたえる日もある。


吾輩にとって雨は重大な問題である。


人間は傘という持ち運べる屋根を使うが、猫にはない。したがって吾輩は、空の匂いと風の湿り気を読み、濡れる前に軒下を確保しなければならない。


その日の放課後も、雨上がりの歩道を1人の少年が歩いてきた。


紺色のブレザーを着て、肩には通学鞄。年は17歳ほどであろう。顔立ちは整っているが、眉間には不必要なほど力が入っている。


少年はポピーの手前で歩調を落とした。


店内では栄子が焼き上がったパンを籠へ並べている。白いシャツに赤いネクタイ、黒いエプロン。半透明の手袋を着けた手で、1つずつ形を整えていた。


少年の視線は、その栄子だけを追っていた。


優美が売り場へ出てくると、少年は電柱の陰へ半歩下がった。


何をしているのであろうか。


獲物を狙っているようには見えない。そもそも人間は、パン屋の娘を獲物にはしないはずである。


少年は鞄の肩紐を握り直した。


「もう少しだけ……」


小さく呟き、再び窓へ目を向ける。


しかし、店へ入る様子はない。


やがて栄子が奥へ引っ込むと、少年は肩を落とし、そのまま歩き去った。


これが初めてならば、吾輩も気に留めなかったであろう。


だが、その少年を見たのは今日が初めてではない。


月曜日も来た。


火曜日も来た。


水曜日は雨だったので、傘を差して来た。


そして今日も、ポピーの前を通っただけで帰っていった。


人間にしては、ずいぶん効率の悪い行動である。


 ◇


翌日、少年よりひと足早く、同じ学校の制服を着た少女がポピーへやってきた。


「こんにちは」


「いらっしゃい、祐実ちゃん」


優美が笑顔で迎える。


周防祐実、16歳。


祐実は以前からポピーへよく来る常連である。明るく人懐っこく、優美とも栄子とも自然に話す。吾輩の姿を見つければ、ときどき店の外まで出てきて頭を撫でようとする娘でもある。


撫で方は悪くない。


ただし、吾輩は誰にでも頭を差し出すほど安い猫ではない。気が向いた時だけ許している。


祐実がパンを選んでいると、例の少年が通りの向こうから現れた。


少年は店内をのぞき、祐実の姿を見つけた途端、慌てて顔をそらした。


祐実も少年に気づいたらしい。


窓の外へちらりと目を向けたが、声はかけなかった。代わりに、呆れたような顔で小さく息を吐いた。


「祐実ちゃん、どうしたの?」


栄子が尋ねる。


「ううん。何でもない」


「そう? 今日はいつもの塩パン?」


「それと、このクリームパンも。お兄ちゃんの分」


お兄ちゃん。


吾輩は窓の外を見た。


少年はすでに背を向け、足早に去っていくところであった。


なるほど。


あれは祐実の兄なのである。


 ◇


その日の猫会議で、吾輩は少年について報告を求めた。


魚崎八幡の境内には、雨を避けていつもより多くの猫が集まっていた。石畳はまだ湿っていたが、社殿の軒下は乾いている。


「紺色の制服を着た若い雄である。毎日ポピーの前を通るが、中へは入らぬ。祐実という娘の兄らしい」


吾輩が説明すると、駅の北側を縄張りにする三毛猫が前足を舐めながら答えた。


「周防祐介だね。祐実と同じ家に住んでいるよ」


「目的は何であるか?」


「さあ。でも、学校から帰る道なら、あそこを通らなくてもいいはずだよ」


やはり、わざわざポピーの前を選んでいるのである。


別の茶白猫が口を挟んだ。


「あの子なら、パン屋の窓ばかり見てるよ。黒い髪の小さい娘がいる時だけね」


黒い髪の小さい娘。


栄子のことである。


吾輩はようやく理解した。


祐介はポピーを見ているのではない。


栄子を見ているのである。


「では、栄子に危害を加える者ではないのだな?」


「あの様子じゃ無理だろうね。店へ入る勇気もないんだから」


軒下にいた猫たちが、揃って尻尾を揺らした。


人間の若い雄が雌を気にして、近くをうろつく。


猫の世界ならば、匂いを嗅ぎ、声をかけ、相手に追い払われればそれで終わる。実に分かりやすい。


ところが人間は、声をかける前に何日も悩むらしい。


ずいぶんと手間のかかる求愛である。


 ◇


その夜、祐実は家の居間で菓子を食べながら、帰宅した祐介を迎えたという。


この話は、周防家の庭へ出入りする雉白猫から後日聞いたものである。


「おかえり、お兄ちゃん」


祐実は長椅子へ横になったまま、袋から菓子を1枚取り出した。


「ただいま」


祐介は元気なく鞄を下ろす。


「今日もポピーの前にいたわね」


祐介の肩が跳ねた。


「見てたのか?」


「店の中から丸見えだったもの」


「栄子さんとは挨拶できた?」


「……できてない」


「やっぱり」


祐実が菓子をかじる。


「っていうか、祐実も今日いたんなら、声をかけてくれればよかっただろ」


「どうして私が、お兄ちゃんを栄子さんの前まで連れていかないといけないのよ」


「きっかけくらい作ってくれてもいいだろ」


「自分で作りなさい」


祐介は答えず、祐実の向かいへ腰を下ろした。


しばらく黙った後、ためらいがちに尋ねる。


「栄子さんって、恋人いるのかな」


祐実の指が、菓子の袋の中で止まった。


彼女は知っている。


栄子には、中崎悠斗という恋人がいる。


祐実は以前、栄子と悠斗が一緒にいるところを見かけたことがある。2人の距離を見れば、ただの知り合いではないことくらい、16歳の祐実にも分かった。


だが、それを兄へ伝えるべきかどうかは別の話である。


「さあ。本人に聞けば?」


「聞けるわけないだろ」


「毎日、店の前まで行けるのに?」


「店の前まで行くのと、話すのは全然違う」


祐実には、その違いが分からなかった。


否、分かってはいたのだろう。


分かっているからこそ、兄の代わりに答えを教えなかったのである。


誰かから聞いた話だけで諦めれば、祐介はいつまでも栄子を眺めていた日々を引きずるかもしれない。


ならば一度くらい、自分の足で店へ入り、自分の声で話せばよい。


振られるとしても、それは兄自身が受け取るべき答えである。


「祐介は、さっさと告ってガッツリ振られればいいのよ……」


祐実が小さく呟いた。


「何か言ったか?」


「何でもない。お兄ちゃんには、もっと身の丈に合った彼女がふさわしいって言ったの」


「ひどくなってないか?」


「気のせいよ」


祐実は再び菓子を口へ運んだ。


からかってはいるが、見捨てているわけではない。


兄妹とは、猫の同腹のきょうだいよりも複雑なようである。


 ◇


それから数日後。


放課後のポピーで、祐実は塩パンを選んでいた。


栄子は半透明の手袋を着け、焼き上がったパンを陳列している。


「栄子さん、これも1つください」


「ありがとう、祐実ちゃん」


その時、祐実のスマートフォンが震えた。


画面には、祐介からのメッセージが表示されている。


『今日、栄子さんいる?』


祐実は店内の栄子を見た。


次に窓の外を見た。


通りの少し先に、電柱の陰からこちらをうかがう祐介の姿がある。


祐実は深いため息をつき、返信した。


『いるけど、変なことしないでよ』


間を置かず、返事が届く。


『大丈夫』


その4文字を見た祐実は、露骨に嫌な顔をした。


猫である吾輩にも分かった。


これは、大丈夫ではない者が使う「大丈夫」である。


人間が自信満々に始める作戦ほど、ろくな結果にはならない。


そして翌日、祐介は自分を「頼れる男」に見せるための、実に頼りない計画を祐実へ送りつけることになるのである。


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