第7話 人気者の秘密の週末
人間は、秘密を壁の中へ隠したつもりになる。
だが、壁には窓があり、窓の向こうには猫がいる。
ましてや、その壁がガラスでできているならば、隠し事には向いていない。
これは、リプラスの近くを縄張りとする灰色猫から聞いた話である。
◇
株式会社リプラスには、社員が自由に使えるフリースペースがある。
打ち合わせ用のテーブルと椅子が置かれ、その隣には珈琲を飲める社内カフェがある。周囲の壁はガラス張りで、外から中の様子がよく見える。
その日の午後、長谷川敬助、中崎悠斗、間中美鈴の3人は、ノートパソコンと資料をテーブルへ広げていた。
「製品別のページデザインは、明日までに案を出します」
悠斗が資料を指で示す。
「問い合わせまでの導線と、担当振り分けは私が整理しておきます」
美鈴が手帳へ書き込んだ。
「では、その方針で進めよう。公開前に、もう一度3人で確認する」
敬助が話をまとめる。
仕事の話としては、それだけである。
しかし、ガラスの向こう側では別の会議が開かれていた。
珈琲を手にした4人の女性社員が、悠斗を横目で見ながら小声で話している。
「ねえ、中崎さんって今日も格好よくない?」
「会議中の横顔まで反則よね」
「私も聞いた。中崎さん、この前ショッピングモールにいたんでしょう?」
「黒髪のボブで、小柄な女の子と腕を組んで歩いてたって」
「彼女?」
「でも、プライベートのことは全然話さないもんね」
黒髪のボブで、小柄な女。
その女が村澤栄子であることを、彼女たちは知らない。
もちろん、敬助も美鈴も知らない。
悠斗は仕事と私生活を、パンを切り分けるよりもきれいに分ける男である。会社の誰にも恋人の存在を明かしていない。
会議が終わり、美鈴が先に自分の席へ戻った。
敬助は資料を抱えて立ち上がる。
「中崎、俺は少し休憩してから戻る」
「了解。じゃあ、僕は珈琲を取ってきます」
悠斗が社内カフェへ向かった途端、先ほどの女たちが動いた。
「中崎さん、こちら空いてますよ」
「ショッピングモールのことで、ちょっと聞きたいことがあって」
「珈琲、一緒に飲みません?」
4人が、まるで獲物を囲む猫のように悠斗へ近づく。
ただし、猫ならばもう少し気配を消す。
「えっ……ええと」
悠斗が珍しく後ずさった。
「ケイさん、僕もこちらで休憩します」
「向こうに誘われているようだが」
「打ち合わせの続きがありましたよね?」
「終わったはずだ」
「追加分です」
悠斗は空いている椅子を引き、敬助の正面へ座った。
女たちは近くの席から、なおも悠斗の様子をうかがっている。
「ケイさんがいると助かります」
「俺を壁にするな」
「天然の防壁です」
「聞こえているぞ」
敬助は珈琲を一口飲んだ。
人気者も楽ではないようである。
そこへ飯塚雅弓が、珈琲を持ってやってきた。
「長谷川さん、ご一緒してもいいですか?」
「ああ、どうぞ」
雅弓は敬助の隣へ座った。
「飯塚さん、いつもデータ整理、ご苦労さまです」
「いえ。長谷川さんこそ、いつも手こずってますね」
「そんなに手こずっているように見えるか?」
「例の破損データのことですよ。全部拾って、復旧担当へ渡したんでしょう?」
「途中で投げ出すわけにはいかないからな」
雅弓はカップを両手で持ち、少しだけ声を小さくした。
「私は、長谷川さんのほうがいいと思うけどな……」
「何か言ったか?」
「い、いえ。珈琲のことです。前より飲みやすくなったなって」
「確かに、酸味が少なくなったな。俺も好きだ」
雅弓の顔が一気に赤くなった。
悠斗は口元を押さえ、笑いをこらえている。
「何がおかしい、中崎」
「いえ。何でもありません」
「そうか」
敬助は気づいていない。
女心に関して、この男の眼鏡は度が合っていないようである。
やがて次の会議の時間となり、敬助と悠斗は席を立った。
「ケイさんがいると、女性が近寄ってこないから助かります」
「それは俺に失礼ではないか?」
「女性が寄ってこないんじゃなくて、僕へ寄ってくる余裕がなくなるんですよ」
悠斗は後ろを振り返った。
雅弓は小さく手を振っている。
敬助も軽く手を上げて応えた。
「ほらね」
「何の話だ?」
「ケイさんは、そのままでいてください」
悠斗はそれ以上説明しなかった。
◇
翌日の土曜日は、梅雨の合間の晴れとなった。
ポピーが14時に店を閉めると、水色のプジョー308CCが裏手へやってきた。
晴れた日だけ開けるという屋根は、その日も車体の中へ折り畳まれていた。
栄子が着替えを済ませ、旅行鞄よりは小さく、買い物袋よりは大きな鞄を持って裏口から出てくる。
「悠斗、お待たせ」
「お疲れさま。荷物、後ろへ置くよ」
「ありがとう」
毎週土曜日、栄子は悠斗の家へ行く。
そして日曜日の夕方まで、そこで過ごす。
悠斗が言うところの、週末だけの通い妻である。
もちろん2人は結婚していない。
人間の呼び名は、時として実態より先に進む。
水色の車が走り出すのを見届けた吾輩は、その夜の猫会議で報告した。
すると、悠斗の住む地域から来ていた黒猫が尻尾を揺らした。
「その女なら、毎週見るよ。土曜日に来て、日曜日に帰る」
「家の中の様子も分かるのであるか?」
「向かいの塀から、居間の窓が見える。カーテンが開いている時だけだけどね」
「今週も頼む」
「了解した」
猫の情報収集とは、地道な観察の積み重ねである。
◇
後日、その黒猫から聞いた話である。
栄子は悠斗の家へ着くと、まるで自分の家のように台所へ立った。
「今日は私が作るね。悠斗、お皿お願い」
「はいはい。すっかり通い妻だな」
「今週も来ちゃったんだから、仕方ないでしょう」
2人で夕飯を作り、並んで食べ、片づけも一緒にする。
栄子専用の歯ブラシと化粧品は、すでに洗面所へ置かれている。寝間着代わりに借りる悠斗の大きな白いTシャツも、決まった場所に畳まれているらしい。
日曜日の早朝、栄子は悠斗より先に目を覚ました。
起こさぬように寝床を抜け、先にシャワーを浴び、髪を乾かして戻ってくる。
悠斗はまだ眠っていた。
栄子はその寝顔を眺め、そっと口づけして離れようとした。
その時である。
「ゆりな……そんなにできないよ……少し休ませて……」
悠斗が寝言を口にした。
栄子の動きが止まった。
聞いたことのない女の名前である。
寝言なのだから、テレビか何かの夢かもしれない。そう考えようとした時、悠斗はさらに続けた。
「ゆりな……してるよ……」
栄子は笑顔のまま、悠斗の肩へ手を置いた。
「悠斗。起きて」
「んがっ!? 何だ、何だ……!?」
悠斗が飛び起きる。
「ゆりなさんって、だあれ?」
栄子は笑っていた。
目だけが笑っていなかった。
「え……?」
「それで、そんなに何ができないのかしら?」
寝言を聞かれたと悟った悠斗は、起きたばかりの頭を全力で回転させた。
「昔、付き合っていた人の名前だよ。休日に公園で、よくバドミントンをしてたんだ」
「ふうん」
「彼女、ものすごく強くてさ。夢の中でも、何度も打ち込まれてたんだよ」
「それで?」
「『君がすごいのは分かったから、これくらいで勘弁して』って言ってた。たぶん、その夢だな」
栄子はしばらく悠斗の顔を見つめた。
人間が嘘をつく時、目や声や呼吸に変化が出る。
猫ならば、尻尾を見ればさらに早い。
しかし人間には尻尾がない。
まことに不便である。
「そうなんだ」
栄子は完全には納得していなかった。
悠斗の言い訳が真実であったのかどうかは、窓の外の黒猫にも分からなかったという。
やがて栄子が尋ねた。
「ねえ、悠斗。朝ごはんは何が食べたい?」
「もちろん、栄子」
栄子は一瞬固まり、それから吹き出した。
「もう。まったく、この人は……」
怒りは消えたらしい。
少なくとも、その朝のところは。
黒猫は、そこで居間のカーテンが閉まったと報告した。
以後のことは、吾輩にも分からない。
猫は何でも知っていると思われては困る。
見えないものまでは見えないのである。
◇
その日の夕方、栄子はいつものようにポピーへ戻ってきた。
吾輩が隣家の塀から見ていると、栄子は水色の車から降り、悠斗へ笑顔で手を振った。
会社では、ガラスの向こうから大勢の女に見られている人気者。
その男が週末を誰と過ごしているのか、会社の者は誰も知らない。
敬助も、美鈴も、雅弓も知らない。
だが吾輩たちは知っている。
ガラス越しに見えるものと、窓の向こうへ隠されたもの。
人間は前者だけを事実と思い込み、後者を秘密と呼ぶ。
しかし、どちらも同じひとつの暮らしなのである。




