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第6話 雨の日の再会

挿絵(By みてみん)

6月も半ばを過ぎると、魚崎の空は気難しくなる。


朝は晴れていたくせに、昼には雲が低く垂れこめ、夕方には何事もなかったような顔で雨を落とす。人間はこれを梅雨と呼ぶ。


吾輩に言わせれば、濡れた地面と湿った毛皮が毎日続く、まことに迷惑な季節である。


その朝も、ポピー前のバス道は夜からの雨で黒く濡れていた。車が通るたび、水たまりが細く跳ねる。


吾輩は店の隣のお婆さんの家で朝飯を済ませ、ポピーの軒下へ移動した。雨宿りを兼ねた見回りである。


店の裏口に、見慣れた女が立っていた。


茶色い短い髪に黒いヘアバンド。片手には傘、もう片方には菓子の箱を提げている。


宮本茜、33歳。


栄子と優美の親戚であり、ポピーを手伝っている女である。


もっとも、ここ1か月ほどは姿を見なかった。


「おはよう。今日から、またよろしくね」


茜が裏口を開けると、栄子の明るい声が聞こえた。


「茜さん、おかえりなさい!」


「ただいま。長いこと休んじゃって、ごめんね」


「足はもう大丈夫なんですか?」


優美が茜の右足へ目を向ける。


「普通に歩くぶんには、もう平気。先生にも仕事へ戻っていいって言われたよ。ただし、しばらくダンスは禁止」


「それが一番つらそうですね」


「本当にね」


茜は若い頃からヒップホップダンスを続けている。


今でも休日には、ダンス教室でトレーナーの手伝いをしているらしい。ところが1か月ほど前、見本を見せようと張り切りすぎて足を痛めた。


踊って怪我をするとは、人間も随分と不器用な生き物である。猫ならば、高い塀から飛び降りても、まず足から着地する。


もっとも吾輩も、若い頃に屋根から落ちたことが一度だけある。


あれは落ちたのではない。着地点を変更したのである。


茜は奥で着替え、ベーカリーTシャツとジーンズの上にエプロンを締めて戻ってきた。長く踊ってきただけあって身体は引き締まり、2人の子どもを育てている母親とは思えぬほど若々しい。胸元だけは、よく引き締まったという言葉では説明できない立派さである。

挿絵(By みてみん)


「休んでる間、2人とも大変だったでしょう?」


「忙しい日は、さすがに大変でした」


栄子が答える。


「でも、茜さんが戻ってきてくれたから助かります」


「まだ重い物は持たせないからね」


優美が念を押した。


「分かってます。今日は接客と袋詰めに専念します」


そう言った直後、茜は焼き上がったパンの載る天板へ手を伸ばし、栄子と優美の両方から止められた。


この女は、しばらく見張りが必要なようである。


店が開くと、久しぶりに茜を見た常連客が次々に声をかけた。


「もう足はええの?」


「はい、おかげさまで」


「踊りすぎたんやって?」


「誰から聞いたんですか、それ」


茜は笑いながら客と言葉を交わす。


パンを選ぶ時間より、茜と話している時間のほうが長い客までいる。人と話すことも踊ることも好きだという話は、本当らしい。


午前の客足が落ち着いた頃、雨が少し強くなった。


茜は店先を眺めながら言った。


「もう梅雨だね。5月のお祭りの時は、あんなに晴れてたのに」


「今年も、だんじりが店の前を通った時はすごい人でしたよ」


栄子が答える。


「見たかったなあ。ちょうど足を痛めた直後だったから、家から出られなかったのよ」


「秋にもありますよ。その頃には踊れるくらい治ってるんじゃないですか?」


「だんじりの前で踊ったりしません」


「言ってませんよ」


3人の笑い声が店内に広がった。


魚崎八幡は、吾輩たちが毎晩猫会議を開く場所である。


5月の祭りでは境内が人間で埋まり、太鼓と鐘の音が腹まで響く。だんじりはポピー前を通り、さらに東へ進んで、長谷川敬助の住む魚崎南ライフガーデンの前も練り回る。


今年の敬助は、引っ越してくるのが少し遅かった。


秋には、嫌でも目にすることになるであろう。


 ◇


その日の夕方、長谷川敬助がポピーへやってきた。


濡れた傘を店先の傘立てへ入れ、眼鏡についた水滴をハンカチで拭いてから扉を開ける。


「いらっしゃいませ」


優美が声をかけた。


「今日はひどい雨ですね」


「会社を出た時は、まだ小降りだったんですが」


「梅雨のお天気は分かりませんね」


敬助は塩パンと食パンを選んだ。以前ほど買いすぎなくなったのは、少し知恵をつけたからであろう。


会計を待つ間、敬助は店内にいる茜へ目を留めた。


「初めてお見かけしますね」


「宮本茜です。しばらく休んでいたんですけど、今日から戻ってきました」


「長谷川敬助です。最近、この近くへ越してきました」


「優美ちゃんから聞いてます。よく来てくださるお客さんだって」


「茜さん」


優美が少し慌てた声を出した。


「何? 本当のことでしょう?」


「そうですけど……」


茜は笑っている。敬助はまた眼鏡の位置を直した。


この時点で、茜は何かに気づいたようであった。


人間の女は、猫とは違う方法で匂いを嗅ぎ分けるらしい。


敬助が代金を支払うと、優美がパンの袋を渡した。


「長谷川さん、この前お話ししたジム、見学へ行かれるんですか?」


「ええ。ちょうど明日、仕事帰りに行ってみようかと」


「そうなんですね。私も明日は行く予定です」


「では、会うかもしれませんね」


「はい」


たったそれだけの会話である。


しかし、敬助が店を出たあと、茜は優美の横顔をじっと見た。


「何ですか?」


「別に。感じのいい人だなと思って」


「前の会社で一緒だった人ですよ」


「それだけ?」


「それだけです」


優美は空になったパン籠を持ち、そそくさと奥へ入っていった。


茜は追及しなかった。ただ、楽しそうに笑っていた。


 ◇


翌日の夕方、雨は一度上がっていた。


敬助は仕事を終えると、近所のスポーツジムへ向かった。


以前は週に1度ほど別のジムへ通っていたが、5月中旬に魚崎へ引っ越したことで遠くなり、退会していた。運動を再開するなら、近所の施設へ移るのは自然なことである。


少なくとも、敬助は自分へそう言い聞かせていたらしい。


ジムの受付で見学を申し込み、施設の説明を受け、その日のうちに入会手続きを済ませた。


そして更衣室で運動着へ着替え、トレーニングルームへ入ったところで足を止めた。


ランニングマシンの上を、見覚えのある女が走っていた。


髪を後ろで軽くまとめ、淡い色のトレーニングウェアを着ている。


ポピーの制服姿とは印象が違ったが、村澤優美である。


優美も敬助に気づき、機械の速度を落とした。


「長谷川さん。本当に来たんですね」


「ええ。運動不足が気になっていましたから」


「てっきり、見学だけして帰るのかと思っていました」


「もう入会しました」


「決めるのが早いですね」


優美が笑った。


「前にも通っていたので、必要な設備は分かっています。それに、家から近いですから」


「それなら続けやすいですね」


敬助は隣のランニングマシンへ乗った。


初めのうちは互いに前を向き、黙って走っていた。店では優美が店員で、敬助が客である。しかしここでは、同じ場所で汗を流す利用者同士であった。


「長谷川さんは、何を中心にされるんですか?」


「以前は筋力トレーニングと、軽いランニングです」


「真面目なメニューですね」


「運動に、不真面目なメニューがあるんですか?」


「私、疲れたらすぐストレッチに逃げます」


「それは休憩では?」


「柔軟運動です」


優美は真顔で言い切った。


敬助が小さく笑う。


ポピーで交わすものとは少し違う、肩の力の抜けた会話であった。


運動を終え、2人がジムを出ようとした時、外では激しい雨が降っていた。


軒先を打つ雨音で、通りを走る車の音まで遠く聞こえる。


「また降ってきましたね」


優美が鞄から折り畳み傘を出した。


「長谷川さん、傘は?」


「朝の予報では曇りだったので、置いてきました」


「真面目なのに、そういうところは油断するんですね」


「返す言葉がありません」


優美の傘は、2人で入るには小さかった。帰る方向も同じではない。


2人は入口の庇の下に並び、雨脚が弱まるのを待つことにした。


「魚崎へ越してきて、もう1か月くらいですか?」


「そうですね。5月の半ばでしたから」


「もう少し早かったら、だんじりを見られたのに」


「ポピーの前も通ると聞きました」


「はい。長谷川さんのマンションの前も通りますよ。秋にも出るから、その時は見られますね」


「それは楽しみです」


「すごく賑やかですよ。猫はびっくりするでしょうけど」


優美は、雨の向こうにある植え込みへ目をやった。


そこには、ずぶ濡れにならぬよう建物の陰へ身を寄せた茶トラがいた。


もちろん、ただ雨宿りをしていたわけではない。


その辺りを縄張りとする猫である。


2人が庇の下で話している間、茶トラは耳をこちらへ向け、会話を一言も聞き漏らさなかった。


やがて雨が弱まると、優美は傘を開いた。


「それじゃ、またお店で」


「ええ。また、ここでも」


敬助がそう答えると、優美は少しだけ嬉しそうに笑った。


「はい。またここでも」


優美が雨の中を歩いていく。


敬助はその後ろ姿を見送り、軒下でもうしばらく雨が弱まるのを待っていた。


 ◇


その夜、魚崎八幡の境内では、濡れた猫たちが思い思いの場所で毛づくろいをしていた。


吾輩の前で、ジム裏の茶トラが報告する。


「眼鏡の男が、今日からあの運動する建物へ通うらしい」


「優美と会ったのであるな」


「会っていた。並んで走って、雨が弱くなるまで入口で話していたよ」


「どちらから近づいた?」


「同じ場所にいたんだから、どちらからでもない」


もっともな答えである。


敬助は、優美に会うためではなく、健康のためにジムへ入ったと言うであろう。


優美も、敬助と会うためではなく、以前から通っていただけである。


だが、理由が別々であっても、同じ場所にいれば顔を合わせる。


人間は、それを偶然と呼ぶ。


しかし同じ場所へ通うと決めた時点で、それはもう半分ほど必然なのである。


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