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第5話 眼鏡の男の相談役

挿絵(By みてみん)


間中美鈴がポピーへ現れた翌日、長谷川敬助は朝から何度も眼鏡の位置を直していた。


これは、リプラスの近くを縄張りとする灰色猫から、後日の猫会議で聞いた話である。


吾輩は人間の会社へ勤めた経験がない。だが、机に向かったまま同じ資料を3度も読み返す者が、仕事へ集中しているとは思えない。


長谷川の向かい側では、飯塚雅弓と間中美鈴が小声で話していた。


「間中さん。長谷川さん、今日ちょっと変じゃないですか?」


「いつもより眼鏡を直していますね」


「昨日のこと、気にしてるんでしょうか」


「可能性はあります」


「間中さん、何を話したんですか?」


「大学の後輩と久しぶりに話しただけです」


「本当に、それだけですか?」


「飯塚さんは、私を何だと思っているんです?」


「恋敵です」


「それは否定しません」


2人は仲が良いのか悪いのか、相変わらず分からない。


その時、長谷川の机へ茶髪の男が近づいてきた。


中崎悠斗、31歳。


フリーランスのWEBデザイナーであり、リプラスが懇意にしている外注先である。継続して任されている案件が多いため、実質的にはリプラス内へ常駐しているような状態で、長谷川とも仕事で組むことが多い。堅い長谷川とは対照的に、服装も話し方も軽やかで、誰にでも気さくに声をかける男である。


「ケイさん」


「何だ」


「さっきから、同じ資料を3回見ていますよ」


「確認しているだけだ」


「眼鏡を直した回数は、もう10回を超えています」


「数えていたのか?」


「仕事の相方が上の空なら、見ておかないと危ないでしょう」


長谷川は資料を閉じた。


「仕事に支障は出していない」


「なら、昼休みに少し付き合ってください。外の空気を吸いましょう」


悠斗は返事を待たず、リプラス内に用意された自分の作業席へ戻っていった。


その後ろ姿を、雅弓と美鈴が見送る。


「中崎さん、何か知ってるんでしょうか」


「今から聞きに行っても、教えてくれないでしょうね」


「まだ聞いてないのに」


「聞かれたくないことほど笑ってごまかす人ですから」


 ◇


昼休みになると、長谷川と悠斗は会社を出た。


2人が向かったのは、会社から少し離れた小さな喫茶店である。


店の裏口には、先ほどの灰色猫がいた。


人間は、猫が足元にいると分かっていても、自分たちの話を聞いているとは思わない。実に都合のよい習性である。


昼食を終え、珈琲が運ばれてくると、悠斗が口を開いた。


「それで、仕事ではない悩みというのは?」


「悩んでいるとは言っていないが」


「では、相談でもありませんか?」


「相談とも言っていない」


「ケイさんは、今日ここへ珈琲を飲みに来ただけ。そういうことにしておきます」


悠斗は笑い、珈琲へ口をつけた。


無理に聞き出すつもりはないらしい。


しばらく黙っていた長谷川が、ようやく話し始めた。


「以前、同じ会社にいた女性と、最近になって近所で偶然再会した」


「へえ」


「今は家の仕事を手伝っている。その人が働く店が帰宅途中にあるから、時々立ち寄っている」


「時々ですか?」


「週に3回ほどだ」


「十分多いと思いますよ」


「必要な物を買っているだけだ」


「必要以上に?」


「無駄にはしていないぞ」


「そこは否定しないんですね」


悠斗は楽しそうであった。


「相手が親切にしてくれるのは、以前の同僚だからか、客だからか。それが分からないという顔ですね」


「顔に出ているか?」


「ケイさんは、仕事では分かりにくいのに、こういうことでは妙に分かりやすいです」


長谷川は、また眼鏡の位置を直した。


「店で会っている間、その人は仕事中なんですよね」


「そうだ」


「なら、親切にされたというだけでは判断できません。一度、店の外で話してみたらどうです?」


「まだ、店の外で会ったことはない。ただ、話しているうちに、その人が近所のジムへ通っていると聞いた」


「ケイさんも、以前はジムに通っていましたよね?」


「週に1度ほどな。引っ越して遠くなったから、前のところは退会したよ」


「では、近所で新しいところを探しているんでしょう?」


「まだ探してはいないが…」


「ちょうどいいじゃないですか。運動を再開するつもりなら、その人が通っているジムを見てみたらどうです?」


「その人に会うために入会するようで、落ち着かないな…」


「健康のために通うんです。そこで偶然会えたなら、店の客と店員ではなく、同じジムの利用者として話せるでしょう」


「簡単に言うな」


「食事ですよ。結婚を申し込めとは言っていません」


「順序の問題ではない」


「ケイさん、恋愛になると面倒くさいですね」


長谷川は否定しなかった。


「中崎は、こういう相談に慣れているのか?」


「どうでしょうね」


「経験があるように聞こえる」


「以前、知り合いのデザイン会社を通じて、広告の相談をしていた人と知り合ったことがあります。今も連絡は取っていますよ」


「仕事の相手か?」


「最初は、そうでした」


悠斗はそれだけ答えた。


仕事の付き合いが続いているとも、仕事以外の付き合いへ変わったとも取れる言い方である。


長谷川は一瞬だけ悠斗を見たが、それ以上は尋ねなかった。


「聞かないんですね」


「話したければ、中崎から話すだろう」


「ケイさんの、そういうところは好きですよ」


「誤解される言い方をするな」


悠斗が声を上げて笑った。


「ただ、その人も家の仕事を手伝っているんです」


「そうなのか」


「ええ。広告のことは、本人より家族のほうが熱心でしたけど」


「家族で店をしているのか?」


「店とは限りませんよ」


「また、そういう言い方をする」


「ケイさんも、相手の名前も店の名前も言わないでしょう。お互いさまです」


「確かにそうだな」


2人は、それ以上踏み込まなかった。


人間の大人には、相手が伏せたものを無理に暴かない礼儀があるらしい。


立派なことではある。


しかし、その礼儀のために、2人の会話は肝心なところだけを器用に避けて進んでいた。


店を出る前、長谷川は鞄から透明な保存袋を取り出した。


中には、丸い塩パンが2つ入っている。


「昼を食べ損ねた時のために持ってきた。中崎も食べるか?」


「いただきます」


悠斗は塩パンを一口食べ、首をかしげた。


「これ、どこかで食べたことがあるような……」


「塩パンは、どの店にもあるだろう」


「そうなんですけどね。焼き加減というか、バターの香りというか」


「先ほど話した店の物だ」


「店名は?」


「近所の小さな店だよ」


「そこは教えてくれないんですね」


「まだ相談相手の名前も話していないからな」


「分かりました。今は聞かないでおきます」


悠斗は、もう一口食べた。


以前、知り合いから試作品としてもらったパンに似ている気もする。


だが、どこにでもある種類のパンである。配合も焼き加減も、記憶にある物とは少し違っていた。


悠斗は、それ以上考えなかった。


塩パンの中身は同じ場所へ続いていたが、入れられていたのはポピーの紙袋ではなく、無地の保存袋であった。


店の名前は、どこにも書かれていない。


 ◇


会社へ戻ると、雅弓と美鈴が待ち構えていた。


「中崎さん」


「何でしょう、飯塚さん」


「長谷川さんと何を話してたんですか?」


「秘密です」


「仕事の話ですか?」


「まぁそんなところです」


雅弓は頬を膨らませた。


「村澤さんのことですか?」


美鈴が尋ねると、悠斗は眉を上げた。


「村澤さん?」


「知らないなら、いいです」


「途中でやめられると気になるんですけど」


「中崎さんにも秘密です」


「仕返しですか?」


「違います」


美鈴は、悠斗が優美を知らないと判断した。


実際、悠斗は美鈴の言う村澤が誰なのか分かっていない。


知り合いの家族の名字を知っていたとしても、会社の会話へ突然出てきた名前と結びつける理由はなかった。


何より悠斗自身、他人の私生活には踏み込まない代わりに、自分の私生活も会社へ持ち込まない男である。


雅弓がさらに尋ねようとした時、長谷川が戻ってきた。


「飯塚さん、間中さん。午後の打ち合わせ資料はできているか?」


「はい。あと少しです」


「すぐ戻ります」


2人は揃って自分の席へ向かった。


悠斗は長谷川へ小さく手を振ると、何事もなかったように担当案件の作業スペースへ戻ったという。


 ◇


土曜日は、朝からよく晴れていた。


ポピーは土曜日は14時で店を閉める。


閉店の少し前、長谷川が店へやってきた。


「いらっしゃいませ。長谷川さん、今日は土曜日ですよ」


優美が笑う。


「明日の朝の分を買っておこうと思いまして」


「明日は定休日ですものね」


「ええ」


長谷川は塩パンとクロワッサンを選び、いつもより長く優美と話していた。


悠斗から、近所のジムで運動を再開してみればよいと言われたことを思い出していたのかもしれない。


しかし、結局その日は誘えなかった。


「では、また月曜日に」


「はい。お待ちしています」


長谷川は店を出ると、ポピー前のバス停へ向かった。


間もなくバスが到着する。


長谷川が乗り込み、扉が閉まった。


バスが交差点を離れた直後、反対側から水色の車が走ってきた。


屋根がない。


壊れているのかと思ったが、運転している男は平然としている。


人間は雨を避けるために車へ屋根をつけたはずである。それを晴れた日にわざわざ消して走る理由は、吾輩には分からない。


もっとも、その日は雲ひとつない青空であった。


水色の車は、ポピーの建物を回り、裏手で止まった。


後に知ったところでは、人間はこの車を「プジョー 308CC」と呼ぶらしい。硬い屋根を車体の中へ折り畳み、晴れた日には屋根のない姿で走る車である。


運転席にいたのは、茶髪で細身の男である。


吾輩が塀の上から見ていると、私服へ着替えた栄子が裏口から出てきた。


「悠斗、お待たせ」


「お疲れさま。今日は天気がいいから、開けてきたよ」


「うん。気持ちよさそう」


栄子は助手席へ乗り込んだ。


男は中崎悠斗というらしい。


栄子が毎週土曜日に会い、日曜日の夕方まで一緒に過ごす恋人である。


「どこへ行く?」


「悠斗の家。今日は泊まる日でしょう?」


「夕飯は?」


「途中で何か買って帰ろうよ」


悠斗は栄子のシートベルトがねじれていることに気づき、手を伸ばして直した。


栄子は自然に身体を寄せている。


吾輩が見ていることなど、2人は気にも留めていない。


「そういえば、さっきまでお姉ちゃんの知り合いが来てたよ」


栄子が言った。


「会社の人?」


「前の会社で一緒だった人みたい」


「へえ」


「眼鏡をかけた、真面目そうな人」


「会社には、そういう人が何人もいるからね」


栄子は長谷川の名前を言わなかった。


悠斗も、栄子の姉が以前どこで働いていたのか尋ねなかった。


「広告の新しい案も見てほしいんだけど、今日でいい?」


「もちろん。あの広告の相談で知り合ったんだからね」


「今は、それだけじゃないけど」


「そうだね」


悠斗が車を発進させる。


水色の車は、屋根のないまま魚崎の町を走り去っていった。


ほんの数分前まで、敬助は同じ場所にいた。


あと少しバスの到着が遅ければ、2人は顔を合わせていたであろう。


しかし、敬助は悠斗の車を知らない。


悠斗が車を所有しているらしいとは聞いていても、車種も色も形も知らない。悠斗はリプラスへ電車で通っており、仕事場へ車で現れることがないからである。


たとえバスの窓から水色の車を見ていたとしても、それが悠斗の車だと考える理由はなかった。


 ◇


その夜、魚崎八幡の猫会議で、リプラス方面から来た灰色猫が報告した。


「長谷川が相談していた相手の名前が分かったよ。中崎悠斗。茶色い髪で、細身の男だ」


「中崎悠斗であるか」


「知っているの?」


「今日、栄子を迎えに来た男が、そう呼ばれていた」


吾輩の中で、別々に集まった情報がひとつにつながった。


中崎悠斗は、敬助の仕事仲間であり、相談役である。


同時に、栄子の恋人でもある。


しかし敬助は、相談役の親しい女が栄子であることを知らない。


悠斗もまた、敬助が心を寄せている女が栄子の姉であることを知らない。


敬助が店の名前を口にしていれば、何かがつながっていたかもしれない。


悠斗が広告を相談された相手について、もう少し詳しく話していれば、敬助も気づいたかもしれない。


栄子が、先ほどまでいた客の名前を口にしていれば、悠斗は立ち止まったであろう。


だが、誰も肝心な名前を言わなかった。


すべての情報が、互いの鼻先をかすめて通り過ぎたのである。


事情をつかんでいるのは、吾輩と猫たちだけであった。


今のところ、それで困る者はいない。


ならば吾輩も、しばらく黙って見ていることにする。


熟成を待つ時間は、パンにも人間関係にも必要なのである。


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