第4話 眼鏡の男をめぐる女たち
パンの行方が判明した翌朝、吾輩はいつものようにポピーの横にある民家の縁側で目を覚ました。
皿には、お婆さんが用意した朝餉が盛られている。
「たま子、おはよう。今日はええ天気やねえ」
吾輩は短く返事をしてから、魚のほぐし身へ口をつけた。
人間の恋愛事情がどれほど複雑であろうと、朝餉は待ってくれない。腹が減ったままでは、正しい判断もできないのである。
食事を終えると、吾輩は塀へ飛び乗り、隣のポピーを見下ろした。
工房では、栄子が焼き上がった塩パンを天板から移している。売り場では、優美が籠の位置を整えていた。
「昨日、長谷川さんが言ってたけど、会社でも好評なんだって」
栄子が工房から顔を出した。
「そうみたいね。ありがたいわ」
「お姉ちゃんのお薦めを、会社の人にも配ってるんだよ」
「私のお薦めじゃなくて、うちのパンがおいしいからでしょう」
「そういうことにしておくね」
栄子は楽しそうに笑い、優美は不思議そうな顔をした。
やはり気づいていない。
長谷川敬助という眼鏡の男は、優美に勧められると必要以上にパンを買う。その余剰分が会社へ運ばれ、飯塚雅弓と間中美鈴という2人の女へ渡っている。
しかも、その2人は長谷川を見る時だけ、目つきが変わるらしい。
優美を入れれば、1匹の雄を3匹の雌が取り囲んでいることになる。
猫の世界なら、ひと鳴きと匂いで話は早い。
ところが人間は、肝心なことほど言葉にしない。言葉を山ほど持っているくせに、不便な生き物である。
◇
次の火曜日。
ココアを乗せた運送車は、交換用の観葉植物を積み、再び株式会社リプラスへ向かった。
吾輩がその日の出来事を知ったのは、夜の猫会議である。
したがって、ここからはココアの報告をもとに語る。
午前の休憩時間、長谷川は紙袋を持って部署の休憩室へ入った。
その姿を最初に見つけたのは、雅弓であった。
「長谷川さん。今日もポピーのパンですか?」
「ああ。昨日、少し多めに買った」
「少し、ですか?」
長谷川が紙袋から取り出したのは、塩パン、カレーパン、クロワッサン、あんパン、クリームパンである。
少しという言葉の意味を、長谷川は正しく理解していないらしい。
雅弓は並べられたパンを見て、子供のように目を輝かせた。
「今日はカレーパンをいただいてもいいですか?」
「もちろん。そのつもりで持ってきたんだ」
「そのつもり?」
「飯塚さんは、前にカレーパンが好きだと言っていただろう」
雅弓の動きが止まった。
「覚えていてくれたんですか?」
「部下の好みくらいは覚えているよ」
「部下……ですよね」
喜んだ直後、少しだけ肩を落とす。
実に忙しい女である。
そこへ美鈴が入ってきた。
「飯塚さん。また休憩時間の前から、そわそわしていましたね」
「してません。間中さんだって、長谷川さんが紙袋を持っているのを見て、すぐ来たじゃないですか」
「偶然です」
「給湯室へ行くのに、わざわざ遠い廊下を通るんですか?」
「今日は、そういう気分だったんです」
仲が良いのか悪いのか、よく分からない2人である。
「間中さんには塩パンでよかったかな」
長谷川が差し出すと、美鈴は一瞬だけ目を見開いた。
「私の分も選んでくださったんですか?」
「前回、一番おいしいと言っていただろう」
「覚えていてくださったんですね」
美鈴は静かに受け取った。
表情は雅弓ほど変わらない。しかし、耳がわずかに赤くなっていたと、ココアは報告している。
その時、美鈴の頭の中では、長谷川が毎朝エプロン姿で塩パンを温め、自分のために珈琲を淹れる光景が広がっていたらしい。
なぜココアが人間の妄想まで知っているのかと思うかもしれない。
美鈴が塩パンを胸元へ抱え、しばらく遠い目をしていたからである。猫は言葉がなくとも、その程度のことは分かる。
「間中さん?」
長谷川に呼ばれ、美鈴は我に返った。
「はい。ありがとうございます。大切にいただきます」
「パンだから、今日中に食べたほうがいいよ」
「そういう意味ではありません」
長谷川は首をかしげた。
雅弓は美鈴を横目で見て、何かを察した顔をした。
「でも、長谷川さんが選んだんですよね?」
雅弓がカレーパンを手に尋ねた。
「店に入った時には、ちょうど揚げたてだった。村澤さんが、会社へ持っていくならこれがいいと」
「村澤さんのお薦めなんですね」
雅弓の笑顔がわずかに固まった。
「ああ。あの人は、どのパンが翌朝までおいしく食べられるか、よく分かっているから」
あの人。
その呼び方に、雅弓と美鈴が同時に反応した。
「長谷川さん」
美鈴が塩パンを机へ置いた。
「優美さんとは、以前から親しかったんですか?」
「同じ会社にいた頃は、挨拶をする程度だったよ。部署も違ったからね」
「では、今のほうが親しいんですね」
「近所に住むことになったから、話す機会が増えただけだ」
長谷川はそう答えながら、眼鏡の位置を直した。
その仕草を、2人は見逃さなかった。
「間中さん」
「何ですか」
「今の、どう思います?」
「飯塚さんと同じことを考えています」
「やっぱり」
「2人とも、何の話だ」
「こちらの話です」
珍しく、雅弓と美鈴の声がそろった。
長谷川だけが事情を理解できず、2人の顔を見比べていたという。
◇
昼休みになると、雅弓と美鈴は2人で食堂の端に座った。
敬助を巡って互いを牽制することはあっても、2人は普段から仲が良い。
恋敵である前に、同じ部署で働く友人なのである。
「間中さん。村澤さんって、どんな人なんですか?」
雅弓が声を潜めた。
「大学の後輩です。1学年下で、何でもそつなくこなす人でした」
「美人ですか?」
「かなり」
「性格は?」
「穏やかで、面倒見もいいです」
「隙がないじゃないですか」
「絵は驚くほど下手でした」
「それ、恋愛では弱点になりませんよ」
「機械も苦手です。大学のパソコンで印刷するだけなのに、何度も私を呼びに来ました」
「むしろ、男の人が助けたくなるやつです」
雅弓は机へ額をつけた。
「間中さんの後輩なら、間中さんが直接聞けばいいじゃないですか」
「何をです?」
「長谷川さんと、どういう関係なのか」
「卒業してから、ほとんど連絡を取っていません」
「でも、会いに行く理由にはなりますよね」
美鈴はすぐには答えなかった。
長谷川が通う店を、自分の目で確かめたい。
その店にいる後輩が、長谷川をどう思っているのか知りたい。
先輩として久しぶりに顔を見に行くだけだと言えば、理由にもなる。
「飯塚さんも、一緒に来ますか?」
「行きたいです。でも、今日は午後の会議資料を直さないと……」
「締め切りは明日の朝でしょう」
「長谷川さんに、今日中に出しますって言っちゃいました」
「では、仕事を優先してください」
「間中さんだけ抜け駆けするつもりですね」
「大学の後輩へ挨拶に行くだけです」
「その言い方をする時の間中さん、絶対に何か企んでます」
「失礼ですね」
否定はしたが、美鈴はその日の帰りにポピーへ寄ることを決めていた。
◇
夕方、吾輩はポピー前のいつもの場所で通りを眺めていた。
月曜日でも水曜日でも金曜日でもない。
したがって、長谷川は来ないはずであった。
ところが、バス停に眼鏡の男が立っていた。
長谷川である。
火曜日にもかかわらず、仕事鞄を肩へ掛け、ポピーへ向かって歩いてくる。
長谷川は店の前で一度だけ髪を整え、何事もなかったような顔で扉を開けた。
「いらっしゃいませ。あら、長谷川さん。今日は火曜日ですよね?」
「ええ。明日の朝は少し早く出るので、今日のうちに買っておこうと思いまして」
いかにも今考えたような理由である。
「それなら、ちょうどよかったです。栄子が新しいパンを試しに焼いたんですよ」
「新しいパンですか」
優美に案内され、長谷川は嬉しそうに陳列棚へ向かった。
その時、バス道の向こうから黒髪の女が歩いてきた。
色白で細身。肩より下まで伸びた黒髪。周囲を確かめるように店の看板を見上げている。
ココアの報告にあった、間中美鈴の特徴と一致する。
吾輩は姿勢を正した。
眼鏡の男を巡る2匹目の雌が、ついにポピーへ現れたのである。
美鈴は店内をのぞき込み、優美の姿を見つけた。
その顔に、懐かしさと安堵が浮かぶ。
次の瞬間、優美の向かいに立つ長谷川を見て、表情が止まった。
やはり、ここにいる。
そう確信した目であった。
美鈴が扉を開ける。
「いらっしゃいませ――」
優美が客へ向けた笑顔のまま振り返り、目を見開いた。
「美鈴先輩……?」
「久しぶりね、優美」
「どうして、ここに?」
「長谷川さんから、優美がこの店にいると聞いたの」
長谷川が振り返った。
「間中さん?」
美鈴は優美と長谷川を交互に見た。
そして、普段どおりの落ち着いた顔で言った。
「やっぱり、ここだったんですね」
優美は意味が分からず、長谷川は眼鏡へ手を伸ばした。
工房から様子を見ていた栄子だけが、何かを察したように目を細めている。
吾輩も窓の外から、4人の顔を順番に見比べた。
吾輩が追っていたのは、栄子の焼いたパンの行方であったはずである。
ところが、そのパンは会社へ人をつなぎ、今度は会社から新たな女をポピーへ連れてきた。
人間の縁というものは、パン屑よりもよく道に残るらしい。
そして吾輩は、この時まだ知らなかった。
眼鏡の男を巡る女が、これで全員ではないということを。




