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第3話 パンの行方

挿絵(By みてみん)


長谷川という眼鏡の男がポピーへ通い始めてから、3週間ほどが過ぎた。


月曜日、水曜日、金曜日。


決まって夕方になると、長谷川はJR住吉駅から乗ってきたバスをポピー前で降りる。


そのまま帰れば、もう少し先までバスに乗っていられるはずである。だが彼は、雨の日も風の強い日も、わざわざ途中で降りる。


そして、何食わぬ顔でポピーの扉を開けるのである。


「いらっしゃいませ。あら、長谷川さん」


「こんばんは。今日は少し遅くなりました」


「お仕事、お疲れさまです」


優美が笑う。


長谷川も笑う。


そのやり取りを、吾輩は店の外から何度も見てきた。


不思議なことに、長谷川は優美と話す時だけ、眼鏡の位置をよく直す。


優美に勧められたパンは、ほとんど断らない。


優美が笑えば、自分も笑う。


時には耳まで赤くなる。


猫でなくとも、少し観察すれば分かりそうなものである。


だが、肝心の優美は何も気づいていないらしい。


「長谷川さん、本当にパンがお好きなんですね」


などと、感心している。


違うと思う。


あの男が気に入っているのは、パンだけではない。


その日、栄子は工房から焼き上がったばかりの塩パンを運んできた。


「お姉ちゃん、追加分できたよ」


「ありがとう。ちょうど長谷川さんがいらしてるわよ」


優美に言われ、栄子はトレイを持ったまま長谷川へ顔を向けた。


「こんばんは。いつもありがとうございます」


「こんばんは。あなたが妹さんですね」


「はい。村澤栄子です。パンを焼いています」


「長谷川敬助です。以前、お姉さんと同じ会社で働いていました」


そういえば、吾輩が長谷川の名を最後まで聞いたのは、この時が初めてである。


長谷川敬助。


魚崎南ライフガーデンに住む、月・水・金の眼鏡の男である。


「妹さんの塩パン、おいしいですね。最近、朝はいつもこれです」


「ありがとうございます。そう言ってもらえるとうれしいです」


栄子は明るく答えたが、その目はすぐに長谷川のトレイへ向かった。


塩パンが4個。


カレーパンが2個。


クロワッサンが3個。


さらに、あんパンとクリームパンが1個ずつ載っている。


どう見ても、1人分ではない。


「長谷川さん、今日はずいぶん多いですね」


「ええ。どれもおいしそうなので、つい」


「食べ切れますか?」


「大丈夫です。無駄にはしませんから」


長谷川は真面目な顔で答えた。


栄子は「それならよかったです」と笑ったが、完全に納得した顔ではなかった。


当然である。


吾輩も納得していない。


長谷川はポピーへ来るたびに、1人暮らしとは思えない量のパンを買っていく。


それを翌日までに全部食べているのであれば、驚くべき胃袋の持ち主である。


だが、食べていないとすれば、残ったパンをどうしているのか。


大好きな栄子が心を込めて焼いたパンである。


もし粗末にしているのであれば、いかに優美の知り合いであろうと許すわけにはいかない。


これは調べる必要がある。


吾輩がそう決意した時、店の前に配送の車が止まった。


空は朝から曇っていたが、ついに大粒の雨が落ち始めた。


「ポピーさん、荷物ここに置きますね!」


配送の男が、店先へ小麦粉の袋と材料の箱を次々に下ろしていく。


「えっ、ちょっと待ってください。雨が――」


優美が店の外へ飛び出した。


しかし、配送の男は次の仕事があるらしく、受領票を渡すと急いで車へ戻ってしまった。


雨脚は、みるみる強くなっていく。


「栄子、濡れる前に運ぶわよ」


「うん。こっちの箱から入れるね」


2人が荷物へ手を伸ばすより先に、長谷川がトレイを置いた。


「僕も手伝います」


「でも、長谷川さん。スーツが濡れてしまいます」


「小麦粉が濡れるよりはいいでしょう」


長谷川は上着を脱いで優美へ預けると、重い小麦粉の袋を両腕で抱え上げた。

挿絵(By みてみん)

細身に見えるが、力はあるらしい。


優美も小麦粉の袋を持ち上げ、栄子は材料の箱を運ぶ。


3人で動くと、店先に積まれていた荷物は瞬く間に工房へ収まった。


「ありがとうございました。長谷川さんがいなかったら、かなり濡れていました」


優美がタオルを差し出した。


「これくらい、大したことではありません」


「でも、シャツまで濡れてしまって……」


優美が心配そうに、長谷川の肩へついた雨粒を払った。


長谷川の動きが止まった。


顔だけでなく、耳まで赤くなっている。


栄子はその様子を見て、何かに気づいたように目を細めた。


「お姉ちゃん、長谷川さんと仲いいんだね」


長谷川が帰ったあと、栄子が何気ない口調で言った。


「前の会社で一緒だっただけよ。今は近所に住んでいるから、寄ってくださっているの」


「ふうん」


「何?」


「別に。いい人だなと思っただけ」


栄子はそれ以上尋ねなかった。


村澤家では、本人が自分から話さない限り、互いの私生活へ深く踏み込まないことになっている。


だが、その顔にははっきりと書かれていた。


あの人、お姉ちゃんのことが好きなんじゃないかな。


吾輩も同意見である。


もっとも、吾輩には恋心より先に確かめなければならないことがあった。


パンの行方である。


◇


翌朝、吾輩は日の出より早く魚崎南ライフガーデンへ向かった。


長谷川の部屋は、以前の巡回ですでに把握している。


外から室内を直接見ることはできないが、朝になると台所の小窓が少し開く。


そこから、ポピーのパンの匂いが流れてきた。


しばらくすると、長谷川が鞄を持って建物から出てきた。


鞄は昨日より明らかに膨らんでいる。


長谷川はバス停へ向かう途中、鞄を開いて中を確かめた。


袋に分けられたポピーのパンが入っている。


やはり、昨日買ったパンを持ち出している。


吾輩は植え込みから飛び出し、長谷川のあとを追った。


長谷川がバスへ乗る。


吾輩も、乗客の足元に紛れて後ろの扉から乗り込んだ。


人間は朝になると、自分のことで精いっぱいになる。足元を静かに歩く猫1匹に気づく者など、ほとんどいない。


座席の下に身を伏せているうちに、バスはJR住吉駅へ着いた。


長谷川が降りる。


吾輩も降りる。


改札では、前を歩く人間の脚にぴたりと寄り添い、扉が閉じる前に通り抜けた。


無賃乗車という言葉があるらしいが、猫に金銭を要求する鉄道会社はない。したがって、これは正当な移動である。


電車の中では座席の下へ潜み、長谷川の革靴を見失わないようにした。


駅を降りてからも、一定の距離を保って追跡する。


やがて長谷川は、1つの建物へ入っていった。


入口には「株式会社リプラス」と書かれている。


長谷川の鞄には、まだポピーのパンが入っている。


つまり、パンを会社まで持ってきたことは間違いない。


吾輩も建物へ入ろうとしたが、入口の扉は人間の持つ札がなければ開かない仕組みになっていた。


長谷川に続こうとしたところで、受付の女と目が合った。


「あら、猫? どこから来たの?」


まずい。


抱き上げられる前に身を翻し、吾輩は建物の外へ逃れた。


ここから先は入れない。


長谷川がパンを会社へ持ち込んだことは分かった。


だが、会社の中でどうしているのかは分からない。


自分で食べているのか。


誰かに渡しているのか。


それとも、まさか捨てているのか。


疑問は、むしろ大きくなった。


◇


その夜、吾輩は魚崎八幡の猫会議で、集まった猫たちを見渡した。


「株式会社リプラスという場所に詳しい者はいないか」


猫たちは互いの顔を見た。


魚崎から離れた会社のことである。すぐに返事をする者はいなかった。


やがて、境内の端に座っていた雌猫が尻尾を上げた。


「そこなら、何度か行ったことがあるわ」


名はココア。


艶のある毛並みを持つ、人懐っこい飼い猫である。


ココアを飼っているのは、近所で運送業を営む夫婦であった。ココアは時折、夫婦の目を盗んで運送車の荷台へ乗り込み、配送先までついていくらしい。


「リプラスは、社内に置く観葉植物を借りているの。毎週火曜日に、いくつかを交換するのよ。その運送を、うちのお父さんとお母さんが受け持っているわ」


ココアは夫婦を、お父さん、お母さんと呼んでいる。


飼い猫らしい呼び方である。


「次の火曜日にも行くのか」


「ええ。荷台へ乗れば、わたしも行ける。リプラスの近所にいる猫たちにも聞いてみるわ」


「頼めるか」


「もちろん。たま子親分が、こんなに気にするなんて珍しいもの」


「吾輩が気にしているのではない。栄子が焼いたパンが粗末にされていないか、確認するだけである」


「それを、気にしていると言うんじゃないかしら」


周囲の猫たちが、同意するように尻尾を揺らした。


余計なことを言わなくてよい。


吾輩はココアに、長谷川の姿と、パンの袋の特徴を詳しく伝えた。


「最後まで確かめてくれ。誰が食べ、どう扱っているのか。できる限り詳しく頼む」


「分かったわ。次の猫会議で報告する」


こうして、パンの行方を追う調査はココアへ引き継がれたのである。


◇


次の火曜日。


ココアは観葉植物を積んだ運送車の荷台へ忍び込んだ。


古い鉢を回収し、新しい鉢と交換するため、夫婦は台車を使ってリプラスの建物へ入る。


ココアも観葉植物の葉に隠れ、建物の中へ入り込んだ。

挿絵(By みてみん)

人間は荷物を運んでいる時、積まれている物の陰まで確認しない。猫にとって、実に都合がよい。


交換作業の途中で台車を降りたココアは、長谷川の匂いを探した。


やがて、同じ部署の机が並ぶ部屋で、眼鏡をかけた男を見つけた。


長谷川敬助である。


昼休みになると、長谷川は鞄から紙袋を取り出した。


ポピーの袋である。


「長谷川さん、またパンですか?」


元気な声で近づいてきたのは、茶髪のボブにした小柄な女だった。


「飯塚さん、声が大きいよ」


その隣には、黒髪を肩より下まで伸ばした、色白の女がいる。


「だって間中さん、長谷川さんがパンを持ってくるの、もう3回目ですよ」


「飯塚さんも毎回楽しみにしているでしょう」


「間中さんだって、先週のクロワッサン、おいしいって言ってたじゃないですか」


「言いましたけど……」


茶髪の女が飯塚雅弓。


黒髪の女が間中美鈴。


2人とも長谷川と同じ部署で働く部下らしい。


「今日は塩パンとカレーパンがある。昨日、少し買いすぎたから、よかったら食べてくれ」


長谷川が紙袋を差し出した。


「やった。ありがとうございます」


雅弓は迷わず塩パンを手に取った。


美鈴も遠慮しながら、カレーパンを選ぶ。


「このパン、本当においしいですね。どこのお店ですか?」


「家の近所にある、ポピーという店だよ」


「長谷川さん、新しいマンションへ引っ越してから、ずいぶんパン好きになりましたよね」


雅弓が笑う。


「近所にいい店があっただけだ」


「本当に、それだけですか?」


「どういう意味だ」


「だって、毎週決まった曜日に買ってくるじゃないですか」


長谷川が眼鏡の位置を直した。


「帰宅途中にあるから寄っているだけだよ」


ココアは机の陰から、その様子をじっと観察していた。


猫の目から見ても、分かりやすい動揺である。


「ポピーには、以前リプラスで働いていた村澤さんがいるんだ」


長谷川が説明すると、美鈴の手が止まった。


「村澤さんというと、優美さんですか?」


「間中さん、知っているのか?」


「大学の後輩です。リプラスに入社した時も驚きましたけど、すぐ退職してしまったので……」


「実家の事情があったそうだ。あの店は村澤さんの実家で、今は妹さんと2人で切り盛りしている」


「そうだったんですね」


美鈴はそう答えたが、長谷川を見る目が少しだけ変わった。


雅弓も、塩パンを持ったまま長谷川と美鈴を交互に見ている。


「長谷川さん、その村澤さんに会うために通っているんじゃないですか?」


「違う。パンを買いに行っているだけだ」


「耳、赤いですよ」


「飯塚さん」


「はい。ごめんなさい」


雅弓は謝りながらも、楽しそうに笑っていた。


美鈴は笑っていなかった。


長谷川が優美のことを話すたび、わずかに視線を伏せている。


ココアは人間の恋愛事情に詳しい。


運送車で多くの家や会社を訪れ、人間たちを見てきたからである。


長谷川を見つめる雅弓と美鈴の目には、どちらにも特別な感情が混じっている。


ただパンをもらって喜んでいるだけではない。


その後もココアは、3人がパンを食べ終えるまで見届けた。


袋は空になった。


誰もパンを残さない。


捨てられたものもない。


栄子の焼いたパンは、長谷川と、その部下たちによって大切に食べられていた。


役目を終えたココアは、交換を終えた観葉植物の陰へ戻り、夫婦の運送車で魚崎へ帰った。


◇


その夜、魚崎八幡の猫会議には、いつもより多くの猫が集まっていた。


皆、パンの行方が気になっていたのである。


ココアは境内の中央へ進み、吾輩の前へ座った。


「調べてきたわ」


「それで、パンはどうなっていた」


「捨てられていない。長谷川という人間が自分で食べて、残りは同じ部署の女の人2人に分けていたわ。2人とも、栄子のパンをとてもおいしそうに食べていた」


吾輩は、知らず知らずのうちに入っていた肩の力を抜いた。


栄子のパンは粗末にされていなかった。


むしろポピーを知らなかった人間にまで、その味が広がっている。


長谷川は優美に会うため、必要以上にパンを買う。


そして、食べ切れない分を会社の者たちへ分ける。


動機は少々不純であるが、行いは悪くない。


「ただし、気になることがあるの」


ココアが続けた。


「何であるか」


「パンをもらっていた2人の女の人。どちらも、長谷川を見る目がほかの人とは違っていたわ」


「どう違う」


「たま子親分が、栄子と優美を見る時の目に少し似ている」


「吾輩は2人を見守っているだけである」


「人間も、自分ではそう思っているのかもしれないわね」


猫たちの間から、小さな笑い声が上がった。


失礼な話である。


だが、ココアの報告は無視できない。


長谷川は優美に心を寄せている。


その長谷川へ、同じ部署の雅弓と美鈴が心を寄せている。


そして優美は、今のところ誰の気持ちにも気づいていない。


人間という生き物は、どうしてこうも面倒な関係を作りたがるのであろう。


翌日の水曜日。


長谷川は、いつものようにポピー前でバスを降りた。


「いらっしゃいませ。長谷川さん」


「こんばんは。今日は塩パンを多めにお願いします。会社でも好評だったので」


その言葉を工房の奥で聞いた栄子が、うれしそうに顔を上げた。


吾輩も、それならば悪くないと思った。


パンの行方は分かった。


しかし、眼鏡の男を巡る人間関係は、吾輩が思っていたよりも面倒なことになっているようである。


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