第2話 眼鏡の男がやってきた
人間は、住みかを替えるたびに大量の荷物を運ぶ。
猫であれば、身ひとつでよい。
気に入った軒下と、雨をしのげる場所と、餌をくれる人間さえ見つければ、そこが新しい住みかになる。
ところが人間は、そうはいかないらしい。
寝床、机、椅子、衣服、食器、よく分からない箱。それらを大きな車へ詰め込み、何人もの人間が汗を流して運ぶのである。
実に面倒な生き物である。
その日、吾輩の縄張りの東側に、大きな引っ越しの車が止まっていた。
場所は、少し前に完成したばかりの新しい建物である。
名を「魚崎南ライフガーデン」という。
白と薄い灰色を基調にした外壁は、まだ雨風に汚されていない。入口には新しい金属と石の匂いが残り、植えられたばかりの低木は、どれも自分の居場所が分からぬように頼りなく並んでいる。
人間たちは、これを新築賃貸マンションと呼んでいる。
猫にとって重要なのは、新しい建物には、まだ縄張りの決まりがないということである。
日当たりのよい場所はどこか。
雨を避けられるひさしはあるか。
管理人は猫を追い払う人間か。
住人の中に、餌をくれそうな者はいるか。
確認すべきことは多い。
魚崎南町一帯を取り仕切るボスとして、吾輩が調査を怠るわけにはいかない。
決して、新しい餌場を探しに来たわけではない。
あくまでも、縄張りの安全を守るための巡回である。
「長谷川さん、こちらの段ボールは寝室でよろしいですか?」
荷物を抱えた男が、部屋の奥へ向かって声をかけた。
「はい。壁際に置いてください」
中から返事がした。
しばらくすると、眼鏡をかけた背の高い男が玄関先に現れた。
年齢は、若者というには少し落ち着きすぎているが、年寄りというには早すぎる。体は細いが、肩や腕には適度に肉がついている。動きに無駄がなく、引っ越し業者に対する言葉遣いも丁寧であった。
先ほどの呼びかけからすると、長谷川という名前らしい。
長谷川は、運び込まれた荷物を一覧と見比べていた。
「机が1つ、椅子が2脚。本棚が3つ……はい、全部あります」
確認の仕方が細かい。
おそらく、真面目な男なのであろう。
人間の性格は、荷物の置き方にも表れる。
雑な者は、箱がどこへ置かれようと気にしない。細かい者は、箱に書かれた文字と部屋を何度も確認する。
長谷川は、間違いなく後者である。
吾輩が植え込みの陰から観察していると、彼はこちらに気づいた。
「猫……?」
目が合った。
長谷川は吾輩を追い払うでもなく、その場にしゃがんだ。
「この辺りの猫かな」
見れば分かるであろう。
吾輩ほど堂々とした猫が、遠くから迷い込んできたように見えるはずがない。
長谷川は手を伸ばそうとしたが、すぐに思い直して引っ込めた。
「知らない人間に、いきなり触られるのは嫌だよな」
なかなか見どころのある男である。
初対面の猫へ勝手に触れようとする無礼者は多い。猫にも都合があり、触れてよい時と悪い時があることを、人間はなかなか理解しない。
吾輩は、その場から動かず、長谷川を見上げた。
追い払わない。
無理に触ろうともしない。
今のところ、危険な住人ではなさそうである。
「これからよろしく」
長谷川はそう言って立ち上がった。
よろしくされるかどうかは、今後の行い次第である。
吾輩は返事の代わりに尻尾を1度振り、巡回へ戻ることにした。
その日の夕方、魚崎八幡で開かれた猫会議において、吾輩は魚崎南ライフガーデンの新しい住人について報告した。
もっとも、現時点で分かっていることは少ない。
名は長谷川。
眼鏡をかけた背の高い男。
1人暮らし。
猫に対する態度は悪くない。
それだけである。
人間がどのような者であるかは、数日も観察すれば分かる。
吾輩は、そう考えていた。
まさかこの男が、ポピーに大きく関わることになるとは、この時点では思っていなかったのである。
◇
週が明けた朝、長谷川は濃い色のスーツを着て、魚崎南ライフガーデンから出てきた。
肩には仕事用らしい鞄を下げている。
まだ新しい道に慣れていないのか、時折周囲を確認しながらバス停へ向かって歩いていく。
長谷川は、そこからバスに乗った。
向かう先はJR住吉駅である。
駅からさらに電車へ乗り、職場へ向かうらしい。
人間は働くために、毎朝ずいぶん遠くまで移動する。
吾輩ならば、これほど餌場に恵まれた魚崎南町から、わざわざ離れようとは思わない。
夕方になり、仕事を終えた長谷川が、JR住吉駅から再びバスに乗った。
車内には、買い物袋を膝に置いた老婆、学校帰りの学生、眠そうな会社員が乗っていた。
バスは魚崎の町へ入り、決められた道を走っていく。
その途中に、ポピーがある。
この日、優美は売り場に立っていた。
夕方の混雑が一段落し、棚に残ったパンの数を確認していたのである。
店内の明かりに照らされた優美の姿は、外からでもよく見えた。
ポピー前のバス停に近づいた時、長谷川は何気なく窓の外へ顔を向けた。
視線が、ポピーの店内で止まった。
「……え?」
長谷川が、小さく声を漏らした。
彼は座席から身を乗り出すようにして、窓の向こうを確かめた。
その目が、優美の姿を追っている。
バスが停留所へ滑り込み、扉が開いた。
長谷川は一瞬だけ迷った。
ここは本来、彼が降りる予定の停留所ではなかったのであろう。
だが彼は鞄を掴むと、慌てて立ち上がった。
「降ります」
閉まりかけた扉の手前で声を上げ、足早にバスを降りる。
その様子を、吾輩はポピー横の塀の上から見ていた。
朝に見た時より、ずいぶん落ち着きがない。
長谷川は走り去るバスを見送り、それからポピーの看板を見上げた。
「パン屋……ポピー」
店内へ目を向ける。
優美は、陳列棚の向こうで商品の整理を続けている。
長谷川は眼鏡の位置を直し、スーツの襟元を指で整えた。
ただ店へ入るだけにしては、妙に身なりを気にしている。
怪しい。
吾輩は塀から降り、店の窓際へ移動した。
優美に害をなす者であれば、見過ごすわけにはいかない。
長谷川が店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
優美が、いつもの明るい声で迎えた。
だが、長谷川の顔を見た瞬間、その笑顔が驚きへと変わった。
「……長谷川さん?」
長谷川も、少し緊張した表情で立っていた。
「やっぱり、村澤さんですよね」
どうやら、2人は知り合いらしい。
吾輩は窓の外へ座り、耳をそちらへ向けた。
「どうして、こちらに?」
2人はほとんど同時に同じことを尋ねた。
一瞬の沈黙のあと、優美が吹き出した。
「同じことを聞いてしまいましたね」
「そうですね。すみません」
「長谷川さんが謝ることではないですよ」
優美は懐かしそうに微笑んだ。
「お久しぶりです。リプラスにいた頃以来ですね」
「はい。村澤さんが退職してからですから……ずいぶん久しぶりですね」
リプラスというのは、人間の会社の名前らしい。
つまり、この2人は以前、同じ場所で働いていたのである。
「長谷川さんは、今もリプラスに?」
「はい。相変わらずです。村澤さんが辞めたあと、しばらく大変でしたよ。仕事が早い人でしたから」
「私は入ったばかりで、皆さんに迷惑をかけてばかりでした」
「そんなことはありません。少なくとも、僕は何度も助けてもらいました」
長谷川は真面目な顔で言った。
優美は少し照れたように視線を下げた。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、少し救われます」
長谷川は店内を見回した。
「ここで働いているんですね」
「はい。ここ、私の実家なんです」
「村澤さんのご実家だったんですか」
「父がパン職人で、ずっとこの店をやっていました。でも、事故で大怪我をしてしまって……。今は妹と2人で店を切り盛りしています」
長谷川の表情が曇った。
「それで、会社を……」
「はい。急に辞めることになったので、きちんとご挨拶もできなくて。すみませんでした」
「謝らないでください。そんな事情があったなんて、知りませんでした」
長谷川は言葉を選ぶように少し間を置いた。
「お父様の具合は、いかがですか?」
「今もリハビリ中です。でも、少しずつ良くなっています」
「そうですか。それなら、よかった」
優美を見る長谷川の顔から、先ほどまでの緊張がわずかに消えた。
少なくとも、形式だけで心配しているわけではなさそうである。
「ところで、長谷川さんこそ、どうしてこの辺りに?」
「ああ、そうでした。先日、近くへ引っ越してきたんです」
「近くですか?」
「魚崎南ライフガーデンという、新しくできたマンションです」
「えっ、あのマンションですか?」
優美の声が少し大きくなった。
「完成したばかりですよね。店のお客さんの間でも話題になっていました」
「はい。ちょうど部屋を探していた時に見つけまして。新築ですし、JR住吉駅までバスで出られるので、通勤にも便利だと思って」
「それなら、本当にご近所ですね」
優美はうれしそうに笑った。
「ここからなら、歩いて帰れますよ」
「そうですね。まさか村澤さんの店が、こんな近くにあるとは思いませんでした」
偶然である。
人間は、偶然というものを大層ありがたがる。
猫に言わせれば、同じ町で暮らしていれば、いずれ顔を合わせるのは当然である。
だが、長谷川にとっては、そうではないらしい。
優美が別の客へ声をかけるために視線を外したあとも、長谷川はしばらく彼女を見ていた。
その目には、単に昔の同僚へ再会しただけとは思えない色が浮かんでいた。
もっとも、本人はまだ、それが何であるか分かっていないようである。
「せっかくですから、パンをいただいて帰ります」
長谷川はトレイとトングを手に取った。
「ありがとうございます。今日はカレーパンが人気ですよ。あと、こちらの塩パンは妹の自信作です」
「では、それもいただきます」
長谷川は、優美が勧めたパンを次々とトレイへ載せた。
カレーパン。
塩パン。
クロワッサン。
あんパン。
さらに食パンを1斤。
明らかに、1人でその日のうちに食べる量ではない。
優美に勧められるたび、断れずに載せているのである。
真面目ではあるが、少々分かりやすい男でもある。
「こんなにたくさん、大丈夫ですか?」
ついには優美のほうが心配した。
「大丈夫です。朝食にもできますから」
「無理に全部食べなくても、冷凍できますよ。保存方法を書いた紙をお入れしますね」
「ありがとうございます」
会計を終えると、優美はパンの入った袋を長谷川へ手渡した。
「また近くを通ったら、寄ってくださいね」
「はい。ぜひ」
長谷川は、少しうれしそうに答えた。
店を出た彼は、パンの袋を手に、魚崎南ライフガーデンの方角へ歩き始めた。
本来降りるはずだった停留所より手前でバスを降りたため、ここから先は歩かなければならない。
だが、その足取りは軽かった。
吾輩はしばらく考えた末、長谷川のあとを追うことにした。
優美の元同僚というだけで、危険な人間ではないと決まったわけではない。
引き続き観察が必要である。
長谷川は歩きながら、何度かパンの袋へ目を落とした。
やがて、誰に聞かせるでもなく小さくつぶやいた。
「村澤さん、元気そうでよかった」
その声に嘘はなかった。
魚崎南ライフガーデンへ着くと、長谷川は入口の前で1度振り返った。
視線の先には、今歩いてきた道がある。
その向こうには、ポピーがある。
「月曜と、水曜と、金曜くらいなら……帰りに寄っても不自然じゃないか」
十分に不自然である。
パン屋へ通う曜日を、初日に決める人間など滅多にいない。
吾輩は植え込みの陰で、思わず耳を動かした。
どうやら、この男は今後もポピーへ現れるつもりらしい。
優美に妙な真似をしないか、注意深く見張る必要がある。
もっとも、優美がくれる鶏肉を横取りしない限り、多少は大目に見てもよい。
その日の猫会議で、吾輩は長谷川について新たに分かったことを報告した。
株式会社リプラスに勤めていること。
以前、優美と同じ職場にいたこと。
ポピーのパンを必要以上に買ったこと。
そして、おそらく近いうちに、また店へ現れること。
猫たちは、人間の新しい恋ほど話の種になるものはないと、好き勝手な意見を述べた。
吾輩は、まだ恋と決まったわけではないと皆をたしなめた。
しかし翌日の夕方。
長谷川は昨日買ったパンをまだ食べ切っていないにもかかわらず、ポピーの前で足を止めた。
店内には、優美がいた。
長谷川は眼鏡の位置を直し、何食わぬ顔で扉を開けた。
「いらっしゃいませ。あら、長谷川さん」
「こんばんは。昨日の塩パンがおいしかったので」
優美の笑顔を見た長谷川も、うれしそうに笑った。
人間というものは、実に分かりやすい。
こうして、眼鏡の男はポピーへ通い始めたのである。




