↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/24

第2話 眼鏡の男がやってきた

挿絵(By みてみん)


人間は、住みかを替えるたびに大量の荷物を運ぶ。


猫であれば、身ひとつでよい。


気に入った軒下と、雨をしのげる場所と、餌をくれる人間さえ見つければ、そこが新しい住みかになる。


ところが人間は、そうはいかないらしい。


寝床、机、椅子、衣服、食器、よく分からない箱。それらを大きな車へ詰め込み、何人もの人間が汗を流して運ぶのである。


実に面倒な生き物である。


その日、吾輩の縄張りの東側に、大きな引っ越しの車が止まっていた。


場所は、少し前に完成したばかりの新しい建物である。


名を「魚崎南ライフガーデン」という。


白と薄い灰色を基調にした外壁は、まだ雨風に汚されていない。入口には新しい金属と石の匂いが残り、植えられたばかりの低木は、どれも自分の居場所が分からぬように頼りなく並んでいる。


人間たちは、これを新築賃貸マンションと呼んでいる。


猫にとって重要なのは、新しい建物には、まだ縄張りの決まりがないということである。


日当たりのよい場所はどこか。


雨を避けられるひさしはあるか。


管理人は猫を追い払う人間か。


住人の中に、餌をくれそうな者はいるか。


確認すべきことは多い。


魚崎南町一帯を取り仕切るボスとして、吾輩が調査を怠るわけにはいかない。


決して、新しい餌場を探しに来たわけではない。


あくまでも、縄張りの安全を守るための巡回である。


「長谷川さん、こちらの段ボールは寝室でよろしいですか?」


荷物を抱えた男が、部屋の奥へ向かって声をかけた。


「はい。壁際に置いてください」


中から返事がした。


しばらくすると、眼鏡をかけた背の高い男が玄関先に現れた。


年齢は、若者というには少し落ち着きすぎているが、年寄りというには早すぎる。体は細いが、肩や腕には適度に肉がついている。動きに無駄がなく、引っ越し業者に対する言葉遣いも丁寧であった。


先ほどの呼びかけからすると、長谷川という名前らしい。


長谷川は、運び込まれた荷物を一覧と見比べていた。


「机が1つ、椅子が2脚。本棚が3つ……はい、全部あります」


確認の仕方が細かい。


おそらく、真面目な男なのであろう。


人間の性格は、荷物の置き方にも表れる。


雑な者は、箱がどこへ置かれようと気にしない。細かい者は、箱に書かれた文字と部屋を何度も確認する。


長谷川は、間違いなく後者である。


吾輩が植え込みの陰から観察していると、彼はこちらに気づいた。


「猫……?」


目が合った。


長谷川は吾輩を追い払うでもなく、その場にしゃがんだ。


「この辺りの猫かな」


見れば分かるであろう。


吾輩ほど堂々とした猫が、遠くから迷い込んできたように見えるはずがない。


長谷川は手を伸ばそうとしたが、すぐに思い直して引っ込めた。


「知らない人間に、いきなり触られるのは嫌だよな」


なかなか見どころのある男である。


初対面の猫へ勝手に触れようとする無礼者は多い。猫にも都合があり、触れてよい時と悪い時があることを、人間はなかなか理解しない。


吾輩は、その場から動かず、長谷川を見上げた。


追い払わない。


無理に触ろうともしない。


今のところ、危険な住人ではなさそうである。


「これからよろしく」


長谷川はそう言って立ち上がった。


よろしくされるかどうかは、今後の行い次第である。


吾輩は返事の代わりに尻尾を1度振り、巡回へ戻ることにした。


その日の夕方、魚崎八幡で開かれた猫会議において、吾輩は魚崎南ライフガーデンの新しい住人について報告した。


もっとも、現時点で分かっていることは少ない。


名は長谷川。


眼鏡をかけた背の高い男。


1人暮らし。


猫に対する態度は悪くない。


それだけである。


人間がどのような者であるかは、数日も観察すれば分かる。


吾輩は、そう考えていた。


まさかこの男が、ポピーに大きく関わることになるとは、この時点では思っていなかったのである。


◇


週が明けた朝、長谷川は濃い色のスーツを着て、魚崎南ライフガーデンから出てきた。


肩には仕事用らしい鞄を下げている。


まだ新しい道に慣れていないのか、時折周囲を確認しながらバス停へ向かって歩いていく。


長谷川は、そこからバスに乗った。


向かう先はJR住吉駅である。


駅からさらに電車へ乗り、職場へ向かうらしい。


人間は働くために、毎朝ずいぶん遠くまで移動する。


吾輩ならば、これほど餌場に恵まれた魚崎南町から、わざわざ離れようとは思わない。


夕方になり、仕事を終えた長谷川が、JR住吉駅から再びバスに乗った。


車内には、買い物袋を膝に置いた老婆、学校帰りの学生、眠そうな会社員が乗っていた。


バスは魚崎の町へ入り、決められた道を走っていく。


その途中に、ポピーがある。


この日、優美は売り場に立っていた。


夕方の混雑が一段落し、棚に残ったパンの数を確認していたのである。


店内の明かりに照らされた優美の姿は、外からでもよく見えた。


ポピー前のバス停に近づいた時、長谷川は何気なく窓の外へ顔を向けた。


視線が、ポピーの店内で止まった。


「……え?」


長谷川が、小さく声を漏らした。


彼は座席から身を乗り出すようにして、窓の向こうを確かめた。


その目が、優美の姿を追っている。


バスが停留所へ滑り込み、扉が開いた。


長谷川は一瞬だけ迷った。


ここは本来、彼が降りる予定の停留所ではなかったのであろう。


だが彼は鞄を掴むと、慌てて立ち上がった。


「降ります」


閉まりかけた扉の手前で声を上げ、足早にバスを降りる。


その様子を、吾輩はポピー横の塀の上から見ていた。


朝に見た時より、ずいぶん落ち着きがない。


長谷川は走り去るバスを見送り、それからポピーの看板を見上げた。


「パン屋……ポピー」


店内へ目を向ける。


優美は、陳列棚の向こうで商品の整理を続けている。


長谷川は眼鏡の位置を直し、スーツの襟元を指で整えた。


ただ店へ入るだけにしては、妙に身なりを気にしている。


怪しい。


吾輩は塀から降り、店の窓際へ移動した。


優美に害をなす者であれば、見過ごすわけにはいかない。


長谷川が店の扉を開けた。


「いらっしゃいませ」


優美が、いつもの明るい声で迎えた。


だが、長谷川の顔を見た瞬間、その笑顔が驚きへと変わった。


「……長谷川さん?」


長谷川も、少し緊張した表情で立っていた。


「やっぱり、村澤さんですよね」


どうやら、2人は知り合いらしい。


吾輩は窓の外へ座り、耳をそちらへ向けた。


「どうして、こちらに?」


2人はほとんど同時に同じことを尋ねた。


一瞬の沈黙のあと、優美が吹き出した。


「同じことを聞いてしまいましたね」


「そうですね。すみません」


「長谷川さんが謝ることではないですよ」


優美は懐かしそうに微笑んだ。


「お久しぶりです。リプラスにいた頃以来ですね」


「はい。村澤さんが退職してからですから……ずいぶん久しぶりですね」


リプラスというのは、人間の会社の名前らしい。


つまり、この2人は以前、同じ場所で働いていたのである。


「長谷川さんは、今もリプラスに?」


「はい。相変わらずです。村澤さんが辞めたあと、しばらく大変でしたよ。仕事が早い人でしたから」


「私は入ったばかりで、皆さんに迷惑をかけてばかりでした」


「そんなことはありません。少なくとも、僕は何度も助けてもらいました」


長谷川は真面目な顔で言った。


優美は少し照れたように視線を下げた。


「ありがとうございます。そう言ってもらえると、少し救われます」


長谷川は店内を見回した。


「ここで働いているんですね」


「はい。ここ、私の実家なんです」


「村澤さんのご実家だったんですか」


「父がパン職人で、ずっとこの店をやっていました。でも、事故で大怪我をしてしまって……。今は妹と2人で店を切り盛りしています」


長谷川の表情が曇った。


「それで、会社を……」


「はい。急に辞めることになったので、きちんとご挨拶もできなくて。すみませんでした」


「謝らないでください。そんな事情があったなんて、知りませんでした」


長谷川は言葉を選ぶように少し間を置いた。


「お父様の具合は、いかがですか?」


「今もリハビリ中です。でも、少しずつ良くなっています」


「そうですか。それなら、よかった」


優美を見る長谷川の顔から、先ほどまでの緊張がわずかに消えた。


少なくとも、形式だけで心配しているわけではなさそうである。


「ところで、長谷川さんこそ、どうしてこの辺りに?」


「ああ、そうでした。先日、近くへ引っ越してきたんです」


「近くですか?」


「魚崎南ライフガーデンという、新しくできたマンションです」


「えっ、あのマンションですか?」


優美の声が少し大きくなった。


「完成したばかりですよね。店のお客さんの間でも話題になっていました」


「はい。ちょうど部屋を探していた時に見つけまして。新築ですし、JR住吉駅までバスで出られるので、通勤にも便利だと思って」


「それなら、本当にご近所ですね」


優美はうれしそうに笑った。


「ここからなら、歩いて帰れますよ」


「そうですね。まさか村澤さんの店が、こんな近くにあるとは思いませんでした」


偶然である。


人間は、偶然というものを大層ありがたがる。


猫に言わせれば、同じ町で暮らしていれば、いずれ顔を合わせるのは当然である。


だが、長谷川にとっては、そうではないらしい。


優美が別の客へ声をかけるために視線を外したあとも、長谷川はしばらく彼女を見ていた。


その目には、単に昔の同僚へ再会しただけとは思えない色が浮かんでいた。


もっとも、本人はまだ、それが何であるか分かっていないようである。


「せっかくですから、パンをいただいて帰ります」


長谷川はトレイとトングを手に取った。


「ありがとうございます。今日はカレーパンが人気ですよ。あと、こちらの塩パンは妹の自信作です」


「では、それもいただきます」


長谷川は、優美が勧めたパンを次々とトレイへ載せた。


カレーパン。


塩パン。


クロワッサン。


あんパン。


さらに食パンを1斤。


明らかに、1人でその日のうちに食べる量ではない。


優美に勧められるたび、断れずに載せているのである。


真面目ではあるが、少々分かりやすい男でもある。


「こんなにたくさん、大丈夫ですか?」


ついには優美のほうが心配した。


「大丈夫です。朝食にもできますから」


「無理に全部食べなくても、冷凍できますよ。保存方法を書いた紙をお入れしますね」


「ありがとうございます」

挿絵(By みてみん)

会計を終えると、優美はパンの入った袋を長谷川へ手渡した。


「また近くを通ったら、寄ってくださいね」


「はい。ぜひ」


長谷川は、少しうれしそうに答えた。


店を出た彼は、パンの袋を手に、魚崎南ライフガーデンの方角へ歩き始めた。


本来降りるはずだった停留所より手前でバスを降りたため、ここから先は歩かなければならない。


だが、その足取りは軽かった。


吾輩はしばらく考えた末、長谷川のあとを追うことにした。


優美の元同僚というだけで、危険な人間ではないと決まったわけではない。


引き続き観察が必要である。


長谷川は歩きながら、何度かパンの袋へ目を落とした。


やがて、誰に聞かせるでもなく小さくつぶやいた。


「村澤さん、元気そうでよかった」


その声に嘘はなかった。


魚崎南ライフガーデンへ着くと、長谷川は入口の前で1度振り返った。


視線の先には、今歩いてきた道がある。


その向こうには、ポピーがある。


「月曜と、水曜と、金曜くらいなら……帰りに寄っても不自然じゃないか」


十分に不自然である。


パン屋へ通う曜日を、初日に決める人間など滅多にいない。


吾輩は植え込みの陰で、思わず耳を動かした。


どうやら、この男は今後もポピーへ現れるつもりらしい。


優美に妙な真似をしないか、注意深く見張る必要がある。


もっとも、優美がくれる鶏肉を横取りしない限り、多少は大目に見てもよい。


その日の猫会議で、吾輩は長谷川について新たに分かったことを報告した。


株式会社リプラスに勤めていること。


以前、優美と同じ職場にいたこと。


ポピーのパンを必要以上に買ったこと。


そして、おそらく近いうちに、また店へ現れること。


猫たちは、人間の新しい恋ほど話の種になるものはないと、好き勝手な意見を述べた。


吾輩は、まだ恋と決まったわけではないと皆をたしなめた。


しかし翌日の夕方。


長谷川は昨日買ったパンをまだ食べ切っていないにもかかわらず、ポピーの前で足を止めた。


店内には、優美がいた。


長谷川は眼鏡の位置を直し、何食わぬ顔で扉を開けた。


「いらっしゃいませ。あら、長谷川さん」


「こんばんは。昨日の塩パンがおいしかったので」


優美の笑顔を見た長谷川も、うれしそうに笑った。


人間というものは、実に分かりやすい。


こうして、眼鏡の男はポピーへ通い始めたのである。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。