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第1話 吾輩はたま子である

挿絵(By みてみん)

吾輩はたま子である。


名前だけを聞けば、たいそう愛らしい雌猫を想像する者もいるだろう。


しかし、吾輩は雄である。


しかも、この魚崎南町一帯を取り仕切る、れっきとしたボス猫である。


ではなぜ、雄である吾輩が「たま子」などという名前で呼ばれているのか。


話は、吾輩がまだ子猫だった頃にさかのぼる。


吾輩は、魚崎南町4丁目にある古い民家の軒下へ転がり込んだ。そこには、1人暮らしのお婆さんが住んでいた。


お婆さんは吾輩を見るなり、


「まあ、かわいらしい子やねえ」


と言って、煮干しをくれた。


当時の吾輩は、今ほど立派な体格ではなかった。腹を空かせ、雨に濡れ、猫としての威厳など尻尾の先ほども残っていなかったのである。


ゆえに、差し出された煮干しへ迷わず食らいついた。


それ以来、お婆さんは毎日、吾輩に餌をくれるようになった。


吾輩は野良猫である。


少なくとも、形式上はそういうことになっている。


首輪はない。家の中で眠ることもない。好きな時に現れ、好きな時に立ち去る。誰かに飼われているつもりもない。


もっとも、朝と夕方には決まってお婆さんの家を訪れ、用意された皿の前で待っている。


雨の強い日には軒先を借りるし、冬になると、お婆さんが置いてくれた古い毛布の上で眠る。


世間では、こういう猫を半野良と呼ぶらしい。


吾輩としては、お婆さんのほうが吾輩の世話係なのであるが、人間には人間なりの解釈があるのであろう。


さて、肝心の名前の由来である。


ある日、お婆さんは日なたで腹を見せて眠る吾輩を眺めていた。そして、吾輩の後ろ脚の間にある、丸々とした2つのものに気づいた。


「まあまあ。立派で、かわいいお玉やこと」


お婆さんは目を細め、しばらく考えた末に言った。


「今日から、あんたはたま子やね」


なぜ「たま」ではなく「たま子」になったのか。


吾輩はいまだに納得していない。


抗議はした。


その場で立ち上がり、尻尾を大きく振りながら、吾輩は雄であると何度も訴えた。

挿絵(By みてみん)


しかし、人間という生き物は猫の言葉を理解しない。


「あらあら、気に入ったんやねえ」


お婆さんは、まるで逆の意味に受け取った。


こうして吾輩は、たま子になった。


名前には少々不満があるが、お婆さんには感謝している。毎日の食事は悪くないし、煮干しの選び方も年々上達している。


したがって、改名を強く要求するほどではない。


そのお婆さんの家の横に、1軒の店がある。


店の名は「ポピー」。


魚崎南町のバス道に面した、昔ながらの小さなパン屋である。


店の前にはバス停があり、朝夕には大勢の人間が行き交う。角地に建つ4階建ての建物で、1階の表側が売り場、その奥がパン工房になっている。上の階では、店を営む村澤一家が暮らしている。


吾輩の縄張りから、ポピーの様子は実によく見える。


まだ空が暗いうちから工房に明かりが灯り、やがて小麦の焼ける香りが流れてくる。


あの香りは危険である。


腹がいっぱいの時でさえ、もう1度何かを食べられるような気にさせる。人間が毎朝ポピーへ吸い寄せられていくのも、無理からぬことである。


この店には、吾輩がとりわけ気に入っている2人の娘がいる。


姉の優美と、妹の栄子である。


優美は背が高く、すらりとしている。力も強く、重い荷物を軽々と運ぶ。店では清掃から陳列、販売、在庫の管理まで、実に手際よくこなす。


ただし、機械の扱いだけは不得手である。


以前、店先で何やら小さな機械を握りしめ、困り果てた顔をしていたことがある。あとで聞いた話によれば、携帯電話の画面が横向きから戻らなくなったらしい。


人間は、妙なことで悩む生き物である。


栄子は姉よりも小柄で、いつも明るく動き回っている。


こちらはパン職人である。


生地の状態を見極める目も、焼き上がりを判断する鼻も確かなものだ。吾輩には細かな製法など分からないが、栄子が工房に立った日のパンは、店の裏へ漂ってくる香りが少し違う。


自分で食べるものを自分で作れない人間の中にあって、栄子はなかなか大した娘である。


そして何より、2人とも吾輩に食べ物をくれる。


「たまちゃん、今日は早いのね」


優美はそう言いながら、吾輩の頭を撫でる。


たまちゃんではない。


吾輩はたま子であり、この辺りを治めるボスである。


もう少し敬意を込めて呼ぶべきだと思うのだが、優美がくれる鶏肉はうまい。ゆえに、その点については大目に見ている。


栄子は、店で余ったパンを与えようとすることがある。


吾輩が猫であることを忘れているのかもしれない。


「パン屋の猫なんだから、パンも食べないと」

挿絵(By みてみん)

などと言うが、吾輩はポピーの猫ではないし、猫だからといってパンを主食にするつもりもない。


それでも、パンに挟まっていた鶏肉だけを器用に抜き取って食べると、栄子は楽しそうに笑う。


その笑顔が嫌いではない。


だから吾輩は、優美と栄子が好きである。


食べ物をくれるからという理由が大部分を占めるが、それだけではない。


2人は吾輩を追い払わない。


忙しい朝でも声をかけ、雨の日には濡れていないかと気にする。栄子などは、工房で何か失敗した日には吾輩の前にしゃがみ込み、聞いてもいない話を延々と続ける。


人間の悩みは複雑である。


しかし、黙って聞いてやるだけで元気になるのだから、案外単純でもある。


もともとポピーの中心に立っていたのは、2人の父親である英一だった。


温厚な男だが、パンのことになると厳しい。毎朝誰よりも早く工房へ入り、1つ1つの生地を自分の目と手で確かめていた。


ところが、英一は事故で大怪我を負った。


命は助かったものの、以前のように工房へ立つことができなくなり、今はリハビリを続けている。


それからである。


栄子と優美が、2人でポピーを切り盛りするようになったのは。


栄子がパンを焼き、優美が店を支える。


どちらか1人だけでは、ポピーは成り立たない。


朝早くから夜まで働き、時には意見をぶつけながらも、2人は父親が守ってきた店を懸命に残そうとしていた。


吾輩は、それまでにもポピーを眺めていた。


焼けたパンの香りが流れてくる場所であり、時折うまいものにありつける場所だったからである。


だが、2人だけで店を守るようになってから、吾輩は意識してポピーを観察するようになった。


優美は無理をしていないか。


栄子はちゃんと休んでいるか。


怪しい人間が店の周囲をうろついていないか。


そして、吾輩に回される食べ物が残っているか。


最後の1つは特に重要である。


もちろん、吾輩1匹の目で見られる範囲には限界がある。


人間たちは店を離れ、電車や車に乗り、吾輩の知らぬ場所へ出かけていく。優美には優美の、栄子には栄子の、店では見せない顔がある。


だが、心配には及ばない。


猫には猫の情報網がある。


この街には、塀の上から人間の家を覗く者、駅前を縄張りとする者、マンションのベランダへ自由に出入りする者、商店の裏口で魚をもらう者など、多くの猫が暮らしている。


そして日が暮れる頃、我々は魚崎八幡へ集まる。


毎日開かれる猫会議のためである。

挿絵(By みてみん)

近所の出来事、新しく現れた猫、危険な犬、餌をくれる家、餌をくれなくなった家。そして、人間たちが密かに抱えている事情。


そこで交わされる情報は、実に多岐にわたる。


遠い街の話も入ってくる。


軽貨物運送の小さなトラックの荷台へ忍び込み、街から街へ移動する猫たちがいるからである。人間は自分たちだけが荷物を運んでいるつもりだろうが、その荷台では、猫の情報と物資も運ばれている。


そうして各地から集められた話は、最後に吾輩のもとへ届く。


なぜなら吾輩は、この一帯を仕切るボス猫だからである。


人間たちは、自分たちの秘密が猫に知られているとは思っていない。


恋の悩みも、ついた嘘も、誰にも見られていないと思っている失敗も、猫の前では筒抜けである。


優美と栄子も例外ではない。


2人がポピーで笑っている時も、店を離れた場所で誰かを想っている時も、どこかの猫が見ている。


そして、その話はいずれ吾輩の耳へ届く。


これは、魚崎南町にある小さなパン屋と、そこへ集まる少々面倒な人間たちの物語である。


晴れた日には、焼きたてのパンがよく売れる。


雨の日には、店先で雨宿りする猫が増える。


そして、ときどきポピーでは、人間たちの運命を変えるような出来事が起こる。


吾輩は今日も、お婆さんにもらった朝飯を平らげ、ポピーのよく見える塀の上へ跳び乗る。


店の中では、栄子と優美が開店の準備を始めていた。


どうやら今日も、退屈せずに済みそうである。


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