第24話 全部つながった日
吾輩はたま子である。
人間は「偶然」という言葉が好きである。
道で知り合いに会えば偶然。
同じ店に入れば偶然。
知り合いの知り合いが、また知り合いだったとなれば、それも偶然。
便利な言葉である。
猫から言わせてもらえば、同じ町で暮らし、同じ店へ出入りし、同じ人間を間に挟んでいれば、いつか顔を合わせるのは当たり前である。
むしろ、なぜ今まで会わなかったのか。
そのほうが不思議なくらいだ。
少し前にも、神戸の港で5人の人間が驚くほど近い場所に集まっていた。
それでも、その時は会わなかった。
まだ会う時ではなかった、ということなのだろう。
だが今度は違う。
この土曜日。
今まで別々に伸びていた線が、ようやく同じ場所で交わる。
なお、この日の吾輩はポピーの周りから一歩も離れていない。
三宮から港までの出来事は、あとで本人たちがポピーで話していた内容と、港の連中から回ってきた報告をつなぎ合わせたものである。
猫とて、神戸中を瞬間移動できるわけではない。
◇
土曜日の朝。
ポピーはいつもどおり7時に店を開けた。
開店直後は朝食用のパンを買う客が続き、それなりに慌ただしい。
ただし平日ほどではない。
土曜日は会社や学校が休みの人間も多いせいか、時間の流れが少しだけゆっくりしている。
工房では栄子が焼き上がったパンを次々と並べ、売り場では優美と茜が客を迎えていた。
少し前には祐実も店へ顔を出していた。
栄子から小さな紙袋を受け取り、いつもより少し緊張した顔で出ていった。
その背中を見送ったあとも、ポピーの朝は何事もなかったように続いた。
10時を過ぎる頃には、最初の波が落ち着いた。
優美が時計を見る。
「そろそろ着替えてくるね」
栄子が工房から顔を出した。
「うん。早く行ってきなよ」
「でも本当に大丈夫?」
「大丈夫だって」
「土曜日だし」
「お姉ちゃん」
栄子は呆れたように笑う。
「いつも私が土曜日に出かける時、店お願いしてるじゃん」
優美が少し黙る。
確かにそうである。
栄子が悠斗と出かける土曜日。
店を守ってきたのは、たいてい優美だった。
「だから今日は逆」
栄子は笑った。
「今日は私がお姉ちゃんを送り出す番」
「栄子……」
「茜さんもいるし、今日はそんなに忙しくならないと思うし。閉店までは大丈夫」
茜も売り場から顔を出す。
「お店は任せて。優美ちゃん、今日はいっぱい楽しんできなさいな。」
「……じゃあ、お願いしようかな」
「そうそう」
栄子が頷く。
「たまにはお姉ちゃんも遊んできなよ」
「ありがとう」
優美はそう言って2階へ上がっていった。
そして、しばらくして戻ってきた。
栄子の手が止まった。
「……お姉ちゃん」
「何?」
「めちゃくちゃ気合い入ってるね」
「入ってない」
即答である。
だが、どう見ても入っていた。
髪はいつも以上に丁寧に整えられ、メイクも隙がない。
普段の店番とは明らかに違う、外出用の服。
アクセサリーも靴も、全体の色合いまできちんと合わせてある。
吾輩には人間の化粧というものの細かい違いまでは分からない。
だが、いつもの優美より明らかに時間がかかっていることくらいは分かる。
栄子は姉を上から下まで眺めた。
「そのメイクで?」
「普通よ」
「その服も?」
「普通」
「アクセサリーまで?」
「栄子」
「はいはい」
栄子は楽しそうに笑う。
「菜奈ちゃんの神戸案内だもんね」
「そうよ」
「敬助さんもいるけど」
「3人で行くの」
「はいはい」
「その言い方やめて」
その時、店の外から明るい声が聞こえた。
「優美さーん!」
菜奈である。
栄子が窓の外を見る。
菜奈と敬助が並んで立っていた。
そして栄子は、また少し笑った。
「……あっちも気合い入ってる」
長谷川兄妹も、普段より明らかによそ行きの格好だった。
菜奈は髪をいつもより丁寧に整え、明るい色の外出着でまとめている。
敬助も普段の休日着よりきちんとしており、軽いジャケットに清潔感のあるシャツ、足元までしっかり整えていた。
菜奈が店へ入ってくる。
「優美さん、おはようございます!」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
菜奈は優美を見て目を輝かせた。
「わ、優美さん今日すっごく綺麗!」
「ありがとうございます」
優美は少し照れた。
敬助は一瞬だけ優美を見て、それから視線を逸らした。
「あ……今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
敬助の返事が、ほんの少しだけ硬い。
菜奈がすぐ横から兄を見る。
「ケイにい、何その反応」
「何でもない」
「ふーん」
「お前は朝からうるさい」
栄子がそのやり取りを見ながら、口元を押さえている。
優美がバッグを持った。
「じゃあ、行ってくるね」
栄子が手を振る。
「いってらっしゃい、お姉ちゃん」
「うん」
「今日は店のこと気にしなくていいからね」
「分かった」
「ちゃんと楽しんできて」
「分かったって」
栄子は一拍置いた。
「敬助さんとも――」
「栄子!」
「はいはい。菜奈ちゃんの神戸案内ね」
菜奈が笑う。
敬助は何も聞かなかったことにしている。
「いってらっしゃーい」
こうして優美は店を出た。
いつもなら、土曜日にこの店から出ていくのは栄子のほうである。
その背中を優美が見送る。
今日は逆だった。
店に残る栄子が、姉を送り出す。
姉妹というものは、こうして時々役目を入れ替えるらしい。
もっとも。
優美はこの時、自分が今日どんな人間たちと顔を合わせることになるのか知らない。
栄子も知らない。
敬助も。
菜奈も。
悠斗も。
この土曜日。
5本の線は、ようやく交わる。
◇
3人が最初に向かったのは三宮だった。
主役は当然、菜奈である。
「ケイにい、写真!」
「またか」
「まだ今日3枚目だよ」
「もう3枚撮ってるだろ」
「角度が違うの!」
菜奈は神戸の街並みを背景に立ち、敬助へスマートフォンを渡す。
「もうちょっと下から。建物も入れて」
「注文が多いな」
「せっかく撮るんだからちゃんとして」
優美は横で笑っている。
「敬助さん、慣れてますね」
「昔からです」
「何その言い方」
「事実だろ」
写真を撮り終えると、菜奈は雑貨店へ入る。
新居に置く小物。
キッチン用品。
小さな観葉植物。
何を見るにも楽しそうである。
「これ可愛くないですか?」
菜奈が小さな置物を優美へ見せる。
「菜奈さんのお部屋に合いそうですね」
「でしょ?」
横から敬助。
「この前引っ越したばかりなのに、もう物を増やすのか」
「ケイにいは黙って持って」
「俺は配送業者か」
「今日は付き人」
「朝より格下げされてるぞ」
優美が笑いながら言う。
「私も持ちますよ」
「大丈夫です。今日はこれが俺の役目らしいので」
「さすがケイにい。優秀な付き人!」
「後で覚えてろ」
だが敬助は結局、菜奈の荷物を全部持っている。
文句は言う。
手は貸す。
そういう兄である。
◇
昼は元町から南京町へ向かった。
入口へ着くなり、菜奈の目が輝く。
「ここ、全部食べたい!」
敬助が即答した。
「無理だ」
「まだ何も食べてないのに何で決めつけるの?」
「量を見ろ」
優美が店を見ながら言う。
「3人で少しずつ分ければ、いろいろ食べられますよ」
菜奈が振り返る。
「優美さん、天才!」
「甘やかさないでください」
「いいじゃないですか。せっかくの観光ですし」
「ほら、優美さんもこう言ってる」
「お前は都合のいい時だけ人の言葉を使うな」
豚まん。
小籠包。
焼き餃子。
胡麻団子。
菜奈は目につくものを次々と食べようとする。
「熱いから気をつけてくださいね」
優美が小籠包を見ながら言った直後。
「あっつ!」
菜奈が口元を押さえた。
敬助が呆れる。
「だから言われただろ」
「でも美味しい」
「反省しろ」
「もう1個食べる」
「反省する気ないだろ」
いつの間にか菜奈の両手は食べ物と買い物袋でいっぱいになっていた。
敬助が片方を持ち。
優美がもう片方を整理する。
「菜奈さん、これは後にしましょう」
「ケイにい、それ落とさないでね」
「誰の荷物だと思ってる」
菜奈は2人を交互に見る。
そして笑った。
「何か2人とも、私のお父さんとお母さんみたい」
敬助と優美の動きが同時に止まった。
「誰がお父さんだ」
「えっ、私、お母さんですか?」
「そこ気にするところ?」
菜奈が笑う。
優美も笑い始める。
敬助だけが、まだ何か言いたそうな顔をしていた。
◇
その頃。
ポピーはすっかり静かになっていた。
昼を過ぎると、客足は目に見えて減る。
土曜日はもともと平日ほど忙しくない。
まして昼食の時間を過ぎれば、店内に客が1人もいない時間も珍しくなかった。
茜はレジ周りを整理している。
栄子は工房の作業をひと区切り終え、水を飲むため売り場へ出てきた。
茜がそんな栄子をちらりと見る。
「ねぇねぇ」
「はい?」
「今日もこの後、彼氏さんと会うんでしょう?」
栄子の動きがわずかに止まった。
「え」
視線が少しだけ泳ぐ。
「……まあ、はい。会います」
茜は妙に納得した顔で頷いた。
「やっぱり」
「何ですか、その顔」
「いやぁ」
茜は栄子を少し眺める。
「私の見立てではね」
「はい」
「彼氏さん、すっごく女性の扱いうまいんじゃない?」
「えっ」
栄子の頬が赤くなる。
「な、何でそう思うんですか?」
「何となく」
「何となくって……」
否定しようとして。
しかし栄子は、ほんの少し考えた。
「……た、確かに……」
小さく漏れた。
茜の目が細くなる。
「なるほどなるほど……」
「何ですか」
茜が一歩近づく。
そして。
「えいっ」
栄子の脇腹を、指先でつん、と突いた。
「やん!」
栄子の身体がびくっと跳ねた。
思わず出た声に、本人が一番驚いている。
茜は数秒、栄子を見る。
そして、満足そうに頷いた。
「うんうん」
「……何ですか」
「いい感じに開発されておりますなぁー」
少し意地悪そうな顔である。
栄子の顔が一気に赤くなった。
「茜さん!」
「はい?」
「エロいおっさんみたいですよ!」
「うふふ。冗談よ」
「もう……」
栄子は赤い顔のまま脇腹を押さえる。
茜はまだ楽しそうである。
しかし、少しだけ声を柔らかくした。
「でも、幸せそうね」
栄子が茜を見る。
「……分かります?」
「分かるわよ」
茜は笑った。
「前とちょっと違うもの」
「そうですか?」
「うん」
栄子は少しだけ照れたように視線を落とす。
そして。
「……まあ、幸せです」
茜が大きく頷いた。
「はい、ごちそうさま」
「何も食べてないじゃないですか」
「十分お腹いっぱい」
「もう!」
そこへ客が1人入ってきた。
2人は何事もなかったように仕事へ戻る。
人間の女というものは、切り替えが早い。
◇
南京町を出た3人は、メリケンパークまで歩いた。
海から吹く風は、8月の終わりとはいえまだ温かい。
ただ、真昼よりはずいぶん楽になっていた。
菜奈は海を見るなり、また元気になった。
「海だー!」
敬助が荷物を持ったまま言う。
「さっきまで食べてた人間とは思えないな」
「別腹」
「海に別腹は関係ない」
菜奈は港を背景に写真を撮り始めた。
その間、敬助と優美は少し離れたベンチへ座る。
「菜奈さん、本当に元気ですね」
「朝からずっとあれです」
「でも楽しそうです」
「優美さんも楽しめていますか?」
敬助が聞いた。
優美は少し意外そうに彼を見る。
そして笑った。
「はい。私も久しぶりに、こうしてゆっくり神戸を歩きました」
「よかった」
少し間が空く。
優美が敬助を見る。
「敬助さんって、お仕事の時とは雰囲気が違いますね」
「そうですか?」
「今日はずっと、菜奈さんのお兄さんの顔をしています」
敬助は少し照れたように菜奈を見る。
「相手があいつだと、どうしてもこうなります」
「優しいお兄さんですね」
「本人は便利な兄くらいにしか思ってませんよ」
遠くから声が飛んでくる。
「ケイにいー! 写真撮ってー!」
敬助がため息をつく。
「ほら」
優美が声を上げて笑った。
敬助も、結局笑っている。
その表情を、優美はしばらく見ていた。
◇
14時。
ポピーは閉店した。
茜と栄子でシャッターを下ろし、残った商品を整理する。
「じゃあ私はこの辺で上がるね」
「はい。今日はありがとうございました」
「優美さんいなくても全然大丈夫だったじゃない」
「まあ、今日は暇でしたから」
茜は帰り支度をしながら、また少しだけ意地悪そうに笑う。
「じゃあ、この後はごゆっくり」
「茜さん」
「何も言ってないわよ」
「顔が言ってます」
「誰かさんと同じこと言うのね」
茜は笑いながら店を出た。
その後、栄子は1人で簡単な片付けと翌日の準備を済ませた。
15時を少し回った頃。
スマートフォンが鳴る。
悠斗からだった。
――終わった?
栄子はすぐに返す。
――今終わったー。
――迎えに行こうか。
栄子は少し考えるまでもなかった。
――お願い。
30分ほどして、水色のプジョー308CCが近くへ止まった。
栄子は仕事着から私服へ着替え、店を出る。
運転席の悠斗が手を上げた。
「お疲れ」
「お疲れー」
助手席へ乗り込む。
「今日どうだった?」
「平和だったよ。お姉ちゃんいなくても何とかなった」
「それはよかった」
「でも茜さんがね」
「ん?」
栄子は一瞬、昼の会話を思い出した。
「……何でもない」
「気になる言い方するな」
「いいの」
悠斗は笑った。
「で、どこ行く?」
栄子は少し考えてから窓の外を見る。
「海見たい」
「じゃあ港のほう行くか」
「うん」
車は魚崎を離れた。
その時、栄子はもちろん知らない。
朝、自分が送り出した姉が、その同じ港にいることを。
◇
夕方。
3人はハーバーランドまで来ていた。
菜奈は観覧車を見上げている。
「ここも来たかったんだ!」
敬助が時計を見る。
「ようやく最後の目的地だな」
「まだ夕食が残ってるよ」
「まだ食うのか」
「夕食は別」
「今日、何回別腹使うんだ」
優美が笑う。
「早めに食べれば大丈夫ですよ」
菜奈は少し先へ歩いていく。
海沿い。
夕方の光が水面に反射している。
優美と敬助は、自然に並んでその後ろを歩く。
「菜奈さんと一緒だと、1日があっという間ですね」
「振り回してしまって、すみません」
「いいえ」
優美は首を振る。
「私もすごく楽しいです」
敬助が少しだけ表情を緩める。
「それならよかった」
優美は海を見る。
「また、こうして来たいですね」
敬助の歩みがほんの少しだけ遅くなる。
「……ええ」
そして、今度ははっきり言った。
「また来ましょう」
優美が微笑む。
「はい」
その少し前を、菜奈が歩いている。
そして。
向こうから、男女が2人歩いてきた。
休日の港である。
男女2人など珍しくもない。
最初、敬助は気にも留めなかった。
優美も同じだった。
ただ。
数十メートル先。
短い黒髪の女性が、隣を歩く男へ何か言って笑った。
優美の視線が止まった。
見覚えがある。
というより。
見間違えるはずがない。
優美の歩みが少し遅くなる。
「……え?」
敬助が気づいた。
「どうしました?」
優美は返事をしない。
前を見ている。
向こう側でも、女性がこちらを見た。
さっきまで笑っていた表情が止まる。
目が大きく開いた。
「……優美?」
その声で、優美は完全に立ち止まった。
「栄子!?」
敬助も止まる。
少し前を歩いていた菜奈が、2人がついて来なくなったことに気づいて振り返る。
「どうしたの?」
その声に、栄子の隣にいた男もこちらを見る。
悠斗である。
悠斗の視線が優美を通り越し、敬助で止まった。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
いつもの落ち着いた表情が消える。
「……ケイさん?」
敬助も悠斗を見る。
目が見開かれた。
「中崎!?」
今度は優美が敬助を見る。
「え?」
栄子が悠斗を見る。
「え?」
菜奈が4人を見る。
「え?」
誰も説明しない。
5人だけが、その場で止まっている。
周囲の人間は何事もなく歩いていく。
観覧車は回っている。
海からは風が吹いている。
だが、その5人だけは時間が止まったようだった。
最初に口を開いたのは菜奈である。
「……ちょっと待って」
敬助を見る。
「ケイにい、この人知ってるの?」
敬助はまだ驚いたまま悠斗を見る。
「会社の……同僚だ」
「同僚?」
菜奈は優美を見る。
栄子を見る。
敬助を見る。
悠斗を見る。
もう一度、全員を見る。
「……え?」
一周した。
そして、ようやく結論へたどり着く。
「みんな知り合いなの!?」
栄子は一瞬黙り、それから少し困ったように笑った。
隣にいるのは悠斗である。
姉に恋人がいることを隠してはいない。
だが、こうして2人で歩いているところを真正面から見られるのは、また別の話らしい。
「……こういう形で会うの、なんか恥ずかしい」
優美は栄子と悠斗を交互に見る。
2人の距離。
さっき話していた時の栄子の表情。
悠斗の隣にいることが、あまりにも自然だった。
優美の表情が柔らかくなる。
「あら」
そして、少し笑った。
「いいじゃない」
「何が?」
「お似合いよ」
「もう、お姉ちゃん」
栄子が珍しく照れる。
敬助はまだ別の問題を処理していた。
「ちょっと待て」
悠斗を見る。
「中崎が……栄子さんの?」
悠斗も敬助を見る。
「ケイさんが……村澤さんたちと?」
2人とも互いに、
――お前、そこにつながっていたのか。
という顔をしている。
その横で菜奈だけが、だんだん楽しそうになってきた。
「何これ。すごく面白い」
「お前は黙ってろ」
「だって、ケイにいも栄子さんも優美さんも知ってて、この人はケイにいの同僚なんでしょ?」
「そうだ」
「で、栄子さんの彼氏?」
敬助が答えられず、悠斗を見る。
悠斗が小さく笑った。
「そういうことです」
栄子が少し恥ずかしそうに悠斗を見る。
「悠斗……」
「何?」
「何でもない」
ようやく、その場の空気が少し動き始めた。
◇
悠斗が一度姿勢を正した。
そして優美へ向き直る。
「改めまして」
軽く頭を下げる。
「中崎悠斗です。栄子さんとお付き合いさせていただいています」
優美も姿勢を正す。
「村澤優美です」
そして、少しだけ姉らしい顔になった。
「いつも妹がお世話になっています」
「お姉ちゃん、それなんか親みたい」
栄子が横から言う。
「姉だからいいでしょ」
悠斗が少し笑う。
「こちらこそ、いつも栄子さんには――」
「悠斗、それ以上言わなくていいから」
「まだ何も言ってないけど」
優美が吹き出した。
栄子はさらに恥ずかしそうな顔になる。
だが、嫌そうではない。
優美はそれを見て、また小さく笑った。
今度は悠斗が敬助を見る。
「でも本当に驚きました。ケイさんが村澤さんたちと知り合いだったなんて」
「俺もだ。中崎の彼女が栄子さんとは思わなかった」
栄子も驚いている。
「敬助さんと悠斗、同じ会社だったんだ……」
「私も初めて知った」
優美が言う。
菜奈が指を折りながら関係を整理している。
「ケイにいと悠斗さんが会社で知り合いで」
1本。
「優美さんと栄子さんが姉妹で」
2本。
「私はケイにいの妹で」
3本。
「栄子さんと悠斗さんが付き合ってて」
4本。
菜奈はそこで、優美と敬助を交互に見た。
「で、優美さんとケイにいが――」
「そこは何もない!」
敬助がすぐ止めた。
優美も少し頬を赤くする。
「今日は菜奈さんの神戸案内です」
「そうそう!」
菜奈が明るく割って入る。
「私、神戸に引っ越してきたから、今日はケイにいと優美さんに案内してもらってるんです」
敬助が疲れたように言う。
「俺は案内役兼、荷物持ちだ」
優美が笑う。
「私は食べ歩き担当ですね」
菜奈が胸を張る。
「2人とも優秀な付き人です!」
「誰が付き人だ」
その場の緊張が、一気に抜けた。
栄子も笑う。
悠斗も笑う。
そして菜奈が、近くのレストランを指した。
「ねえ、せっかく会ったんだから、一緒にご飯食べません?」
4人が顔を見合わせる。
栄子が悠斗を見る。
悠斗が頷く。
優美が敬助を見る。
敬助も肩をすくめた。
「まあ、せっかくだしな」
「じゃあ決まり!」
菜奈が先頭に立って歩き出す。
どうやら今日の予定は、最後まで菜奈が決めるらしい。
◇
5人でテーブルを囲む。
座る位置を決めるだけでも、一瞬妙な間があった。
結局、悠斗の隣に栄子。
敬助の隣に優美。
その間をつなぐように菜奈が座る。
最初の数分は、少しだけぎこちなかった。
今まで別々の場所で知り合っていた人間が、急に同じテーブルへ座ったのだから当然である。
だが、菜奈がいる。
沈黙など長く続くはずもない。
「悠斗さんって、ケイにいと同じ会社なんですよね?」
「はい」
「会社でケイにいってどんな感じですか?」
「お前、余計なこと聞くな」
悠斗は少し考える。
「真面目ですよ。周りもよく見てますし、頼りになります」
「へえー」
菜奈が兄を見る。
「外ではちゃんとしてるんだ」
「家でもちゃんとしてる」
「口うるさいけど」
「お前が原因だ」
優美が笑う。
悠斗も続ける。
「ケイさんには、いつも助けてもらってます」
敬助が首を振る。
「中崎も十分頼りになるよ」
「ありがとうございます」
仕事の顔を知る男同士。
家族としての顔を知る妹。
そして、その両方を少しずつ知り始めた優美。
同じ人物でも、見る場所が違えば印象も違うらしい。
菜奈の興味はすぐ次へ移った。
「栄子さんと悠斗さんって、どっちから好きになったんですか?」
栄子の動きが止まる。
「菜奈ちゃん、いきなりそれ聞く?」
「気になる」
悠斗が普通に言う。
「僕は答えてもいいですよ」
「悠斗!」
栄子の声が少し大きくなる。
優美が吹き出した。
「栄子がこんなに照れるの、珍しい」
「お姉ちゃんまで言わないでよ」
「だって本当でしょ」
「もう」
悠斗が楽しそうに栄子を見る。
その視線だけでも、2人の距離がよく分かる。
優美は何も言わず、その様子を見ていた。
昼間、茜が言った通りである。
栄子は幸せそうだった。
姉から見ても、それははっきり分かった。
少しして、今度は悠斗が敬助へ言った。
「でも、これまでケイさんの話が妙に曖昧だった理由が少し分かりました」
「何の話だ?」
「村澤さんたちと知り合いだったこと、聞いたことなかったですから」
敬助が笑う。
「中崎も人のこと言えないだろ。彼女がいるって話、ずっと曖昧だったじゃないか」
「それは……まあ」
栄子が横から言う。
「悠斗、そういうところあるよ」
「栄子まで」
菜奈がすぐ食いつく。
「そうそう。ケイにいも優美さんのこと、全然ちゃんと話さないし」
敬助の眉が動く。
「何でここで俺に戻る」
「だって2人でハーバーランド行ったんでしょ?」
敬助と優美の動きが同時に止まる。
「菜奈!」
栄子がニヤッとする。
「そうそう。行ったんだよね」
「栄子まで!」
悠斗が敬助を見る。
「ケイさん」
「何だ」
「頑張ってください」
「何をだ!」
テーブルに笑いが広がった。
さっきまでのぎこちなさは、もうどこにもなかった。
しばらくして。
菜奈が5人を見回した。
「何か不思議だね」
栄子が聞く。
「何が?」
菜奈はまた指を折る。
「ケイにいと悠斗さんが会社で知り合いで」
「うん」
「優美さんと栄子さんが姉妹で」
「うん」
「私はケイにいの妹で」
「それは知ってる」
「栄子さんと悠斗さんが付き合ってて」
栄子が少し照れる。
菜奈は笑った。
「でも、今日で全部つながったんだね!」
一瞬。
全員が黙った。
そして。
優美が笑う。
「本当ですね」
悠斗も頷く。
「不思議ですね」
敬助が言う。
「世間は狭いってことだろ」
栄子が笑った。
「神戸が狭いのかも」
菜奈は満足そうに頷く。
「私は神戸を楽しみたかっただけなんだけど」
「結果的にお前が全部つないだな」
敬助が言う。
「じゃあ私、すごくない?」
「調子に乗るな」
また笑いが起きた。
◇
19時を少し過ぎた頃。
5人は店を出た。
空はすでに暗くなり始め、港の灯りが目立つようになっていた。
悠斗と栄子は駐車場方面。
敬助、優美、菜奈は駅方面へ向かう。
別れる前。
優美が栄子へ言った。
「今日は会えてよかった」
「私もびっくりした」
「悠斗さん、素敵な人ね」
栄子は少し照れながらも、素直に頷いた。
「……うん」
優美の表情が柔らかくなる。
「よかった」
栄子は姉を見る。
そして小さく笑った。
「お姉ちゃんも頑張ってね」
「何を?」
「さあ?」
「栄子」
栄子は笑いながら悠斗のほうへ行く。
今度は悠斗と敬助。
「じゃあ、また会社で」
「ああ。月曜な」
悠斗が一歩進みかけて、振り返った。
「ケイさん」
「何だ?」
「頑張ってください」
敬助が嫌な顔をする。
「だから何をだ」
「さあ」
「お前まで栄子さんみたいなこと言うな」
悠斗は笑って、栄子と一緒に駐車場へ向かった。
◇
水色のプジョーが港を離れる。
助手席の栄子は、しばらく窓の外を見ていた。
「びっくりしたね」
「ほんとにな」
悠斗が笑う。
「ケイさんが優美さんたちと知り合いだったとは思わなかった」
「私も。悠斗と敬助さんが同じ会社って知らなかった」
少し間。
栄子が笑う。
「でも、お姉ちゃん楽しそうだった」
「ケイさんと?」
「うん」
「そうだな」
「朝、めちゃくちゃおしゃれしてたんだよ」
「へえ」
「メイクもばっちり」
「それ、本人に言うなよ」
「もう言った」
悠斗が笑った。
「さすが妹」
「でしょ」
その日は、栄子を魚崎まで送ることになっていた。
夜には、栄子は自分の部屋へ戻る。
そして少し後。
別の少女から、忘れられない1日を報告するメッセージが届くことになる。
それは、この日のもう1つの物語である。
◇
一方。
駅へ向かう3人。
菜奈は今日撮った写真をスマートフォンで次々と見返していた。
「神戸、すっごく楽しかった!」
敬助が言う。
「それはよかったな」
優美も笑う。
「1日でかなり回りましたね」
「次は北野でしょ、六甲山でしょ、あと有馬温泉にも行きたい!」
敬助が呆れる。
「まだ俺たちを付き人に使うつもりか」
「もちろん」
「即答するな」
優美が笑いながら言う。
「次も案内しますよ」
敬助が優美を見る。
「優美さんまで甘やかさないでください」
「私も楽しかったので」
その言葉に、敬助が少しだけ黙る。
そして。
「じゃあ、また行きましょう」
「はい」
今度は優美の返事も早かった。
数歩前を菜奈が歩いている。
その後ろで、敬助と優美が自然に並ぶ。
菜奈は振り返らない。
ただ、写真を見ながら上機嫌に歩いている。
本人に恋の仲介をしているつもりなど、たぶんない。
自分が神戸を楽しみたかっただけ。
その結果として、人間同士の距離が勝手に縮まった。
そういうこともあるらしい。
◇
夜。
魚崎へ戻った優美と栄子は、朝と同じ家へ帰ってきた。
朝は、栄子が優美を送り出した。
夜には、それぞれ別の場所で過ごした1日を抱えて戻ってきた。
吾輩はいつもの場所から、ポピーの明かりが消えていくのを眺めていた。
人間は今日のことを「偶然」と呼ぶのだろう。
神戸を見て回った先で。
偶然、妹に会い。
偶然、同僚に会い。
偶然、その2人が恋人同士だった。
ずいぶん都合のいい偶然である。
だが吾輩からすれば違う。
あの5人は、少し前から何度も同じ場所の近くを歩いていた。
ただ、線が交わる場所まで来ていなかっただけだ。
この日。
優美。
敬助。
菜奈。
栄子。
悠斗。
5本の線は、ようやく1つにつながった。
人間なら、それを偶然と呼ぶ。
吾輩なら――。
「ようやく会ったか」
と言うところである。




