第23話 夏の終わりと、残っていたもの
吾輩はたま子である。
夏というものは不思議である。
始まったばかりの頃には、いつまでも続くように感じる。
蝉は朝から騒がしく、道路は焼け、日陰を探して歩くだけでもひと仕事だ。
ところが8月も終わりに近づくと、人間たちは急に「もう夏も終わりだ」と言い始める。
まだ暑い。
蝉も鳴いている。
空だって青い。
それでも人間には、暦というものがあるらしい。
そして恋にも、暦とは別の区切りがあるようだ。
昨日までと同じように見えていた関係が、ある1日を境に少しだけ違うものになる。
この日の出来事については、後になってポピーで交わされていた会話や、祐実が栄子に見せていたやり取りから吾輩が知った話も含まれている。
また、高梨友理奈の部屋で起きたことについては、もっと後になって彼女自身の口から語られたことをつなぎ合わせたものである。
猫とて、壁の向こうまで何もかも見えるわけではない。
◇
8月下旬。
夏休みも、もう残りわずかになっていた。
夜。
祐実は自宅のリビングでスマートフォンを握っていた。
ソファに横になりながら画面を見る。
鈴木玲士と付き合い始めてから、夏休みは思っていた以上に忙しかった。
玲士は午前中にバスケットボール部の練習があることが多い。
だから会えるのは午後から。
それでも時間が合えば、かなりの頻度で会っていた。
写真部の合宿で1泊2日、顔を見られなかった時には、自分でも驚くほど寂しかった。
そして数日前。
2人は初めてキスをした。
思い出すと、今でも少しだけ顔が熱くなる。
祐実はスマートフォンを操作した。
相手は栄子である。
――栄子さん、まだ起きてますか?
数十秒後。
――起きてるよー。
――どうしたの?
祐実は少し迷ってから入力する。
――明日、玲士先輩の家に行くことになりました。
すぐに返信。
――おお。
祐実は続ける。
――ご両親が朝から夜までいないそうです。
――晩ごはんも一緒に食べる予定です。
既読がつく。
だが、今度は少し返信が遅かった。
祐実は気にせず続けた。
――私がカレー作ります。
――料理は得意なので、それは大丈夫です(^^)
今度は、すぐに返ってきた。
――祐実ちゃん。
――はい?
数秒後。
――明日はカレーだけの心配をしてればいい日じゃないかもしれないよ。
祐実の指が止まった。
画面を見つめる。
最初は意味が分からなかった。
だが、数秒後。
顔が一気に赤くなる。
――え。
それだけ送るのが精一杯だった。
栄子から続けて届く。
――別に何かあるって決めつけてるわけじゃないよ。
――ただね。
祐実は画面をじっと見る。
――祐実ちゃんが「今日はここまで」って思ったら、それでいいんだからね。
祐実は少しだけ表情を真面目にした。
――玲士先輩は、無理に何かする人じゃないと思います。
――うん。
――祐実ちゃんが好きになった人なら、私もそう思う。
そこでもう1通。
――でも「いい人だから大丈夫」と「祐実ちゃんがどうしたいか」は別の話だから。
祐実はしばらく返信しなかった。
栄子の言葉は、祐実が思っていたより重かった。
好きだから。
付き合っているから。
相手が優しいから。
それだけで、何でも相手に合わせなければならないわけではない。
頭では分かっている。
けれど、いざ自分のこととなると、案外簡単ではないのだろう。
やがて祐実は入力した。
――分かりました。
――ありがとうございます。
すると栄子から、
――よし。
とだけ返ってきた。
祐実は少し笑った。
そして、ふと思い出す。
――そういえば、玲士先輩、辛いの苦手みたいなんです。
――甘口だと子供っぽいですか?
数秒後。
――そこはカレーの心配してていいよ。
祐実は吹き出した。
――じゃあ甘口と中辛を混ぜます。
――それが平和。
祐実はスマートフォンを胸の上に置いた。
明日のことを考える。
楽しみ。
緊張。
少し不安。
いろいろ混ざっている。
16歳というのは、なかなか忙しい年頃らしい。
◇
翌日の土曜日。
朝から空は晴れていた。
ポピーは7時から営業している。
祐実は午前中、玲士の家へ向かう前に店へ寄った。
ドアを開ける。
「いらっしゃいませ――あ、祐実ちゃん」
売り場にいた優美が笑う。
「こんにちは」
「今日は写真部?」
「今日は違います」
祐実は少しだけ歯切れが悪い。
優美は気づいたようだが、それ以上は聞かなかった。
奥の工房から栄子が顔を出す。
「祐実ちゃん」
「栄子さん」
目が合う。
栄子は一瞬だけ笑って、
「ちょっと待ってて」
と言って工房の奥へ戻った。
しばらくして、小さな紙袋を持って出てくる。
派手なものではない。
茶色の、ごく普通の紙袋である。
栄子はそれを祐実へ差し出した。
「はい」
祐実が目を丸くする。
「これ、何ですか?」
「一応ね」
「一応?」
「お守りみたいなものだからね」
祐実は紙袋を受け取った。
中を見ようとすると、栄子が軽く止める。
「ここで見なくていいよ」
祐実の頬が少し赤くなる。
「……はい」
栄子は声を少し落とした。
「使わなくてもいいから、持ってるだけでいいよ」
そして、昨日と同じことをもう一度言った。
「自分で『今日はここまで』って思ったら、それでいいからね」
祐実は紙袋を両手で持ったまま、しっかり頷いた。
「はい」
「よし」
栄子はいつもの笑顔に戻る。
「じゃあ、カレー頑張って」
「はい!」
その言葉には祐実も笑った。
優美は少し離れたところから2人の様子を見ていた。
何を渡したのかは聞かなかった。
村澤家には、本人が話さないことを無理に聞かないという、暗黙の習慣がある。
祐実は紙袋を鞄へしまった。
「じゃあ、行ってきます」
栄子が手を振る。
「いってらっしゃい」
店を出る祐実の背中は、来た時より少しだけ緊張して見えた。
◇
玲士の家では、予定通り2人で過ごした。
昼過ぎに祐実が到着し、少し話をして、テレビを見て。
夕方になると祐実がキッチンへ立った。
「本当に作るんだ」
玲士が言う。
祐実はエプロンをつけながら振り返る。
「言ったじゃないですか。カレーなら自信あります」
「手伝う」
「じゃあ玉ねぎお願いします」
「俺?」
「先輩しかいないですよ」
「分かった」
玲士は包丁を持つ。
数分後。
祐実が横から見る。
「大きいです」
「え?」
「玉ねぎ」
「これくらいじゃない?」
「大きいです」
「厳しいな」
「料理は妥協しません」
「写真より厳しくない?」
「写真も妥協しません」
玲士が笑う。
祐実も笑う。
カレーの匂いが部屋に広がる。
何でもない時間。
誰かの家で、一緒に料理をする。
それだけなのに、祐実には少し特別だった。
夕食の時間。
玲士が一口食べる。
祐実は黙って反応を見る。
「うまい」
その一言で、祐実の顔が明るくなる。
「ほんとですか?」
「うん。辛さもちょうどいい」
「甘口と中辛、混ぜました」
「研究した?」
「昨日相談しました」
「誰に?」
「秘密です」
玲士は笑った。
祐実も笑う。
夏休み終盤の、長い1日だった。
その日のことを祐実が後に詳しく話したわけではない。
吾輩が知っているのは、ここまでである。
ただ。
祐実にとって、忘れられない日になったことだけは確からしい。
◇
夜9時すぎ。
栄子は自分の部屋で寝る準備をしていた。
淡いピンクのキャミソールに、グレーの短い部屋着。
髪を乾かし終え、ベッドへ腰を下ろす。
スマートフォンを充電器につなごうとした時、LINEの通知が鳴った。
祐実からだった。
栄子は画面を開く。
――今日は紙袋ありがとうございました。
続けて、もう1通。
――一生忘れられない一日になりました。(^^)v
栄子はしばらく画面を見た。
そして、ふっと笑った。
何があったのか。
どこまで進んだのか。
それを確かめるようなことはしなかった。
祐実にとって大切な1日だった。
それで十分だった。
栄子は返信する。
――おめでとう❗️
そして、もう1通。
――今日はつかれたでしょう。ゆっくり休んでね。☆
少しして返ってきた。
――はい(^^)
――おやすみなさい☆
栄子も返す。
――おやすみー☆
スマートフォンを枕元へ置く。
「……青春だねえ」
小さく呟いて、栄子は布団へ入った。
新しい思い出が1つ増えた夜だった。
◇
その頃。
ある少女が、今日という日の余韻を抱えて眠ろうとしていた頃。
別の場所では、1人の女が古い時間を掘り返していた。
高梨友理奈である。
友理奈は自宅の一室で、古いファイルを整理していた。
仕事関係の書類。
レッドドロップスの過去資料。
ハウンドドッグ立ち上げ時の紙資料。
契約書の控え。
店舗関連の古いファイル。
父の高梨一から、
「いらないものは分けておいてくれ」
と言われたのが始まりだった。
友理奈は床にファイルを並べ、
「保存」
「処分」
「確認」
と機械的に分けていた。
仕事となれば、友理奈はきっちりしている。
面倒な作業でも途中で投げるタイプではない。
「これ古すぎ……」
ファイルを1冊抜く。
埃が少し舞う。
「もう電子化してるでしょ、これ」
ぶつぶつ言いながら棚の奥へ手を伸ばす。
すると、仕事のファイルとは明らかに違う箱が出てきた。
「……何これ」
蓋を開ける。
学生時代のノート。
古い手帳。
昔使っていた雑貨。
そして、その間から数枚の写真が滑り落ちた。
床に落ちた写真を拾う。
友理奈の手が止まる。
そこに写っていたのは、自分と悠斗だった。
今より少し若い悠斗。
隣で笑っている友理奈。
2人で出かけた時の写真。
車の前。
カフェ。
どこかの展望台。
何でもない道端。
友理奈は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく呟く。
「……懐かしい」
写真を1枚ずつ見る。
悠斗の顔。
自分の顔。
その距離。
今見れば、驚くほど近い。
当時は、それが普通だった。
友理奈は写真をまとめようとした。
その時。
箱の底に、もう1つ何かあるのが見えた。
分厚いアルバム。
「……まだあったんだ」
手に取る。
少し迷う。
そして開いた。
1ページ目。
友人たちと撮った写真。
次のページ。
悠斗。
さらに次。
また悠斗。
めくる。
悠斗。
まためくる。
悠斗。
友理奈は思わず苦笑した。
「こんなに撮ってたっけ……」
特別な日の写真ばかりではない。
むしろ、どうでもいい写真のほうが多かった。
コンビニで飲み物を選んでいる悠斗。
助手席で眠そうにしている悠斗。
カフェでスマートフォンを見ている悠斗。
信号待ちでこちらを見た瞬間。
友理奈が勝手に撮ったらしく、少し嫌そうな顔をしている写真。
「何これ」
笑いながら、次のページをめくる。
そこには2人で並んで笑っている写真があった。
友理奈の笑顔が止まる。
ハーバーランドのフードコート。
つい最近見た光景が頭に浮かぶ。
悠斗。
その向かいに座っていた栄子。
自然に話して。
自然に笑って。
そして悠斗が言った。
「栄子。俺の彼女」
友理奈はアルバムへ視線を戻す。
写真の中では、自分がその位置にいる。
自分が悠斗の隣にいる。
昔はそれが普通だった。
「……昔の知り合い、か」
悠斗が自分を紹介した言葉。
間違ってはいない。
確かに今は、昔の知り合いだ。
ただ。
このアルバムを見る限り、自分にとって悠斗は、それだけで片づけられる相手ではなかった。
友理奈はページを閉じかける。
その時、スマートフォンが鳴った。
メッセージ。
男からだった。
――今日どう?
友理奈は画面を見る。
返さない。
少しして、別の通知。
別の男。
――久しぶり。
――今から会える?
友理奈は画面を伏せた。
男がいないわけではない。
むしろ逆だった。
会おうと思えば会える。
連絡すれば来る男もいる。
寂しい夜だけ一緒に過ごすような相手なら、何人かいる。
体だけの関係。
面倒なことを考えなくていい関係。
それはそれで楽だった。
相手も同じように割り切っている。
だから問題はない。
そう思っていた。
友理奈はアルバムをもう一度開く。
写真の中の自分は、今よりずっと無防備に笑っている。
「……何やってるんだろ、私」
今、自分の周りにいる男たちの顔を思い浮かべる。
誰かに弱音を吐いたことがあるか。
仕事で失敗した時、真っ先に声を聞きたいと思ったことがあるか。
何もない休日に、ただ一緒にいたいと思ったことがあるか。
答えは、どれも違った。
男はいる。
でも。
この人なら何でも話せる。
この人の前なら、格好をつけなくてもいい。
この人になら、弱いところを見せてもいい。
本気で愛したい。
そう思える男は――。
今の友理奈には、1人もいなかった。
友理奈は写真に指を置く。
「……昔は、いたのに」
その言葉が、自分で思った以上に重かった。
今までの生き方を全部否定する気はない。
楽しい時もあった。
誰かと遊び。
誰かと飲み。
誰かと夜を過ごした。
それが嫌だったわけではない。
なのに。
古いアルバムを開いただけで、それらが急に軽く見える。
心を満たすものとは、少し違ったのだと気づいてしまう。
「……最悪」
友理奈は顔をしかめた。
涙は出ない。
むしろ腹が立つ。
何で今さら。
何で悠斗なのか。
何で、あんな若い女と一緒にいるところを見たあとに、こんなものが出てくるのか。
頭に栄子の顔が浮かぶ。
明るい。
若い。
パン職人。
ハウンドドッグのホットドッグを素直に「美味しい」と言った。
悠斗の過去を聞いても、騒ぎ立てるような女ではなかった。
それも気に入らない。
嫌な女なら、嫌えばいい。
でも栄子は、今のところ友理奈に何もしていない。
「……あの子が悪いわけじゃない」
友理奈は独り言のように言った。
そのことくらい、自分でも分かっている。
それでも。
「何で、あの子なんだろ」
アルバムを閉じる。
少しして、また開く。
自分でも呆れる。
スマートフォンに手を伸ばす。
悠斗とのメッセージ画面を開く。
最後のやり取り。
自分が食事へ誘い。
悠斗が、
――2人ではやめておこう。今、彼女いるし。
と返したもの。
友理奈は入力欄を開いた。
何か打とうとする。
だが、何も書かない。
そのまま画面を閉じた。
まだ何かをするつもりはなかった。
ただ。
気になることが1つ増えた。
――あの子は、私のことをどこまで知ってるんだろ。
悠斗は、栄子に何を話しているのか。
自分とのことを、どこまで。
友理奈はアルバムを見下ろした。
そこには「昔の知り合い」の一言では収まらない時間が残っている。
やがて廊下の向こうから父の声がした。
「友理奈、まだやってるのか?」
友理奈は反射的にアルバムを閉じた。
「やってる!」
「別に今日中じゃなくてもいいぞ」
「分かってるって!」
足音が遠ざかる。
友理奈はしばらく黙っていた。
仕事のファイルを見る。
保存。
処分。
確認。
きれいに分けられている。
だが、このアルバムだけは、どこにも置けなかった。
処分する気にもならない。
元の箱へ戻す気にもならない。
結局、友理奈はアルバムを抱えて立ち上がった。
自分の部屋へ持っていく。
整理をしていたはずなのに。
昔の恋だけは、整理できなかった。
◇
その夜。
祐実は、今日という新しい思い出を胸に眠った。
友理奈は、何年も前の古い思い出をベッドの横へ置いた。
片方は、今日ひとつ思い出を増やした。
片方は、忘れていた思い出を掘り起こした。
祐実は、これから誰かをもっと信じていく途中にいる。
友理奈は、昔心から信じられた相手を失ったあと、自分がまだ同じ場所まで戻れていないことに気づいた。
人間の恋というものは、妙である。
友理奈の周りに男がいないわけではない。
ただ、彼女が本当に欲しかったのは、男そのものではなかったのだろう。
くだらない話をして。
何でもないことで笑って。
弱いところも見せられて。
何も起きない時間まで一緒にいたいと思える相手。
昔のアルバムの中には、それがいた。
今はいない。
その現実は、友理奈が思っていたより、ずっと気分の悪いものだったらしい。
夏は、もうすぐ終わる。
けれど。
終わったはずの恋だけが、季節に逆らうように、静かに息を吹き返し始めていた。




