第22話 妹が近すぎる
吾輩はたま子である。
猫には縄張りというものがある。
安心して眠れる場所。
誰にも邪魔されたくない場所。
お気に入りの匂いが染みついた場所。
人間にも、それに近いものがあるらしい。
例えば、一人暮らしの部屋である。
好きな時間に帰り、
好きなようにくつろぎ、
誰にも何も言われない。
そういう自由は、なかなか貴重なものだ。
では、そんな男の部屋へ、
ある日突然、妹が大荷物を抱えて転がり込んできたらどうなるのか。
それでもなお、一人暮らしと言えるのか。
吾輩には分からない。
少なくとも長谷川敬助は、
この日から、その答えを考えざるを得なくなったらしい。
◇
水曜日の夕方。
仕事を終えた敬助は、いつものように魚崎南ライフガーデンへ戻ってきた。
エントランスをくぐろうとした、その時だった。
見慣れた顔が、建物の前で大きく手を振っている。
「ケイにーい!」
敬助の足が止まる。
「……菜奈?」
長谷川菜奈は、キャリーケースの持ち手に片手をかけ、もう片方の手をぶんぶん振っていた。
その足元には、ボストンバッグ、紙袋、段ボールがいくつも積まれている。
どう見ても、ちょっと寄っただけの荷物ではない。
敬助は数秒、黙ってそれを見た。
そして、ようやく口を開く。
「何してる」
菜奈は笑顔で言った。
「引っ越し」
「誰が」
「私が」
「どこへ」
菜奈は、敬助の顔を見て、にっこり笑った。
「ケイにいの部屋」
敬助は固まった。
「…………は?」
「だから、今日からよろしくね、ケイにい」
「待て待て待て待て」
敬助は片手を前に出して、菜奈を止めた。
「何一つ聞いてないぞ」
菜奈はきょとんとする。
「え?」
「『え?』じゃない。何だその荷物は。本当に何だその状況は」
「見ての通りだよ」
「見ても分からん!」
菜奈は少しだけ不満そうに頬を膨らませた。
「昨日、ちゃんと送ったよ?」
「何を」
「メッセージ」
菜奈はスマートフォンを取り出し、画面を見せる。
――明日そっちに行くね!
敬助はそれを見て、深いため息をついた。
「普通は遊びに来ると思うだろ」
「確認しなかったケイにいが悪い」
「そういう問題じゃない」
「細かい男はモテないよ?」
「今それを言うな」
いつもならここで、菜奈はもっと調子よく笑う。
だが今日は、その笑顔の奥に少しだけ疲れが見えた。
敬助はようやく、妹の顔をまともに見る。
「……何かあったのか」
菜奈は一瞬だけ目を逸らした。
さっきまでの勢いが、少しだけしぼむ。
敬助はそこで、ようやくただごとではないのだと気づいた。
「菜奈」
呼ばれて、菜奈が小さく息を吐く。
「前のマンション、もう無理なの」
敬助の表情が変わった。
「無理って、何があった」
「最近、近所で気味悪いことが続いててさ」
「気味悪いこと?」
菜奈は荷物の取っ手を握り直した。
「女の人を狙った変な騒ぎが続いてるの。帰り道で後つけられたとか、ベランダ荒らされたとか、下着泥棒とか」
敬助の眉が寄る。
「……お前は?」
菜奈は少しだけ口を尖らせた。
「盗まれた」
「何を」
「下着。何枚か」
敬助の目が鋭くなる。
「警察には?」
「言ったよ。でも犯人はまだ捕まってないし、管理会社も『気をつけてください』って感じで」
「それで?」
「最初は我慢しようと思ったんだけど……」
菜奈は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「夜に帰るの、ちょっと怖くなっちゃって」
いつも明るくて、強気で、敬助にも遠慮なく噛みつく妹が、
その言葉だけは少し小さかった。
敬助はしばらく黙る。
菜奈は言い訳するように続けた。
「ちょうど職場も西宮ガーデンズに変わったし。東大阪にいる意味、あんまりなくなったし」
「……実家に戻ればよかっただろ」
「川西?」
「そうだ」
菜奈は即答した。
「嫌」
「こういう時くらい我慢しろ」
「今さら実家暮らしなんてもっと無理」
「だったら西宮に住めば」
「それも考えた」
「じゃあ何で」
菜奈は、そこで初めて少しだけ照れたような顔をした。
「……ケイにいのところが、一番安心するんだもん」
敬助は口を閉ざした。
そう言われると弱い。
兄というのは、そういう生き物らしい。
数秒後、敬助は観念したように鍵を取り出した。
「……とりあえず入れ」
菜奈の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!?」
「ただし」
「何?」
「『今日から住む』を正式に認めたわけじゃないからな」
菜奈は平然と言った。
「でも、前の部屋はもう引き払う方向で動いてるよ?」
「先に言え!」
◇
敬助の部屋は2LDKだった。
一室は物置のようになっている。
本、雑誌、季節家電、使っていない棚、段ボール。
菜奈はその部屋を開けて、満足そうに頷いた。
「うん。ここ、私の部屋にできる」
「できる、じゃない。物置だ」
「片付ければ部屋だよ」
「理屈としてはそうだな」
「じゃあ問題なし」
「問題だらけだ」
荷物を運び入れながら、菜奈は部屋の中をきょろきょろ見回す。
敬助は大きな段ボールを抱えたまま、ため息をついた。
「それ、こっち」
「これは?」
「ベッドまわりのやつ」
「やつ、で分かるか」
「分かって」
「無茶を言うな」
菜奈はすでに、そこへ自分の生活を広げる気満々だった。
クッション。
小さなスタンドライト。
観葉植物。
花柄の収納ボックス。
淡い色のブランケット。
殺風景だった敬助の部屋に、急に柔らかい色が混ざり始める。
「お前、本当に長期戦の荷物だな」
「必要最低限だよ?」
「どこがだ」
「女の子は荷物多いの」
「便利な言い訳だな」
「ケイにい、そういうこと言うとモテないよ」
「今日はその台詞を何回使う気だ」
「使えるうちは何回でも」
やり取りはいつもの調子だ。
けれど敬助は、さっき菜奈が怖そうにしていた顔をまだ忘れていなかった。
ベランダ側のカーテンに視線を向けながら、敬助は言う。
「……下着は外に干すなよ」
菜奈は一瞬だけ手を止めた。
そして、いつもよりずっと素直に答える。
「うん。もう外には干さない」
その返事を聞いて、敬助はあらためて思う。
本当に嫌な思いをしたのだろう。
だから、追い返す気にはなれなかった。
「あと、夜遅くに1人で歩くな」
「うん」
「帰りが遅くなる時は連絡しろ」
「うん」
「……返事がいいと逆に不気味だな」
菜奈はむっとする。
「何それ」
「いつもなら一回は文句を言うだろ」
「今日は引っ越しで疲れてるの」
「それならいい」
「でも」
菜奈はすぐに笑顔へ戻った。
「やっぱりケイにいが近くにいると便利だね」
「そこで元に戻るな」
「重い荷物持ってくれるし」
「今日だけだ」
「虫が出たら助けてくれるし」
「それは自分で何とかしろ」
「無理」
「知らん」
「電球切れたら」
「自分で替えろ」
「届かなかったら?」
「台を使え」
「それでも怖かったら?」
「……呼べ」
「やった」
「勝手に喜ぶな」
◇
どうにかこうにか荷物を部屋の中へ入れ終えた頃には、外はもうだいぶ赤くなっていた。
菜奈は床へぺたんと座り込む。
「疲れたー……」
敬助も壁に背を預ける。
「俺の台詞だ」
「お腹空いた」
「奇遇だな、俺もだ」
菜奈は顔を上げる。
「何か食べに行く?」
「台所はまだ使える状態じゃないしな」
「じゃあ買いに行こう」
敬助が立ち上がると、菜奈もすぐ立つ。
「ポピー行こ」
敬助の動きが少しだけ止まった。
「……ポピー?」
「近いし、パン美味しいし」
「まあ、そうだな」
菜奈はにやっとする。
「それに、優美さんにも挨拶したいし」
「何でだ」
「今日からお世話になりますって」
「お前は別に村澤さんの世話にはならんだろ」
「分かんないじゃん」
「何がだ」
「近所づきあいは大事だから」
敬助は嫌な予感しかしなかったが、
菜奈を一人で部屋に置いていくのも落ち着かない。
「……変なこと言うなよ」
「変なことって?」
「お前がその顔する時は大体ろくなことを考えてない」
「ひどい」
「事実だ」
2人は部屋を出た。
◇
夕方のポピーは、昼間の慌ただしさを少し脱いで、やわらかな空気に包まれていた。
宮本茜はすでに仕事を終えて帰宅している。
売り場にいるのは優美。
栄子は奥の工房で翌日の仕込みをしていた。
吾輩は店先の日陰から、その様子を眺めていた。
ドアが開く。
「いらっしゃいませ――」
優美が顔を上げる。
「あ、敬助さん」
その後ろの菜奈を見て、目を丸くした。
「菜奈さんも。こんばんは」
菜奈が明るく手を上げる。
「こんばんは、優美さん!」
そのまま、いかにも菜奈らしい勢いで続けた。
「報告があります!」
「報告?」
「私、今日からケイにいのところに住むことになりました!」
優美が瞬きをする。
「えっ?」
敬助がすぐに口を挟む。
「『なりました』じゃない。ほぼ押しかけです」
「でも入れてくれたよ?」
「事情が事情だからだ」
優美の表情が少し真面目になる。
「何かあったんですか?」
菜奈は少しだけ肩をすくめた。
「前に住んでたところ、最近ちょっと物騒で」
優美が心配そうに見る。
「物騒?」
「下着泥棒とか不審者とか、いろいろ続いてて……私も何枚か盗まれちゃって」
優美の顔色が変わった。
「それは怖かったですね……」
「はい。だから逃げてきました」
菜奈はそう言ったあと、少しだけ笑う。
「ついでに職場も西宮ガーデンズに変わったので、東大阪にいる意味も薄くなったし」
敬助が補足する。
「実家は川西なんですけど、戻るのは嫌らしくて」
「今さら実家は無理です」
菜奈がきっぱり言う。
優美はふっと笑った。
「なるほど」
「だからケイにいのところが一番安全かなって」
「安全というか……警備員扱いされてる気がしますけど」
「守ってくれるんでしょ?」
「まあ……守りますけど」
優美は、その返事に少しだけ目を細めた。
普段から真面目な人だとは思っていたが、
こういう場面では、ますます敬助らしさが出る。
菜奈はパンを見ながら続けた。
「優美さん、どれがおすすめですか?」
「今日は塩パンと、あとこの時間ならチーズの入ったやつも人気ですね」
「じゃあそれと、それと……あ、これも」
「買いすぎじゃないか」
「引っ越し祝い」
「誰が祝うんだ」
「私が」
◇
工房では、栄子が作業の手を動かしながら売り場の声を聞いていた。
最初は、ただ菜奈が来たのだと思っていた。
けれど途中で、
――下着を盗まれた
という言葉が耳に入って、手が少し止まる。
「……それは嫌だよね」
小さく呟いてから、栄子は再び作業を進めた。
しばらく様子を見る。
菜奈と優美の会話は、思っていたより自然だった。
そして敬助は、妹に振り回されながらも、やはりしっかり面倒を見ている。
栄子は、作業がひと区切りついたところで手を洗った。
売り場へ出る。
「こんばんは」
菜奈が振り向く。
「あ、栄子さん!」
栄子は笑った。
「菜奈ちゃん、大変だったね」
「はい……ちょっと本気で嫌になっちゃって」
「それなら敬助さんのところのほうが安心だよ」
敬助が苦笑する。
「まあ、そうなんですけどね」
栄子がすぐに突っ込む。
「何、その不満そうな顔」
「家の中が急に狭くなった気がして」
「まだ荷物置いただけじゃん!」
菜奈がすぐ反論する。
「その荷物が多いんだよ」
「必要最低限!」
「どこがだ」
「女の子の必要最低限を分かってない」
「一生分かる気がしないな」
栄子はその兄妹のやり取りを見て、くすっと笑った。
「仲いいねえ」
「よく言われます」
菜奈が即答する。
敬助も即答した。
「言われたくありません」
そのタイミングで、優美が何気なく言った。
「そういえば敬助さん、この前はありがとうございました」
菜奈の手が止まる。
「この前?」
敬助が嫌な顔をした。
優美は特に隠すこともなく言う。
「日曜日にハーバーランドへ行ったんです」
菜奈が敬助を見る。
「誰と?」
優美が少し笑う。
「敬助さんと」
菜奈の目が細くなる。
「……2人で?」
「まあ」
敬助は短く答えた。
次の瞬間、菜奈がぱっと声を上げる。
「デートじゃん!」
「声が大きい!」
敬助が慌てる。
優美は少し照れたように笑う。
「普通に出かけただけですよ」
「2人でハーバーランドに?」
「はい」
「それを普通はデートって言うんですよ、優美さん」
「そうなんですか?」
「そうです」
栄子がすぐに乗ってきた。
「へえー」
優美がむっとする。
「その顔やめて」
「私、何も言ってないよ?」
「顔が言ってる」
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃない」
敬助は頭を抱える。
菜奈、栄子、優美。
どうやらこの場に自分の味方はいないらしい。
◇
そのまま話は、菜奈の新生活へ戻っていった。
「でも、せっかく神戸に来たんだから」
菜奈がパンのトレーを持ったまま言う。
「ちゃんと神戸を見て回りたいんですよね」
優美が頷く。
「東大阪に住んでいたなら、遊びに来たことはありますよね?」
「有名なところを少しだけです」
菜奈は身を乗り出した。
「魚崎に住むことになったのに、神戸のこと何も知らないのも悔しいし」
「それは確かに」
「優美さん、詳しいですよね?」
「まあ、地元ですから」
菜奈は目を輝かせた。
「案内してください!」
敬助が横から止める。
「お前、いきなり何頼んでるんだ」
「だってケイにいより優美さんのほうが詳しそう」
敬助は黙る。
否定しきれないのが悔しい。
優美は少し考えた。
「次の土曜日なら……」
そう言いかけて、売り場を見回す。
土曜日はポピーの営業日だ。
昼過ぎには落ち着くとはいえ、優美が抜けるとなると気になるところもある。
その視線の先を読んだように、栄子が言った。
「いいよ、お姉ちゃん。行ってきたら?」
優美が驚く。
「でも土曜日だよ?」
「大丈夫」
「でも、私が抜けたら」
「いつも私が出かける時は、お姉ちゃんが留守を見てくれてるじゃん」
栄子は柔らかく笑った。
「次は私に任せて、行ってきてよ」
優美は少し迷う。
栄子はさらに続ける。
「茜さんがいる時間帯までなら回せるし、閉店後も私がちゃんとやるから」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「……じゃあ、お願いしようかな」
菜奈が嬉しそうに両手を上げる。
「やった!」
栄子はそんな菜奈を見て笑い、次に敬助を見る。
「というわけで、敬助さんもよろしくね」
敬助が眉を上げる。
「俺も確定なんですか?」
菜奈が当然の顔で言う。
「当然」
「何でだ」
「私1人じゃ心細いし」
「さっきまでの勢いは何だった」
「それと、荷物持ち」
「本音が出たな」
優美が小さく笑う。
「3人で行きましょう」
敬助はその一言に、少しだけ表情を緩めた。
「……分かりました」
菜奈が満足そうに頷く。
「決まり!」
◇
会計を済ませる間、
栄子はそっと優美の横へ寄った。
声を潜める。
「よかったね、お姉ちゃん」
優美が眉をひそめる。
「何が?」
「次のデート」
「3人だからデートじゃないでしょ」
「でも敬助さんも一緒じゃん」
「菜奈さんの神戸案内」
「はいはい」
「栄子」
「何も言ってませーん」
栄子はにやにやしながら工房へ戻っていく。
優美は小さくため息をついたが、口元は少しだけ緩んでいた。
◇
ポピーを出ると、夕方の風は少しだけ涼しくなっていた。
菜奈はパンの袋を抱えて歩く。
「楽しみだなあ、神戸案内」
「まだ数日あるぞ」
「どこ連れてってくれるかな」
「お前が頼んだんだから、自分でも少しは調べろ」
「じゃあケイにいが調べて」
「俺に振るな」
「優美さんに全部お任せも悪いし」
「そこだけはまともなこと言うな」
菜奈は横から兄の顔を覗き込む。
「でもよかったね」
「何が」
「また優美さんと出かけられる」
敬助は無言になる。
菜奈がにやっとする。
「今度は私もいるけど」
「それが最大の問題だ」
「ひどっ!」
「事実だ」
「じゃあ当日、ずっと優美さんと腕組んで歩こ」
「やめろ」
「何で?」
「何でもだ」
「分かりやすーい」
敬助は顔をしかめる。
菜奈は声を上げて笑った。
少し前まで不安そうにしていたのが嘘みたいだった。
その笑い声を聞いて、敬助も少しだけ肩の力を抜く。
部屋に知らない誰かがいるわけじゃない。
いるのは、昔から知っている妹だ。
騒がしい。
勝手だ。
人の話を聞かない。
それでも、帰ってきた時に一人で怖がっているよりは、ずっといい。
◇
その夜。
敬助はようやくソファに腰を下ろした。
静かな部屋――ではない。
隣の部屋から、荷物を開ける音がする。
ガサガサ。
コトン。
「これどこ置こう……」
という独り言まで聞こえる。
そして数分後、スマートフォンが鳴った。
菜奈からだった。
――ドライヤー、どの箱に入れたか分かんなくなった
敬助は画面を見る。
すぐにもう一通。
――貸して
敬助は天井を仰ぐ。
インターホンが鳴る。
「ケイにーい!」
敬助は目を閉じた。
こうして、長谷川敬助の静かな一人暮らしは終わった。
正確には、まだ一人暮らしなのかもしれない。
だが、部屋の向こうに妹がいる。
玄関には見慣れない靴が増え、
洗面所には化粧品が並び、
冷蔵庫には女の名前入りのプリンが入ることになるだろう。
それを一人暮らしと呼ぶかどうかは、吾輩には分からない。
ただ一つ言えるのは、
次の土曜日、長谷川兄妹と優美の3人で神戸を歩くことが決まったということだ。
案内役は優美。
同行者は敬助。
そして店を守るのは栄子。
少なくとも、今の予定ではそうなっている。
人間は予定を立てるのが好きである。
だが、予定通りにいかないからこそ、
吾輩の観察にも多少の価値があるというものだ。




