第20話 蚊帳の外のパセリ
第20話 蚊帳の外のパセリ
吾輩はたま子である。
人間というものは、自分が主役だと思って出かけたはずなのに、気づけば脇役になっていることがあるらしい。
猫の世界では、そういうことはあまりない。
この辺りのボスは吾輩。
それ以外は、それ以外である。
実に分かりやすい。
ところが周防祐介という男は、この日、自分が主役なのか、付き添いなのか、それとも本当に料理の隅に添えられたパセリなのか、最後までよく分からない1日を過ごすことになる。
なお、この日の三宮で起きたことについては、後日の猫会議で集まった話と、本人たちがポピーで交わしていた会話を合わせたものである。
人間は秘密にしているつもりでも、意外と後から自分でしゃべる。
特に妹という生き物は、兄の失敗をよく覚えているらしい。
◇
土曜日。
まだ夏の日差しが本気を出す前の早朝から、ポピーの工房では栄子がパンを焼いていた。
土曜日の営業は14時まで。
いつもなら栄子も閉店まで店にいるのだが、この日は少し事情が違う。
朝の焼き上げを早めに終え、追加で必要になる分まである程度準備してから、あとは優美と茜へ任せることになっていた。
「栄子、もう大丈夫だから行ってきなよ」
売り場から優美が声をかける。
「でも、まだあれが――」
「それは私がやる。茜さんもいるし」
「ほんとに?」
「せっかく誘ってもらったんでしょ?」
栄子は一瞬だけ目を丸くした。
「まあ、そうだけど」
優美は笑う。
「じゃあ行ってらっしゃい」
「うん。ありがと、お姉ちゃん」
栄子は手早く着替えを済ませ、店を出た。
吾輩は店先の日陰からその背中を見送った。
土曜の朝からずいぶん機嫌がいい。
人間というものは、遊びに行くとなると仕事の手まで速くなるらしい。
◇
一方、その頃。
三宮の神戸国際会館前には、待ち合わせ時刻より30分も早く到着した男が1人立っていた。
周防祐介である。
スマートフォンを見る。
まだ早い。
周囲を見る。
当然、誰も来ていない。
もう一度スマートフォンを見る。
やはり時間はほとんど進んでいない。
「……早すぎたか」
本人もようやく気づいたらしい。
そこへ背後から声がした。
「早っ」
祐介の肩が跳ねた。
振り返ると、祐実が立っている。
「何だ、お前か」
「何だとは何よ。待ち合わせ30分前なんだけど」
「たまたま早く着いただけだ」
「へえ」
祐実は兄の服装を上から下まで眺めた。
いつもの休日より、少しだけきちんとしている。
髪も妙に整っている。
「気合い入ってるね」
「何が」
「別にー」
祐実はニヤニヤする。
「栄子さん、まだかなあ」
「お前、分かって言ってるだろ」
「何のこと?」
「……もういい」
祐介は顔を背けた。
祐実はそんな兄を横目で見る。
兄が栄子を好きなのは、ずいぶん前から分かっている。
そして、その兄が誘いのメッセージ1つ送るのに何日も悩んでいたことも知っている。
祐実は兄を嫌っているわけではない。
むしろ好きである。
優しくて、普段は頼りになって、妹から見ても格好いい兄だと思っている。
だからこそ、好きな女性の前だけで妙にウジウジする姿が気に入らない。
――私のお兄ちゃんなんだから、もうちょっとシャキッとすればいいのに。
祐実がそう思っているところへ、聞き慣れた声が飛んできた。
「お待たせー!」
2人が振り返る。
栄子だった。
夏らしい軽い私服で、こちらへ小走りに近づいてくる。
「ごめん、待った?」
祐介は反射的に答えた。
「い、いえ! 今来たところです!」
「30分前からいたよ」
「祐実!」
栄子が吹き出した。
「そんなに早く来てたの?」
「違います。こいつが余計なことを――」
「楽しみにしてくれてたんだね」
栄子が笑う。
祐介の顔が一気に赤くなった。
祐実は横でため息をつく。
先が思いやられる。
◇
最初の目的は映画だった。
神戸国際会館の中へ入り、上映時間まで少し話しながら待つ。
祐介としては、ここまでは悪くない。
問題は座席である。
3人が横並びで席へ向かい、祐実が何も考えず最初の席へ座った。
その横へ栄子が座る。
残った席へ祐介。
並びは、
栄子、祐実、祐介。
祐介は座ってから数秒間、無言だった。
祐実が気づく。
「何?」
「いや」
「栄子さんの隣がよかった?」
「映画始まるぞ」
まだ始まっていない。
祐実は口元を押さえた。
兄は分かりやすすぎる。
上映中、祐実の右側では祐介が映画を見ている。
左側では栄子も映画を見ている。
祐実はふと思った。
――私、邪魔?
だが次の瞬間には、
――いや、お兄ちゃんが自分で何とかしなさいよ。
と思い直した。
妹が席順まで世話を焼かなければ進まない恋など、先がない。
そういうところだけは、祐実も厳しい。
◇
映画が終わると、3人は近くで昼食を取ることにした。
席へ案内される際、今度こそ祐介は少しだけ頑張った。
栄子の向かい側へ先に座る。
祐実は何も言わず、その横へ座った。
注文を済ませると、栄子が楽しそうに笑った。
「面白かったねー」
「はい」
祐介も笑う。
「祐介くん、映画よく見るの?」
「たまにです。こういうのは結構好きで」
「そうなんだ。誘ってくれてありがとね」
「え?」
「今日。楽しいよ」
その一言だけで、祐介の表情が一気に明るくなる。
祐実は水を飲みながらそれを見た。
「……安い」
「何が」
「別に」
「今日それ多くないか?」
栄子は2人を見比べて笑った。
「ほんと仲いいね、2人とも」
「どこが」
祐介が即答する。
祐実も負けない。
「仲良くないよねー?」
「お前がいちいち絡んでくるからだろ」
「だって面白いんだもん」
「人を玩具にするな」
「でも私、お兄ちゃんのこと好きだよ?」
突然そう言われ、祐介が止まった。
「……急に何だよ」
「だから、もうちょっとシャキッとしてほしいだけ」
「何の話だ」
「さあ?」
栄子はよく分からないまま、楽しそうに2人を眺めていた。
◇
昼食の後はショッピングである。
服を見て。
雑貨を見て。
祐実が写真用品の小物を見つければ足を止め。
栄子がパン作りに使えそうな器具を見つければ、今度はそちらを見る。
祐介も最初はそれなりに会話へ入っていた。
だが女性2人の買い物というものは、男1人が想像するよりずっと行き先が変わるらしい。
「次、あっち見よう」
祐実が指を差す。
栄子も頷いた。
「いいね」
祐介も何となく2人についていく。
そして、ある店の前で足が止まった。
女性用のランジェリーショップである。
栄子は特に迷う様子もなく店へ入ろうとした。
祐実も普通についていく。
祐介だけが入口の前で停止した。
祐実が振り返る。
「お兄ちゃん、何してるの?」
「俺はここで待ってる」
「え? 一緒に来れば?」
「行けるわけないだろ!」
祐介の声が少し大きくなった。
近くを歩いていた女性が振り返る。
祐介はさらに気まずそうな顔になる。
祐実は面白そうに笑った。
「何で? 別に食べられないよ」
「そういう問題じゃない!」
栄子も店の入口から顔を出した。
「祐介くん、別に入ってきてもいいよ?」
「い、いえ! 俺はここで待ってます!」
「そう?」
栄子は本当に何とも思っていない様子で、祐実と店内へ入っていった。
残された祐介。
入口の横でスマートフォンを取り出す。
特に見るものはない。
だが画面を見ているふりをする。
店へ入っていく女性客。
店から出てくる女性客。
そのたびに、自分が妙に場違いな存在に思えてくる。
以前、妹からパセリと呼ばれた男は、この瞬間、その意味を最も深く理解した。
料理の中へ入ることもできず。
かといって完全に捨てられるわけでもなく。
ただ外に添えられている。
まさにパセリである。
◇
店内では、祐実と栄子が普通に商品を見ていた。
「栄子さん、こういう店よく来ます?」
「たまにね。消耗品だし」
「へえ」
祐実は少し意外そうだった。
栄子は普段の印象が明るく、どこか少女っぽいところもある。
だがこういう場面になると、急に自分よりずっと大人に見える。
栄子が1つの商品を手に取った。
黒を基調にしたレースのセットだった。
派手すぎず、それでいて明らかに大人っぽい。
祐実が横から覗き込む。
「栄子さん、こういうの選ぶんですね」
「変?」
「いえ。なんか、思ってたより大人っぽいなって」
栄子は笑った。
「私、祐実ちゃんが思ってるほど子供じゃないよ?」
「それは最近、何となく分かってきました」
「何それ」
「恋愛相談してると、すごく思います」
栄子は少し照れたように笑う。
「まあ、祐実ちゃんよりはちょっとだけ先輩だからね」
「ちょっとだけですか?」
「そこは深く聞かない」
2人は笑った。
祐実は栄子が選んだものをもう一度見る。
「これ、買うんですか?」
「うん。結構好きかも」
「彼氏さんに見せるため?」
「違う違う。自分が気に入ったから」
栄子は軽く笑って否定した。
「こういうのって、誰かのためだけに選ぶものでもないよ」
「なるほど……」
祐実は妙に納得した。
栄子はやはり、自分が思っているよりずっと大人である。
◇
店を出ると、祐介は同じ場所に立っていた。
「お待たせ」
栄子が言う。
「いえ」
祐介は平静を装う。
祐実は兄の顔を見る。
明らかに気になっている。
だが聞けるわけがない。
3人で再び歩き始めた。
栄子が少し前を歩き、別の店のショーウインドウを見ている。
その隙に、祐実が兄の横へ寄った。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「ちゃんと外で待ってたご褒美」
「いらん」
「栄子さんね」
祐介の耳がわずかに動いた。
祐実はそれを見逃さない。
「黒のレースの上下セット買ってたよ」
祐介の足が止まった。
「…………」
祐実は続ける。
「かなり大人っぽいやつ」
「もういい!」
「知りたかったくせに」
「頼んでない!」
「耳赤いよ」
「うるさい!」
栄子が前から振り返った。
「2人とも、どうしたの?」
祐実は何食わぬ顔で答える。
「何でもないです」
「お前……」
「ほら、お兄ちゃん。行くよ」
祐実は笑いながら兄の背中を押した。
いじり方に遠慮はない。
だが祐介が本当に嫌がる一線までは踏み込まない。
妹なりの加減はあるらしい。
◇
その後、3人はカフェへ入った。
歩き回った後ということもあり、席へ座ると一気に力が抜ける。
栄子は冷たい飲み物を一口飲んだ。
「結構歩いたね」
「ですね」
祐介が答える。
祐実はストローを指で回しながら、少し声を落とした。
「栄子さん」
「ん?」
「この前の話なんですけど」
栄子はすぐに察した。
「玲士くん?」
祐実の肩が跳ねる。
「ちょっ」
祐介が顔を上げた。
「玲士?」
「何でもない!」
祐実が即座に遮る。
栄子も「あ」と口元を押さえた。
祐介は眉を寄せる。
「玲士って、鈴木玲士?」
祐実は兄を見ない。
「知らない」
「同じ学校だろ」
「鈴木なんていっぱいいるでしょ」
「玲士まで一致する奴がそんなにいるか?」
栄子が慌てて笑う。
「祐介くん、女の子同士の話だから」
「……そうですか」
祐介は引き下がった。
祐実はテーブルの下で胸を撫で下ろす。
そして栄子へ小声で言った。
「危ないですよ」
「ごめんごめん」
「お兄ちゃんにはまだ内緒なんですから」
祐介の耳がこちらへ向いている。
祐実はさらに声を小さくした。
「最近、毎日会うのが普通になってきたんです」
「うん」
「だから逆に、写真部の合宿で会えないのがもっと嫌になってきて」
栄子は少し笑った。
「前より好きになってるってことじゃない?」
「やっぱりそうなんですかね」
「そうだと思うよ」
「栄子さんも、そういう時ありました?」
栄子は一瞬だけ考える。
「あるよ」
短い返事だった。
だが祐実には、その一言で十分だった。
栄子のこういう返事には、妙な重みがある。
祐介がまた口を挟む。
「何の話だ?」
祐実と栄子は顔を見合わせた。
そして同時に、
「内緒」
と答えた。
祐介は椅子へ深く座り直す。
「……蚊帳の外じゃないか」
祐実が吹き出した。
「パセリだからね」
「誰がパセリだ!」
栄子も笑い出した。
その笑顔を見た祐介は、怒るに怒れなくなる。
結局、今日も妹の思うつぼである。
◇
カフェを出た後は、特に目的を決めず三宮をぶらぶら歩いた。
店を覗き。
人混みを眺め。
気になった場所があれば立ち止まる。
買い物袋は少しずつ増えていった。
栄子が片手にいくつか袋を持っているのを見て、祐介が手を出した。
「持ちます」
「え、大丈夫だよ?」
「これくらいなら」
「でも」
「俺、ほとんど何も持ってないんで」
栄子は少し迷ってから袋を渡した。
「じゃあお願いしようかな」
「はい」
「ありがと。祐介くんってほんと優しいね」
祐介の背筋が一気に伸びた。
数秒前までただの荷物持ちだった男が、急に凛々しくなる。
後ろを歩いていた祐実が呟く。
「……分かりやす」
祐介が振り返る。
「何か言ったか?」
「何も」
祐実は笑う。
だが内心では少し安心していた。
こうして普通にしていれば、兄は十分格好いい。
優しいし、気も利く。
なのに栄子を意識した瞬間だけ、どうしてこうも情けなくなるのか。
本当に、もったいない。
◇
夕方。
夏の日は長いが、少しずつ空の色が柔らかくなり始めていた。
3人はそろそろ帰ることにした。
「今日はありがとね」
栄子が言う。
「楽しかった」
祐介は少し勇気を出す。
「また……その、よかったら」
栄子はすぐに頷いた。
「うん。また3人で行こうね!」
祐介の表情が一瞬だけ止まる。
横で祐実が噴き出しそうになる。
だが栄子は続けた。
「あ、でも今度は祐介くんの行きたいところにも行こうよ」
「え?」
「今日、私と祐実ちゃんの行きたいところばっかりだったし」
「そんなことないです」
「だって誘ってくれたの祐介くんでしょ?」
栄子が笑う。
「次は祐介くんが決めてよ」
祐介の顔が少し明るくなった。
「……はい」
祐実はその横顔を見て、今度は笑わなかった。
少なくとも今日1日、兄は完全なパセリではなかったらしい。
「じゃあ私、このあと予定あるから」
栄子が言った。
「ここで帰るね」
祐介は頷く。
「はい。気をつけて」
「祐実ちゃんも、また連絡してね」
「はい」
「じゃあねー」
栄子は手を振り、人混みの向こうへ歩いていった。
祐介はその後ろ姿をしばらく見ていた。
祐実は兄の横顔を見る。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「顔」
「何が」
「寂しそう」
「うるさい」
「はいはい」
2人も帰路につく。
しばらく歩いてから祐実が言った。
「でもさ」
「何だ」
「栄子さん、お兄ちゃんのこと結構好きだと思うよ」
祐介が足を止めた。
「……本当か?」
祐実は真顔で頷いた。
「うん」
祐介の顔がわずかに明るくなる。
そこへ祐実は続ける。
「人としてね」
「お前は一言多いんだよ!」
祐実は声を上げて笑った。
「でも本当に、かなり気を許してると思う」
「……そうか?」
「うん。だからさ」
祐実は少しだけ真面目な顔になる。
「もうちょっとシャキッとしなよ」
祐介が妹を見る。
「私、お兄ちゃんがウジウジしてるの嫌い」
「お前な……」
「だって普段のお兄ちゃん、もっと格好いいじゃん」
祐介が黙った。
祐実は前を向いたまま続ける。
「私のお兄ちゃんなんだから、好きな人の前くらい堂々としててよ」
しばらく沈黙があった。
祐介は小さく息を吐く。
「……分かったよ」
「ほんとに?」
「努力する」
「努力じゃなくて、やるの」
「厳しいな、お前」
「妹ですから」
祐実は笑った。
数秒後。
「まあ今日は、パセリにしては頑張ったんじゃない?」
「いい話っぽく終わらせろ!」
「無理」
やはり妹は妹である。
◇
その頃。
栄子は三宮から岡本へ向かう電車の中にいた。
膝の上には今日買った袋。
スマートフォンを取り出し、短いメッセージを送る。
――今から行くね。
しばらくして返信が来た。
――了解。待ってる。
栄子は画面を見て、小さく笑った。
土曜日の夜。
いつもの場所へ向かう、いつもの時間である。
祐介は、栄子がこのあと誰のところへ行くのか知らない。
知るのは、まだ先の話である。
そしてその頃、祐介の頭の片隅には、妹から余計な情報として与えられた、
――黒のレース。
という言葉が、なぜか消えずに残っていた。
妹とは、兄が知りたくても聞けないことを教えてくれる便利な存在なのか。
それとも、知らなくてもよかったことまで教えてくる厄介な存在なのか。
吾輩には判断がつかない。
ただ1つだけ確かなことがある。
この日の周防祐介は、最後まで主役にはなれなかった。
だが。
蚊帳の外に置かれたパセリにも、いつか皿の中央へ行ける日が来るのかもしれない。
まあ、その頃には別の料理が完成していそうな気もするが。
人間の恋とは、なかなか難しいものである。




