第19話 昔の女からのメッセージ
吾輩はたま子である。
人間というものは、過去をずいぶん大切にする。
昔住んでいた場所。
昔通っていた学校。
昔よく食べたもの。
そして、昔好きだった相手。
猫ならば、昨日まで同じ塀の上で昼寝をしていた相手でも、縄張りを離れてしまえばそれまでである。
ところが人間は、何年も会っていなかった相手の名前が、四角い板の上に表示されただけで急に落ち着かなくなるらしい。
何とも面倒な生き物である。
その夜。
岡本のマンションで悠斗のスマートフォンに表示された名前も、どうやらそういう類のものだった。
高梨友理奈。
そして、その女から届いた言葉は、たったこれだけであった。
――久しぶり。元気にしてる?
たったそれだけ。
だが短い言葉ほど、その後ろに長いものを隠していることがある。
◇
栄子は悠斗の肩にもたれたまま、テレビを見ていた。
「昔の知り合い」とだけ聞かされても、それ以上は聞かなかった。
村澤家では、相手が自分から話さないことへ無理に踏み込まない。
姉妹同士でもそうである。
ましてや恋人なら、なおさらである。
悠斗はしばらくスマートフォンを見ていたが、やがて短く返信した。
――久しぶり。元気だよ。友理奈は?
送ってから数分もしないうちに、返事が来た。
――元気。
――ほんと久しぶりだね。
――この前、西宮にいなかった?
悠斗の指が止まった。
西宮。
少し前、栄子と西宮ガーデンズへ出かけた日のことが頭に浮かぶ。
――いたよ。
返事はそれだけにした。
だが友理奈は続けてきた。
――やっぱり。
――女の子と一緒だったような気がしたんだけど。
――彼女?
悠斗は一度、隣にいる栄子へ視線を向けた。
栄子はテレビのバラエティ番組を見て笑っている。
こちらを気にしている様子はない。
悠斗は少し考えたあと、文字を入力した。
――そうだよ。
嘘をつく理由はなかった。
名前を教える必要もない。
どこに住んでいるのか、何の仕事をしているのかまで話す必要もない。
だが、彼女がいることそのものを隠す理由もない。
友理奈からの返信は、少し間が空いた。
――そっか。
――彼女いるんだ。
――うん。
そこで会話は一度途切れた。
悠斗はスマートフォンを伏せてテーブルへ置いた。
「終わった?」
栄子が聞いた。
「うん」
「昔の知り合い、元気だった?」
「元気みたい」
「そっか。よかったね」
栄子はそれだけ言うと、また悠斗の肩へ頭を預けた。
悠斗は一瞬だけ何か言おうとした。
だが、やめた。
今さら友理奈との過去を、わざわざ説明する必要もないと思ったのである。
それが正しい判断だったのかどうか。
少なくとも、その時の悠斗には分からなかった。
◇
一方。
友理奈は自宅で、悠斗から届いた最後の一言を眺めていた。
――うん。
それだけである。
西宮ガーデンズで見かけた女。
顔までは見えなかった。
ただ、悠斗のすぐ隣を歩いていた。
腕も絡めていたように見えた。
距離の近さだけなら、見間違えようがない。
「彼女……か」
友理奈は小さく呟いた。
自分から聞いたくせに、答えを知ると妙に面白くなかった。
とはいえ、悠斗と別れてからそれなりの時間が経っている。
彼女がいても不思議ではない。
むしろ、いないほうがおかしいくらいだ。
「何で気になるんだろ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
スマートフォンをテーブルへ置く。
数秒後、また取る。
悠斗との短いやり取りを最初から読み返す。
そして、西宮で見た女の後ろ姿を思い出す。
若かった。
小柄だった。
悠斗と並んで歩く姿は、ずいぶん自然に見えた。
「……どんな子なんだろ」
今度の独り言には、自分でも少し驚いた。
会いたいわけではない。
比べたいわけでもない。
――少なくとも、その時の友理奈はそう思っていた。
ただ、知りたい。
そんな小さな興味が、胸の奥に残ったのである。
◇
数日後。
周防祐介は、自宅の自室でスマートフォンを握っていた。
画面には、もう何度目か分からない文章が表示されている。
――栄子さん、夏休み中に時間があれば、どこかへ遊びに行きませんか?
昨日も書いた。
一昨日も書いた。
その前の日にも似たような文章を書いた。
そして全部消した。
今日は違った。
祐介は画面を見つめたまま、大きく息を吐いた。
「……よし」
送信。
指を離した瞬間、後悔した。
「送ってしまった……」
取り消せないわけではない。
だが、ここで消したら余計に格好が悪い。
祐介はベッドへ倒れ込み、スマートフォンを胸の上へ置いた。
1分。
2分。
3分。
時間だけが妙に遅く感じる。
やがてスマートフォンが震えた。
祐介は跳ね起きた。
栄子からである。
――うん、いいよ。ちょうど祐実ちゃんとも話したかったし。他に誰か誘う?
祐介は動かなくなった。
まず、祐実が来ることは確定しているらしい。
自分が誘ったはずなのに、なぜか祐実ありきで話が進んでいる。
しかも。
――ちょうど祐実ちゃんとも話したかったし。
どうやら今回の外出で、栄子が話したい相手は自分ではなく妹らしい。
そして極めつけが、
――他に誰か誘う?
である。
祐介はしばらく画面を見つめたあと、ぽつりと言った。
「……俺は何なんだ」
その時、開けたままだった部屋の扉から祐実が顔を出した。
「何が?」
「何でもない」
「栄子さんから返事来た?」
祐介が黙る。
祐実は、それだけで察した。
「来たんだ」
「……来た」
「何て?」
「何でもいいだろ」
「見せて」
「嫌だ」
祐実は兄の横へ座り、画面を覗こうとする。
祐介はスマートフォンを遠ざけた。
「やめろ」
「いいじゃん」
「よくない」
揉み合いになること数秒。
祐介の抵抗むなしく、祐実は文章を読んだ。
そして黙った。
口元だけがゆっくり上がる。
「笑うな」
「まだ笑ってないよ」
「今から笑う顔だろ」
「だって……」
祐実は我慢できず吹き出した。
「お兄ちゃん、完全についでじゃん。メインディッシュの隅に付いてるパセリじゃん。」
「パセリ言うな!」
「しかも私と話したいんだって」
「読めば分かる」
「そのうえ『他に誰か誘う?』って」
「分かってる!」
祐実は腹を抱えて笑った。
「栄子さん、全然気づいてないね」
祐介は枕へ顔を埋めた。
「……分かってる」
「じゃあ私、行くって返事しとこうか?」
「何でお前が返事するんだ」
「だって栄子さん、私と話したいんでしょ?」
「……もういい」
「あらら、パセリが萎えた」
「……あっちいけ」
祐介は完全に力を失った。
妹の恋は、夏休みに入ってから急速に進んでいる。
一方、兄はようやく好きな女を誘ったと思ったら、主役の座を妹に奪われた。
同じ家で育っても、恋愛というものは平等には進まないらしい。
◇
その頃。
ポピーでは昼の混雑が一段落し、栄子が休憩に入っていた。
スマートフォンには祐介からのメッセージが残っている。
栄子にとって祐介は、祐実の兄であり、素直で優しい男の子である。
この前のプールでも一緒だった。
だから誘われたこと自体に不自然さは感じていない。
むしろ、
――ちょうど祐実ちゃんとも話したかった。
こちらのほうが栄子にとっては都合がよかった。
最近、祐実から恋愛相談のメッセージが増えている。
会って話したほうが早いこともある。
栄子は祐介への返信を送ったあと、今度は祐実へメッセージを送った。
――祐介くんから夏休みに遊ぼうって誘われたよ。
――祐実ちゃんも来るよね?
数分後。
――栄子さん、お兄ちゃんから誘われたんですね。
――うん。
――何か行きたいところある?
祐実は画面を見つめた。
兄が勇気を振り絞って送った誘い。
栄子は完全に「みんなで遊びに行く話」だと思っている。
さらに自分との話を楽しみにしている。
祐実は兄の顔を思い浮かべた。
少しかわいそうになった。
――栄子さん。
――なに?
――お兄ちゃんのこと、どう思ってます?
送信してから、祐実は少し踏み込みすぎたかと思った。
だが栄子からの返事は早かった。
――祐介くん?
――優しいし、いい子だと思うよ。
祐実は頭を抱えた。
悪い評価ではない。
むしろ非常に良い。
ただし、完全に男としての評価ではない。
――そうですか。
――何で?
――いえ、何でもないです。
兄の気持ちを勝手に話すわけにはいかない。
栄子から、
――変なの。
と返ってきた。
祐実は苦笑した。
自分の恋愛では、栄子にいろいろ教えてもらっている。
なのに栄子本人のことになると、こちらのほうがずっとよく見えているらしい。
世の中は不思議である。
◇
さらに数日後。
リプラスでの仕事を終えた悠斗は、帰りの電車を待ちながらスマートフォンを見ていた。
友理奈から、またメッセージが来ていた。
――今度、久しぶりにご飯でも行かない?
悠斗は少し考えた。
友理奈と食事へ行くこと自体に、特別な意味があるとは限らない。
だが、自分には栄子がいる。
元恋人と2人で食事をして、それを後から栄子が知ったらどう思うか。
考えるまでもなかった。
――2人ではやめておこう。
――今、彼女いるし。
友理奈からはすぐに返事が来た。
――別にそういうつもりじゃないんだけど(笑)
――分かってる。
――でも余計な誤解は作りたくないから。
しばらく返事はなかった。
やがて、
――真面目になったね、悠斗。
とだけ返ってきた。
悠斗はその文章を見て、少し笑った。
――昔からこんなもんだよ。
――嘘。
――昔はもっと適当だった。
悠斗の指が止まる。
少し考え、
――そうだったかもね。
と返した。
それ以上、会話は続かなかった。
◇
友理奈は、その返信を見て複雑な顔をした。
食事くらいなら来ると思っていた。
昔の悠斗なら、少なくともここまできっぱり断らなかったはずだ。
「余計な誤解、ね……」
友理奈は背もたれへ身体を預けた。
彼女がいる。
だから元恋人とは2人で食事をしない。
言っていることは正しい。
何も間違っていない。
それなのに、なぜか腹が立つ。
友理奈はスマートフォンを弄びながら、西宮で見た女をまた思い出した。
そんなに大切なのだろうか。
自分との食事を断るほど。
「……どんな子なのよ」
今度ははっきり声に出した。
悠斗のSNSを開く。
仕事関係の投稿ばかりで、私生活の写真はほとんどない。
女の影もない。
昔からそうだった。
自分のことを何でも話すように見えて、肝心なところは見せない。
「相変わらずね」
画面を閉じる。
だが数秒後、また開いた。
過去の投稿を少しさかのぼる。
仕事。
デザイン。
打ち合わせ。
イベント。
その中に、ときどき店舗広告やWeb制作の話が混じっている。
今のところ、友理奈にとってはただの仕事の記録でしかない。
そこから何かを探そうとしているわけでもない。
少なくとも、本人はそう思っている。
ただ。
悠斗の彼女が誰なのか。
それだけが、妙に頭から離れなかった。
◇
人間は、「知りたい」と思った時点で、すでに相手へ一歩近づいている。
良い意味でも。
悪い意味でも。
高梨友理奈は、この時まだ栄子の名前すら知らなかった。
栄子も、自分の恋人の過去から近づいてくる女がいることを知らない。
そして祐介は、好きな女をようやく誘ったというのに、なぜか妹の付き添いのような立場になっていた。
秘密というものは、隠している間は静かである。
だが、誰かが知りたいと思った瞬間から、少しずつ動き始める。
今年の夏は、まだ終わりそうにない。




