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第18話 秘密が増える夏

挿絵(By みてみん)


吾輩はたま子である。


人間は夏休みというものを、ずいぶん楽しみにしている。


学校へ行かなくてもよい。

朝から好きなことができる。

友達と遊べる。

旅行にも行ける。


そこまでは吾輩にも分かる。


だが、いざ夏休みが始まると、学生たちは朝から部活へ行き、昼から誰かに会い、夕方まで町を歩き回る。


休みとは、いったい何を休むためのものなのか。


猫ならば、暑い日は日陰で眠る。

腹が減れば起きる。

涼しくなれば縄張りを見回る。


それで十分である。


ところが今年の夏、周防祐実という娘は、どうやら休むつもりがほとんどないらしい。


理由は簡単である。


恋人ができたからだ。


 ◇


終業式から数日後。


午前中の県立御影高校では、夏休みに入ったというのに体育館からボールの弾む音が響いていた。


男子バスケットボール部は、夏の大会へ向けて午前中を中心に練習を続けている。


鈴木玲士も、その中にいた。


練習が終わるのは昼前。


着替えを済ませて校門を出ると、少し離れた木陰に祐実が立っていた。


肩には一眼レフの入った鞄を掛けている。


玲士が気づき、手を上げた。


「祐実」


「玲士先輩、お疲れさまです」


付き合い始めた日には、名前を呼ばれただけで頬を赤くしていた祐実も、数日もすれば少しずつ慣れてきた。


それでも玲士に「祐実」と呼ばれるたび、ほんの少しだけ口元が緩む。


「待った?」


「今来たところです」


「本当に?」


「10分くらいです」


「それ、今来たとは言わないだろ」


「でも、写真撮ってたから待ってた感じはしません」


祐実は一眼レフを軽く持ち上げた。


校門の近くを飛んでいた鳥や、夏の雲を撮っていたらしい。


「今日は何する?」


「お昼、まだですよね」


「もちろん。練習のあとだから腹減った」


「じゃあ、駅のほうに行きません?」


「いいね」


2人は並んで歩き始めた。


最初の日、玲士は手をつなぐ前に「いい?」と尋ねた。


次の日も、少し遠慮がちに手を差し出した。


その次の日になると、祐実のほうから玲士の手へ指を近づけた。


そして今では、どちらからともなく自然に手をつなぐ。


交差点で信号を待つ時も。


店を探しながら歩く時も。


別に何か特別なことをするわけではない。


ただ、つないだ手を離さない。


人間というものは不思議である。


手など、歩くためには必要ないはずだ。


それでも好きな相手と一緒にいる時だけは、わざわざ片手を使えなくする。


恋というものは、効率の悪い行為を平気で選ばせるらしい。


 ◇


その日は駅近くの店で昼食を取り、本屋を見て回った。


玲士はスポーツ雑誌を手に取り、祐実は写真関係の棚へ向かう。


別々の棚を見ていたはずなのに、しばらくすると玲士が祐実の横へやってきた。


「何見てるの?」


「風景写真の本です」


「こういう写真、祐実も撮るの?」


「撮りますよ。でも、こういうふうにはなかなか撮れないです」


祐実はページを開き、山の稜線を染める夕焼けの写真を見せた。


「光の入り方とか、構図とか、すごいんです」


玲士は写真をしばらく見たあと、祐実の顔へ視線を移した。


「俺にはよく分からないけど、祐実が撮った写真も好きだよ」


「えっ」


「前にバスケ部の写真見せてくれたじゃん。動いてるところ、ちゃんと格好よく撮れてた」


「それは被写体がいいからです」


言ってから、祐実は自分の言葉に気づいた。


玲士も少し驚いた顔をする。


「今の、俺のこと?」


「……バスケ部全体です」


「本当に?」


「本当です」


祐実は写真集へ視線を戻した。


だが、耳が少し赤い。


玲士は追及せず笑った。


数日前までなら、こうした会話のたびに2人とも黙り込んでいた。


今では、少し照れて、それでも会話を続けることができる。


名前を呼ぶことにも慣れた。


隣を歩くことにも慣れた。


手をつなぐことにも慣れた。


恋人という関係は、何か大きな出来事によって突然完成するのではないらしい。


小さなことが、少しずつ普通になっていくのである。


 ◇


その夜。


ポピーでは翌日の仕込みを終えた栄子が、自宅の部屋でベッドへ寝転がっていた。


スマートフォンが震える。


画面には祐実の名前が表示されていた。


――栄子さん、ちょっと聞いてもいいですか?


栄子はすぐに返信した。


――いいよ。玲士くんのこと?


少し間が空いた。


――何で分かるんですか。


栄子は笑いながら文字を入力する。


――今の祐実ちゃんが私に相談することなんて、だいたいそれでしょ?


――そんなに分かりやすいですか?


――分かりやすい。


再び少し間が空いた。


今度は祐実から長めの文章が届いた。


――夏休みに入ってから、ほとんど毎日会ってるんです。

――玲士先輩は午前中バスケ部なので、終わってから待ち合わせして、夕方まで一緒にいます。

――これって会いすぎでしょうか?


栄子は一度天井を見た。


そして、自分がこれまで経験してきた恋愛を思い返す。


学校が終わったあと、少しの時間でも会いたくて待ち合わせた頃。

休みが合えば朝から出かけ、別れたばかりなのに次にいつ会えるかを考えていた頃。

相手も時期も、それぞれ違う。


けれど、付き合い始めたばかりの頃に感じる気持ちには、どこか似たところがあった。


栄子は返信した。


――会いたいなら、会える時に会えばいいんじゃない?


――そういうものですか?


――うん。会いたいって思えるうちは、無理に我慢することないと思うよ。


祐実から、すぐに返事が来る。


――栄子さんも、そうだったんですか?


栄子は少しだけ考えた。


――まあね。

――相手や時期によって違ったけど、会いたいのを無理に我慢したことはないかな。

――今も週末はだいたい一緒だけどね。


――参考になります。


――何の参考なのよ。


画面の向こうで祐実が笑っている姿が、栄子には想像できた。


しばらくして、またメッセージが届く。


――手をつなぐのも、最初はすごく緊張したんですけど、今は普通になってきました。


栄子は少し考えてから返した。


――いいんじゃない?

――そうやって、少しずつ普通になっていくんだと思うよ。


――栄子さんも?


――質問多くない?


――経験者の話は参考になるので。


栄子は思わず吹き出した。


――はいはい。

――でも、焦らなくていいからね。

――祐実ちゃんと玲士くんのペースでいいと思う。


――はい。


短い返事だった。


だが、そのあとに笑顔の絵文字が1つ送られてきた。


祐実はスマートフォンを胸の前に置き、少しだけ考えた。


栄子は普段、明るくてよく笑い、ときには自分と大して年が離れていないようにさえ感じる。

ところが男女のことになると、不思議なほど話が具体的になる。


本や誰かの受け売りを話しているのではない。


実際に誰かを好きになり、悩み、迷い、相手との距離を測ってきた人の言葉なのだと、祐実にも何となく分かった。


栄子がこれまでどんな恋愛をしてきたのか、祐実は詳しく知らない。

それでも、その短い言葉の向こうには、自分の知らない経験がいくつもあるように思えた。


見た目からは想像しにくいのだが、男女の事情については相当に詳しいらしい。


だからこそ、栄子の言葉には妙な説得力と重みがある。


そして祐実は、その重みが少し心強かった。


どうやら祐実は、少し安心したらしい。


 ◇


一方その頃。


周防家では、兄の祐介が妹とは別の意味でスマートフォンと向き合っていた。


居間のソファに座り、文章を入力している。


――栄子さん、夏休み中に時間があれば……


消す。


もう一度入力する。


――今度、どこかへ一緒に……


また消す。


その様子を、飲み物を取りに来た祐実が横から見た。


「お兄ちゃん」


「何だ」


「まだ送ってないの?」


祐介の指が止まる。


「何の話だ」


「栄子さん」


「何で分かる」


「分かるよ、それくらい」


祐介はスマートフォンを伏せた。


「誘うにしても、急に送ったら迷惑かもしれないだろ」


「夏休み始まってるんだよ?」


「だから何だ」


「別に」


祐実は冷蔵庫を開け、麦茶を取り出した。


兄がまだ栄子を誘う文章すら送れずにいる。


一方の自分は、明日も玲士と会う約束をしている。


その事実を考えると、少しだけ可笑しくなった。


「何を笑ってる」


「笑ってないよ」


「今、絶対笑っただろ」


「気のせい」


祐実は麦茶を持って部屋へ戻った。


スマートフォンを見ると、玲士からメッセージが届いている。


――明日、練習11時半くらいに終わる。

――いつものところでいい?


祐実は迷うことなく返信した。


――はい。待ってます。


兄が何度も文章を書いては消している間に、妹の予定はあっさり決まった。


恋に慎重なのが悪いわけではない。


だが、人間の恋は同じ家に住む兄妹であっても、進む速さがまるで違うらしい。


 ◇


さらに数日が過ぎた。


玲士のバスケットボール部は変わらず午前中に練習を行っている。


祐実は写真部の活動がない日は、昼前になると家を出る。


駅前で会う日もあれば、学校近くで待つ日もあった。


特別な予定がなくても構わない。


昼食を食べる。


店を見る。


公園で話す。


祐実がカメラを持っている日は、玲士が被写体になることも増えた。


「また撮った?」


「今のはいい顔でした」


「汗だくだけど」


「それがいいんです」


「写真部の感覚、分からないな」


「玲士先輩、動いてる時のほうが撮りやすいですよ」


「止まってる俺は駄目?」


「そういう意味じゃありません」


「じゃあ今撮って」


玲士がわざと真面目な顔をする。


祐実はファインダーを覗いた。


「その顔は駄目です」


「何で」


「不自然です」


「じゃあどうすればいい?」


「普通にしてください」


「普通って難しいな」


玲士が笑った。


その瞬間、祐実はシャッターを切った。


「今のです」


「ずるくない?」


「写真は待ってくれませんから」


「見せて」


玲士が祐実の肩越しにカメラの画面を覗き込む。


顔が近い。


付き合い始めたばかりの頃なら、祐実は慌てて一歩離れていたかもしれない。


だが今は、そのまま画面を見せている。


「これ、俺?」


「玲士先輩ですよ」


「何か自分じゃないみたいだな」


「私はいつもこう見えてますけど」


「……それ、結構うれしい」


祐実は答えず、カメラの画面へ視線を落とした。


また少しだけ耳が赤くなっている。


慣れたとはいえ、何も感じなくなったわけではない。


むしろ、慣れたからこそ自然に近づけるようになったのである。


 ◇


ある日の帰り道。


祐実が思い出したように言った。


「そういえば、来月、写真部の合宿があるんです」


「合宿?」


「はい。夏休みの真ん中くらいに、1泊2日で撮影に行きます」


玲士の歩く速度が、ほんの少しだけ遅くなった。


「1泊2日か」


「はい」


「じゃあ、その2日は会えないな」


何気ない一言だった。


祐実も最初は普通にうなずこうとした。


だが、なぜか胸の中に小さな引っかかりが残った。


たった2日である。


学校がある時なら、2日会わないことなど珍しくもない。


それなのに今は、少し長く感じる。


「……そうですね」


玲士も同じことを思ったのか、少し考えてから言った。


「帰ってきた次の日、会おう」


祐実はすぐに顔を上げた。


「はい」


返事は早かった。


自分でも驚くほどである。


その夜、祐実はまた栄子へメッセージを送った。


――栄子さん。


――はいはい。今日は何?


――まだ合宿まで結構あるんですけど、1泊2日で玲士先輩に会えないんです。


――うん。


――たった2日なのに、ちょっと嫌だなって思ったんです。


少しして、栄子から返信が来た。


――それ、もう答え出てるじゃない。


――何のですか?


――祐実ちゃんが玲士くんのこと、ちゃんと好きだってこと。


祐実は画面を見つめた。


付き合い始めた時は、「もっと知りたい」と思っていた。


今は、それだけではない。


会いたい。


一緒にいたい。


会えない日があると、少し寂しい。


いつの間にか、その気持ちはずいぶんはっきりしていた。


――そうなのかもしれません。


――「かもしれません」じゃなくて、そうなんだと思うよ。


――栄子さん、こういう時だけすごく自信ありますね。


――経験者ですから。


祐実は思わず笑った。


栄子の言葉は、妙に説得力がある。


だからこそ、つい相談してしまうのであろう。


 ◇


その週末。


土曜日の仕事を終えた栄子は、いつものように阪急岡本駅近くの悠斗のマンションへ向かった。


部屋へ入ると、悠斗はすでに夕食の準備を始めていた。


「おかえり」


「ただいま」


栄子はすっかり慣れた様子で鞄を置き、ソファへ座った。


スマートフォンを見る。


祐実から、昼間に送られてきた写真が表示されていた。


玲士がバスケットボールを持って笑っている写真である。


――今日撮りました。

――ちょっと格好よく撮れたと思いません?


栄子は返信を打ちながら笑った。


悠斗がキッチンから振り返る。


「何か面白いことあった?」


「祐実ちゃん」


「この前、プールにいた子?」


「そう。彼氏ができたの」


「へえ」


悠斗は鍋の火を弱めた。


「青春だね」


「毎日のように会ってるみたい」


「栄子も人のこと言えないでしょう」


「私は毎日じゃないもん」


「週末は、だいたい毎週ここにいるけどね」


「それは週末だけ」


「金曜の夜に来る時もあるよね」


「細かい」


栄子はクッションを1つ取り、悠斗のほうへ軽く投げた。


悠斗は笑いながら受け止める。


「でも、相談されるとちょっと責任感じる」


「栄子が恋愛相談?」


「何、その顔」


「いや。適任なのかなと思って」


「失礼!」


「だって栄子、感覚で動くほうじゃない?」


「ちゃんと考えてるよ」


「本当に?」


「悠斗よりは考えてる」


「それは怪しいな」


栄子は立ち上がり、悠斗の背中を軽く叩いた。


2人の間には、付き合い始めた頃の緊張はほとんどない。


言いたいことを言い。


笑い。


時には小さな喧嘩もする。


それでも週末になれば、栄子はここへ来る。


悠斗との1年半で築いてきたものもある。

それ以前に、栄子が誰かを好きになり、悩み、別れ、また誰かを好きになってきた時間もある。


祐実は、その細かな過去までは知らない。


だが、相談するたびに感じていた。


栄子は見た目の明るさや若々しさとは裏腹に、男女の間に生まれる迷いや距離の変化をよく知っている。


だからこそ、その言葉には単なる知識ではない、経験した者だけが持つ重みがあるのであろう。


本人がどこまで自覚しているかは知らないが。


 ◇


同じ夜。


高梨友理奈は、自宅のソファに座り、スマートフォンを見つめていた。


画面には、中崎悠斗の名前が表示されている。


西宮ガーデンズですれ違った男。


茶色い髪。


背の高い姿。


隣には若い女がいた。


あれから何度か連絡しようとして、そのたびにやめた。


今さら何を話すのか。


なぜ自分が気にするのか。


考えれば考えるほど、送る理由が分からなくなる。


だが、送らない理由も見つからない。


友理奈は文章を入力した。


――久しぶり。元気にしてる?


前にも入力した文章だった。


その時は消した。


今回は、指を止めない。


送信。


短い文章が画面の上へ移動した。


友理奈は息を吐き、スマートフォンをテーブルへ置いた。


送ってしまえば、あとは返事を待つしかない。


 ◇


岡本のマンション。


夕食を終えた栄子と悠斗は、並んでソファに座っていた。


栄子はテレビを見ながら、悠斗の肩へ寄りかかっている。


テーブルの上に置かれた悠斗のスマートフォンが震えた。


悠斗が手を伸ばす。


画面を見た瞬間、その表情がほんの少しだけ変わった。


高梨友理奈。


表示された名前を見て、悠斗は数秒黙った。


栄子はその変化に気づかず、テレビを見ている。


「誰?」


何気なく尋ねた。


悠斗は画面から目を離した。


「昔の知り合い」


「ふーん」


栄子はそれ以上聞かなかった。


悠斗も、すぐには返信しなかった。


スマートフォンの画面には、短い文章が残っている。


――久しぶり。元気にしてる?


たったそれだけである。


だが、人間というものは、短い言葉の中に長い過去を隠すことがある。


 ◇


夏という季節は、人間の距離を縮めるらしい。


毎日のように会い、手をつなぐことが当たり前になった者。


名前を呼ぶことに慣れ、たった2日会えないだけで寂しいと思うようになった者。


好きな女を誘う文章すら、まだ送れずにいる者。


そして、長い間途切れていた相手へ、再び言葉を送った者。


どの距離が縮まり。


どの距離が離れ。


どの秘密が、誰に知られることになるのか。


今の吾輩には、まだ分からない。


ただ1つだけ言える。


この夏。


秘密は減るどころか、ますます増えそうである。


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