第17話 夏休み前の返事
吾輩はたま子である。
人間は、答えをすぐに出さず、しばらく考えることがある。
猫ならば、食べるか、食べないか。
近づくか、逃げるか。
たいていは、その場で決める。
だが、人間の恋というものは、たった1つの返事をするだけでも、何日も悩むらしい。
今回、その返事に悩むことになったのは、周防祐実である。
◇
7月上旬。
県立御影高校では、期末テストの最終日を迎えていた。
終了を知らせるチャイムが鳴ると、教室のあちらこちらから安堵の声が上がった。
「終わったー」
「数学、最後の問題できた?」
「もう忘れたい」
祐実も友人たちと笑いながら、筆記用具を鞄へ片づけた。
今日から終業日までは午前中の授業が中心になる。
写真部の活動も再開できる。
祐実は勉強から解放されたことより、愛用の一眼レフを持って校内を歩けることを楽しみにしていた。
そのカメラは、長兄である周防元から譲られたものである。
お古とはいえ、元が選んだ最高級クラスの機材だ。
祐実が構えるには少々重いが、遠くの被写体も鮮明に捉え、動きの速い運動部員も逃さない。
帰り支度を終えたところで、同じクラスの女子生徒が祐実へ声をかけた。
「祐実、2年生の人が呼んでるよ」
「2年生?」
「鈴木先輩。渡り廊下のところで待ってるって」
鈴木玲士。
その名前を聞き、祐実はすぐに顔を思い浮かべた。
背が高く、バスケットボール部に所属する2年生である。
特別に目立つ選手ではない。
試合中も自分だけで点を取りに行くより、周囲を見て仲間へボールをつなぐことが多い。
後輩が失敗しても責めず、練習後には率先して片づけをしている。
写真部の祐実は、校内で被写体を探して歩き回ることが多い。
体育館の扉が開いていれば、中で練習するバスケットボール部へレンズを向けることもあった。
そのため、玲士がボールを追う姿は何度も見ている。
玲士も、体育館の端から撮影している祐実へ気づけば、軽く頭を下げてくれた。
ただ、2人きりで話したことはほとんどない。
「何だろう」
祐実は首をかしげながら教室を出た。
◇
渡り廊下の先には、玲士が1人で立っていた。
身長は180センチ。
制服の上からでも、細身ながら鍛えられていることが分かる。
女子生徒の間では、優しそう、誠実そうと、まずまずの評価を得ている男子であった。
本人は、そうした評判を知らないらしい。
祐実を見つけると、緊張した様子で背筋を伸ばした。
「急に呼び出してごめん」
「いえ。どうしたんですか?」
「少し、話したいことがあって」
玲士は周囲を確認した。
テストを終えた生徒たちは、次々に校門へ向かっている。
人通りが途切れたところで、玲士は祐実へ向き直った。
「前から、周防さんのことが気になってた」
「えっ」
「カメラを持って校内を歩いてるところとか、撮った写真を部員に見せて喜んでもらってるところとか。明るくて、誰にでも同じように話せるところが、いいなと思ってた」
玲士は一度言葉を切り、息を整えた。
「俺と付き合ってほしい」
祐実は、しばらく返事ができなかった。
玲士のことは知っている。
バスケットボールをしている姿も、後輩と話している姿も、写真を通して何度も見てきた。
だが、自分が玲士から見られているとは考えたこともなかった。
「迷惑だった?」
玲士が心配そうに尋ねる。
「違います。迷惑じゃないです」
祐実は慌てて答えた。
「ただ、急だったから……」
「うん」
「少し考えさせてもらってもいいですか?」
玲士は残念そうな顔をせず、静かにうなずいた。
「もちろん。急がなくていいから」
「ありがとうございます」
玲士は、それ以上返事を求めなかった。
「じゃあ、また」
「はい。また」
祐実は玲士の背中を見送りながら、胸へ手を当てた。
心臓が、テスト中よりも速く動いている。
◇
玲士が教室へ戻る途中、廊下の向こうから祐介が歩いてきた。
玲士と祐介は、高校1年生の時に同じクラスだった。
2年生になってクラスは分かれたが、隣同士である。
顔を合わせれば、今でも普通に話をする。
「鈴木、まだ帰ってなかったのか」
祐介が声をかけた。
祐実は曲がり角の陰で足を止めた。
何も悪いことはしていない。
まだ付き合ってすらいない。
それでも、今は兄に見つかってはいけない気がした。
「少し用事があって」
玲士は普段どおりに答える。
「テスト、どうだった?」
「数学の最後は怪しい。周防は?」
「同じだ。時間が足りなかった」
2人は少し言葉を交わし、そのまま別れた。
祐介は玲士が妹へ告白したことを知らない。
玲士も、祐実が兄へ隠れていることには気づいていない。
祐介が通り過ぎてから、祐実はようやく息を吐いた。
「まだ何も決まってないのに、何で隠れてるんだろう……」
自分でも分からなかった。
ただ、兄に知られたら面倒なことになる。
それだけは、返事を考える前から分かっていた。
◇
その日の夜。
祐実は自分の部屋で、机の上へ一眼レフを置いた。
期末テスト期間に入る前、写真部の活動で撮影した写真をパソコンへ取り込んでいく。
中庭の木々。
窓から差し込む光。
吹奏楽部の練習風景。
グラウンドを走る陸上部員。
そして、体育館で練習するバスケットボール部。
祐実は画面へ表示された写真を、1枚ずつ送っていった。
ボールを持って走る玲士。
仲間へパスを出す玲士。
シュートを外した後輩へ声をかける玲士。
練習後、床へ落ちたタオルを拾っている玲士。
気づけば、玲士が写っている写真が何枚もあった。
狙って撮ったつもりはない。
バスケットボール部全体を撮影していたはずである。
それなのに、祐実のレンズは何度も玲士を捉えていた。
「私、前から鈴木先輩を見てたんだ……」
その事実に気づいた途端、告白された時の玲士の顔が思い浮かんだ。
祐実はマウスを動かし、玲士が写っている写真へ印を付けた。
削除するためではない。
あとでもう一度、見返すためであった。
◇
それから数日間、祐実は玲士の姿を意識するようになった。
廊下ですれ違えば、これまでとは違って見える。
玲士が友人と話しているだけでも、何となく気になった。
一方の玲士は、返事を急かさない。
祐実を見かければ普段どおり挨拶をするが、無理に近づこうとはしなかった。
その態度が、祐実には玲士らしく思えた。
家へ帰れば、兄の祐介がいる。
祐介は妹の変化に気づかず、自分のことで頭がいっぱいだった。
「祐実、少し相談していいか」
夕食後、祐介が真面目な顔で声をかけてきた。
「何?」
「夏休みに、栄子さんをどこかへ誘うのは早いと思うか?」
「また栄子さんの話?」
「またとは何だ」
「お兄ちゃんの相談、ほとんど栄子さんのことじゃない」
「ほとんどではない」
「じゃあ、他に何を相談した?」
祐介は黙り込んだ。
思い当たるものがなかったらしい。
「ところで、お前は最近スマートフォンをよく見ているな」
「そう?」
祐実は反射的に画面を伏せた。
玲士とはまだ必要な連絡しかしていない。
それでも、兄に見られたくはなかった。
「誰かと連絡してるのか?」
「写真部の友達。夏休みの予定を話してるだけ」
「そうか」
祐介は簡単に納得した。
妹の恋には鈍感なくせに、栄子の小さな表情なら気になるらしい。
人間の目は、見たいものしか見えないことがある。
◇
終業日を2日後に控えた午後。
祐実は学校帰りにポピーへ立ち寄った。
吾輩は、店の外にある日陰で身体を伸ばしていた。
祐実はいつもより静かに店へ入り、パンを選びながら何度も栄子の様子をうかがっている。
客が途切れると、祐実は思い切ったように声をかけた。
「栄子さん。少し聞いてもいいですか?」
「いいよ。どうしたの?」
「好きだって言われたんです」
栄子の目が大きく開いた。
「えっ、告白されたの?」
「声が大きいです」
祐実は慌てて周囲を見た。
優美は倉庫で在庫を確認している。
幸い、今の声は聞こえていないようであった。
「ごめん、ごめん。それで、返事は?」
「まだしてません。少し考えさせてくださいって言いました」
「嫌だったの?」
「嫌じゃないです」
祐実は即座に答えた。
自分でも驚くほど、迷いのない返事だった。
栄子が少し笑う。
「じゃあ、今はその人のことが気になってる?」
「……かなり」
「それなら、答えはほとんど出てるんじゃない?」
「でも、付き合ってから、やっぱり違うって思ったら悪いですよね」
栄子は少し考え、パンを入れた袋を祐実へ渡した。
「付き合うって、最初から将来の全部を決めることじゃないと思うよ」
「そうなんですか?」
「その人のことを、もっと知りたいと思うなら、それもちゃんとした理由じゃないかな」
「もっと知りたい……」
「一緒にいたいとか、また会いたいとか。最初はそれくらいでもいいと思う」
祐実は、玲士の写った写真を思い出した。
玲士のことをもっと知りたい。
今度は写真の中ではなく、隣で笑っているところを見たい。
その気持ちは、確かに自分の中にある。
「ありがとうございます。決められそうです」
「うまくいったら、また教えてね」
「お兄ちゃんには内緒ですよ」
「どうして祐介くんには言わないの?」
「相手がお兄ちゃんと同じ学年なんです。しかも、隣のクラスで」
栄子は一瞬黙ったあと、楽しそうに笑った。
「それは、見つかったら大変そうだね」
「だから笑わないでください」
吾輩は窓の外で、その会話を聞いていた。
兄には内緒らしい。
だが、吾輩に聞かれた時点で、猫社会に対しては秘密ではない。
◇
その夜の猫会議で、御影方面を縄張りにする猫からも報告があった。
「祐実が、最近よく背の高い男子を見ている」
「どんな男だ」
吾輩が尋ねる。
「体育館で丸い玉を投げている。帰り道では、祐実から離れて歩いている。無理に近づく様子はない」
どうやら玲士という男は、返事を待つ間も祐実を困らせてはいないらしい。
「今のところ、警戒する必要はなさそうだな」
吾輩はそう判断した。
もちろん、祐実を泣かせれば話は別である。
魚崎から御影までは少し離れているが、猫の情報網から逃れることはできない。
◇
そして、終業日。
午前中に終業式が行われ、教室では通知表が配られた。
校内には、これから始まる夏休みの予定を話す声があふれている。
祐実は帰り支度を終えると、玲士へ短いメッセージを送った。
――少し話せますか?
すぐに返事が届く。
――前に話した場所で待ってる。
祐実が渡り廊下へ向かうと、玲士はすでに待っていた。
「返事、決まった?」
「はい」
祐実はカメラの入った鞄を両手で握った。
緊張していたが、目をそらさず玲士を見る。
「私、鈴木先輩のことを全部知っているわけじゃないです」
玲士の表情が少し硬くなる。
「でも、もっと知りたいと思っています」
祐実は小さく息を吸った。
「私でよければ、お付き合いしてください」
玲士は驚いたあと、ほっとしたように笑った。
「ありがとう。こちらこそ、よろしく」
その笑顔を見て、祐実もようやく笑うことができた。
「ただ、1つお願いがあります」
「何?」
「お兄ちゃんには、しばらく内緒にしてください」
「祐介に?」
「はい。絶対に言わないでください」
玲士は少し困った顔をした。
「隣のクラスだから、毎日のように会うけど」
「そこが一番心配なんです」
「分かった。周防さんが話していいと言うまでは黙ってる」
「ありがとうございます」
「でも、付き合うのに周防さんだと紛らわしいな」
玲士は少し照れながら続けた。
「祐実って呼んでもいい?」
祐実の頬が赤くなる。
「はい。じゃあ、私も玲士先輩って呼びます」
2人が初めて名前を呼び合った、その直後である。
廊下の向こうから、祐介の声が聞こえた。
「鈴木」
祐実は反射的に柱の陰へ隠れた。
玲士だけが、その場に残される。
「夏休みの部活、明日からか?」
「ああ。午前中から」
玲士は何事もなかったように答えた。
「バスケ部は大変だな」
「まあな。でも、夏の大会前だから仕方ない」
玲士は答えながら、柱の陰を一瞬だけ見た。
祐介は気づかない。
「じゃあ、また休み明けに」
「ああ。また」
祐介が立ち去ると、祐実は柱の陰から姿を現した。
「いきなり危なかった……」
「毎回こんな感じになるの?」
「絶対に見つからないようにします」
「そのほうが難しそうだけど」
2人は顔を見合わせ、小さく笑った。
◇
学校を出た祐実と玲士は、祐介に見つからないよう少し時間をずらして歩いた。
校門から離れ、人通りの少ない道へ入ったところで、玲士が足を止める。
「手、つないでもいい?」
祐実は周囲を確認した。
兄の姿はない。
同じ学校の生徒も見当たらない。
「お兄ちゃんがいないところまでなら」
祐実がおそるおそる手を差し出す。
玲士は、その手を優しく握った。
体育館でボールを扱う大きな手は、思っていたより温かかった。
祐実は恥ずかしそうにうつむいたが、手を離さなかった。
2人を、学校近くの塀の上から御影の猫が見ていた。
人間社会では、祐介に内緒。
しかし猫社会では、その日のうちに交際成立の情報が届くことになる。
◇
夕方、祐実が家へ帰ると、祐介が居間にいた。
「終業式、どうだった?」
「普通だったよ」
「通知表は?」
「お兄ちゃんには見せない」
「成績が悪かったのか?」
「そういう意味じゃない」
祐実は鞄を抱え、自分の部屋へ向かった。
スマートフォンには、玲士からメッセージが届いている。
――今日はありがとう。夏休み、どこかへ行こう。
祐実は笑顔で返信を入力した。
居間では、何も知らない祐介がスマートフォンとにらみ合っている。
栄子を夏休みに誘う文章を考えているのであろう。
兄がまだ恋の入口で足踏みしている間に、妹は一足先に恋人を作った。
恋というものは、年齢順に訪れるわけではない。
そして秘密というものは、兄に隠せても、猫には隠せないのである。




