第16話 人混みの中の秘密
人間は、人の多い場所へ行けば、自分の姿など誰も気にしないと思うらしい。
大勢の中へ紛れてしまえば、知り合いに見つかることもない。
誰と歩き、誰と食事をしていても、秘密は守られる。
そう考えるのであろう。
だが、吾輩に言わせれば、それは逆である。
人が多ければ、それだけ目も多い。
秘密にしているつもりのことほど、意外な相手に見つかるものなのである。
◇
7月の日曜日。
よく晴れた朝、栄子は阪急岡本駅近くにある悠斗のマンションで目を覚ました。
前の週末には、六甲アイランドのプールで1日遊び、そのまま悠斗の家へ泊まり、翌日には須磨の海へ出かけている。
それに比べれば、この日の予定はずいぶん穏やかなものであった。
「今日はどうする?」
朝食を片づけながら、栄子が尋ねた。
「西宮ガーデンズへ行かない?」
悠斗はコーヒーを飲みながら答えた。
「栄子、夏物の服を見たいって言ってたでしょう」
「覚えてたんだ」
「もちろん。ポピーで使う小物も買いたいんじゃなかった?」
「うん。新しい帽子と、仕事用のタオルも見たい」
「じゃあ決まりだね」
昼前、2人は水色のプジョー308CCで出かけた。
この日は街中へ買い物に行くため、屋根は閉じられていた。
目立つ車であることに変わりはないが、悠斗はそれを気にしていない。
栄子も、魚崎から離れた場所で知り合いに会うとは考えていなかった。
この日のことは、西宮方面の猫たちから直接聞いた話だけではない。
のちにポピーで交わされた会話や、リプラス周辺の猫が拾った噂を合わせ、吾輩が整理したものである。
猫の情報は、1匹の目だけで集めるものではない。
◇
西宮ガーデンズへ到着した2人は、並んで館内を歩いた。
栄子は休日らしい軽やかな服装で、悠斗の腕へ自然に手を絡ませている。
悠斗もそれを気にすることなく、栄子の歩く速さに合わせていた。
「悠斗、これどう思う?」
栄子が店頭に飾られた夏服を指さす。
「似合うと思うよ」
「まだ着てないのに?」
「栄子なら、だいたい何を着ても似合うから」
「そういう答え方、ずるい」
「じゃあ、試着して見せて」
「ちゃんと選んでよ」
「選んだら、そのとおりに着てくれる?」
「変なのじゃなかったらね」
2人は笑いながら店内へ入った。
付き合い始めて1年半。
互いの好みも、相手が何を言えば喜ぶのかも、よく分かっている。
悠斗が選んだ淡い色の服を栄子が試着し、鏡の前で身体を回して見せる。
「どう?」
「やっぱり似合う」
「本当に?」
「かわいいよ」
「じゃあ、これにする」
栄子は満足そうに笑った。
人間の女は、服そのものより、誰に褒められたかで買う物を決めることがあるらしい。
◇
買い物を終えた2人は、別の階へ移動するためエスカレーターへ乗った。
悠斗が1段下に立ち、栄子はそのすぐ後ろから悠斗の肩へ軽く手を置いている。
反対方向へ動くエスカレーターには、1人の女が乗っていた。
高梨友理奈である。
友理奈は買い物袋を片手に、何気なく向かい側へ目を向けた。
すれ違う一瞬、見覚えのある横顔が視界へ入る。
茶色い髪。
すらりとした体つき。
そして、よく知っている笑い方。
「……悠斗?」
友理奈は思わず振り返った。
しかし、双方のエスカレーターは反対方向へ進んでいる。
すぐに人影が重なり、男の姿は見えなくなった。
隣に若い女がいたことだけは分かった。
だが、その顔までは確認できない。
友理奈は上の階へ着くと、人の流れを避けて立ち止まった。
もう1度下の階へ戻るべきか迷う。
見間違いかもしれない。
悠斗と似た男など、探せば何人もいる。
それでも、胸の奥に引っかかるものが残った。
「まさかね……」
友理奈はそう呟いたが、すぐに歩き出すことはできなかった。
もし、あれが本当に悠斗だったのなら。
隣にいた女は、いったい誰なのか。
◇
その頃、栄子と悠斗は何も知らず、別の売場を歩いていた。
栄子が帽子を1つ手に取る。
「悠斗、少しかがんで」
「何?」
「いいから」
悠斗が言われたとおりにすると、栄子はその頭へ帽子をかぶせた。
「あ、似合う」
「これ、女性用じゃない?」
「かわいいからいいじゃない」
「栄子もかぶってみる?」
悠斗は帽子を取り、今度は栄子の頭へかぶせる。
「どう?」
「僕より似合ってる」
「当たり前でしょう」
2人が顔を見合わせて笑っているところを、少し離れた場所から見ている女たちがいた。
株式会社リプラスに勤める女性社員である。
悠斗とは部署も立場も違うが、社内でよく見かける外部パートナーの顔くらいは知っている。
「あれ、中崎さんじゃない?」
「本当だ。隣の人、彼女かな」
「仕事相手には見えないよね」
「帽子をかぶせ合う仕事なんてないでしょう」
2人は小声で笑った。
悠斗はリプラスで人気がある。
誰にでも気さくに話しかけ、仕事もできる。
その一方で、私生活についてはほとんど話さない。
恋人がいるのかと聞かれても、いつも冗談でかわしてきた。
だからこそ、女性社員たちは思いがけないものを見つけたような気持ちになったのである。
栄子の顔に見覚えはない。
名前も、ポピーとの関係も分からない。
ただ、中崎悠斗には親しい女がいるらしい。
その情報だけが、翌週のリプラスへ持ち帰られることになった。
◇
栄子と悠斗が次に通りかかったのは、改装中の店舗前であった。
仮囲いには、近日開店を知らせる案内が掲示されている。
その前で、若い女が関係者らしい人物から説明を受けていた。
長谷川菜奈である。
「内装が終わるのは、予定どおりですか?」
「今のところは。細かい調整が残っていますが、来週には備品を入れられると思います」
「分かりました」
菜奈は手元の書類へ視線を落とした。
以前、敬助の新居へ泊まりに来た時、菜奈は勤務先が変わるかもしれないと話していた。
この改装中の店は、それと無関係ではないらしい。
ただし、その詳しい事情はまだ先の話である。
同じ時、栄子は悠斗との会話に夢中になっていた。
「このあと、何食べる?」
「栄子が決めていいよ」
「また私に任せるの?」
「昨日から考えてたんじゃないの?」
「ばれた?」
2人は菜奈のすぐ近くを通り過ぎた。
菜奈は顔を上げない。
栄子も悠斗も、改装中の店舗を気に留めなかった。
敬助の妹と、優美の妹。
いずれ互いの存在を強く意識することになる2人は、この日、ほんの数歩の距離ですれ違った。
だが、誰も振り返らない。
人間の縁というものは、出会うより先にすれ違うことがあるらしい。
◇
買い物を終えた栄子と悠斗は、フードコートで遅めの昼食を取ることにした。
混み合った席の中から空いている場所を見つけ、2人は向かい合わず、隣同士に座った。
「悠斗、それ一口ちょうだい」
「栄子のと交換ね」
「はい、どうぞ」
栄子は自分の料理を少し取り、悠斗の口元へ運んだ。
「はい、あーん」
「ここでやるの?」
「嫌なら自分で食べて」
「嫌とは言ってないよ」
悠斗が素直に口を開ける。
「どう?」
「おいしい」
「でしょう?」
今度は悠斗が自分の料理を栄子へ差し出した。
栄子がそれを食べると、悠斗はその頬へ手を伸ばす。
「ついてる」
「どこ?」
「取れた」
悠斗の指が栄子の頬を撫でる。
栄子は照れながらも、その手を嫌がらなかった。
2人にとっては、いつものことなのであろう。
しかし、その様子を少し離れた場所から見ている3人がいた。
宮本茜と、その子供である隆司と彩華である。
茜は午前中に家事を済ませ、休日のお出かけとして、子供たちを連れて買い物に来ていた。
最初に気づいたのは彩華だった。
「ママ、あそこに栄子お姉ちゃんがいるよ」
「本当だ」
隆司も、彩華が指さした先を見る。
「隣の男の人、誰?」
茜は、並んで座る2人の様子を見つめた。
栄子が毎週末どこかへ出かけ、日曜日の夕方に戻ってくることは知っている。
詳しく聞いたことはなかったが、相手がいるのだろうとは薄々感じていた。
目の前にいる2人の距離を見れば、説明など必要ない。
「ふぅーん、なるほどねぇ……。あれが栄子ちゃんの彼氏さんなんだぁ……。アツアツじゃない」
栄子が悠斗へ食べ物を差し出す。
悠斗がそれを口にすると、今度は悠斗が栄子の頬へ手を伸ばした。
「ママが、パパと夜一緒にくっついてる時と同じ?」
彩華の質問に、茜は少し考えてから答えた。
「うーん、そうねぇ。それに近い感じかなー」
「彩華、そんなこと言うなよ」
隆司が恥ずかしそうに口を挟む。
「だって、本当だもん」
「はいはい。家の話はそこまで」
茜は笑いながら2人をなだめた。
「栄子お姉ちゃんに声をかけようよ」
彩華が栄子のもとへ行こうとする。
茜は、その肩へ手を置いて止めた。
「今日は声をかけないでおきましょう。栄子ちゃん、彼氏さんと2人で過ごしたいみたいだから」
「私たちに見られてること、知らないよ」
「知らないほうがいい時もあるの」
「どうして?」
「栄子ちゃんに聞けば分かるかもしれないわね」
茜は楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、隆司は小さくため息をついた。
母親が何かをたくらんでいる時の顔だと知っているのである。
◇
翌週の月曜日。
株式会社リプラスでは、昼休みになる前から小さな噂が流れていた。
「昨日、西宮で中崎さんを見たんです」
「女の人と一緒だったんですよ」
「すごく仲がよさそうでした」
悠斗を見かけた女性社員が、同僚へ話したのである。
噂は少しずつ形を変えながら、いくつかの部署へ広がった。
恋人らしい女がいた。
帽子をかぶせ合っていた。
腕を組んでいた。
結婚間近かもしれない。
最後の話など、誰も確認していない。
人間の噂とは、魚の骨より簡単に尾がつくものらしい。
昼休み、敬助は悠斗と一緒に食事へ出かけた。
「中崎、社内で噂になっているぞ」
敬助が言う。
「何の噂です?」
「昨日、西宮で女性と一緒にいたそうだ」
悠斗は一瞬だけ目を細めたが、すぐに普段どおりの笑顔へ戻った。
「へえ。よく見てますね」
「人違いか?」
「どうでしょう」
「お前が答えたくないなら、無理に聞くつもりはない」
敬助はそれ以上踏み込まなかった。
悠斗が私生活を話したがらないことを知っているからである。
「ケイさんは優しいですね」
「他人の私生活を面白がって聞く趣味がないだけだ」
「でも、僕に恋人がいたら驚きます?」
「驚かない。お前ならいても不思議ではない」
「じゃあ、いるかもしれませんね」
「そうか」
「そこはもう少し興味を持ってくださいよ」
「言いたくなったら自分から話すだろう」
「ケイさんらしいなあ」
悠斗は笑った。
敬助は、悠斗と一緒にいた女が栄子だとは考えもしない。
悠斗も、敬助が通うパン屋の主力職人と、自分の恋人が同一人物だとは知らない。
またしても2人の情報は、触れ合う寸前ですれ違ったのである。
◇
同じ日の午後。
茜は原付でポピーへやってきた。
店の裏手に原付を止め、いつものようにエプロンを身につける。
優美は売場で客の対応をしていた。
栄子は工房で、焼き上がったパンをトレーへ移している。
茜は栄子の横へ立つと、何気ない調子で声をかけた。
「栄子ちゃん、昨日は楽しかった?」
「え? 昨日?」
栄子の手が止まった。
「西宮でお買い物していたでしょう?」
栄子はゆっくり茜の顔を見る。
「茜さん、見てたんですか?」
「フードコートで、すごく仲のよさそうなところをね」
「声をかけてくれたらよかったのに」
「声をかけられる雰囲気じゃなかったのよ」
栄子の頬が少し赤くなる。
「ど、どこから見てたんですか?」
「栄子ちゃんが、あーんってしていたところ」
「そこから!?」
茜は楽しそうに笑った。
栄子は両手で顔を覆い、その場へしゃがみ込みそうになる。
「最悪……。よりによって、そこを見られるなんて」
「いいじゃない。仲がよさそうで安心したわ」
「お姉ちゃんには言わないでくださいね」
栄子は、売場にいる優美のほうを気にしながら声を落とした。
「まだ話してないの?」
「付き合ってる人がいることは、何となく気づいてるかもしれないです。でも、詳しく話したことはなくて」
「分かった。栄子ちゃんが自分で話すまでは、私からは言わない」
「ありがとうございます」
「でも、隆司と彩華も見たから、あの子たちの口までは保証できないわよ」
「えっ」
「彩華なんて、栄子お姉ちゃんが彼氏にあーんしてたって、帰ってから主人に報告してたもの」
「もう家族中に知られてるじゃないですか」
「主人は笑ってたわよ。若いんだから、それくらい普通だって」
栄子は肩を落とした。
それでも、茜がからかうだけで悪く思っていないと分かり、最後には小さく笑った。
「今度、ちゃんと紹介します」
「楽しみにしてる。栄子ちゃんの彼氏さん」
この会話を、吾輩は工房側の窓の外で聞いていた。
優美は接客中で、2人の話までは聞こえていない。
どうやら人間社会でも、栄子と悠斗の関係を知る者が増え始めたらしい。
◇
それから数日後。
高梨友理奈は、自宅でスマートフォンを手にしていた。
画面には、悠斗の連絡先が表示されている。
西宮ですれ違った男の横顔が、何度も頭へ浮かんだ。
あれは本当に悠斗だったのか。
隣にいた女は誰だったのか。
直接尋ねることもできる。
だが、見間違いだった場合、なぜ今さら自分が悠斗の行動を気にしているのか、説明しなければならない。
友理奈は文章を入力した。
――この前、西宮にいた?
しばらく画面を見つめたあと、その文字をすべて消す。
もう1度、別の文章を入力する。
――久しぶり。元気にしてる?
送信ボタンへ指を置く。
しかし、友理奈はまだ押さなかった。
「本当に悠斗だったのかしら……」
静かな部屋で、友理奈の声だけが響く。
人混みの中ですれ違った、ほんの一瞬の横顔。
それだけのはずであった。
だが、小さな疑問は、一度気になり始めるとなかなか消えない。
栄子と悠斗は、この日、自分たちが何人もの知り合いに見られていたことを知らない。
茜には正体を知られた。
リプラスには噂が届いた。
菜奈とは気づかないまますれ違った。
そして友理奈の胸には、確かめずにはいられない疑問が残った。
秘密というものは、ある日突然なくなるのではない。
見つけた者の胸の中で、少しずつ形を持ち始めるのである。




