第15話 2つの水辺と秘密の週末
猫は水を嫌う、と人間はよく言う。
間違いではない。
雨の日には濡れない場所を探すし、わざわざ大きな水たまりへ飛び込もうとも思わない。
ところが人間は、夏になると金を払ってまで大量の水へ入りに行く。
しかも、水へ入るためだけの服まで用意するのである。
人間という生き物は、まことに手間がかかる。
もっとも、その服を見た者の心が少々騒がしくなることは、吾輩にも理解できなくはない。
◇
7月の土曜日。
朝から強い日差しが魚崎の町へ降り注いでいた。
梅雨の名残を押しのけるような青空である。
いつもなら焼きたてのパンの匂いが漂い始める時間だが、その日のポピーは閉まっていた。
入口には、優美が書いた紙が貼られている。
――本日は、オーブンのメンテナンスのため休業いたします。
店内に客の姿はない。
代わりに、工房では工具箱を持った作業員がオーブンの扉を開き、内部を点検していた。
栄子は休みを利用して、六甲アイランドのプールへ出かけるらしい。
同行するのは、宮本茜と、その子供である隆司と彩華。そして周防祐介、祐実の兄妹である。
優美は業者への対応があるため、店に残ることになっていた。
「お姉ちゃん、ごめんね。任せちゃって」
「いいのよ。今日は焼かないんだから、私1人で十分」
優美はそう言って、出かける栄子を送り出した。
「その代わり、しっかり楽しんできて。茜さんの子供たちもお願いね」
「はーい」
栄子は大きな鞄を肩にかけ、軽い足取りで皆との待ち合わせ場所へ向かった。
吾輩は店の脇から、その後ろ姿を見送った。
猫の足で六甲アイランドまで追いかけるつもりはない。
水へ入る人間を見るために、海を渡る橋まで越えるほど吾輩は暇ではないのである。
ただし、猫には猫の情報網がある。
この日の出来事は、六甲アイランドを縄張りにする猫から、のちの猫会議で詳しく聞くことになった。
◇
一行が六甲アイランドのプールへ入ったのは、午前11時であった。
更衣室から出てきた隆司と彩華は、水を見るなり声を上げた。
「流れるプールから行こう!」
「先に大きいプールがいい!」
「走ったら危ないわよ」
茜が声をかける。
隆司と彩華は揃いの紺色のスクール水着姿で、今にも別々の方向へ飛び出しそうになっていた。
茜はビキニの上に短いパンツを合わせている。
子供を2人産んだとは思えないほど引き締まった腰回りと、女性らしい豊かな身体つきは、周囲の視線を自然と集めていた。
本人はまるで気にすることなく、日焼け止めを片手に子供たちを呼び戻す。
「隆司、彩華。先にこれを塗ってから」
「えー」
「さっき家で塗ったよ」
「水に入る前に、もう1度。ほら、並んで」
休日にダンス教室を手伝っているだけあって、茜の身のこなしは軽い。
逃げようとした2人の肩を簡単につかまえ、手早く日焼け止めを塗っていく。
その横では、祐実が栄子の水着姿を見て目を輝かせていた。
「栄子さん、その水着かわいい!」
「ありがとう。祐実ちゃんのも似合ってるよ」
栄子は明るい色のビキニを身につけていた。
パン工房で働く時とは違い、肩も腹もすっかり日にさらされている。
祐介は、その姿を見ないようにしているつもりで、何度も見ていた。
人間の男は、見てはいけないと思うものほど気になるらしい。
「お兄ちゃん」
祐実が声をかけると、祐介は露骨に肩を揺らした。
「な、何だよ」
「さっきから、どこ見てるの?」
「プールだよ」
「プールはそっちだけじゃないけど?」
「人が多いから、隆司たちを見失わないようにしてるんだ」
「へえ」
祐実は面白そうに笑った。
茜も2人の会話を聞き、祐介の視線の先を確かめる。
そして何も言わず、口元だけで笑った。
人の恋心に気づきやすい茜にとって、祐介の態度はあまりにも分かりやすかったのである。
当の栄子だけは気づかない。
「祐介くんも早く行こう。2人に置いていかれるよ」
「あ、はい」
栄子に笑顔で呼ばれ、祐介は慌てて皆のあとを追った。
流れるプールでは、隆司と彩華が浮き輪につかまり、どちらが先へ進めるか競争を始めた。
「流れてるんだから、競争にならないでしょう」
栄子が笑う。
「押したら速くなるよ!」
「隆司、ずるい!」
彩華が水をかけ返し、そのしぶきが祐介の顔へまともに当たった。
「うわっ」
「ごめん、祐介お兄ちゃん!」
「大丈夫」
祐介が顔の水を拭っていると、栄子が近づいてきた。
「これ、使う?」
差し出されたのは、栄子のタオルだった。
「いや、大丈夫です。自分のがありますから」
「遠慮しなくていいのに」
祐介は必死に平静を装ったが、耳まで赤くなっていた。
その様子を見ていた祐実は、茜の横へ寄る。
「分かりやすいですよね」
「そうねえ」
茜は声を落として答えた。
「でも、本人が頑張るまでは見守ってあげましょう」
「はーい」
そう答えた祐実の顔には、見守るだけでは済ませそうにない笑みが浮かんでいたという。
昼食を挟み、一行は波のあるプールや滑り台でも遊んだ。
隆司と彩華に何度も引っ張り回された祐介は、午後にはすっかり疲れていた。
「祐介お兄ちゃん、次あっち!」
「少し休ませてくれないか」
「若いのに情けないなあ」
茜が笑う。
「茜さんが元気すぎるんですよ」
「祐介くんもダンスを始めたら? 体力つくわよ」
「それは遠慮します」
「じゃあ、栄子ちゃんと一緒なら?」
「えっ」
祐介はまた言葉を詰まらせた。
栄子は自分の名前だけを聞き取り、不思議そうに振り返る。
「私が何?」
「何でもない、何でもない」
茜は楽しそうに手を振った。
午後5時。
閉園時間に合わせ、一行は着替えを済ませてプールを出た。
隆司と彩華は遊び疲れ、帰り道ではすでに眠そうにしている。
「栄子ちゃん、一緒に帰らないの?」
茜が尋ねた。
「うん。今日はこのあと、ちょっと用事があるから」
「そう」
茜は栄子が毎週末どこかへ出かけていることを知っている。
だが、子供たちや周防兄妹の前で詳しく聞くことはしなかった。
「じゃあ、気をつけてね」
「ありがとう。今日は楽しかった」
「栄子さん、また一緒に行きましょうね」
祐実が手を振る。
祐介も、少し遅れて頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。またね、祐介くん」
その一言だけで祐介の疲れは少し軽くなったらしい。
まことに単純な男である。
◇
栄子たちが水と戯れていた頃、休業中のポピーでは、優美が作業員から説明を受けていた。
「今のところ大きな異常はありません。消耗している部品を交換して、温度センサーも調整しておきます」
「明日の朝から使えますか?」
「はい。最初に空焼きして、温度が安定することだけ確認してください」
工房には、工具が触れ合う金属音が響いている。
パンの匂いがないポピーは、吾輩にとって少しばかり物足りない。
吾輩が店の外の日陰で横になっていると、午後になって敬助が現れた。
休日らしい軽い服装だが、手には薄い鞄を持っている。
「こんにちは、優美さん」
「敬助さん。今日はありがとうございます」
優美が入口を開けた。
「お休みの日に、すみません」
「いえ。こちらから、相談しましょうと言ったことですから」
雑誌の記事が出て以来、ポピーでは人気商品が早い時間に売り切れるようになった。
店頭に並ぶ客も増え、電話で取り置きを頼まれることも多くなっている。
人の手だけで管理し続けるには、そろそろ限界が見え始めていた。
優美と敬助は、客のいない店内で向かい合った。
敬助が鞄からノートを取り出す。
「まず、今困っていることを順番に教えてください」
「予約のお電話が増えたことです。忙しい時間に電話へ出ると、販売も包装も止まってしまって」
「予約内容は、今は紙へ書いているんですよね」
「はい。お名前、商品、個数、受取時間を書いています。でも、売場の商品と予約分を分ける時に、間違えそうになることがあって」
「営業時間外に受け取りたいという要望はありますか?」
「あります。仕事帰りだと間に合わない方も多くて」
敬助は、優美の話を聞きながら項目を書き出していく。
予約受付。
在庫の確保。
受取時間。
本人確認。
支払い。
そして、営業時間外の受け渡し。
「前に話していた、ロッカーのようなものですね」
優美が言った。
「はい。ただ、ロッカーを置くだけでは解決しません」
「そうなんですか?」
「誰が何を予約したのか、代金をどう支払うのか、どの扉へ商品を入れたのか。全部が正しくつながって、初めて使える仕組みになります」
「思っていたより大がかりですね」
「最初から大きな仕組みにする必要はありません。ポピーで本当に必要な機能を整理して、小さく始める方法もあります」
敬助は仕事の顔で話していた。
だが、優美が困らない仕組みにしたいという気持ちは、仕事だけのものではないのであろう。
「商品数や、1日に受けられる予約の上限も決めたほうがいいでしょう。無制限に受け付けたら、今度は栄子さんが倒れてしまいます」
「それは困ります」
「今日は決める必要はありません。実際の作業を見ながら、何が負担になっているのか、もう少し確認させてください」
「はい。これからも相談に乗ってもらえますか?」
「もちろんです」
敬助は迷うことなく答えた。
「ポピーに合う方法を、一緒に考えましょう」
優美は、ほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます、敬助さん」
人のいない店内で、2人の声だけが静かに響いた。
工房では作業員がオーブンを直している。
売場では敬助が、これからのポピーを支える仕組みを考えている。
パンを焼かない休業日にも、店は少しずつ前へ進んでいたのである。
◇
プールで皆と別れた栄子は、そのまま阪急岡本駅近くにある悠斗のマンションへ向かった。
着替えも泊まりの荷物も、初めから鞄に入れてあった。
これは偶然ではない。
最初から泊まるつもりだったのである。
その夜のことは、岡本周辺の黒猫から聞いた。
玄関を開けた悠斗は、栄子の顔を見るなり笑ったという。
「おかえり。ずいぶん日に焼けた?」
「ただいま。ちゃんと日焼け止め塗ったから、そんなに焼けてないよ」
「肩が少し赤いけど」
悠斗が指先で栄子の肩へ触れる。
「あ、本当?」
「冷やしたほうがいいね」
「その前に、お腹すいた」
「色気より食欲か」
「今日は子供たちに引っ張り回されたんだもん」
栄子は部屋へ上がると、プールで撮った写真を悠斗へ見せた。
隆司と彩華が水をかけ合っている写真。
祐実と並んで笑っている写真。
茜が子供たちを追いかけている写真。
そして、少し離れた場所に祐介が写り込んでいる写真もあった。
「楽しそうだね」
「うん。祐介くんも来てくれたから、子供たちの相手をしてくれて助かったよ」
「祐介くん?」
悠斗は写真へ目を向けた。
「周防祐実ちゃんのお兄さん。優しくて、すごく真面目な子」
「へえ」
悠斗はそれ以上、何も聞かなかった。
栄子も、祐介の気持ちには気づいていない。
写真の中で栄子を見つめる祐介の視線に、悠斗が気づいたかどうかは分からなかった。
「明日はどうする?」
栄子が尋ねる。
悠斗は窓の外を見た。
夜空には雲が少なく、翌日も晴れるという予報が出ていた。
「せっかくの夏だし、海へ行かない?」
「海?」
「須磨。朝から行けば、ゆっくりできるよ」
「昨日もプールだったのに、明日は海?」
「嫌?」
栄子は少しだけ考えたあと、悠斗へ身体を寄せた。
「行く。ちょっと遊びすぎな気もするけど」
「夏だからいいんじゃない?」
「じゃあ、日焼け止め塗るの手伝ってね」
「喜んで」
2人は顔を見合わせて笑った。
週末だけの通い妻は、その週に限って、2日続けて水着を着ることになったのである。
◇
翌日の日曜日。
空は朝からよく晴れていた。
悠斗は水色のプジョー308CCの屋根を開け、栄子を助手席へ乗せた。
風を受けながら走る車は、岡本から須磨の海へ向かった。
その頃、運送業を営む夫婦の小型トラックも、仕事で同じ方面を走っていた。
そして、その荷台にはココアが忍び込んでいた。
本人によれば、狙って乗ったわけではないらしい。
日陰で昼寝をしていたところ、荷物と一緒に出発してしまったという。
猫は失敗をそのまま認めない。
偶然の移動も、本人が言えば立派な遠征になるのである。
須磨で荷台から降りたココアは、潮の匂いに鼻を動かした。
夏の砂浜には多くの人間が集まっていた。
海へ入る者。
砂の上で寝転ぶ者。
食べ物を広げる者。
ココアが海の家の近くを歩いていると、聞き覚えのある声がした。
「悠斗、冷たい!」
振り返った先にいたのは、栄子であった。
栄子は水着姿で波打ち際に立ち、隣にいる茶髪の男へ海水をかけていた。
男も笑いながら水をかけ返す。
2人の距離は、ただの知り合いにしては近い。
栄子が足を取られると、男は腰へ手を回して支えた。
栄子は離れるどころか、そのまま男の腕へしがみついて笑っていたという。
ココアは物陰に身を伏せ、しばらく2人を観察した。
「あれは間違いなく、ポピーの栄子だった」
のちの猫会議で、ココアはそう断言した。
「男は茶髪。背が高くて、よく笑う。栄子はそいつを悠斗と呼んでいた。水色の屋根が開く車で来ていたぞ」
猫たちが一斉にざわめいた。
吾輩は目を細めた。
栄子が毎週土曜日にどこかへ出かけ、日曜日の夕方に帰ってくることは知っていた。
岡本の猫から、男の家へ通っていることも聞いている。
しかし、魚崎から離れた須磨の海でまで目撃されるとは、本人も思っていなかったであろう。
人間は、遠くへ行けば誰にも見られないと思うことがある。
だが、猫の目は町と町の間にもある。
荷台に乗る猫もいれば、駅前で眠る猫もいる。
そして、見聞きしたことは魚崎八幡の猫会議へ運ばれてくる。
「それで、2人は何をしていたのだ」
吾輩が尋ねると、ココアは少し考えた。
「海で遊び、飯を食い、また海へ入った。ずっと楽しそうだった」
「そうか」
それならば、今のところ問題はない。
栄子が幸せそうであるなら、吾輩に異論はない。
ただし、その男が栄子を泣かせるようなことをすれば話は別である。
魚崎一帯を仕切る者として、詳しく調べる必要がある。
ポピーでは、優美と敬助が店の未来を支える仕組みを考え始めていた。
その一方で、栄子は水色の車に乗る男と、誰にも知らせていない週末を過ごしている。
人間たちの事情は、少しずつ複雑になってきた。
だが、吾輩たち猫は見ている。
夏の水辺で交わされる笑顔も、店の中で縮まる距離も。
秘密というものは、隠した人間より先に、猫が見つけるのである。




