第14話 追い風が運んできたもの
人間は、よい知らせを風にたとえることがある。
追い風が吹いた。
風向きが変わった。
波に乗った。
吾輩たち猫にとって、風とは匂いを運んでくるものである。
焼きたてのパンの匂いも、魚の匂いも、見知らぬ猫の匂いも、風に乗ってやってくる。
ポピーに吹き始めた風も、やがて店の外へ広がっていくことになる。
◇
取材班がポピーを訪れた翌日の土曜日。
夕方の空には雲が残っていたが、雨は降っていなかった。
長谷川敬助と村澤優美は、いつものように近所の運動施設で並んで走っていた。
2人が使っているのは、床の上を走り続けるための機械である。
人間は移動する必要がない時まで走る。
猫には理解しがたい習慣だが、敬助にとっては優美と話すための大切な時間になっているらしい。
「昨日、ポピーに雑誌の取材が来たんです」
優美が速度を少し落としながら言った。
「取材ですか」
「はい。神戸のお店を紹介する地域情報誌です。カメラマンさんと記者さんが来られて」
「それはすごいですね」
「栄子は作業をしながら撮ってもらったので、まだ普段どおりだったんですけど……。私はインタビューで何を話せばいいのか分からなくて、すごく緊張しました」
優美は恥ずかしそうに笑った。
「店の歴史を聞かれたのに、途中で何を話していたのか分からなくなってしまって」
「優美さんが緊張するのは、少し意外です」
「私だって緊張しますよ。カメラを向けられると、どこを見たらいいのか分からなくなるんです」
「いつもどおりにしていれば、十分だと思います」
敬助は、ごく真面目な顔で答えた。
「ポピーも、優美さんも、飾って見せる必要はありませんから」
「……ありがとうございます」
優美は前を向いたまま、少しだけ頬を赤くした。
しかし、敬助はそれに気づかない。
走行距離を示す数字を確認しながら、さらに続けた。
「雑誌の記事が、ポピーの追い風になるといいですね」
「そうですね。お客さんが少し増えてくれたら、今後の材料費のことも考えやすくなるんですけど」
鳥インフルエンザの影響による、鶏肉と卵の値上がり。
優美は詳しい金額までは話さなかったが、店が仕入れ価格の高騰に悩んでいることを敬助へ伝えた。
「値段を上げるしかないんでしょうか」
「原価割れを続けるわけにはいきません。ただ、いきなり大きく上げるのではなく、商品の構成や販売数も含めて考えたほうがいいでしょうね」
敬助は仕事の時と同じように、真面目に答えた。
すぐに提案を押しつけることはしない。
それでも、優美が困っていると知れば、頭のどこかで解決方法を考え始めてしまう男なのである。
「何かあれば、いつでも相談してください」
「はい。その時はお願いします、敬助さん」
2人は並んだまま、再び走る速度を上げた。
前へ進まない機械の上で、2人の距離だけは少しずつ縮まっているようであった。
◇
同じ頃。
魚崎から北東へ離れた阪急岡本駅近くのマンションでは、栄子が悠斗と週末を過ごしていた。
この日の様子は、岡本周辺を縄張りにする黒猫から、後日の猫会議で聞いた話である。
人間の足でも魚崎から40分ほどかかる場所だが、猫の情報網に距離は関係ない。
夕食を終え、風呂も済ませた2人は、寝床の上で身体を寄せ合っていた。
栄子は悠斗の胸に頭を預け、悠斗はその肩を抱いている。
いわゆる、ピロートークというものである。
猫ならば黙って毛繕いでもしていればよいところを、人間はこういう時にもよく話す。
「昨日ね、ポピーに雑誌の取材が来たんだよ」
「へえ。どこの雑誌?」
「『KOBE♡ラブ』っていう地域情報誌。森口さんっていう記者さんと、藤田さんっていうカメラマン」
「藤田さん?」
悠斗が少し身体を起こした。
「坊主頭で、丸い眼鏡をかけてた?」
「そうそう。口ひげと顎ひげがある、すごく存在感のある人」
「ああ、あの人ね」
悠斗は納得したように笑った。
「僕もWEBの仕事で、藤田さんとは何度かやり取りさせてもらったことがあるよ。飲食店のサイトを作る時に、料理写真をお願いしたんだ」
「有名な人なの?」
「食レポやB級グルメの分野では有名だよ。藤田さんが認めた店は間違いないって言われてる。撮影した料理が本当においしそうに見えるし、本人もかなり食べ歩いてるからね」
「へえ、そうなんだ」
栄子は少し嬉しそうに、悠斗の胸元へ頬を寄せた。
「なんかね、私、すごく褒められちゃったんだよ。いい顔をしてるとか、職人って面構えだとか」
「おお、それはすごい」
悠斗は栄子の頭を撫でた。
「栄子の職人としての腕前を認めてくれたんだね」
「腕前まで分かるのかな。写真を撮っただけなのに」
「あの人なら、作ってる姿やパンを見れば分かるんじゃないかな」
「撮れば味が分かるって言ってた」
「言いそうだなあ」
悠斗が笑い、栄子もつられて笑う。
「もしかすると、ポピーはこれから人気爆上がりかもよ?」
「あはは。そうなったらいいんだけどね」
「忙しくなったら、土曜日も来られなくなる?」
悠斗が冗談めかして尋ねる。
栄子は少し考えるふりをしたあと、その身体へ抱きついた。
「それは嫌。どんなに忙しくても来る」
「よかった」
「悠斗が寂しくて泣いちゃうもんね」
「泣くのは栄子のほうじゃない?」
「泣かないもん」
「じゃあ、試しに来週は――」
「それは駄目」
栄子は答え終わる前に、悠斗の口を手で塞いだ。
2人は顔を見合わせ、また笑った。
その時の栄子は、藤田の評価がどれほど大きな意味を持つのか、まだ実感していなかった。
◇
数週間後。
情報誌「KOBE♡ラブ」の最新号が発売された。
特集は、神戸の町で見つけた本当においしい店。
ポピーは見開きで紹介されていた。
古い町並みに溶け込む店構え。
棚いっぱいに並んだパン。
真剣な表情で生地を扱う栄子。
姉妹で並んだ優美と栄子の写真。
森口の記事には、長年にわたって地域で親しまれてきた店の歴史と、父の療養中も店を守る姉妹の姿が丁寧に書かれていた。
そして記事の端には、藤田の短い推薦文が添えられていた。
――見た目だけではない。生地と具材に、作り手の仕事が見える店。
その1文が、想像以上の力を持っていた。
雑誌の発売後、最初の週末。
開店前のポピーには、見慣れない人間たちが並び始めた。
「ここが雑誌に載ってた店?」
「藤田さんがおすすめしてたところよね」
「デニッシュが人気らしいよ」
行列は店の前からバス道に沿って伸びていった。
吾輩のいつもの昼寝場所まで、人間の足で埋まりそうな勢いである。
「並ぶなら、吾輩の場所を空けておけ」
そう言ってみたが、当然、人間には通じない。
開店すると、客が次々に店内へ入った。
優美が注文を聞き、栄子と茜がパンを補充する。
焼き上がったパンを棚へ並べても、すぐに籠が空になる。
「デニッシュ、あと何個?」
「今焼いてる分で最後!」
「鶏肉のパンは?」
「そっちも残り少ないです!」
「すみません、こちらの商品はお1人様2個まででお願いします!」
会計を待つ列は途切れず、電話も鳴り続けた。
取り置きの問い合わせ。
営業時間の確認。
売り切れ商品の焼き上がり時刻。
優美は接客と電話対応を行き来し、栄子は休む暇もなく生地を仕込んだ。
茜も店内を駆け回っている。
昼を過ぎた頃には、ほとんどの籠が空になっていた。
午後の早い時間、最後に残っていたパンも売れた。
「本日のパンは、すべて売り切れました」
優美が店頭へ札を出す。
本来の閉店時刻より、かなり早い。
客が増えることを望んでいたはずなのに、3人の顔には喜ぶ余裕さえ残っていなかった。
◇
その日の夕方。
敬助は、いつものようにポピーへ向かった。
ところが、まだ営業しているはずの時間なのに、店の灯りが落ちている。
入口には「本日完売」の札が出ていた。
「もう閉店したのか?」
不思議に思った敬助が店の横へ回ると、裏口近くで片づけをしていた優美と目が合った。
「敬助さん」
「優美さん。今日は、ずいぶん早い閉店ですね」
「全部、売り切れてしまったんです」
「全部ですか?」
店内では、栄子が空になった籠を重ねていた。
その隣では、茜が椅子へ腰を下ろし、疲れ切った様子で肩を回している。
敬助は、3人の姿を見て驚いた。
「雑誌の影響ですか?」
「はい。まさか、ここまでたくさんの方が来てくださるとは思わなくて」
優美は嬉しそうに笑おうとしたが、疲労のほうが勝っていた。
「朝からずっと、こんな調子でした」
「パンを作るのも、並べるのも、会計も、全部追いつかなくて」
栄子も額の汗を拭いながら言った。
「予約を受けても、取りに来てもらう頃には店を閉めてるかもしれないし。受け渡すだけで、誰かが残らなきゃいけないんですよね」
敬助は、空になった棚を見回した。
「そろそろ、人海戦術だけでは限界があるのかもしれませんね」
「じんかいせんじゅつ?」
栄子が首をかしげる。
「人の数と作業量だけで対応する方法です。今は3人が頑張ることで何とか回していますが、お客さんが増え続ければ、いずれ追いつかなくなります」
「でも、一時的なものかもしれませんし……」
優美が言った。
雑誌の記事を見た客が押し寄せるのは、今だけかもしれない。
慌てて人を増やしたり、設備へ大きな費用をかけたりしたあとで客足が戻れば、店の負担になる。
「そうですね。まずは、しばらく様子を見たほうがいいと思います」
敬助も頷いた。
「ただ、継続的にお客さんが増えるようなら、作業の一部をシステム化することも考えたほうがよいでしょう」
優美は、少し驚いたように敬助を見る。
「システム化ですか?」
「予約の受付、支払い、商品の受け渡しなどです。すべてを人が対応しなくてもよい仕組みを作れば、負担を減らせます」
敬助の頭には、先日の会議で説明されたスマートロッカーが浮かんでいた。
予約した客が、指定された番号で扉を開ける。
営業時間に間に合わなくても、代金を支払い、取り置きしたパンを受け取れる。
以前、優美が口にした「コインロッカーみたいなもの」という言葉が、今度は現実的な答えとして形を持ち始めていた。
それでも敬助は、その場で導入を勧めなかった。
会社の商品を、親しい相手の店へ押しつけたくはない。
まずはポピーの状況を見て、必要とされた時に話すべきだと考えたのであろう。
「もし本当にお客さんが増え続けて、私たちだけでは難しくなったら……」
優美は、敬助の顔を見つめた。
「その時は、相談に乗ってもらえますか?」
「もちろんです」
敬助は、迷わず答えた。
「ポピーに合う方法を、一緒に考えます」
「ありがとうございます、敬助さん」
疲れていた優美の顔に、ようやく柔らかな笑みが戻った。
その様子を、吾輩は裏口近くの植え込みから眺めていた。
スマートロッカーとやらが置かれれば、中にはパンが入るらしい。
問題は、猫にも開けられる仕組みなのかということである。
相談するなら、ぜひその点も考慮してもらいたい。
◇
同じ頃。
神戸市内にある高級ビストロ「レッドドロップス」の一室で、1人の女が「KOBE♡ラブ」を開いていた。
高梨友理奈、22歳。
レッドドロップスのオーナーを父に持つ大学4年生である。
手入れの行き届いたアッシュブラウンの髪が、肩から胸元へ緩やかな波を描いている。
白いシルクブラウスに黒いタイトスカート。
その上には、金色の縁取りが施されたピンクのツイードジャケットを羽織っていた。
友理奈は、ポピーを紹介した記事を眺めていた。
栄子がパンを作る写真。
優美と栄子が店頭で並ぶ写真。
そして、藤田の推薦文。
「へえ……。ポピーって、こんなお店だったんだ」
レッドドロップスは以前から、ポピーのパンを一部の料理に使用している。
しかし友理奈自身は、仕入れ先の職人や店の事情まで詳しく知らなかった。
「せっかくパパのお店でも使ってるんだし、『人気店ポピーのパン使用』って売り出すのもいいかもね」
友理奈はもう1度記事へ目を通すと、雑誌を閉じて机の上へ置いた。
ポピーに吹き始めた追い風は、少しずつ魚崎の外へも届き始めていたのである。




