第13話 売り切れの先に
人間は、物が足りなくなると知恵を絞る。
食べ物が足りなければ値段を変え、置き場所が足りなければ箱を作り、時間が足りなければ誰かを働かせる。
猫の場合は、もっと単純である。
食べ物がなければ、ある場所へ行く。
それでもなければ、もらえるまで鳴く。
その点に限れば、人間より猫のほうが合理的なのである。
もっとも、人間が作る箱というものには、吾輩も少々興味がある。
どうやら長谷川敬助という男は、近いうちに大きな箱を売る仕事を任されるらしい。
◇
神戸港でリプラスの懇親会が開かれた、その翌週。
株式会社リプラスでは、朝から大がかりな会議が開かれていた。
議題は、新たに始めるスマートロッカー事業についてである。
中核を担うことになったのは、敬助が所属するシステムソリューション部であった。
この部署は、人、物、金、場所、時間――さまざまな情報をシステムで管理してきた。
社員の入退室を記録したかと思えば、商品の在庫を数え、施設の予約を受け付け、売上や利用時間まで管理する。
社内では、半ば冗談交じりに「なんでも屋」と呼ばれている。
新しいスマートロッカーには、利用者の認証、扉の制御、荷物の受け渡し、空き状況、料金、利用時間、異常発生時の通知など、多くの管理機能が必要になる。
まさに、なんでも屋の仕事であった。
部長会議には、広報部、営業部、技術部、総務部、経理部、システムソリューション部、フィールドサポート部など、ほぼすべての部署から部長と側近が集められていた。
そして会議室の端には、オブザーバーとしてCTOの松嶋崇も座っていた。
人混みを好まず、大勢が集まる会議へめったに姿を見せない男である。
その松嶋が朝から同席しているだけでも、会社がこの事業へ相当な力を入れていることが分かる。
「ロッカー本体だけを売って終わりでは意味がない」
松嶋が、会議資料を見ながら言った。
「認証、予約、決済、監視、保守まで含めて、継続的に使ってもらえるサービスにする。そこが今回の事業の要だ」
営業部が販売先の候補を挙げ、広報部が宣伝方法を検討する。
技術部はロッカー本体と制御装置について説明し、フィールドサポート部は設置後の保守体制を問題にした。
総務部と経理部からは、契約や請求方法について質問が出る。
そして、そのたびに話を整理していたのが敬助である。
「利用者、管理者、設置事業者で、必要な機能を分けるべきです」
「店舗向けと施設向けでは運用が異なります。最初からすべてを同じ仕様へ押し込むと、現場で使いにくくなります」
「障害時に扉を開ける手段は、通信が切れた場合も想定してください」
話題は途切れることなく続いた。
午前中に終わるはずだった会議は午後へ延び、午後の会議も夕方まで続いた。
昼食として配られた弁当は、味を覚える暇もないまま消えていった。
夕方になった頃には、敬助の眼鏡の奥に隠しきれない疲労が浮かんでいた。
この情報は、その日のうちにリプラス周辺を縄張りにする猫から魚崎八幡へ届けられた。
猫の情報網を甘く見てはいけない。
人間が1日かけて決めたことも、その夜には吾輩の耳へ入るのである。
◇
会議を終えた敬助がポピーへ立ち寄ったのは、閉店時刻の少し前だった。
空には梅雨の名残を感じさせる灰色の雲が浮かんでいたが、雨は降っていなかった。
吾輩は店の外にある植え込みの横で、夕方の涼しい風に当たっていた。
店内へ入ってきた敬助は、いつもより明らかに疲れている。
「いらっしゃいませ、敬助さん」
優美が声をかける。
「こんばんは、優美さん。今日は朝からずっと会議でした」
「ずっとですか?」
「ほぼ1日です。新しい事業を始めることになりまして、営業から保守まで全部の部署が集まっていました」
「それは大変でしたね」
「大変なのはこれからでしょうね。うちの部署が中心になって進めることになったので」
敬助はそう言いながら、パンの並んだ棚へ目を向けた。
疲れている時ほど、気に入ったものを食べたくなるのが人間という生き物らしい。
しかし、敬助の視線が探していた場所には、空になった籠が置かれていた。
「優美さん、あのデニッシュは……」
「すみません。今日は売り切れてしまったんです」
「そうですか……」
敬助の肩が、わずかに下がった。
たかがパン1つで、ずいぶん分かりやすい男である。
「最近、夕方には売り切れることが多くて」
「人気商品ですからね。取り置きしてもらって、営業時間外に受け取れたら助かるんですが」
「営業時間外ですか」
優美は少し考え、店の外へ視線を向けた。
「コインロッカーみたいなものがあればいいんですかね?」
その瞬間、敬助の動きが止まった。
吾輩にも分かるほど、見事な止まり方であった。
「……ロッカー」
「はい。お金を入れるものではなくて、予約した人だけ開けられるような箱です。店が閉まったあとでも、パンを受け取れるようにして」
敬助の頭の中で、朝から聞かされ続けた言葉が一斉につながったのであろう。
利用者の認証。
商品の受け渡し。
利用時間。
決済。
扉の制御。
つまり、スマートロッカーである。
「どうかしましたか?」
「いえ。少し、仕事のことを思い出しました」
敬助はそう答えたが、優美へ詳しい説明はしなかった。
ポピーは、優美と栄子が大切にしている店である。
そこへ会社の仕事を持ち込んでよいものか、判断できなかったのであろう。
敬助は残っていたパンをいくつか選び、代金を支払った。
「では、今日はこれで」
「お仕事、大変そうですけど、無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
店を出た敬助は、歩きながら1度だけポピーを振り返った。
吾輩には分かる。
あの男は、店の前に置かれた箱を想像していた。
だが、その日、敬助は何も提案しなかった。
まだ、その箱が必要になる理由を知らなかったからである。
◇
その頃、ポピーでは別の問題が持ち上がっていた。
閉店後、優美と栄子は仕入れ業者から届いた価格表を前に、難しい顔をしていた。
少し前、国内の養鶏場で鳥インフルエンザが発生し、多くの鶏が殺処分されたという報道があった。
その影響が、とうとうポピーの仕入れにも及び始めたのである。
国産鶏肉と卵の仕入れ価格が、大幅に上がるという。
「これ、かなり厳しいね」
栄子が価格表を指でたどる。
「卵をたくさん使うパンは、今の値段のままだと赤字になるかもしれない」
「鶏肉を使った総菜パンもね」
「値上げするしかないのかな」
「でも、大きく上げたらお客さんが離れるかもしれないし……」
2人の声は、いつもより重かった。
値段を上げれば、客が減るかもしれない。
値段を据え置けば、売るほど赤字になる。
材料を変えれば、ポピーの味が変わってしまう。
長く続いてきた店ほど、簡単には変えられないものがあるらしい。
そしてこれは、吾輩にとっても他人事ではない。
ポピーで鶏肉を扱う量が減れば、栄子や優美から分けてもらえる欠片も減る可能性がある。
人間にとっては経営問題。
吾輩にとっては食料問題。
どちらにとっても、軽く考えてよい話ではなかった。
ただし、今すぐ答えを出す必要はない。
仕入れ価格が本格的に変わるまで、まだ少し時間があるという。
それまでに、何らかの方法を考えなければならない。
◇
翌日、ポピーに1本の電話が入った。
受話器を取ったのは優美である。
「はい、パン屋ポピーです」
『私、情報誌「KOBE♡ラブ」の森口と申します』
電話の相手は、神戸の飲食店や観光情報を紹介する地域情報誌の記者だった。
以前から魚崎周辺の店を調べており、ポピーの評判を耳にしたらしい。
『ぜひ1度、お店とパン職人さんを取材させていただきたいのですが』
優美は驚きながらも、取材を受けることを了承した。
撮影とインタビューは、その週の金曜日に決まった。
◇
金曜日の午後。
ポピーへやって来た取材班は、2人だった。
1人は森口という38歳の女性記者。
肩にかかるダークブラウンの髪に、赤いキャットアイ型の眼鏡。淡いグリーンのジャケットを着こなした、知的な雰囲気の女である。
いかにも「ざます」と言いそうな眼鏡であるが、実際の森口は、落ち着いた口調で相手の話を丁寧に聞くベテラン記者だった。
もう1人は、53歳のカメラマン、藤田。
きれいに刈り上げた坊主頭に丸眼鏡をかけ、口ひげと顎ひげを整えている。濃紺のジャケットを着た、見るからに貫禄のある男である。
藤田は、神戸のB級グルメを撮らせれば右に出る者はいないといわれる、少々名の知られたカメラマンらしい。
食べ物への評価が厳しく、この男が気に入った店は後に人気が出る――そんな噂まであるという。
撮影が始まると、藤田は人が変わったように素早く動いた。
焼き上がったパン。
棚に並ぶ総菜パン。
艶のあるデニッシュ。
小麦粉をつけたまま生地を扱う栄子の手元。
角度を変え、姿勢を低くし、何度もシャッターを切っていく。
「栄子さん、そのまま。こっちを見なくていいよ」
「はい」
「いい顔してるねぇ。職人って面構えだ」
栄子は照れながらも、パン生地から手を離さなかった。
藤田は焼き上がったパンへカメラを向け、さらに数枚撮影する。
「パンもいい味を出してるねぇ。こいつは、なかなかのもんだ」
森口が赤い眼鏡の位置を直した。
「藤田さんが、撮影中にそこまで褒めるのは珍しいですね」
「うまそうなものは、写真を撮る前から分かるんだよ」
「まだ召し上がっていませんけれど」
「撮れば分かる」
人間には、写真を撮るだけで味が分かる者もいるらしい。
猫には理解しがたい能力である。
藤田は最後に、店頭に並ぶ栄子と優美を撮影した。
「はい、2人とも少し近づいて。そうそう、そのまま笑って」
栄子が明るく笑い、優美も少し緊張しながら微笑む。
シャッターの音が、何度も店内へ響いた。
取材は、夕方まで続いた。
森口は店の歴史や人気商品について細かく尋ね、藤田はパンと店内を念入りに撮影した。
帰り際、森口は名刺をしまいながら言った。
「掲載号が決まりましたら、あらためてご連絡いたします。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
取材班を見送ったあと、栄子と優美は、ほっとしたように顔を見合わせた。
その時の2人は、まだ知らなかった。
藤田が撮った写真と森口が書いた記事が、ポピーへどれほど多くの人間を呼び寄せることになるのか。
パンが次々に売り切れ、嬉しいはずの繁盛に頭を抱えることになるのか。
そして敬助が思い浮かべた、あの箱が必要になる日が近づいていることも。
吾輩もまた、その未来を知らなかった。
ただ、取材中に藤田が試食した鶏肉入りのパンを、たいそう満足そうに食べていたことだけは覚えている。
鶏肉の危機は、まだ去っていない。
しかし、ポピーには別の風が吹き始めていた。
それが追い風なのか、嵐の前触れなのか。
猫にも、まだ分からないのである。




