第12話 港の夜と鈍感な男
人間は、火を囲むと普段より口が軽くなる。
肉の焼ける匂いと酒が加われば、仕事場では隠している感情まで顔を出す。
好意、嫉妬、秘密、勘違い。
猫ならば匂いで分かることを、人間は遠回しな言葉と態度で伝えようとする。
もっとも、いくら分かりやすく示しても、気づかぬ雄もいる。
長谷川敬助という男である。
◇
7月最初の金曜日。
株式会社リプラスでは、毎年恒例の懇親会が開かれることになっていた。
今年の会場は神戸港に面したTOTTEI PARK。その中にある、EN³ TOTTEI BBQである。
社員だけでなく、日頃から仕事を請け負っている外部の協力者も参加する。フリーランスのWEBデザイナーであり、実質的にリプラスへ常駐している中崎悠斗も、その中に含まれていた。
開催を知ったのは、前日の猫会議である。
リプラス周辺を縄張りにする灰色猫が、社員たちの会話を聞いていた。
「明日は仕事を早く切り上げて、みんなで港へ行くらしいよ」
吾輩は、すぐに興味を持った。
敬助と悠斗に加え、飯塚雅弓と間中美鈴も参加するという。普段とは違う場所へ人間が集まれば、普段とは違う出来事が起きるものである。
問題は、魚崎から神戸新港まで猫の足で行くには遠すぎることだった。
そこでココアが尻尾を立てた。
「うちの人たちの車が、金曜の夕方に新港の近くへ行くよ」
ココアは、近所で運送業を営む夫婦に飼われている猫である。吾輩たちは荷台の隅へ忍び込み、人間の車で神戸新港まで移動した。
もちろん、BBQ会場の中へ入るつもりはない。
食べ物を扱う場所へ野良猫が入り込めば、栄子や優美なら困った顔をするであろう。吾輩にも、その程度の分別はある。
吾輩とココアは建物の外側を回り、海風の通るデッキの陰に観察場所を確保した。
◇
その日、リプラスの業務は16時30分で終了した。
最初に会社を出たのは、総務の松嶋由佳を中心とするBBQ担当者たちである。
松嶋由佳、38歳。
総務の仕事だけでなく、社内行事の準備や進行も手際よくこなす女である。
由佳と数人の女性社員は17時ちょうどに現地へ入り、座席、飲み物、食材を確認した。
「飲み物はこっちへまとめましょう。肉は始まる直前まで冷やしておいて」
「松嶋さん、席は部署ごとでいいですか?」
「今日は部署を固めないで。普段あまり話さない人同士が座れるようにしましょう」
由佳は会場全体を見渡し、必要な指示を次々に出していく。
17時を過ぎると、一般の社員たちも到着し始めた。
会社でネクタイを着けていた者は外し、上着も脱いでいる。炭火と煙の匂いを、仕事着へ染み込ませたくないかららしい。
敬助も白いワイシャツにスラックスという姿で現れた。手には上着を入れた衣類袋を持っている。
対して悠斗は、濃紺の開襟シャツに細身のパンツという、いつもどおり軽やかな私服姿である。
「ケイさん、仕事帰りの父親参観みたいですね」
「中崎。おまえは会社へ来る時とほとんど変わらないだろう」
「俺は外注ですから。ネクタイを締めろとは言われません」
「服装が自由なのは認めるが、今日は遊びに来たわけじゃないぞ」
「懇親会へ遊び心を持たずに来る人、初めて見ました」
「社員同士の交流を深める場だ」
「それを世間では、みんなで楽しむと言うんですよ」
敬助は言い返そうとしたが、由佳から食材を運ぶよう頼まれ、悠斗との会話を打ち切った。
悠斗は笑いながら、その後をついていった。
◇
18時になり、BBQが始まった。
海の向こうには神戸の街の灯りが並び、空が暗くなるにつれて、水面へ細長く映り込んでいく。
魚崎にも海はある。
だが人間は、同じ海でも建物を照らし、酒を並べ、肉を焼けば特別なものになると思うらしい。
実際、肉の匂いについては特別であった。
吾輩の腹が鳴ったことは、ココアだけが知っている。
部署を混ぜた席では、普段ほとんど話さない社員同士が仕事や趣味について話していた。
その中で、もっとも多く声をかけられていたのは悠斗である。
「中崎さん、今度うちの案件も相談していいですか?」
「もちろん。内容を見てからになりますけど」
「中崎さん、飲み物は何にします?」
「ありがとう。今はこれが残ってるから、あとでいただきます」
「こっちの席にも来てくださいよ」
「後で行きます。まず、この肉を救出しないと」
悠斗は焦げかけた肉を皿へ移しながら、誰とでも自然に会話を続けている。
敬助は少し離れた焼き台から、その様子を見ていた。
「中崎。おまえは懇親会でも忙しそうだな」
「ケイさんと違って、普段から周囲と話してるだけですよ」
「俺だって必要な会話はしている」
「必要な会話しかしてないから言われるんです」
「仕事場なんだから、それで十分だろう」
「今日は仕事場じゃありません」
悠斗は敬助の持つトングへ目を向けた。
「それよりケイさん。その肉、そろそろ裏返したほうがいいですよ」
敬助は慌てて肉を裏返した。
「人と話していたせいだ」
「俺のせいにしないでくださいよ」
「おまえが話しかけてきたんだろう」
「懇親会ですから」
悠斗は実に楽しそうであった。
◇
酒が進むにつれ、飯塚雅弓の声はいつも以上に明るくなり、間中美鈴の頬にも赤みが差してきた。
敬助は焼き台の前に立ち、黙々と肉を焼いている。
雅弓がその隣へやってきた。
「長谷川さん、お肉ばっかり焼いてないで食べてくださいよー」
「食べている。それより飯塚、火の近くでふらつくな」
「大丈夫です。長谷川さんにつかまってますから」
雅弓はそう言って、敬助の右腕へ両手を絡めた。
「俺につかまる前に、飲む量を減らせ」
敬助は、雅弓が酔って足元を不安定にしているだけだと思っているらしい。
そこへ美鈴が来た。
「飯塚さん。長谷川さんを困らせてはいけません」
「困らせてません。支えてもらってるだけです」
「それを困らせていると言うんです」
美鈴は敬助の左側へ立った。
「長谷川さん。そのままだと、袖にたれがつきますよ」
「そうだな。あとでまくる」
「じっとしていてください」
美鈴は敬助の左手首へ触れ、ワイシャツの袖を丁寧に折り返し始めた。
「間中、自分でできるぞ」
「左右が同じにならないと気になるんです」
「おまえは、こういうところまで几帳面だな」
美鈴は敬助の顔を見上げ、小さな声で言った。
「……長谷川さんだからです」
「俺は上司だから、だらしなく見えないようにということか?」
「もう、それでいいです」
美鈴が不満そうに答える。
すると雅弓も敬助の右腕から手を離し、反対側の袖をつかんだ。
「じゃあ、こっちは私がやります!」
「いや、片方ずつ別の人がまくる必要はないだろう」
「左右で担当制です!」
「何の担当なんだ……」
敬助は両腕を左右へ伸ばしたまま、2人に袖をまくられている。
少し離れた席で、その様子を見ていた悠斗が笑った。
「ケイさん。着替えを手伝ってもらう子どもみたいですね」
「中崎。笑ってないで、どちらかを止めてくれ」
「2人とも楽しそうですし、いいじゃないですか」
「袖をまくるだけで、なぜこんなことになるんだ」
「そこが分からないから、ケイさんなんですよ」
「何がだ?」
悠斗は答えず、飲み物へ口をつけた。
吾輩には、美鈴と雅弓の気持ちがよく分かった。
雌同士が同じ雄を気にすれば、自然と張り合うものである。
人間の場合、その雄だけが何も分かっていないことがあるらしい。
◇
19時半を過ぎた頃、1人の男が遅れて会場へ現れた。
松嶋崇、48歳。
リプラスの技術部門を統括するCTOである。
崇は人混みを好まず、社内でもめったに大勢の前へ出てこない。BBQにも参加しないと思っていた社員が多かったらしく、姿を見た何人かが驚いていた。
崇は白いワイシャツにスラックスという仕事帰りの姿で、上着もネクタイも身につけていない。
「お疲れさまです」
社員たちへ軽く挨拶したものの、自分から輪の中心へ入ろうとはしなかった。
由佳が崇に気づき、自然な調子で声をかけた。
「崇さん、来られたんですね」
「ああ。少しだけな」
「何か食べます?」
「由佳が選んでくれ」
由佳は崇の皿を受け取り、焼けた肉と野菜を載せていく。
それを見た若い社員たちが、小声で話し始めた。
「松嶋さん、CTOとあんなに親しかったんだ」
「下の名前で呼んでたよね?」
由佳と崇は同じ名字である。
だが松嶋という名字だけで、夫婦と判断する者はいなかったらしい。由佳は結婚指輪を着けておらず、夫について社内で話すこともほとんどなかった。
雅弓が由佳へ尋ねた。
「松嶋さんって、CTOとどういう関係なんですか?」
由佳は不思議そうに答えた。
「夫婦だけど?」
「ええっ!?」
周囲にいた何人かが一斉に振り返った。
「松嶋さん、結婚してたんですか!?」
「してるわよ。別に隠したこともないけど」
「指輪してないから、ずっと独身だと思ってました!」
由佳は自分の左手へ目を落とした。
「家事や仕事の時に邪魔だから、着けてないだけよ」
崇が由佳の手を見た。
「だから指輪を着けろと言っただろう」
「あなたが選んだ指輪、少し大きいのよ」
「そうだったか?」
「10年以上前から何度も言ってます」
崇は少し考えた。
「今度、直しに行こう」
「その台詞も3回目ね」
由佳は呆れたように言ったが、口元には笑みがあった。
悠斗は2人が夫婦であることを以前から知っていたらしく、驚く社員たちを楽しそうに見ている。
「ケイさんは知ってました?」
「ああ。以前、松嶋さんがCTOの弁当を持ってきたことがあったからな」
「それだけで夫婦だと分かったんですか?」
「弁当箱に『崇』と書いてあった。それに、由佳さんが『忘れていった』と言っていた」
「相変わらず、妙なところだけ見てますよね」
「何が妙なんだ」
悠斗は、敬助の左右にいる美鈴と雅弓へ視線を移した。
「そこまで見ていて、もっと近くにあるものは見えないんですか?」
「何のことだ?」
「いえ。もういいです」
崇は20分ほど滞在しただけで、由佳へ先に帰ると告げ、静かに会場を後にした。
由佳は夫を見送ると、何事もなかったように幹事の仕事へ戻っていった。
◇
会の後半、他部署の社員が敬助へ恋愛の話を振った。
「長谷川さんって、今お付き合いしている人はいないんですか?」
「いません」
敬助は迷うことなく答えた。
美鈴と雅弓が同時に反応する。
「本当ですか?」
「本当に、いないんですか?」
敬助は2人の勢いに少し驚いた。
「なぜ同じことを2回聞くんだ」
悠斗が横から口を挟む。
「でもケイさん、気になっている人までいないとは言ってませんよね」
「中崎」
「おっと。余計なことを言いました」
敬助は否定しなかった。
その一瞬の沈黙を、美鈴と雅弓は見逃さない。
「誰なんですか?」
「会社の人ですか?」
「話すつもりはない」
敬助はそれだけ答え、水を飲んだ。
悠斗も、それ以上は尋ねなかった。
敬助に想い人がいることは知っていても、相手の名前までは聞かない。それが2人の間にある距離の取り方なのであろう。
もっとも悠斗は、自分の恋人について敬助へ話していない。
互いに相手の秘密へ踏み込まないため、肝心な情報だけが今日も見事にすれ違っていた。
◇
21時が近づき、懇親会はお開きとなった。
由佳の呼びかけで、参加者全員が港の夜景を背景に並ぶ。
雅弓と美鈴は、当然のように敬助の左右を確保した。
悠斗は少し離れた位置から、その様子を見ている。
「ケイさん、もう少しいい顔をしてください。葬式じゃないんですから」
「中崎。おまえが撮れ」
「俺も写りますよ」
「さっきから人をからかうことしかしていないだろう」
「今日は親睦を深める会ですから」
「からかうことを親睦とは言わん」
撮影する者が合図を出した。
その瞬間、雅弓が敬助の右腕へ抱きつき、美鈴も負けじと左肩へ身体を寄せた。
敬助だけが状況を理解しないまま、困惑した顔で写真に収まった。
写真を確認した悠斗は、しばらく笑いをこらえていた。
「何がおかしい」
「いえ。ケイさんらしい、いい写真ですよ」
「俺だけ表情がおかしいだろう」
「原因はそこじゃないんですけどね」
「だから、何の話だ?」
悠斗は最後まで答えなかった。
◇
帰りの車へ忍び込む前、吾輩は神戸港の夜景を振り返った。
海面には街の灯りが揺れ、夜風には炭と肉の匂いが残っている。
神戸の港は確かに美しかった。
肉の匂いも悪くなかった。
だが吾輩がその夜、もっとも興味深いと思ったのは、敬助を挟んで張り合う2人の雌と、それを笑って眺める悠斗である。
敬助だけは、最後まで何が起きていたのか理解していなかった。
港の夜景よりも見通しの悪い男である。




