第11話 妹が持ってきた眠れない夜
人間は、離れて暮らす家族が訪ねてくると、普段より少しだけ立派な自分を見せようとする。
散らかったものを片づけ、普段は拭かぬ場所まで拭き、冷蔵庫の中身まで整える。
しかし、幼い頃から自分を知る相手に、その程度の取り繕いが通じるはずもない。
ましてや、その相手が遠慮という言葉をほとんど知らぬ妹であれば、なおさらである。
長谷川敬助の新居へ、その妹が泊まりに来た。
これは、その夜に起きた出来事である。
◇
土曜日の昼過ぎ、吾輩はポピーの隣にある塀の上で、薄雲の流れを眺めていた。
梅雨の最中とはいえ、その日は朝から雨が降っていない。湿った風は重かったが、毛を濡らされぬだけましである。
ポピー前のバス停に、1台の市バスが停まった。
降りてきたのは、明るい茶色の長い髪を揺らす若い娘であった。
片方の肩には泊まりの荷物らしき鞄を掛け、反対の手には四角い布袋を提げている。娘は辺りを見回したあと、スマートフォンへ目を落とした。
「ケイにい、どこにいるの?」
電話の相手は、すぐ近くにいた。
魚崎南ライフガーデンの方角から、眼鏡の男が歩いてくる。
「菜奈。こっちだ」
「あ、ケイにい!」
長谷川菜奈、24歳。
敬助の年の離れた妹である。
菜奈は敬助の前まで駆け寄ると、挨拶より先に兄の姿を上から下まで眺めた。
「ちゃんと生活してる?」
「会って最初に言うことがそれか」
「だってケイにい、仕事が忙しくなると食事が適当になるでしょう?」
「心配しなくても、今はちゃんと食べている」
「本当に?」
「本当だ。ちょうどいい。紹介しておきたい店がある」
敬助は菜奈を連れ、ポピーへ入った。
吾輩も塀から下り、店の外までついていく。
◇
「いらっしゃいませ。あ、敬助さん」
売り場にいた優美が笑顔を見せた。
敬助の表情も、ほんの少し柔らかくなる。
それを菜奈は見逃さなかった。
「こんにちは。今日はお連れの方がいらっしゃるんですね」
「妹の菜奈です。新居を見たいと言って、遊びに来たんです」
「初めまして。妹の菜奈です」
菜奈は明るく頭を下げた。
「村澤優美です。敬助さんには、いつも店を利用していただいています」
「いつも?」
菜奈の眉が、わずかに持ち上がった。
「週に3回くらい来てくださるんですよ」
「へえ。ケイにいが週に3回も」
「パンを買いに来ているだけだ」
敬助は、誰にも疑われていないうちから説明した。
こういう時の人間は、説明を加えるほど怪しくなるものである。
奥から栄子も顔を出した。
「こんにちは。敬助さんの妹さんですか?」
「はい。長谷川菜奈です」
「村澤栄子です。優美の妹です」
「えっ、妹さん?」
菜奈は優美と栄子を交互に見た。
「私と同じくらいかと思いました」
「優美さんと菜奈は同い年だ」
敬助が教える。
「そうなんですね。よろしくお願いします、菜奈さん」
優美が微笑むと、菜奈も笑顔を返した。
「こちらこそ。兄がいつもお世話になっています」
言葉は丁寧であった。
しかし菜奈の目は、敬助と優美の間を忙しく往復している。
人間は胸の内を隠す時、顔だけを笑わせることがある。猫の目まで欺けると思わぬことである。
敬助は翌朝のパンを買い、菜奈にも好きなものを選ばせた。
菜奈はクリームパンとメロンパンを手に取ったあと、店を出る間際に、もう一度だけ優美を振り返った。
◇
魚崎南ライフガーデンへ着くと、菜奈は兄の部屋を遠慮なく見て回った。
「へえ。新築って、やっぱりきれいだね」
「勝手に戸棚を開けるな」
「食器、少なっ」
「1人暮らしなら十分だ」
「冷蔵庫も見ていい?」
「駄目だと言っても見るんだろう」
菜奈が扉を開ける。
中には飲み物、卵、簡単な食材、それにポピーの名が入った袋があった。
「本当にパンがある」
「だから、ちゃんと食べていると言っただろう」
「パン以外は?」
「……これから買う」
「やっぱり駄目じゃん」
菜奈は呆れながらも、どこか楽しそうであった。
その日の夕食は、2人で近所へ食材を買いに行き、簡単な料理を作った。
菜奈が野菜を切り、敬助が肉を焼く。
手際について互いに文句を言いながらも、役割は自然に決まっていった。
長く離れて暮らしていても、家族とは妙なものである。
◇
ここから先は、魚崎南ライフガーデンの駐輪場を寝床にしている茶トラから、翌日の猫会議で聞いた話である。
茶トラは敬助の部屋の近くを見回ることがある。湿気を逃がすために窓が少し開いており、室内の声がよく聞こえたという。
夕食を終えると、敬助は食器を片づけながら菜奈へ言った。
「先に風呂へ入ってこい。移動で疲れただろう」
「ケイにいが先でいいよ?」
「客を後回しにはできない」
「妹なのに客扱い?」
「泊まりに来た日は客だ」
「はーい。じゃあ、お先にいただきます」
菜奈は着替えを持ち、浴室へ向かった。
しばらくして、敬助が食後のコーヒーを飲んでいると、浴室の方から菜奈が顔を出した。
身体にはバスタオルを巻いている。
菜奈は扉の陰から、小悪魔めいた笑みを浮かべた。
「ケイにい。久しぶりに一緒にお風呂入る~?」
「ぶっ!」
敬助が飲みかけのコーヒーを吹き出した。
幸い、正面には誰も座っていなかった。だがテーブルと床には、細かなコーヒーの滴が飛び散った。
それを見た菜奈は、腹を抱えて笑い始めた。
「きゃははは! ケイにい、動揺しすぎー!」
「おまえなあ……」
敬助は咳き込みながら、布巾をつかんだ。
「お風呂、お風呂~♪」
菜奈は上機嫌で、すたこらさっさと浴室へ戻っていった。
「まったく、昔から変わらんな……」
敬助はテーブルを拭きながら、深いため息をついた。
人間の兄妹というものは、猫の同腹のきょうだいよりも、ずっと長く幼い頃の関係を引きずるらしい。
◇
風呂から上がった菜奈は、持ってきた四角い布袋を開いた。
中から出てきたのは、家庭用のゲーム機と対戦格闘ゲームであった。
「ケイにい、勝負しよう」
「それをするために持ってきたのか?」
「新居のお祝いだよ」
「どこがお祝いなんだ」
「私に勝てたら、お祝いになるでしょう?」
「言ったな」
最初は、数試合だけのはずであった。
菜奈が1試合目を取った。
「あれー? ケイにい、前より弱くなった?」
「操作を思い出していないだけだ。もう1回だ」
2試合目も菜奈が勝った。
「社会人になると、反応速度が落ちるのかなー?」
「今のは技が出なかった。再戦だ」
3試合目は敬助が勝った。
「よし」
「今のなし。ケイにい、同じ技ばっかり使った」
「対処できないほうが悪い」
「大人げない!」
「先に挑発したのはおまえだ」
どちらも、やめようとは言わなかった。
日付が変わった。
さらに1時間が過ぎた。
「これで最後」と言った後に3試合続き、「本当に最後」と言った後にも5試合続いた。
最後に時計を見た敬助は、眼鏡の奥で目を見開いた。
「……2時半だぞ」
「うそ。まだそんな時間?」
「もう、そんな時間だ」
「じゃあ、決着は次に持ち越しだね」
「今日の勝敗なら、俺の1勝差だ」
「最後の試合を勝ったほうが勝者でしょう?」
「そんな規則は聞いていない」
寝る直前まで、2人は勝敗を譲らなかったという。
仲が悪いように聞こえるかもしれない。
だが茶トラによれば、声は夜通し楽しそうであったらしい。
◇
翌朝。
敬助は長椅子へ座り、昨夜とは別人のようにぼんやりしていた。
髪は整っておらず、眼鏡の奥の目は半分しか開いていない。
菜奈は平然とポピーのメロンパンを食べている。
「ケイにい、コーヒー冷めてるよ」
「ああ……」
「昨日、あんなに意地になるから」
「おまえが……何度も再戦を……」
「私は若いから平気だもん」
「11歳しか違わないだろう……」
敬助はコーヒーを口へ運びながら、大きなあくびをした。
菜奈は帰り支度を済ませ、鞄を肩へ掛けた。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「駅まで送る……」
「そんな顔で? いいよ。バス停までの道は分かったから」
「そうか……気をつけてな……」
玄関で靴を履きながら、菜奈は何かを思い出したように振り返った。
「あ、そうだ。私、勤務先が変わるかもしれないんだー」
「んー……そうか……」
敬助は半分閉じた目のまま、曖昧にうなずいた。
「大変だな……」
「まだ決まってないけどね」
「うん……」
「じゃあね、ケイにい」
「おう……」
扉が閉まってから、敬助は長椅子へ戻った。
そして菜奈が何を話していたのか考えることもなく、そのまま横になった。
数分後には眠っていたという。
◇
菜奈はその時、敬助の新居へ遊びに来ただけであった。
勤務先が変わるかもしれないという話も、まだ決まっていない未来の話にすぎない。
それが何を意味するのか、菜奈自身にも分かってはいなかったであろう。
ましてや敬助は、聞いたことすら、ほとんど覚えていなかった。
吾輩も、その日の猫会議では特に重要な情報とは考えなかった。
人間の勤め先が変わろうと、吾輩の餌が増えるわけではないからである。
こうして菜奈の新居訪問は、寝不足の兄を1人残して終わった。
敬助は昼近くまで眠り、目を覚ました時には、妹が最後に何を言ったのかすっかり忘れていたのである。




