第10話 3度目に降ってきたもの
空から降ってくるものには、良いものと悪いものがある。
雨は、草木や人間には必要なものらしいが、猫にとってはできれば避けたい。
鳥は、猫にとって獲物になり得る。したがって、降りてきてくれるなら歓迎である。
では、鳥の糞はどうか。
これは、どこへ落ちようと悪いものに決まっている。
しかし人間の世界では、悪いことが続いた後には幸運が訪れるという考え方があるらしい。
長谷川敬助の身に起きた出来事は、その考えが正しいことを証明したのであろうか。
吾輩には、今も判断がつかない。
◇
金曜日の朝、敬助は出社前に鳩の糞を落とされた。
場所はリプラスの近くである。
左肩に生温かい感触を覚え、見下ろした敬助は、その場でしばらく動けなかったという。
会社へ着くと、すぐに上着の汚れを落とした。
朝から散々である。
それだけなら、運が悪かったで済んだであろう。
ところが昼休み、悠斗と外で食事を済ませ、会社へ戻る途中で再び鳩が飛んできた。
今度は右肩であった。
「今日はこれで2回目だ。朝は左肩、昼は右肩。本当に嫌になるよ……」
敬助は空を警戒しながら、汚れた肩を紙で拭いた。
悠斗は気の毒そうな顔をしながらも、口元では笑っている。
「左肩、右肩と来たということは、今夜あたり頭に何か降りかかるかもしれませんよ?」
「縁起でもないことを言わないでくれ……」
「ははは、冗談ですよ。ケイさんは日頃の行いがいいから、きっとラッキーなことが起こる予兆かもしれませんよ?」
「頭に降りかかるラッキーなんて、あるわけないだろう……」
敬助は深いため息をついた。
この会話は、リプラス周辺を縄張りとする灰色猫が後日の猫会議で報告したものである。
その時の敬助は、悠斗の冗談が数時間後に現実となるとは思っていなかった。
無論、悠斗も思っていなかったであろう。
◇
その日の仕事を終えた敬助は、いつものようにポピーへ立ち寄った。
「いらっしゃいませ、長谷川さん」
優美が笑顔で迎える。
「今日は、くるみパンと塩パンをお願いします」
「はい。これからお帰りですか?」
「いったん日用品を買ってから帰ります。引っ越した後は、足りないものが次々に出てきますね」
「近くのホームセンターですか?」
「ええ。歩いて行けるので助かります」
ポピーの前の道を西へ真っすぐ進むと、ホームセンターのコーナン魚崎店がある。
敬助の住む魚崎南ライフガーデンから向かう場合、途中でポピーの横を通る。帰りも同じ道を歩けば、再びポピーの前を通ることになる。
敬助はパンの入った袋を受け取り、ホームセンターへ向かった。
買ったのは、トイレットペーパー、洗剤、台所用の消耗品、それに細々とした日用品である。
店を出る頃には、両手がすっかり塞がっていた。
右手には大きな買い物袋。
左腕にはトイレットペーパー。
パンの袋は、ほかの荷物に潰されぬよう腕へ掛けている。
買い過ぎたと思ったが、もう遅い。
敬助は荷物を抱え、来た道を引き返した。
◇
日が長くなったとはいえ、19時を過ぎれば魚崎の空も薄暗くなる。
ポピーは閉店後で、売り場の照明は落とされていた。
吾輩は隣家の植え込みの横で、夜風に当たっていた。
そこへ、大荷物を抱えた敬助が歩いてくる。
敬助がポピーの横へ差しかかった、その時である。
建物の上から、何かがひらひらと舞い落ちてきた。
白ではない。
淡い紫色である。
それは風に膨らみ、敬助の頭へふわりとかぶさった。
柔らかな布が額と目元を覆い、一瞬、完全に視界を奪う。
「わっ、何だ、何だ!?」
敬助は両手が塞がっている。
トイレットペーパーを脇で押さえ、買い物袋を落とさぬようにしながら、慌てて頭の布をつかんだ。
目の前へ広げる。
淡い紫色のブラジャーであった。
「えっ!? な、なな、何で!?」
驚きのあまり、敬助の声が裏返る。
すると、建物の上から声が降ってきた。
「すみませーん! 洗濯物、落としちゃいまして!」
屋上から顔を出していたのは栄子である。
拾った人物が敬助だと気づいたらしく、栄子の目が大きくなった。
「長谷川さん!? 今、取りに行きます!」
栄子の姿が引っ込み、階段を駆け下りる足音が建物の中へ消えていった。
1分にも満たない時間である。
しかし敬助にとっては、ひどく長く感じられたに違いない。
手に持っているものを、見てはいけない。
そう思うほど、人間は見てしまうらしい。
敬助は周囲へ人がいないことを確認し、淡い紫色の布へ目を戻した。
装飾は控えめで、品のよい形をしている。
内側の表示が偶然目に入った。
『E70』
敬助の思考が止まった。
次の瞬間には、持ち主についての推論が始まっていた。
村澤家で暮らしている女性は、優美と栄子である。
栄子は小柄である。均整の取れた体つきではあるが、見た印象ではEカップまであるようには思えない。
対して優美は、背が高く、ジムの運動着でも分かるほど胸元に存在感がある。
ならば、これは優美のものではないか。
考えるべきではない。
しかし、推論というものは一度走り出すと止まりにくい。
敬助が我に返った時、ポピーの脇の扉が開いた。
「長谷川さん、拾ってくださってありがとうございます!」
栄子が息を弾ませながら駆けてくる。
「あ、いえ。ほかの民家の敷地へ入らなくてよかったですね……」
敬助は目のやり場に困りながら、ブラジャーを差し出した。
栄子は受け取ると、表示のあたりへちらりと目を向けた。
そして、いたずらを思いついた猫のように目を細めた。
「このブラ、お姉ちゃんのなんですけど、結構大きいでしょう?」
敬助の表情が固まる。
栄子は声を潜めた。
「Eカップもあるんですよ」
「えっ……あ、そう、なんですね……」
返事に困る敬助を見て、栄子は楽しそうに笑っている。
「姉妹なのに、どうしてこんなに体形が違うのかしら。私も大きくなりたかったんだけどな……」
「妹さんは、まだ諦める時期ではないと思いますよ」
敬助の声は、再び裏返っていた。
「お風呂上がりにマッサージすると大きくなる、とか言いますし……」
「あはは。真面目にフォローされると、かえって恥ずかしいですね」
自分から話題を振ったのは栄子である。
人間の雌は、時に理不尽である。
栄子はブラジャーを背中へ隠すと、少し首をかしげた。
「妹さん、では言いにくいでしょう? これからは栄子って呼んでください」
「承知しました。では、栄子さん。名前で呼んでもいいんですか?」
「もちろんです。私も敬助さんって呼ばせてもらっていいですか?」
「ええ。もちろん構いません」
「呼び方のこと、お姉ちゃんにちょっと自慢してみますね」
栄子は小悪魔めいた笑みを浮かべた。
敬助は、何と答えればよいのか分からないらしい。
「ちなみに、お姉ちゃんの胸のサイズのことは秘密ですよ」
「もちろんです」
「ではでは。これからも頑張ってくださいね、敬助さん」
栄子は軽く手を振り、すたすたと家の中へ戻っていった。
「頑張る……?」
敬助は荷物を抱えたまま、その背中を見送った。
吾輩は植え込みの横から、一部始終を見ていた。
栄子は敬助をからかって楽しんでいたようである。
同時に、姉へ近づこうとする敬助の背中を、少しだけ押したのかもしれない。
もっとも、人間の胸を覆う布を使う必要があったのかは疑問である。
◇
翌日の土曜日。
敬助は夕方、近所のジムへ向かった。
優美もいつものように運動へ来ていた。
トレーニングを終えた後、2人は休憩用の長椅子で顔を合わせた。
優美が何か言いたそうに、敬助を見ている。
「長谷川さん」
「はい」
「昨夜、落としてしまった洗濯物を拾ってくださったそうで……」
敬助の肩がわずかに跳ねた。
「あ、いえ。偶然でしたので。その、見るつもりはなくて……」
「見る?」
優美が首をかしげる。
敬助は、自分が余計なことを口にしたと気づいた。
実は栄子は、敬助に洗濯物を拾ってもらったとしか説明していなかったのである。
「その……サイズです。ブラジャーの……」
「……えっ。ああ、そうだったんですね……」
優美の表情が一瞬固まった。
しかし、彼女が思い浮かべた持ち主は栄子であった。
「あの子、いつも『私ももっと大きくなりたかった』って嘆いているんですよね」
「そうなんですか」
「それほど気にすることではないと思うんですけど」
優美は少し困ったように笑った。
「長谷川さん、あの子のブラのサイズ、見てしまったんですね」
「ええ……その、偶然、…ん? あの子の?」
「でも、Cカップって別に普通だと思うんです。やっぱり男性の基準では、小さいほうなんですか?」
「えっ!?」
敬助の声がジムの休憩場所に響いた。
周囲にいた者が振り返る。
敬助は慌てて声を落とした。
「ええと……Cカップだったんですね。栄子さんは……」
「え?」
今度は優美が固まった。
「もしかして、栄子のブラではなかったんですか?」
「はい。淡い紫色のブラジャーです……」
「えっ!?」
優美の顔が見る間に赤くなった。
2人の間に、気まずい沈黙が落ちた。
敬助は床を見ている。
優美は手にした飲み物の容器を見つめている。
「えっと……まあ、事故ですので……」
優美がようやく口を開いた。
「そ、そうですね。はい。事故ということで……」
再び沈黙する。
この場に猫がいれば、尻尾をひと振りして立ち去っていたであろう。
やがて優美が、小さな声で言った。
「長谷川さん。栄子のサイズのことは、黙っておいてくださいね」
「もちろんです。栄子さんのサイズの件は事故ですので、他言しません」
「私のことも……」
「はい。もちろんです」
優美はまだ頬を赤くしたまま、敬助を見た。
「ところで、妹のこと、栄子さんって呼んでいるんですか?」
「えっ。あ、はい。昨夜、これからは栄子と呼んでくださいと言われまして……」
優美の口元が、わずかに不満そうな形になる。
「妹だけ、名前で呼ぶんですね」
「え? あ、はい……?」
敬助には、優美の言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「ええと……どういう意味でしょうか?」
「せっかくなので、私も名前で呼んでいただけたらな、と……」
敬助の動きが止まった。
眼鏡の奥で、何度か瞬きをする。
それから、壊れ物を扱うように慎重な声で言った。
「では……優美さん、と呼ばせていただいてもいいですか?」
「はい」
優美は、うれしそうに微笑んだ。
「では私も、敬助さんって呼ばせてくださいね」
「もちろんです!」
今度の敬助の声は、裏返らなかった。
「これからもよろしくお願いしますね。敬助さん」
「こちらこそ、優美さん」
2人は、少し照れながら笑い合った。
◇
金曜日、敬助の左肩へ鳩の糞が落ちた。
次に右肩へ落ちた。
そして3度目は、淡い紫色の柔らかなものが頭へ降ってきた。
悠斗の言ったとおり、それは幸運の予兆だったのであろうか。
少なくとも敬助は、優美を名前で呼べるようになった。
優美からも、敬助さんと呼ばれるようになった。
ならば結果だけを見れば、幸運だったのかもしれない。
もっとも、その幸運が何であったのかを悠斗に説明することは、決してできぬであろうが。




