後編
N富士タワーは地獄絵図だった。
関係者一同はこの日、まさに天罰が下ったのだと考えただろう。かの摩天楼はその意味で確かにバベルの塔だった。そんなものよりいっそう過激だったと、あとになって述懐した者もいる。民間人にいささかの被害も出なかったことがもし奇跡でないとすれば、それは奇跡よりもっと途方のないことだった。
「な、なんだ!?」
「祟りだ祟りだ! 俺たちはもうだめだ、終わりなんだ……!」
この件でもっとも肝を冷やしたのは、タワーの地下深くにこもっていた千余名の人々だったに違いない。彼らは祈っていた。彼らの信仰のよりどころであるN富士タワーを維持するため、巫覡神裏教の母体組織を存続させるため、ありとあらゆる邪魔者を排除せんと日夜祈り続けていた。早い話が、商売敵を呪っていた。そこに人知の領域を超える恐ろしい存在、すなわち魔女が襲いかかったのだった。
実のところ、彼らの祈りは功を奏しつつあった。大勢のたゆまぬ懇願と献身によって、彼らを中心にある種の超自然的エネルギーの界が形成されていた。それは魔女が淀みと呼んだものだったが、彼らは神聖で純粋な、まったき力だと信じた。
負の働きかけにより生じた悪しき力が、無関係の人民にまで害をもたらす可能性に、彼ら敬虔な信者たちは気づいていなかった。地上の情報からほぼ全面的に遮断されていたためだ。気づいていても、祈りの影響力に満足こそすれ、罪悪感は覚えなかったかもしれない。いずれにしろ確かに、彼らの儀式が弱者の生命力をじわじわ弱めていることは、動かしがたい事実だった。
魔女は邪悪な呪いのうごめく領域を狙いうちにした。
はじめはタワー内部を集中豪雨が襲った。ついで雷が次々に落ちた。暴風が吹き荒れた。にも関わらず空は快晴だった。N富士タワーの上と下で働く信徒たちは、もれなく恐慌状態に陥った。もともと信心深い彼らは超常現象に対する畏れも人一倍大きい。わけもわからず怯えているうちに意識を手放す者が大半だった。
「ほーほほほ。ほーっほっほっほ。ふぉーっほっほっほ! げほげほ」
魔女は嫌な意味ですっかり忘我の境地にあった。久々に大規模の能力を放出したために、自らの力にあてられている。要は酔っぱらいだ。
「うーむ、まさに齢を重ねた者しか持ち得ないあの堂に入った迫力、狂気、圧倒的な力。美しい……あんなに残虐で美しい生き物がいるなんてな……」
駆けつけた樋口の目は奇妙にとろんとしていた。
「どうしましょうか。猛獣用の麻酔銃を持ってきましょうか」
夏目は冷静に尋ねた。
「馬っ鹿おまえ俺の魔女さんになんてことを。ここは俺に任せていいから、応援を呼んでこい」
「アイアイサー。徒手で突入する気ですか」
樋口はにやりと笑んだ。
「止めるなよ」
「まさか」
上官の実力を知る部下は肩をすくめた。
結局のところ、国家防衛軍は国会の承認を待たずに出動命令を受け、魔女災害の後始末にあたることとなった。
「説明してくれるだろう? 月冴」
「ええと。うふ。胃に優しい嘘とがっかりする事実、どちらが聞きたい?」
十時間後、戻ってきた夜更けの執務室で魔女は自主的に正座していた。ただし床から五センチメートルほど浮いているのであまり意味がない。
十時間の内訳としては、樋口が迅速かつ紳士的に魔女を捕捉し、到着した防衛軍の指揮を執って呪術行為の現場を押さえ、関係者をまとめて警察に引き渡し、気持ちよく眠りこける魔女を夏目が国防総局に運び込み、目覚めを待っていた、という流れだ。樋口はまだ現場の収拾にあたっている。
「あなたが説明すべきだと思うことを、説明してくれればいい」
「はーい……」
今の夏目は、若干の疲れが落とす陰も悩ましい美青年さながらだったが、有無を言わせぬ迫力を隠していなかった。破壊魔神と化したことによる高揚の余韻は、魔女の身のうちからすっかり失せた。
「あのねぇ、確か幕末のことだったと思うの」
観念して魔女は話し始めた。
「当時はわたしもまだ血気盛んな年ごろでね……」
そのころには樹海に居を構えてもう久しかった。まだ魔女とは呼ばれていなかった。さまざまな通り名があったが、自分からは薬師を名乗り、薬草の調合をしたり病人を診たりするのを副業にして過ごしていた。
ある日、一族の者から「我々を神格化して崇めている集団がいる」と報告を受けた。そのときはたいした話に思えず、なんら興味も抱かなかった。
気が変わったのは、富士山の麓で必死に穴を掘り中に埋まろうとする人間を見つけたせいだった。年若い娘だった。話しかけてみれば、娘は飛び上がって驚いたあとで感激の涙を流した。お会いできて光栄ですと平伏した。生き埋めになって祈るより、あなたさまの贄になりたいと懇願した。娘は怪しげな冊子を後生大事に抱えていた。
「富士の巫女さま、どうか私をお食べになってください」
魔女の堪忍袋は破裂した。怒りにまかせて『巫覡神裏之教』と書かれたその書物を没収し、即座に本拠地に乗り込んだ。すると新渡戸という壮年の男が目を爛々と輝かせた。
「おお、おおおおお! 我らの祈りが通じたぞ! ついに巫女さまが降臨なさった!」
問答無用の生理的嫌悪がわきあがり魔女は寒気を覚えた。
「うははははは」
「ふへへへへへ」
「むふふふふふ」
男をはじめとする狂信者らは魔女を舐め回さんばかりに陶然と見つめ尽くし、こぞって触れようとした。同時に新渡戸は、魔女を妻にすることを宣言した。あまりの気色悪さに魔女は総毛立った。彼女の決して短くない人生のうちでも、間違いなく最もおぞましい記憶のひとつになった。
もともと忍耐強い性質ではない。
「いやーいやーいやー触らないで近寄らないで同じ空気を吸わないで目の前から消えてこの世からいなくなってー!」
自衛本能の命ずるまま、魔女は変態の巣窟つまり巫覡神裏教の本部支部を根こそぎ殲滅した。なおかつ、己のおぞましい記憶を封印することにした。精神衛生上の配慮であった。
「――小娘の潔癖な恥じらいの一種というか、今思えば過剰反応よね。若気の至りだったわ。かわいいものよね」
「それはどうだろう」
他人事のように語ったのち、魔女は悩ましげに吐息をもらしたが、夏目の反応は是とも非とも言いがたそうなものだった。
「とにかく、ことはそれで終わったものと認識してたのよ。もしあの連中が黒焦げになってなおカルト宗教を存続しおおせた、と仮定しても、明治維新のあとで取り締まりにあって消えたはずだと思って」
「実際は予想よりはるかにしぶとかったというわけか。新渡戸はその後、財閥と呼ばれるまでになった」
「人間の執念ってすごいのね。今は反省してるわ」
「反省?」
「……後悔はしない主義だけど、それでもやっぱり内心忸怩たるものがあるの。罪の一端がわたしにあることを認めるにやぶさかでないというか、わたしに罪をかぶせようとしたとしか思えないあいつらの目論みは半ば成功したんだわ」
「俺の魔女さんに罪があるとすれば、それは確かな実績と年月に裏打ちされた、美しさという罪だ。罪がさらに俺の魔女さんの奥深い魅力を作る」
どこから聞いていたのかほとんど聞いていないのか――おそらく後者が正解だ――樋口が颯爽と現れて断じた。
「怪我はないか、俺の魔女さん」
「おかげさまで。ありがとう。でも、あなたは満身創痍に見えるわ……ごめんなさい」
魔女は気まずそうに答えた。樋口のありさまは、暴走する魔女を体当たりで捕まえようとするとこうなるだろうという、わかりやすい例だった。ただし、超人が、と付け加えるべきかもしれない。普通なら試みただけで今ごろ生死の境をさまよっていてもおかしくないが、彼は重傷を負わなかったばかりか、捕獲自体も上首尾に終えている。
「見た目はぼろぼろでも俺自身はなんともないよ。今日のデートは楽しかったね」
魔女は大いに感じ入った。やはり彼の魂は極上だ。少しくらい発言と性癖が変でもそれは間違いない。
「それにしても、あの新渡戸がカルト宗教に端を発していたとは思いませんでした」
「そしてカルト宗教で幕を閉じる、と。もともと資金繰りも破綻同然だったんだ、さすがに復活は難しいだろうな。根絶もしないだろうが。こういうのは絶対に滅びないもんだ」
これもまた魔女の本領であるところの治癒術を施されて幸せそうな樋口が結論づけた。
「いっそ公認して管理下に置いたほうがよいのでは? 月冴」
夏目による建設的な提案は魔女を納得させた。
ひと月が経った。歴史に残る新渡戸事件に俄然騒がしくなった世間も、落ち着きを取り戻しつつある。
魔女はまだ東京にいた。
「意外だったな」
近場にいたときよりはさすがに頻度が下がったが、それでもちょくちょく遊びに来る夏目が、今日も茶を楽しみながら感慨深げに言う。
一見ロココ調の部屋でモーツァルトを聴きながらシャトー・ラフィットのワインを飲んでいそうなのに、鹿おどしの音がカコーンと響き渡る縁側で湯飲みを持つ姿もさまになっているのが不思議だ。夏目なら野営地でビールを飲んだくれるのも似合うに違いない。
「意外って?」
「あのままこの地に住み着いていることが。第一印象は最悪だったろうに」
もっともな意見だったが、山の手の一等地で見つけた豪勢な日本家屋の物件を気に入ってすぐさま購入してしまった魔女はけろりと答える。
「慣れてみると快適だったんだもん。案外緑は多いし、世界中の茶葉がすぐ手に入るし。それに、まだ決めてないけど、ここでなにか始めようと思ってるの。趣味と実益と汚名返上を兼ねられるようなことを」
これを聞くと、夏目は目のくらむような微笑を浮かべた。相も変わらず、実にきらびやかだ。
「事なかれ主義は返上か」
「あら、そんなことないわ。相変わらず大事でも小事でもなく無事を目指してるもーん。ただちょっと、できることはやろうかな、と」
魔女としても、自分の悪評を犯罪組織に利用された一連の事件には、いろいろ考えさせられた。蟄居生活に浸って荒誕なデマを放置したのはまずかったとも思う。自ら悪をなすのは問題外にしろ、悪を増長させることもやはり魔女の理念に反しているのだ。
「占いの館なんてどうかしら。昔から的中しない卜占の腕前には定評があったの。百発逆百中、わたしの指示の逆をいけば必ず成功するんですって」
名声嘖々とまではいかずとも、悪評の一部くらいは鎮められるかもしれない。
「的中しない? 例のトランプ占いは見事に当たっていたんじゃないのか?」
「ああ。あれも逆的中なの。トランプの場合は1なら13、2なら12ってな感じに逆をいくと当たるのがわかってるから、占いの結果が出たあとでカードをすり替えたのよ」
えへんと胸を張って、自慢にならないことを自慢した。
「本業の拠点も、本格的にこっちに移そうかなって思って。あ、何その顔。なんだこいつ無職じゃなかったのかとでも言いたげね」
「とんでもない。ただ、あの場所でよく仕事ができたものだと、驚きはした」
そう言って夏目は女心をめろめろにする瞳で魔女を籠絡した。これで拗ね続けられる魔女ではない。どぎまぎしながら慌てて頷く。
「う、うん、同業者しか訪ねて来られないけどね。支障はないのよ、本業は日本魔女魔男連盟の会長だから」
「会長?」
「要は一族の長老ね。全国に散らばる魔女たちの力のバランスを監視したり、適宜調節したり、ルール違反を裁いたり、お悩み相談にのったり、いろんな決定を下したり」
この地位にいる限り寿命が尽きてくれない仕組みだから、本来なら後継者を見つけて仕込まなきゃいけないんだけど、なかなかいい子がいなくてさ。気づけば世界的にも歴代最長寿の魔女よ。ギ〇スへの申請は検討中。
ぺらぺら魔女はまくしたてた。
「そうそう、提案なんだけど夏目ちゃん、魔女修業する気ない? 樹海を相続してくれるとありがたいわ」
「そんなことが一般人に可能なのか? 月冴の一族出身でないと魔女にはなれないのかと思っていたが」
「あら、気づいてなかったの?」
そして爆弾発言を投下した。
「あなたって確実に魔女の血族よ。潜在能力で言えばわたしに匹敵するくらい」
さすがの夏目も固まった。全方向からの攻撃に備えていたにもかかわらず、すでに敵が身内に潜んでいた、と手遅れになってから知らされる司令官さながらだった。
「常人にあの樹海で迷わずわたしの家へたどり着くなんて芸当は無理だし、たまに血が共鳴するのを感じるもん。身に覚えはないから、嫁に行ってお里の便りも絶え果てた姉の直系あたりかと踏んでるんだけど。先祖に颯風って女性いない?」
「さあ……調べてみないことには……」
夏目は任務地である北富士へ帰っていった。豆鉄砲をくらった鳩のような顔でもやはり素敵だった。
それからしばらく経ったころ、彼女から手紙が届いた。宛名は「月冴大々々々々(中略)叔母さま」だった。にわかに老けた気分になった。近況を知らせこちらの健康を気遣う一般的な内容のほか、興味深いくだりがあった。
――例の提案については今少し時間をいただければと思う。
家族に事情を話したところ、よもや自分たちが魔女の血を引いていようとは夢想だにしていなかったようだ。多少の混乱は避けられなかった。私としては前向きに検討している。ご存知のように私はあの樹海の家を気に入っているのだ。遠からず色よい返事ができるだろう。
そういえば樋口部長はあれ以来どのような女性にも目を向けなくなったそうだ。世界一の年上女性に出会ったのだから、それも道理なのだろう。まだあなたの正確な年齢は知らないようだが、知れば歓喜のあまり何をしでかすかわかない。当面は黙秘を貫くことをお勧めする。
今の彼は、例の特殊嗜好もあなたと結ばれるために天から賦されたものだったのだ、と公言して憚らない。本音を言えば、主張のしかたは欝陶しいものの、内容には一理ありと見ている。無論、親愛なる月冴大々々々々(中略)叔母たるあなたの意向が最優先であり、あなたを奪われたくない思いもあるが、多少なりとも検討の余地はあろうかと――
魔女は都心にほど近い閑静な住宅街で占いの店を始めた。
滑り出しは驚くほど順調だ。反的中率の高さが評判を呼び、日に日に客は増えている。彼らの半分は、店で饗される何種類もの茶を目当てにやってきた。
こちらの素性は知れているはずなのに、さして気にしているそぶりもない。都会の人々は妙に度胸がある。
認めたくないが、看板に「ナウなヤングにバカウケ」と書こうとして知り合い全員にやめさせられたのも、結果的に正解だったらしい。
そしてなぜか、毎日のように顔を出す軍人がいる。
「やあ、俺の魔女さん! 都会をエンジョイしてるかい」
「都会を炎上? しないよ」
今日の魔女は彼をおざなりにあしらうだけで終わらず、彼をじっと観察してみた。発言はおおむね気持ちが悪いが、そこに目をつむればなかなか好感の持てる若人だと思う。なんとなれば、実にまっすぐな魂を持っている。
夏目の言葉を思い返した。検討の余地か。なるほど、確かにそれもいいかもしれない。
「樋口さん」
手始めに名を呼んでみた。彼が嬉しそうに目を丸くした。ふむ、悪くない。
「わたしの名は月冴よ。当年とって三百九十九歳なの。よろしく」
彼の反応がどれほど激烈であったかは、説明するべくもないだろう。
こうして魔女は、街へ出ましたとさ。
いったんおしまい
彼らは明らかにバカップル予備軍だと思いました。
お付き合いいただきありがとうございます。
どうでもいい話ですが、魔女以外の名前(夏目・樋口・新渡戸)は紙幣の関係者から苗字をお借りしました。